旭図加春秋
弥生 久
桜花抄
四月五日のことである。
四月といえばつまりは春で、春といえば桜であり、そして今日は勤め先の高校の入学式であった。私にとって最後の入学式になろう。
いつものように五時過ぎに起き、顔を洗い、鉢植えに水をやり、朝飯をとっているときに、自然と話は桜のことへと向かった。私が、今年は桜がどうにかもってくれてよかったと言ったのである。
思えば、それが最初の過ちであった。
妻は、ええ本当にと答え、わたしたちのときは台風が来たんですよねえと言った。私はそうそうそうだったと、暢気に相槌をうった。
これがふたつめである。
そういえば、と妻が何かを思い出したように言った。あのときあなたにあげた万年筆、まだ持ってます?
箸を持つ私の手が止まる。中空をただよう視線。
これが、三つめ。
妻は私のそんな様子を見咎めると、まさか、と言った。
まさか、わたしがあげた万年筆なくしたんですか?
そして私は、四つめの過ちを犯した。
意味もなく箸の先をくるりと回しながら、意味のないあー、という声を漏らしたのである。
どこぞの首相である。
何でもないことのように、もちろん持ってるさと言えばよかったのに。もう遅い。
「それじゃあなた、わたしがあげた万年筆をなくしたって言うんですね」
「いや」
しどろ、
「そんなことは」
もどろ。
妻はへええそうですかへええとひとりで言っている。まことに不気味である。
これ以上どうしようもないので、味噌汁をすする。我ながら白々しく、
「やあ、この味噌汁はうまいなあ。何かかえたのかい」
「いつもと同じです」
不発弾。
なんの。
御飯を一口食べ、
「や、この米は格別だ。炊き方を」
「昨日の晩の残りです」
誤爆であった。
✿
妻と出会ったのは中学生のときだった。
だからそのときから数えれば、妻とは五十年来の付き合いということになる。その後、高校は別々の道に進み、大学で再会した。中学校の卒業式のときに、私はその万年筆を妻から貰ったのである。
その年は春先に台風が来て、高校の入学式の直前に桜がすべて散ってしまった。そればかりを楽しみにしていた私はひどく落胆し、入学式に行きたくないとすら思った。何しろその高校にはひとりも知り合いがいないのである。
中学校の級友のほとんどが地元の高校に進学するなかで、私は東京の学校を受験した。合格通知が届いた日には躍り回って喜んだが、次第に不安ばかりが募り、しまいには何故こんなところを受けたのかとすら考える始末であった。
そんな私の心の拠り所となったのが、妻がくれた万年筆だった。東京の下宿に越してから入学式までの間、私はすることもなくぼんやりと万年筆を眺めていることが多かった。
いっそ帰ってしまおうかと思っていた。
豪勢な送別会まで開いてもらった手前、さすがにそれはできなかったが、手紙は家族に向けて幾度も書いた。
けれど、妻に向けては一度も書かなかったし、万年筆も使わなかった。
そして、ただでさえ不安と孤独に押し潰されそうなところにきて、桜が散ってしまったのである。
結局、いつまでもうじうじと悩む私を、励まし奮い立たせて入学式へ行く決心をさせてくれたのは、妻の万年筆だったのだろうと思う。
入学式の朝、万年筆を学生服のポケットに忍ばせ、私は新たな
無論その手はポケットのなかの万年筆を握りしめている。
体育館前の学級分けの掲示で自分の名前を確認すると、おそらくは同じ中学校からの友人同士で談笑している生徒らを横目に、私はさっさと教室へ向かった。
一年生の教室は最上階の四階にあった。
四階は、やけに静かだった。
そして、廊下を左に進み、やがて見えてきた一〇三と記書かれたプレートの下をくぐり抜けようとしたときだった。
教室からおじいさんが出てきた。
正面衝突しそうになって、たたらを踏むように立ち止まる。ここに来るまでに誰にも会わなかったから、どうせ誰もいるまいと高をくくっていた。こらえようとしてこらえきれずに「おわ」という声をあげてしまう。
驚いたのはむこうも同じだったようで、しばらくは互いに声もなくまじまじと見つめあっていた。
おじいさんと言って間違いはなかった。多分もう六十は越えているだろう。なんとなくどこかで見たような覚えのある顔だが、どうしても思い出せない。
たぶん職員だろう。そう思った。
だからひとまずは挨拶をしておいた。
「こんにちは」
おじいさんはその一言で我に返ったように少し微笑んで、
「……ああ、こんにちは」
その笑顔に少し安心して重ねてこうきいた。
「職員の方ですか」
「うん。今年で定年だけどね」
にこにこと笑っている。
別れ際、じゃあまたねと言っておじいさんは去っていった。背後から、そうかなるほどなあという声が聞こえた。
名前をききそびれたと気づいたのはその後のことだ。
改めて教室の扉をくぐる。
教室は、無人だった。
大きく開け放たれた跳ね上げ式の窓から春の日が差し込んでいる。光に照らされた黒板はぼんやりと白く、その明るさがひどく遠くに感じられた。
静かだった。
教室を見た第一印象は、やけにきれいだなというものだった。外から見た校舎の様子や、自分がいた田舎の学校とはまったく違う。これが東京なのかと思った。
席順がよくわからないので、なんとなく窓際の前から二番目の席に座った。
しばらくの間、所在なさげに室内を見回したり、意味もなく指を組み替えたりしていた私は、机の上に妙なものがあることに気がついた。
桜の花びら。
どこから入ってきたのだろうと首をめぐらし、すぐ隣で開いていた窓から外を覗いた私は、さらに信じがたいものを見た。
