狼さんに気をつけて

藤和 葵

狼さんに気をつけて

 


 トントントン

 ツーツーツー

 トントントン


 今、あたしの脳内BGMとしてピンクレディーの「SOS」がひっきりなしに流れている。

 べつに彼女らが一世を風靡した時の世代なわけじゃない。あたしはれっきとした平成生まれの中学三年生で、この曲はテレビの懐メロ特集で知っただけだ。単に目の前の現実と見事にハマる曲がそれだったのだ。随分明るい選曲だなぁと、何処か冷静な部分のあたしがぼやいている。

 ごめんなさい。状況が伝わって来ないよね。

 でもそれは仕方がないと勘弁して下さい。

 何しろ事態はあたし、若月凛子わかつきりんこの十五年間で築いてきた常識を覆すものだったのだから。

 噛み砕いてもっとはっきり、分かり易く言うのなら「しばし状況を整理する時間を下さい」って事。

 何故なにゆえにあたしが男物のパンツを握り締めてるかも含めて、ね——……。




*1*

 第一種接近遭遇——始まりは学校からの帰路にあった。

 この日はいつもより遅めの帰宅。

 というのも、夏休みの宿題には読書感想画・感想文なんてものが出される。図書委員のあたしは、その課題図書やお薦め図書の専用棚を作るなんて仕事を任されたのだ。

 あたしは腕時計を見やる。バックライトの灯るデジタル時計はちょうど八時を示していた。

 この調子なら九時のドラマに間に合うなと、安堵しながらそれでも歩調は緩めない。歩きながら行う逆算は、此処から自宅までの到着時間と風呂に入る時間。急げば夕飯を食べながらドラマが観れると計画を立てる。ドラマが終わったら終わったで今日出た宿題もしなければいけないからね。

 それにしても、こんな時間まで作業がかかるなんて思いもしなかった。

 図書委員は各クラスから一人ずつ選出しているからそれなりの頭数がある筈なのに、今日のアレはいただけない。

 所詮は義務として出された寄せ集めのメンバーだ。部活やら塾やらサボリやらで、集まった数は全体の半数にも満たない。しかも、任期一年の烏合の衆の仕事はまとまりなく且つ、要領が悪い。その上、雑談が盛り上がって作業は遅れに遅れた。

 なんとか完遂出来たから良かったものの、これで翌日に持ち越しとかなったら、いくら温厚なあたしでも舌打ちが出るところだ。

 とまぁ、そんなこんなで終わった頃には空にはぽっかり月が浮かんでいたわけで。


「おー……満月だぁ」


 弧を描くみごとな望月。今夜は心なしちょっと赤っぽく見えた。

 あれ、どうしてたまにあんな色になるのかちょっと気になる。

 そんなどうでもいい事を考えながら月を見上げていた。

 ——だから気付かなかったんだ。

 自分の足下に潜んでいる“ナニカ”になんて。

 中学三年間歩き慣れた道。多少のよそ見なら問題なく進める筈だった。なのに、爪先に予想だにしない感触がムニュッと伝わる。


「ひゃっ⁉︎」

「いってーっ!」


 反射的に後退って叫んだあたしの声と同時に響く別の声。

 あたし、誰か踏んずけちゃった⁉︎

 二、三歩下がって足元を見渡す。

 確かに男の子の声が聞こえたんだけど、辺りには誰もいない。

 空耳? 自分で思うよりも疲れていたのだろうか。

 そう思う事にして再び歩みを始めようとすると、小脇でナニカがもぞっと動いた。

 今度こそ勘違いではない。

 あたしは息を飲んで足元を凝視する。

 人影……ではないみたい。でも、そこに確かに“いる”黒い影。

 丁度そこは神社の前。雰囲気的には申し分のないシチュエーションで、夏にありがちな話が脳裏をよぎったがすぐに打ち消す。

 だってまともに考えたら怖いじゃない!

 それでも好奇心というか、やはり、自分が踏んだものの正体を確認しておかないと気持ちが悪い。これで生き物とかなら怪我を追わせてしまったかも知れないし。

 ちょっと怖いけど影を捉えた神社の鳥居の影に目を凝らす。


「あー……」


 鳥居の柱からチラリと覗く、巻き尻尾。身を潜めているものの正体を見定めて、あたしは気の抜けた声を発した。

 犬だ。

 闇に溶けるような真っ黒な犬。

 何犬だろう。雑種? 仔犬を抜けきらない、成犬前っぽい顔付きだけど、大きさは中型犬並だ。手足を見る限り将来おっきくなりそうだな子である。


「もしかしてあたし、君の尻尾踏んじゃったのかな」


 無論わんこが質問に応じる筈がない。

 これはうちで動物を飼う人の性だろう。ついつい話しかけてしまうのだ。


「痛かった? ごめんね。首輪は…………してないねぇ」


 逃げないわんこを撫でながら首に触れ、必要な物がないことに唸る。

 このまま放っておいて保健所に連れてかれるのも忍びない。しかもこの子、


「男の子か」


 地べた近くに屈んでお座りするわんこの股座を覗くと、確かな性別を証明するソレがある。


「手術はしてないっぽい?」


 これじゃあ近所の動物病院に尋ねても覚えがないかもしれない。


「野良っぽくはないから、真っ当な飼い主さんならどっかの動物病院に記録があると思うんだけどなー」


 ついつい癖でわんこの首を両手で撫でながら、背中、果てはお腹にまで手を伸ばした時、ソレは突然耳元に響いた。


「ばっ! ちょ、おま、いい加減にしろよなっ」

「ひゃあっ」


 噛み付くような怒鳴り声に驚き、あたしはそのまま尻餅つく。

 何……⁉︎ 何なの今の!

