二.

 放課後、若菜は部活がある為に蓮子は一人で帰ろうと支度をしていた。すると、

「蝶野蓮子って娘、いる?」

 女の声で自分の名を呼ぶのが聞こえて来たので、蓮子は教室の出入り口に視線を移した。そこにはあやかしの里で知り合った先輩の、綾羅木照葉がいた。照葉は蛇神の血を濃く受け継いでいる半神半人であり、それが縁で里で顔見知りとなった。一体何だろう、と蓮子は照葉の元へと向かった。

「照葉さん、お久し振りです」

「久し振りね。…お紺はいる?」

 照葉が呼ぶと、お紺は音もなく現れて蓮子の肩の上に乗った。そのお紺を見た照葉は一瞬だけ険しい表情になったが、蓮子にはその理由が分からなかった。

「あの、どうしたんですか?」

 蓮子はお紺を見つめたまま何も言わない照葉に、自分を呼び出した理由を尋ねる。

「ああ、実は里のことについて伝えたいことがあってね」

 照葉のその答えに、蓮子の身体には緊張が走り、強張る感覚があった。

「…大丈夫だよ、そんなゾッとする話じゃないから」

 蓮子の表情から心境を察した照葉は、フォローするように言った。蓮子はまだ緊張しつつも頷いた。

「図書室に鏡時がいるから、そこで話そう。あ、時間とか大丈夫?」

「あ…はい、大丈夫です」

 蓮子は何とか返事をすると、照葉は先導するように先に動き出し、蓮子とお紺はその後に付いて行く。移動している間、お紺はずっと照葉の背中を一度も逸らすことなく見つめていた。



 連れ立って図書室へと入ると、照葉はそのまま歩き続けた。図書室の机には、受験を控えた生徒や、自習の為に教科書を拡げて勉強している生徒が数名座っている。邪魔をしないように側を通るときに、なるべく音を出さないように気を付ける。照葉が本棚と本棚との間を通り抜け、辿り着いたのはより本と埃の臭いが強い書庫であった。こんなところで話をして良いものか、と思いながら蓮子は照葉に続いて足を踏み入れる。

その刹那、全身が総毛立つような奇妙な感覚に襲われた。この感覚には何度か覚えがあった――結界である。図書室自体、いくつかの物音を除けば静かなのだが、この書庫は不自然過ぎるくらいに静かである。それこそ、呼吸音や心音まで聞こえてきそうな程に。本棚の迷路の袋小路に、男子学生服を纏う一人の男が立っていた。黒い髪に端正な顔立ちをしているその男とも、蓮子は面識があった。

「お久し振りです、秋山さん」

 蓮子が男にそう声を掛けると、男は口角を吊り上げた。

「鏡時で良いよ。秋山ってのは偽の名だし」

 男―鏡時は気安くそう言った。鏡時は鏡花の実兄であり、同じく妖狐である。照葉とは以前にあやかしの里で出会ったらしく、それ以来照葉とは恋人(照葉の方は否定しているが)の関係である。

「あの…ここで堂々と話しても良いんですか? ここ、図書室ですけど…」

「それなら結界を張っているから大丈夫だ。入って来るとき違和感があっただろ? 人除けにもなるし、俺たちの姿も見えない、声も聞こえない有能な結界さ」

 鏡時が得意げに言い切った。表情が良く変わるところは、妹の鏡花とは対照的である。

「大したモンだね。同じ狐でも、あたいとは格が違うよ」

 蓮子の肩に乗ったまま黙ったきりであったお紺が、ため息混じりにそう言った。しかし、その声はどこか芝居がかっているようにも蓮子には聞こえた。

「幽現道を突っ切って里に入って来たのに、謙虚なんだなあ」

 鏡時は笑ってそう返した。そして、鏡時の笑みにもどこか白々しさがある。まるでお紺を牽制しているようであった。

「あれは妖怪であれば誰だってできるさ、多分ね。それで、里についての話ってのは何だい?」

 お紺は用件を早く言うように鏡時に促した。

「ああ、何てことはない定期報告のようなモンだ。…残念ながら、神野様からお前たちへの出禁はまだ解かないと言われた。実際にお会いしたときには別段起こっている様子でもなかったから、そこは安心しても良いと思うぜ。あと、里の妖怪どもだが、今じゃ殆ど人間への警戒心はないな。妖怪にも色々いる。徹底的に人間や、自分を害した奴を恨み、憎み続ける奴も当然いるにはいる。特に、蛇系の妖怪とかな」