満開の桜。
散ったはずの桜が眼下で咲いていた。
信じられない光景だった。
十分たっても誰も来ない。
私はポケットから取り出した万年筆を机の上において、ぼんやりと眺めていた。なんとなく、暇になるとしてしまう習慣だった。
さらに五分がたった。
相変わらず誰も来ない。
ふと手洗いに行きたくなった。
どうせすぐ戻ってくるのだからと、万年筆は置いていった。手巾を鞄から取り出すのが面倒だったので、鞄ごと持って便所へ向かった。
用を足して便所から出た私は、違和感を覚えた。
廊下の造りが先程までと違うような気がしたのだ。
思い出そうとするが、どうしても思い出せない。こうだったと言われれば、そんなような気もしてくる。結局、気のせいだと結論づけた。
一年三組と書かれた札の下、扉をくぐり抜けると、教室には男子生徒が二人いた。何やら二人で話し込んで笑いあっている。私が便所に行っている間に来たのだろう。二人は教室に入ってきた私をちらりと見たが、すぐに話に戻っていった。
何だか居心地が悪かった。
そそくさと席につき、頬杖をついて窓の外の町並みを眺める。
あれ。
と、そこでようやく気がついた。
机の上に置いておいたはずの万年筆がない。
机の下やまわりの床も探してみるが見当たらない。うろうろしていると後ろから、
「何やってんだ?」
と先程の二人に訝しそうにきかれた。
「あの、この机の上に万年筆なかった?」
「万年筆?」
二人は顔を見合わせ、
「俺たちが来たときにはなかったな」
嘘をついている、とは何故か思わなかった。
「大切なのか?」
こくりと頷くと、
「じゃあ探すか」
そう言って、二人して一緒に探してくれた。
教室中を探し回った。そうしているうちに、ふと、私は先程便所から出たときに感じた違和感を再び覚えた。しかし結局記憶は覚束ず、万年筆も出てこなかった。
教室中を探し回った後、最初に声をかけてきた男子が言った。
「ひょっとしたら、窓から落ちちまったのかもな」
そう言って、窓の外を見渡す。つられるようにして窓から外を覗き込んだ私は、再び信じられないものを見た。
桜が跡形もなく散っていた。
その縁あって、その後もその二人とはよく話した。今でもたまに会って飲みに行ったりしている。
今思えば、あれは妻の万年筆が結んでくれた、縁だったのかもしれない。
✿
結局その後、私は白旗を掲げて妻に全面降伏するしかなかった。
降伏を聞き入れたのちもなお恨みがましい妻の目を尻目に、私は戦略的撤退を開始した。
すなわち出勤である。
私が勤めているのは、先程話に出てきた私の母校である。勿論、私が在学していた頃とは大分様子が変わっている。
七時過ぎには学校につき、いつもの日課としてすべての教室を見回った。二階が三年生、三階が二年生、四階が一年生の教室というのは私の在学当時から変わっていない。二階、三階、と順に上がっていって、四階の一〇三の前で私は足を止めた。
不意に懐かしい感慨にとらわれたのである。
横開きの扉をそっと引き開ける。忍び込むように教室に入ると、何も後ろめたいことなどないのに、私は音をたてないよう扉を閉めた。
窓から差し込む柔らかい光が、蛍光灯の消された教室の隅にまでゆるく手を伸ばしている。窓際へと歩み寄って、五十年前に自分が腰かけた席に座ってみる。
ふと、どこでまぎれ込んでいたのか、スーツのしわの間から桜の花びらが一枚、床に落ちた。拾い上げ、机の上にそっとのせる。
窓の外をみると、そこには満開の桜。
そして、
唐突に強烈な既視感。
自分は、確かに、この光景を見たことがある。
教室のなかを見渡す。
どうして今まで気づかなかったのか。
席を立ち、机の間を縫うように歩いて、教室の扉をくぐり抜ける。
「おわ」
男子生徒と鉢合わせた。
見覚えのある顔だった。
しばらくの間、まじまじと見つめあう。やがて、我に返ったように男子生徒が言った。
「こんにちは」
それでようやく、呆然としていた私も我に返った。
微笑みながらこう返す。
「……ああ、こんにちは」
「職員の方ですか」
「うん。今年で定年だけどね」
そう言って、私は笑った。
じゃあまた、と彼に名前をきかれる前に歩み去る。階段を降りながら、そうかなるほどなあと呟いた。
二十分後には、彼はもうここにはいるまい、と思った。
✿
その後のことについて、少しだけ述べておく。
その日、職員室には十からの落とし物が届けられた。
ハンカチ、生徒手帳、校章、シャープペンやボールペン、などなど。
そしてそのなかには万年筆があった。
落とし物の管理を受け持っている教師は、誰がこんな高価なものを持ってきたんだと眉をひそめながら、「4╱5 103」と書いた付箋を貼って、職員室にあるガラス棚のなかに放り込んだ。
そしてその翌日、棚の中から万年筆は消えていた。気に留めるものは誰もいなかった。
その万年筆は今、定年を控えたある老教諭の家の、居間の卓袱台の上にある。
老教諭は、居間から廊下を挟んでひと続きになった縁側に腰かけて、夕闇が広がり始めた空を眺めながら妻に何やら語り聞かせている。
どうにも信じがたい話をしているようだ。
一通り聞き終わった妻は夜が覆い始めた空を見上げ、ゆったりと微笑みながら、
「不思議なこともあるものですねえ」
そう呟いた。
二人の背後、点きっぱなしのテレビが伝えるところによれば、しばらくは晴れの日が続くようだった。
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