 目を白黒させてあたしは目の前で四本足でしっかり立つわんこを見た。

 肩で呼吸し、四足の仁王立ちであたしを睨むわんこ。

 今度は確かに聞いた、見た。

 最初の声も空耳ではなかったのだ。このわんこが喋ったんだ。

 人の言葉を——……。


「嘘……」


 こんなことってあるのだろうか。

 あたしは必死に体を支えようと、腕をアスファルトの地面につっぱねてつけたら、何かが指先に触れる。

 何だろうと手繰り寄せて見ると、白いワイシャツ。他にも黒のTシャツに、スラックス。そのスラックスから零れた物はボクサータイプの……パンツ?


「触るなよ。痴女かお前」

「誰が痴女か!」


 反射的に言い返して、相手が喋る犬だと思い出してハッとする。

 そうだ。パンツよりもそっちの方が重大だ。


「犬が……喋ってる……?」

「犬じゃねぇ。狼だ!」

「ごめなさいっ」


 わんこ……じゃない、狼に怒鳴られて謝る人間のあたしって……。

 ええと、ちょっと待てよ。

 だけど日本狼って確か絶滅したから、この子は外国産なのだろうか。外国の狼って実は話すの? そんな馬鹿な!

 いやいや待てよ。よく考えてみたらこの抜け殻みたいな服って、まさか中の人は……。


「あた、あたしを食べてもお腹壊すだけだよっ!」

「食わねーよっ」


 更に狼が吠えるように声を荒げた瞬間だった。

 まるで手品みたいにパッと……。

 瞬きしたら夢だったのかと思うくらいの速さで、目の前の狼が人の形を成していた。

 あたしとそう歳も変わらないくらいの男の子……。


「人が人を食うか、馬鹿」


 “彼”は不機嫌そうに顔をしかめた。月明りの下で、思いの他表情がよく分かる。

 そして、彼が誰なのかも。


火浦うら君……?」

「ん、なんだ。お前、若月じゃねぇか」


 落ち着いて窺えば、それは一年の時のクラスメイトの顔。特に親しくはなかったけど、彼は有名だから顔はよく覚えてる。

 学校一のイケメンで、漫画みたいにファンクラブなるものが存在する校内の王子様。

 その彼が狼で、今、一糸纏わぬ姿で此処にいる。

 …………。

 ……一糸?

 気付いてあたしは体を隠すように屈む火浦君とばっちり目が合った。


「それ、返せ」


 伸ばした手が握ったままのパンツを掴む。けれどもあたしはそれを離さなかった。否、正確には力み過ぎて離せなかったんだ。

 男物のパンツが欲しいとか断じて違う。

 ——想像してみて下さい。

 狼が人語を喋り、更には人間になり、それが知っている人で、しかも校内の王子様な火浦君で、おまけに真っ裸。

 こんな連続イベントが一気に起きてみろ。普通の女子中学生のキャパもそりゃ越えるわ。

 それにだ、あたしはナニを見た?

 わんこのアレだ。

 わんこのならいいけど火浦くんのアレだってばっちり見てしまった。

 頭に焼きついて離れない。

 ああ、忘れたいのにショッキングな映像だからより鮮明に浮かんでしまう。

 駄目です。純情で初心な女子中学生にはダメージが大きすぎる。

 そういう事情ですから、あたしは考える事を辞め、手っ取り早く意識を失ったんだ—……。




*2*

 携帯端末のアラーム音であたしはパチリと目を開ける。

 電子音の鳩がクルッポー。

 朝です。時間を確認してスヌーズを止める。不思議なことに、あたしは自分の部屋のベッドにいた。


「——あれ?」


 あたし、いつ寝たんだっけ。しかも制服ままだし。ブラウスもスカートも皺が入ってよれよれだ。今日はもう一着の予備の方を出さなきゃいけない。

 ぼんやりと寝ぼけた目を擦り、部屋を出る。

 果たして昨日の出来事は夢だったのか。

 いや、普通に考えれば狼が話す時点で夢に違いない。その狼が火浦君に変わるとかもっと有り得ないし。

 きっと思いの外、委員会の仕事で疲労が溜まっていたんだ。だから昨夜の記憶が曖昧になっているに違いない。

 だからって夢にしても実に酷く出来の悪い冗談みたいな内容だったなぁ。火浦君の裸とかばっちり見たし、あたし、思春期が爆発してしまったのだろうか。


「…………」


 そこまで振り返って、あたしは記憶を流すように、洗面台で顔に水を思い切りぶつけた。

 もう妖怪変化とかよりもそっちの方が衝撃的だよ! 父さんのでさえ小さい時の記憶で朧気なのに……。

 洗顔を終えて勢いよくタオルで顔を吹く。口煩いお姉ちゃんが見たら「タオルで擦って拭わない!」とか怒鳴ってきそうだけどかまわない。とにかく勢いで気を紛らわせたいんだ。

 簡単に身支度を済ませたら空腹を自覚する。思えば昨夜は夕飯を食べた記憶がない。ならばこの空腹も頷ける。せめて朝食はまともに摂らねば倒れてしまうと、ダイニングに顔を出した。


「あら、凛子起きたの? 今日は学校に行って大丈夫?」


 キッチンで朝食の支度をしていた母さんがおはようよりも先に尋ねる。

 その心配の意味が分からないあたしはハイ? と、好きなドラマの刑事のように語尾を上げた。


「だってアンタ、帰り道に貧血で倒れてたところを、学校の子に支えられて送って貰ってたじゃない。平気なの?」

「え、あたし自分で帰って来たの?」

「貧血で記憶が曖昧なわけ? 支えられていだけど、一応自分で部屋に戻ったわよ。だから母さんも朝まで放っておいたんだけど」


 いや、歩いてたからって、そんな状態の娘を朝まで放置する大雑把なその神経は親としてどうなのよ。

 文句を心の内で溜めていたら「それよりね」と妙にウキウキした声に変わる。倒れた娘の話を“それより”と言うのもどうなんだ。


「あんたを送ってくれた男の子、同じ学校って言ってたけど彼氏? やるじゃない」


 肘で相手を突つくオバサン仕草で茶化す母。父さんにはまだ内緒にしなさいよと、嬉しそうに言うのだが「そんなんじゃない」と嫌がる顔で返しつつも、内心あたしはかなり心臓が跳ね上がっていた。


「母さん、その人って火浦君って言ってた?」

「さあ。名乗らなかったけど、凄いイケメンだったわよー」


 お礼したいから紹介しなさいよと母さんが言ってもあたしはこたえない。こたえられない。

 夢じゃなかった?

