トランペット吹きの事情⑤

俺が喫茶店につくと、テーブル席に座っていた桜坂は譜面を広げていた。

 コンクールの自由曲をどういう風に吹くのかを考えて、そして考えるだけにとどまってしまったのだろう、譜面はいくつもの言葉が二重線でかき消されていた。


「待たせた?」

「別に」


 水を持ってきてくれたウェイトレスに、アイスコーヒーを一杯注文し、席に座る。


「ねえゆーいち、あの噂のことなんだけど」

「うん」

「あたし考えたの」


あたしたち付き合ったほうがいいんじゃないかって。


そんなことを言いながら、冷たいミルクティーのストローを口にする桜坂。

俺の思考はというと、もちろん一時停止だ。


「……なんでそう思った」

「付き合うって言っても、振りね。偽装。要はあいつらは、あたしたちが付き合ってないっていう事実が気に入らないんでしょ? なら気に入る事実をこっちで作ってやって、でほとぼりが冷めたら普段通り、っていうのはどう?」


 驚いた。

 これは素直に、本当にただ単純に。


「莉玖さんがそんな風に考えるなんて」

「……弟と妹のアイデアだけどね」

「ああ、なるほど」


 ちなみに弟の名前が奏楽で、妹さんの名前が雨美ちゃんだそうだ。

 二人とも現在中学校で吹奏楽部に所属している。

 吹奏楽部あるある、上がやってたから下の子も吹奏楽をやる(ただし兄弟で楽器が同じなことは少ない)。

 

「で、どう。あんたさえよければ頃合い見て……」


 確かにいいアイデアだ。

 まぁ、世間一般的には多分だめなことなのかもしれないけれど、今の俺たちにとってはただほとぼりが冷めるのを待つよりずっといい。


 けれど、


「だめだな」


 アイスコーヒーがコースターとともに俺の前に置かれ、からんと音を立てる。

 クーラーの風がよく聞こえた気がしたから、きっとその時の沈黙は長かったのだろう。


「なんでよ」


 わかりやすく不機嫌な声をこちらに投げかけ、俺のメガネを反射する瞳は怒気を含んでいた。まぁ、「嘘でも付き合うのが嫌です」という返答をしたのだ、と捉えられてもおかしくない言い方を俺がしてしまったのだから、仕方ない。

 桜坂の貧乏ゆすりで少し揺れる机を抑えて、俺は言った。


「莉玖さんと付き合うのが嫌ってわけじゃなくてさ。そっちじゃなくて」

「じゃあ何よ!」


 少しは落ち着いて聞いてもらえないだろうか、というのは無理な話か。

 だって、桜坂莉玖だし。


「その嘘で付き合ってる期間がどれくらいかは、わかんないけどさ」

「何、期間が長いのが嫌ってこと?」

「だから違う」

「じゃあ何」


 真面目な桜坂は、自分が考えた案がすっ飛ばされると次の案を考えるのに時間がかかる。

それがわかっているから、自分の案が否決になった場合は翌日くらいは機嫌が悪いままだ。「お前に女としての魅力を感じれない」と言われたと思っているのと、自分の案をあっけなく蹴られたことが相まって、桜坂はもうすぐキレそうだった。


「その偽装交際中に、俺が莉玖さんに惚れるかもしれないってこと」


 たぶんこの言葉を発したとき、俺は笑っていたと思う。

 だってそれは、今までたどり着かなかった結論で、前に好きだった子のことも桜坂は知っていて、桜坂の前に好きだった男子も俺は知っていて。

 だからこんな展開は少女マンガくらいなものだと考えていたことを、今俺が実際に行ってしまったからだ。


 そして、今不機嫌だった桜坂が「ぽかん」としているからだ。


「何それ」

「そのままだけど?」


 ちょっと考えさせて、と桜坂は押し黙った。

 俺も話すこともないので、アイスコーヒーをストローを通して口の中に流し込む。

 一分、二分、三分経過しようとして俺が特に意味はないけれど携帯電話に手を伸ばそうとしたところで、桜坂がゆーいち、と言葉を発した。


「そんなことを、言葉にして言う時点で私に惚れてるんじゃないの?」


 言われてみればそうだった。

 しかしまぁ、堅物桜坂莉玖らしい聞き方だ。色気というものがまったくと言っていいほどない。


「そうだな。そうかもしれない」

「なんなのそれ」

「俺ららしいだろ、こういうの」

「確かに」


 不機嫌だった桜坂はふわりとほほ笑んだ。

 うん、やっぱり莉玖さんは笑ったほうがいいよな。

 そんなことを一瞬だけ考えて、その後俺たちがした会話といえば、「最近トランペット吹いてない」だった。



「トランペット吹きの事情」―完―

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