罪の子について

「恥」を知っているとはどういうことなのか。「恥知らず」とは誰のことなのか?「恥ずかしい人間」に対する耐えられなさ。「痛い」のは人間の尊厳であり、その醜悪さに対してであるということ。「恥ずかしい人間」は自身の恥を誇りにしている。尊厳に対する耐えられなさ自体が尊厳になるということ。恥ずかしさ無くしては生きてはいけないということ。「恥ずかしい人間」は生きていないのだ。それが我々を脅かす。「罪の子」という概念はまさに恥そのもののことなのだが、遺伝子工学が西洋キリスト教の真理であるのはまさに遺伝子という概念が、近親相姦の向こう側にあるということを意味している。異教的な宗教の場合、近親相姦は単純に不可能とされる。というのも家族に対する性行為は母‐父という関係とは反対に、家族の規範を破るものであるからであり、それは常に‐すでに近親相姦ではない。しかしキリスト教の場合、まさにあくまでこの幻想を維持するということに固執するために、それが科学によって結実するのである。「全ての人間が兄弟であるがゆえに、全ての性行為は近親相姦である」という精神病者のファンタジーがいまや実現し、あらゆる生殖はもはや性行為と完全に切り離される。子宮はひとつの身体なき器官として創造される。しかしそこで当然のように被造物の反逆が始まる。ギレルモ・デル・トロの映画『スプライス』はこの点において比類のないものである。そこではラカンのいう「母に触れるな」を破る可能性があるわけである。このような存在によって「死」の概念は完全に変容する。ジジェクのいう「死の前に生はあるか」という唯物論が完全に肯定され、人間はもはや決して死ななくなる。なぜならすでに死んでいるからであり、残る選択肢は、忘却によって忘れ去られる(幻想郷の妖怪達の存在定義を思い出して欲しい)かそれとも一種の特異な存在として絶滅するかである。というのも人間でない存在は殺すこともできないし、当然死ぬということもまたありえない。「人は人として創られた」という言葉が侵犯されるからである。もし死を動物と同じ次元に置くのなら我々は完全に人肉食の世界に入る。キリスト教によってはじめて人を殺すということが「罪」になったということが重要である。それまでは人間を殺すということは「罪」ではなかった。あるいは殺せるような人間という身体は存在しなかった。つまり聖霊に対する罪は存在しなかった。しかしニーチェが「殺すな」という禁止よりも「生殖するな」という禁止の方がはるかに恐ろしいと語ったのは正しい。遺伝子工学は人間の身体(聖霊)という概念に直接打撃を与える。畸形という概念そのものが失われる。人種差別はナンセンスなことになる。遺伝子工学はナショナリズムに対する特効薬以上のものである。遺伝子工学によって人種差別が起きるというのは前時代の錯覚である。遺伝子工学は人種を直接創造するのである。私は「人の子」という概念はこの立場に立つことで初めて理解できると思っている。登場するかもしれないのは、まさに生物学的な意味における「区別」である。人間はひとつのカテゴリーになるのだ。その場合、差別があるのではなく「人類の存在をかけた戦い」だけが残ることになる。つまりナチの概念が人種的な意味合いではなく実現するのだ。人は生まれながらに不平等なのではない。不平等に人が生まれるのである。遺伝子工学はまことに「わたしはよみがえりです、いのちです、わたしを信じるものは、死んでも生きるのです」ということばの世俗的な成就である。死後の裁きはもう実現をまっている。「進歩の概念を、破局の概念に基づかせねばならない。〈このままずっと〉事が進むこと、これがすなわち破局なのである。破局とはそのつど目前に迫っているものではなくて、そのつど現に与えられているものである。ストリンドベリの考え――地獄とは我々の目前に迫っているものではなく、ここでのこの人生のことだ。」(ヴァルター・ベンヤミン『セントラルパーク』)ストリンドベリの考え方とは反対に、我々は神の国に入るのだ…。

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