 夢だけど夢じゃなかった?

 あたしの脳内で再び「SOS」が流れ始める。

 男は狼なのよだなんて。

 先人の言葉は正しいとは聞くけれど、同じく阿久悠さんも凄いらしい。



  

*3*


「若月凛子って、このクラスだよな。呼んでくれね?」


 来訪は突然。

 その一言が昼休みの三年二組を沸かせた。

 朝、昨夜の一件があるから戦々恐々と登校したあたし。

 取り敢えず、クラスが違う火浦君と遭遇する機会は少ない。それでも油断すまいと、移動教室やトイレに行くにも気を使った午前中。午後の折返しに備えて一息を入れたら、本人からわざわざの冒頭の指名。徒労もいいとこだ。

 けど、やっぱり来たかという思いもあった。昨日のアレが現実であるなら恐らくそれは大事な秘密の筈だ。きっと口止めに来るだろう発想は容易い。

 けれども、まさか昼休みの一番目立つ時間帯に呼ばれたのは非常に遺憾である。

 関わりたくないってのが混じりけのない本音だ。

 というか狼問題を抜きにしても、火浦君に特に関わりたくなかった。

 言うなれば、火浦泰助うらたいすけという人間は太陽属性に君臨するお方である。

 まず軽く特徴を上げるなら、やたらイケメン。

 しっかりと表現すれば切れ長の瞳に濃い黒目が冷たく冴えて、すっと通った鼻梁に形のいい唇。流れるような真っ直ぐな艶やかな黒髪に、肌理の細かい肌、すっとした卵型のフェイスラインの黄金比率。美少年というものは、彼のような人を言うのだと納得させられる。

 無論、それだけの素材の彼はモテる。モテる上に意外と愛想もいいものだから輪を掛けて女の子ははしゃぐ。結構遊んでいるような噂も耳にするけど、全国模試でも良い成績を残すような優等生だから先生もあまり強く言えないらしい。

 運動神経だって見事なものだ。運動部でもないのにスポーツ万能ってのが可愛らしくないとあたしは思うのに、恋する女の子にはそうでもないらしい。

 まぁとにかく、火浦君という男は、狼疑惑を抜きにしてもやたら燦々と輝いている人なので、そこにいるだけで注目が集まっちゃうんだよ。

 因みに。

 自分で言うのもなんですが、あたしはクラスでも目立たない部類だ。

 友達はいるけど、会話の中ではもっぱら相槌専門。浅い付き合いとか、親しくない人の前ではしゃぎたくないといいますか。とにかく表立った自己主張は苦手なんだ。

 そんなあたしの性格を家族や親しい友人は「内弁慶」と評する。否定はしない。

 だけども目立ちたくないのが性分なんだから、仕方ないじゃない。

 平穏であればいいの。刺激なんかいらないの。

 な、の、に!

 火浦君が公衆の面前であたしを名指しで指名するんだから、たまったもんじゃない。


「ちょっと、凛子。火浦君と何があったの⁉︎」


 あたしの隣にいたミーハーっ気の強い友人が興奮して声を荒げる。あたしは苦笑いしか返せず、誤魔化すように首を傾げた。

 一挙に集まる視線は羨望や嫉妬を含んだ女子のみならず、そのハイスッペクさから同性にも一目置かれているので、あたしに向ける男子からの視線も絡む。

 ちくちくちくちくと突き刺さる。

 分かってるよ。「あ、こいつクラスにいたっけ?」「何であんな地味なのが?」ってんでしょ。

 その疑問はあたしが一番分かってるんだから、これ以上もう見ないで欲しい。

 場違いなのは他クラスの火浦君のくせにあたしの方が居辛い一方って何、この超アウェイ感。


「ちょっと……」


 恨みがましく火浦君を睨んで廊下に出ると、彼はなんともない顔。

 あたしが無言で火浦君の横をすり抜けて進めば、彼も後から付いてくる。まるで示し合わせたような動きが嫌だが、察しは悪くないようだ。

 当て所なく歩いて人気が切れた所で、背後から視聴覚室と言う指示が聞こえる。

 ……そこに向かえってことですか。

 あたしは口を結んで歩く。火浦君も続く。

 辿り着いた視聴覚室は鍵が壊れていて、あっさりと開いた。ひんやりとした空気が足下を撫で、真っ暗な室内が廊下から入る光で、入口付近だけ輪郭を浮き彫りにする。

 そこであたしはふと気付いた。

 教室の空気から逃げるように飛び出して深く考えていなかった。

 人気のない暗い場所で二人きりってヤバくない?

 火浦君の狼人間としての危険性は全くの未知数の今、万一悲鳴をあげる状況になったらどうしよう。校庭で遊ぶ生徒達が見える屋外とか、会話をしていても聞き耳を立てられないような広い場所とかもっとあったんじゃないだろうか。