 鏡時の発言に照葉は睨みつけるが、鏡時の方は全く意に介することなく話を続ける。

「まあそれはそれとして、あの里にいる妖怪たちの大部分は享楽的だ。長生きする分大らかなのか、それとも元々そういう存在なのかは分からんが。というわけで、人間に対する不信感については心配しなくても良いだろう。現に、飯綱使いの小僧…何と言ったかな…とにかく、そいつが来ても特に反応はなかったな。それに、照葉も」

「うん、私も半分人間だから、事情が分からなかったときはびっくりしたけど…」

「元は人間の世界に馴染むことが出来なくなった妖怪どもの集まりだから、人間絡みになると敏感になっちまったんだよ」

 鏡時の言葉を聞いた蓮子は、自分たちがした掟破りが妖怪たちを怯えさせてしまったことを思い知った。あの二人を里に入れたことは後悔していないが、それでもやはり妖怪たちに対しての申し訳なさは強く心にある。神野がまだ自分たちを許していない理由も納得できた。

「話したいことはそれだけだ。里も特に変わったところはない。他に何か訊きたいことはあるか?」

鏡時がそう尋ねると、お紺が口を開く。

「神野様は、里も落ち着いてるってのにどうしてあたいらの出禁を解いてくれないんだい?」

「…さあなあ。あの御方は魔王。俺たち妖怪には計り知れない考えをお持ちなんだろう。だから、理由も分からんな」

 鏡時はやや申し訳なさそうに答えた。

「でも神野様、私が以前会ったときよりも大分丸くなったと思うよ。昔の神野様なら蓮子とお紺にもっと重い罰を下すか、最悪命もなかったと思う」

 照葉のその言葉に、蓮子は鏡花から自分たちに対する処分を告げられる直前の心境を思い出した。――自分たちは死ぬかもしれない、怖い、死にたくない――命にしがみつくあの感覚は、未だ鮮明に思い出せる。本当に、照葉の言う通り神野が丸くなってくれて良かった。一方お紺は、無表情のまま蓮子の肩の上で微動だにしない。

「…だからさ、いつかはまた里に行けるよ。それまではこんな風に里の様子を伝えに行くから」

 照葉がそうフォローしてくれたので、蓮子は礼を言って頷いた。一通り伝えたいことは伝えた、と鏡時が告げたので、蓮子とお紺は二人と別れ、図書室を出た。

「…で、どう思う? 今のあの二人」

 蓮子とお紺が結界の外に出たあと、鏡時は近くの本棚に背を軽く預けた。問われた照葉は暫し考えたあと、

「やっぱり、前に会ったときと雰囲気が違っていたよ。特にお紺が…妖気が増したのと、妙に私たちに敵意に近いものを向けていた気がする」

 と答えた。

「俺も同じ意見だ。強いて言うならありゃ〝敵意〟ってより強い〝警戒心〟だな。里のことで呼び出したから、蓮子もそうだがお紺も身構えたんだろうが…」

 鏡時はそこで一旦言葉を止め、少しの間考え込んだ。どうかしたのかと思いつつ照葉は鏡時の言葉を待つ。それから少しして、鏡時は照葉をじっと見る。

「お前は一人で幽現道に入れないよな?」

「へ? まあ私も一回しか…それもあんたと一緒に入っただけだけど…。うん、多分半分人間の私は無理だと思う。妖怪でも入ることが出来るのはそう多くないって聞いたけど」

「その通り。なのにお紺は『幽現道なら妖怪であれば誰でも入れる』ととぼけ、お前と似たような境遇の蓮子は、お紺の力を使って幽現道に入ることが出来た」

「そ、それって…!」

 照葉は鏡時の謂わんとしていることを察し、驚いて息を呑む。鏡時の方は、ため息をついた。

「こりゃあ…神野様に報告しておくべきだな」

 それからまた二人は暫く黙ったまま、その場を動かなかった。

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