 そう思った瞬間、バタンと扉が閉まる音。

 慌てて振り返ると、こちらを見据える火浦君の瞳が光って見えた。


「男に誘われてホイホイこんな所について来るとか、見た目に似合わず大胆だな、お前。いや、見た目通りなのか……?」


 チラと視線があたしの胸に注がれる。

 確かに同年代女子の平均値以上サイズだけども、そんなふしだらみたいなご感想は心外だ。

 あたしは視線を遮る様に胸元を両手で覆って噛み付く。


「失礼言わないで下さい! 考える余裕なんてある筈ないじゃないですか。教室であんな目立つ呼び出ししといて! それに、皆の前で出来る話じゃないでしょう⁉︎」

「怒るなよ、うっせーな。あ、あと次は気ぃ失うなよ。人背負って匂いだけで家探すのも疲れるんだ」


 さらりと言ってのけた火浦君に、あたしは目眩を覚える。


「……夢じゃなかったんですよね?」

「夢に思えたか?」


 三日月を作った口許から覗く犬歯が、昨夜の姿を連想させる。


「現実、なんだ……」


 人が狼になるなんて有り得ない。

 そんな顔をしてたのだろう。火浦君は面倒臭そうに息を零し、何処か気の抜けた顔であたしを見た。


「……俺、バレた時って人は悲鳴を上げたり気絶するもんだと思ってた。いや、倒れるなとは言ったけどさ」

「気絶はもうしたかと……」

「あと、人に話すとか」

「話せません。普通の感覚の人が信じるわけがないじゃない。もし信じる人がいたとして、あたしの所為で人体実験とか、マスコミのネタになったら夢見が悪いし」

「……怯えるとか」

「ホラー的な恐怖の意味ならそれはべつに。驚いたけどさ」


 どちらかというと全裸の方がショッキングだったんだけどね。貞操の危機を感じている今、口にすると墓穴を掘りそうだから言わない。

 そんなあたしの心知らず、火浦君はうんうんと頷いた。


「自己主張ない地味子だと思ったけど意外に冷静なんだな」


 まるで人が狼狽える姿が見たかったとでも言いたそうな火浦君が失礼で、あたしが臍曲げて唇を尖らせたら何故か笑われた。ますます失礼な人である。

 だんだん彼に遠慮するのが馬鹿らしくなって来たぞ。


「……それで? 用があるから呼び出したんでしょ。火浦君の取巻きが怖いから早く済ませてよ」


 開き直り、あたしは少し肩の力を抜いていつもの調子で話す。


「あれ。しおらしくない態度だな、若月って猫被り?」

「人見知りなだけだもん」


 あたしの豹変に火浦君がちょっとだけ目を丸くしたけど、すぐに持ち直してニヤッと笑った。


「——まぁ、そんぐらいの方が丁度いいのかもな」

「は?」


 ぽつり呟いた声を聞き落とし、あたしは首を傾げたが火浦君はしたり顔で流す。

 なんだったんだろ。

 気にしても火浦君は話す気がないみたいに欠伸をする。

 そういえば、こうやってまともに話すのは初めてなのに、意外に名前は知っててくれたんだとあたしは気付いた。

 現クラスメイトでさえ覚えてない人はいるのに、一年の時の元クラスメイトに普通に呼んで貰うと嬉しいものだな。しかも、学内の有名人だと殊更に。

 ちょっとだけ感動を覚えていたら、あたしは再び火浦君の言葉を聞き逃したようだ。


「ごめん、何?」

「お前、用件は早く済ませろとか言わなかったか?」


 尋ねれば溜息。これはあたしから話を振ってただけに文句は言えない。


「まぁいいや。若月、俺に協力しろ」

「えぇと、それはどんな?」


 火浦君に向き合うように壁にもたれて立っていたあたしは、ちょっと臆して聞いてみる。


「お前、馬鹿か?」


 火浦君は蔑む目であたしを睨む。


「昨夜、見ただろ、俺の異常体質。それについて協力しろって言ってんだ」


 でないとわざわざ呼んで話すかよ。と、もっともな正論だ。

 そうですね。ハイスペックな王子様は底辺のあたしなんか気にも止める理由がない。

 そもそも人が狼に化けるとかどれだけの人間が信じるのだ。たとえあたしが言いふらしたとしても、火浦くんが鼻で笑って誤魔化すだけで収まる。口止めなんてハナから必要もないと考えるあたしが楽天家なのか。


「あたし、口止めなら喜んで承諾するつもりでいたんだけど、それだけじゃ駄目なの?」

「それで終わらせて素直に信じられるか? 穴に真実を吐き出すだけで瞬く間に広まる例があるのに、俺は秘密を握った床屋は城から出すべきじゃないと思うんだ」

「“王様の耳はロバの耳”? 随分メルヘンな例えだね」


 よく考えればこの場合は確かに《口止め》よりは《協力者》という名で側に置き、《監視》する形が一番安心かも知れない。

 何しろあたしと火浦君は、互いが互いに信頼出来る相手と言う程親しくもない。そしてお人好しのつもりでもないあたしはそう簡単に自分を信用させる言葉を知らない。

 誰にも言わない。口から漏らさない。文字にもしないなんて約束を交わしたところで、それが守られているかなんて安心は対等でなきゃ成り立たないと思っている。

 しかし、火浦君の要求には困った。

 秘密ならいくらでも守るけど、協力者とはいくらなんでも難しい。


「とりあえず聞くけど、協力ってたとえばどんな風に? 変身体質を治す方法とかそんな物語みたいな要求?」

「治し方はいい。それを若月に頼むかはまだ決め兼ねているからな」


 治し方じゃないのか。

 それならまだいいかな。ぶっちゃけ、狼になるという体質を治す方法とか途方もなくて無理だ。仮に百人の生贄の血が必要とかだったら完全に戦力外である。


「だったら、協力って何をしたらいいの?」

「狼状態の俺のフォローだ。昨夜見たから分かるだろうが、人型に戻るまで色々と不都合があるんだよ」

「あー……そうかもね」


 思い出したくないものまで思い出しちゃうけど、確かに全裸は色々とまずいよね。

 協力って服を拾い集めるとかそんなんだろうか。聞いてみたら火浦君も「そんなところだ」と頷いた。


「俺のパンツは握り締めるほど好きだから平気だろ?」

「それ、すっごい誤解だから! 誤解でしかないから!」


 大事な事だから二回言いました、である。


「ところで、参考までに聞きたいんだけど、どんな条件で狼になるの? 今もなれるの?」


 昨日みたいな満月の夜でないと無理なのかな。あたしはお話の中の狼男を頭に描いて尋ねた。

 あたしの知っている狼男——もちろん創作物のもの——なら、昨夜の火浦君の異常は当然の成り行きに思える。

 実際、狼男を目の当たりにしたらあたしの物語好きが疼いて気になっちゃうんだよ。協力者になるなら生狼男の生態、聞いちゃっても罰は当たらないよね?

 そんな好奇心が顔に出ていたのか、火浦君の表情がどこか冷ややかなことに気付いた。


「お前さ、満月に変身する狼男を考えてるだろ」

「えーと、でも、まずそれが浮かぶものじゃない? フィクションの中での話だけど」


 肩を竦めて答えれば火浦君は鼻で笑い飛ばし、発想力貧困となじる。

 普通、この不測の事態を目の前にして、参考に出来る事例なんて民間伝承くらいだ。発想力貧困はごもっともだけれど、そんなリアルファンタジーを前にして正解を導き出す人がどれだけいるって話だ。あたし、悪くない!


「そう言うならどうやって狼になるか教えてくれればいいじゃない」


 あたしはいささかへそを曲げて改めて聞くと、火浦君は実に不愉快そうに唇を曲げた。


「……どうやって変わろうが別にいいだろうが」

「よくないでしょ。仮にも助力を求める相手に、変身の原因を教えなきゃ予兆があってもフォローしようがないじゃない」


 まあ、本心は協力する気はないけれども、満月説を鼻で笑われたままだと真実が気になってしまうじゃないか。


「お前、笑うなよ」

「変身ポーズを決めるんじゃないなら笑わないと思うけど?」


 好奇心で啄いた説得ではあったけれど効果はあったみたいで、火浦君は眉間に皺寄せ、息を飲み、僅かに逡巡して目を逸らし、やがて口を尖らせて小声で言った。


「……くしゃみをすると変わるんだ」


 あたしはぽかんと口を開けた。勿体ぶって何を言うかと思えばくしゃみ。飛沫が五メートルくらい飛んで、風邪菌とか移りやすいんだっけ? と、あさってなことを考えてあたしはついゆるりと口許を緩めた。


「くしゃみなんだ」

「笑うな! 俺だってこんな馬鹿らしい理由で変身なんざしたくねぇんだよ。だけど生理現象だし、止めるにも止められない。極力我慢したり物陰に駆け込んだりでやり過ごすのも一人じゃ限界があんだよ。だから都合よくそれを目撃したお前が俺の為にフォローすんだぞ、いいな!?」

「わ、わか……いやいや、なんで引き受ける流れになってるの」


 怒濤の早口に圧倒されて思わず返事しそうになったあたしは、すんでで息を止める。


「無理だよ。ただでさえクラスが違うのにフォロー難しいと思う」

「無理でもどうにかしろ。狼化は勝手に解けるけど時間はまちまちで俺も困ってんだ。若月もスリリングな非日常が楽しめると思えばいいだろ」


 いくないし!

 そもそもフォローってどうしたらいいのかも分からないのに火浦君のこの言い分。


「手伝わないって選択権はないの? あたし、この事を誰にも言う気はないよ?」

「お前は馬鹿か」


 遠慮がちに辞退を申し出たら、火浦君が鼻で笑い飛ばす。


「逃がさないっつってんだよ。お前、気ぃ弱そうだし、強引に行かれると結局引き受けるタイプだろ。そんな美味しい奴、使わない方が勿体ねぇ」

「そんなことないよ! 失礼なっ」


 言いたい放題な評価にあたしは声を荒げる。

 けれど事実その通り、事なかれ主義を通して来たあたしは、人に怒鳴るという経験値があまりに低い。これでも精一杯の抵抗をしている方だが、火浦君は痛くも痒くもないと涼しげな表情で、あたしを壁と体で囲んで追い詰めた。

 え、これが人生初の壁ドン? などと逃避混じりで思いながら、あたしのときめき中枢は全く機能しない。むしろ火浦君の魔手から避けようと目一杯背中を逸らす。が、火浦君はじりじりとあたしに顔を近付けて、整った顔に息が掛かる程の距離に迫る。避けようとしゃがんでしまうともう終わり。今度は組み伏せるに近い態勢に追い込まれ、あたしの心臓は破裂寸前までに追い詰められた。


「ううううううらくん?」


 隠せない動揺を火浦君が愉快そうに眺めているのが分かる。反抗出来ない自分が疎ましい。


「手伝うって言ったら、此処でやめるけど?」

「こ、断ったら……?」

「知りたい?」


 ついっと、火浦君の指があたしの顎をなぞりそのまま持ち上げる。

 それが何を意味するかとか十五にもなって知らないわけがない。

 てゆーか、この人はホントに同級生ですか!? 手慣れ過ぎてて逆に怖いんですけど!

 逃げ道はないものか。

 必死に思考を巡らせるが、この状況では思い付くものも思い付かない。


「頷いた方がいっそ楽じゃね?」


 うっすら浮かべる笑みは見蕩れる程綺麗だけど、これは悪魔の微笑である。


「なぁ、想像してみろよ。もし人前で俺が化けてみろ。相当迫害されるぜ? 元が人間だとかかまやしねぇ。一気にバケモン扱いで転落だ。可哀相に思わねぇか? もしかしたらお前の微細な力でも助けられるかも知れねぇんだ。それでもお前は見捨てるのか? 俺を。お前は沈黙するだけが協力だと思うのか? そしてバレた時も素知らぬフリか? それとも周りに合わせて一緒に迫害するのかねぇ……」

「……そんな言い方は卑怯だ」

「褒め言葉だね」


 ニヤニヤと、あたしを壁際に追い詰めて見下ろす彼は食物連鎖の頂点に立つ肉食獣の目だ。または猫が獣をいたぶるそれに近い。(狼だけど)


「自分自身を盾に脅すとか、普通有り得ないよ」

「だけどお前には効くだろ? 俺をバケモン扱いしなかった優しい若月ちゃんは」


 ……最低。

 人の善意や良心に付け込んで利用するとか、信じられない性格をしてる。

 正直、嫌いなタイプだ。狼云々を差し引いいても好きになれない、友達にもなれない、むしろ近寄りたくない口も聞きたくない。

 それでも。

 言われる通りの想像をしたら、あたしが助けなかった所為で火浦君が不幸になるのは心が痛い。

 そう思うあたしはやっぱりお人好しか。はたまた強く断れない押しの弱さは優柔不断か。


「……可能な限り、だからね」

「物分かりのいい女は好きだぜ、若月」


 結局根負けして頷くあたしの耳に、火浦君が嬉しそうに顔を寄せる。

 間近で見る顔は人から離れたように整い、あたしは呼吸を忘れてしまいそうだ。


「今日からお前は俺のモンだな」


 耳に吹き掛けられる声。

 変声期を終えたばかりのような、少年と青年の狭間の声が耳をくすぐる。

 甘い声。

 けど、それは狼の姿をした悪魔の囁きだとあたしは知っていた――……。




*4*


「今日からお前は俺のモン」


 ――なんて、イケメンって言葉が安っぽく感じるような美少年から言われたら卒倒ものの殺し文句。

 でも、あたしと火浦君の間では単なる奴隷契約にしかならない言葉だ。というか契約と言えるかどうかも疑わしい。脅迫の方が近いかも。

 自分自身を威嚇の盾にするのも脅迫と言えば、だけど。そもそもがあたしのお人好しさ、優柔不断さが招いた災厄と諦めるしかない。

 ――そう。

 あの日から火浦君があたしをいつでもこき使えるように、しょっちゅうクラスに顔を出すようになり、あたしが火浦君ファンの女子の嫉妬の熱視線で針のむしろになろうとも。


「よぉ、若月。暇か?」

「……暇じゃないもん」


 そして、今日も今日とて火浦君は昼休みのご訪問。

 彼にとってあたしの返事に意味はない。たとえ今、目の前であたしが友達との談笑の輪の中にいたとしてもお構いなし。強引に席の主を追い出して、手にした文庫本を開いて読み出した。


「本なら教室でも読めるでしょ」

「此処でも読めるだろ」

「あたし、友達とお喋りしてたんだけど……」

「だったらそこで話せばいいじゃねぇか」

「そう言って〝煩い〟って怒鳴ったのは一昨日じゃなかったっけ?」

「はいはい、そうだったな。じゃあ黙っとけ」


 何よそれ。

 あまりの俺様ぶりに文句を言いたいのにあたしは溜息しか零せない。そこで怒る事も出来ない自分がなんと不甲斐ない事か……。


「それじゃあ凛子、うちら捌けるから」

「ごめんね」


 気を使ってこの場を離れる友達。このやり取りも何度か繰り返しているおかげで、火浦君の登場を合図に彼女達の散会も早い。

 狼の特質なのか、火浦君は妙な迫力を持ってたまに敢えて人を寄せ付けない空気を張る時がある。それが今なんだけど、あたし、これで友達を無くさないか心配だな。

 そもそも、火浦君の行動って腑に落ちないんだよね。

 狼に変身することを隠したいのなら、極力人目は避ける筈。いくらあたしがフォロー役をしようとも、目の前で変身されては誤魔化し様もない。

 まさかイリュージョンの一言を添えるだけで騙される人がいる訳もなし。

 火浦君はあたしに何を求めているのだろう。

 こうして休み時間、昼休み、放課後。毎回ではないけれど、気が向いたら此処へ来るといった感じで顔を出して。

 いくらなんでもあたしと仲を深めたいと思ってはないだろう。それなら本など読まずに話しかければいい。

 あたしも仲良くなりたいと思ってはないんだけどもさ。……あ、火浦君て東野圭吾読むんだ。

 本の趣味は合うみたいだけど、読書中に声をかける野暮を読書好きのあたしは拒みたい。

 仕方ないからあたしは次の授業の予習をする事にした。

 火浦君はあたしがこの場を離れるのを由としない。友達は近付けない。そうなると席に着いたままあたしが出来る選択肢なんて少ないものだった。幸いなのは火浦君が来る度に予習復習をやるおかげで、最近の勉強がはかどるって事だろうか。

 次の期末がホント楽しみ。

 ――無理矢理にでもそう思わないと、あたしはいつかこの沈黙に潰れてしまう気がした。

 火浦君なんか嫌いだ。

 目立つのが嫌だからと。

 人の視線が痛いからと。

 それから逃れる為に学校を休むのは何だか負けた気がする、健康優良児・若月凛子。

 今日も今日とて新しい朝が来たけれど、それが希望の朝かは疑わしい。

 そんな憂鬱な一日の始まりにあたしは自分でもらしくない口調でボヤく。


「学校行きたくねぇぇぇぇ」


 行くけどさ。

 そりゃあクラス内でも地味で目立たないあたしだけど、小学校から中三の今日まで無遅刻無欠席の皆勤が密かな自慢だったりする。

 だから火浦君事情に巻き込まれたくないからと学校を休むなんて論外!

 ――なのだけど、せっかく勇気一つ共にして外に出たと言うに、目の前にある光景を前にしてあたしは家までUターンしたい気にかられた。


「よぉ。待ちくたびれたぜ」


 最近よく耳にする偉そうな口調と声。

 だけどあたしは声の主を見付けるのに少しだけ手間取る。

 だって、声の主――火浦君は通学路にある児童公園の植え込みの影に隠れていたんだから。――狼の姿で。


「……おはよう」

「不細工な笑顔だな」


 それは狼に朝の挨拶をするという、非日常行為に戸惑って引きつった顔になるからだよ!

 と、言った所で話が長引くだけだと思ったから、あたしは言葉を飲み込み人気がないのを確認して植え込みに向かって前屈みになる。


「通学中に変身しちゃったの?」

「見りゃ分かるだろ。だからお前を待ってたんだ」

「そうですか」

「おう。だからちょっとついて来いよ」


 言うと火浦君は身軽に植え込みから飛び出して、児童公園の中へとあたしを誘う。

 偉そうなのに、歩く狼の後ろ姿が愛らしくて、あたしはそのギャップで憎めない。歩く度左右に揺れる尻尾が可愛いなぁなんてついて行くと、園内の公衆トイレの裏で止まった。


「うわぁ……」

「うわぁってなんだよ。うわぁって」


 尖った声があたしを責めるが、仕方ない。だって人気のない公衆トイレ裏、まるで溶けたかのように皮、もとい服だけが取り残された光景。

 あまりにもシュールなその絵は何処か意味深で、見ようによっては犯罪の匂いを連想させる。


「思わず手を合わせたくなっちゃうね」

「拝むな。殺人現場じゃねぇ」


 そう言われてもな。ついこの間読んだ怪奇小説と似てるからなぁ。

 とか言ったら余計に火浦君は怒るだろうか。そう思いながら服を丁寧に拾い、土埃を叩き落として軽く畳む。

 これ、火浦君の制服なんだろうな。て事はズボンの中にはアレもあるのか。


「パンツまで分けて畳まなくていいからな」

「しないよ!」


 しかもさっきまで履いてたやつでしょう。言われたって願い下げだ。


「ところでこの制服、どうしたらいいのかな」

「学校まで運べ。鞄もな」

「狼のままじゃ運べないもんね」

「そういう事だ。いつもだったら戻らない事には動けないんだが、今日はツイてたな。若月が近付く匂いに気付いたんだ」


 牙を向きだし、火浦君は笑う。一見するとそれは威嚇の姿だけど、この場合は飼い犬などによく見られる独特な笑みだろう。その姿はうちの犬と重なり、憎らしい言葉の反面ついあたしは気を許してしまう。


「持っててあげるから、途中で戻るのはナシね」

「任せろ」


 火浦君は得意気に一声吠え、あたしは折り畳んだ制服一式を体操袋にしまって腰を上げた。

 尾を降る彼の後ろに続いて。


「やっぱり付き合ってんだ」

「だから、付き合ってないってば」


 登校するなり開口一番、親友の伊依いよりちゃんに断定されてあたしは即答で否定する。


「どうしてあたしがあの火浦君と付き合ってるって思えるかが分かんないよ」

「だって今朝一緒に登校して来たでしょ」

「たまたまだよ。偶然居合わせて向かう先も一緒だからそう見えただけ」


 早口で捲し立てたけど、言い訳がましく感じるのは多分あたしだけじゃない。幼稚園生来からの幼馴染みの伊依ちゃんは疑わしそうに睨んでいる。

 それでも真実は話せない。火浦君の秘密が不随するから。いくら伊依ちゃんがばらさないと言っても、これはあたしの秘密じゃない。火浦君の秘密だ。あたしが勝手に口にしていいものじゃないと思っている。


「……別にこっちも好きで聞いてるわけじゃないんだよ」


 だんまりなあたしに痺れを切らしたか、伊依ちゃんがシルバーフレームの眼鏡を指で押し上げながら息を漏らした。


「周りが煩くてさ。聞きたいなら自分で聞きゃいーのにねぇ」


 呆れたように肩を竦め、けどすぐに吹き出す。


「ぶっちゃけあたしも気になるんだけどね。だって凛子には火浦は不誠実で不釣合い過ぎる」


 釣り合わないのはあたしの方でしょ。

 そう言いたいけど、伊依ちゃんの身贔屓は素直に嬉しい。火浦君と関わってから何となくあたしには味方がいない気がしてたから、余計に心強かった。おまけに気持も随分軽くなる。


「付き合ってないのは本当だよ。ただ、どんな関係とかはあたしの口からは言えないんだ。ごめんね?」


 今言える精一杯を伝えてあたしは伊依ちゃんを窺う。伊依ちゃんは怒るでもなく、ふっと笑うと優しくあたしの頭を撫でてくれた。


「でもさ、誤解なら早く解かないと、あんた《火浦の好意を袖に振る、身の程知らずの女》として襲撃に遭うかもよ」


 からから笑って付け加えた言葉にあたしは冷や汗。

 伊依ちゃんの「月のない夜は気を付けな」という忠告を耳に、いっそ全てをぶちまけようかとちらりと考えた。

 それがいけなかったのか、《事》は下校時間に起きた。


「あれ、靴が……」


 下校時間、靴箱を覗くとあたしの靴がなかった――と、思ったら隣りの空いてる場所で見つかる。

 入れ間違えたっけか。

 それだけしか思わなかったのだが、クスクスという笑い声と共に別のクラスの女の子三人があたしの後ろを通り過ぎる。


「泰助に好かれてるって勘違いしちゃってるから、自分の靴の置き場所も勘違いしちゃったんじゃなーい?」


 その言葉を真ん中の目立つ子が言い放つと、両脇の子が一際高く笑う。


「若月さんだっけ。あんた、泰助の弱みでも握ってんでしょ」


 あたしがただ呆然としていると、中心に立つ巻き髪の強気な顔付きの子が詰め寄る。香水と整髪スプレーの匂いが混ざってムッと鼻に来たので思わず顔をしかめると、その子は弓なりに整えた眉をぴくりと顰めた。


「何。文句でもある訳? 卑怯者のくせに」

「――っ」


 どんと肩を小突かれ、靴箱に背中をぶつける。痛い。だけど向こうはいい気味と吐き捨て行ってしまった。残されたあたしはと言えば、暫く立ち尽くし、この場に事情を全く知らない誰かが通りかかった所で慌てて駆け出して校舎を出た。

 悔しい。なのに反論出来ない自分の意気地のなさも情けない。

 何も知らないくせに、どうしてあたしが悪者にならなければいけなくて、いわれのない嫌がらせを受けなくちゃいけない。

 分かってる。火浦君と関わったのがいけないんだ。あたしみたいな地味な奴が、華やかな人間の隣りにいる事自体が彼女らの鼻につくのだ。そして彼女らにとってあたしの言い分は聞きはしない。聞く価値などないんだ。

 火浦君と関わるだけであたしに平穏はないんだ……。


「おーす、若月。今帰りか?」


 都合の悪い時に都合の悪い人は現れる。

 いや、違うか。現時刻においては彼は人じゃない。喋る狼姿の火浦君は四本足を広げた仁王立ちで靴箱玄関口で待ちかまえていた。


「……またくしゃみしたの?」

「おうよ。倉庫で昼寝してたら冷えたんだな」


 くしゃみして困るのは自分の方なのに、なんでそんな底冷えする上に埃っぽい場所を選ぶのだろう。


「早く来いよ。制服が埃臭くなっちまう」


 それは多分今更じゃないだろうか。埃臭い所で昼寝したならきっと手遅れだ。

 火浦君はあたしに何をさせたいのか。

 大したサポートも出来ないし、役目といったら単なるパシりで感謝もされない。休み時間の度に友達からは引き離され、その上、彼の所為で悪目立ちしてしまって名前も知らない同級生からの八つ当たり。

 あたしの平穏な日常が懐かしい。


「なにぼさってしてんだよ。若月」


 それもこれも全部火浦君があたしなんかに構ったりするからこうなるんだ。


「若月?」


 先に行こうとした火浦君が、ついて来ないあたしの気配に振り返る。


「おい」


 偉そうな呼び方にあたしは彼を睨んだ。こうなったのもあたしが甘く彼の言いようにされたのが原因なら、強気にならなきゃ馬鹿だ。


「……悪いけど、あたしもう手伝わないから」

「は?」


 途端、棘のある声音の聞き返しに心臓がびくりと震えた。

 びびっちゃいかん。此処で怯んだら明日には絶対その他女子の嫌がらせがエスカレートする可能性が高くなるからね。

 火浦君から不興を買うのと、複数からやっかみを受けるのとを天秤に測ったら前者が絶対マシだ。


「もう火浦君と関わりたくないの。それに火浦君なら今までバレないように出来てたんだからあたしがいなくても平気でしょ。だから、バイバイ」


 一気に押し出すように吐き出して、あたしは火浦君に何も言われない内に彼の横を通り過ぎて逃げるように校門を出た。此処で何か言われたら、多分きっと変な罪悪感とか出ちゃいそうだから。引き止められない内に逃げるが勝ちなのだ。

 正体がバレたら困るには違いない。

 今まで正体がバレてないんだからこれからだってうまくやれる筈だ。だからあたしが妙な罪悪感とか感じなくてもいい。火浦君の言葉通りに踊る必要なんかないんだ。

 あたしが協力出来るのは黙ることくらい。

 それぐらいだけだと分かっているのに、どうしてだろう。あたしは最後にちらとだけ彼を振り返ってしまう。

 四つ足で立つ、まだ幼い狼姿の火浦君が淋しそうにこちらを見ているように感じたのが胸にツキンと痛んだ。




*5*

 あれまで強引に押しかけて来たくせに、翌日から火浦君はぱたりとあたしの前に現れなくなった。

 ……来られたら困るんだけどね。

 衣依ちゃん達は「王子と喧嘩したの?」なんて聞いてくるので、そんなんじゃないと思いつつも適当に頷いた。

 その日の放課後のあたしの靴箱は平穏だった。嫌がらせが加熱しないで良かったな。

 ほっとして帰路について、神社の前を通っても児童公園にも狼の火浦君はいない。

 今日は特に変身はしなかっただろうかと気にかかるのに他意はない。単にあたしが知ってしまったからだ。

 狼に変身する同級生なんて忘れようにも忘れられるわけないじゃないか。

 あたしは典型的な文化系女子である。ティーンズ小説とか好きなのだ。日常に飛び込んだ不可思議に胸が全く踊らない訳はないんだ。

 けれども火浦君に積極的に協力的になれないのは彼の性格が悪いからに他ならない。

 もうちょっと可愛げがあれば友好的に協力もしやすいのに。

 愛着さえ持てれば、我が身可愛さ故に安易に火浦君を突き放すのももう少しは考えられた。と、今日になって思う。

 …………。

 あーっ! やめやめ!

 これであたしは平凡な女子中学生に戻るんだ。

 イケメン男子に何故か絡まれる少女向けフィクション、テンプレ展開とか無関係。学園カースト一軍女子に睨まれない、平穏な日々を送るんだ。

 ……なんかお腹痛い。


 成程、お腹が痛い訳だ。毎月のアレが来た。

 どうも月のものが重いあたしはこの週間は結構辛い。姉曰く、中学生にそぐわないくらいの脂肪が胸に貯まるくらい女性ホルモンが滾ってんのよというけれど、医学的にどうなのかは定かではない。

 ともかくお腹が痛い。正確にはお腹というか下腹部というか中が凄い攣る。引き攣る。

 根性で午前中は誤魔化していたけれど、ストレスからか今回はタチが悪い。気持ち悪いし、胸もムカムカする。こんな日に限って常備薬もない。詰んだ……。

 青褪めた私の顔を見て衣依ちゃんに「保健室に行きなよ」と言われ、昼休みを教室の寝心地の悪い机で過ごすのは負担であったので、午後の授業が始まるまで保健室のベッドを借りる事にした。


「ついて行こうか?」


 衣依ちゃんがそう言ってくれたが、重病人ではないし、次の授業が提出期限となっている課題を仕上げていない彼女にとってこの時間は最後の足掻きだ。伊依ちゃんに代わり別の子が付き添いを申し出てくれたけど「重病でもないから」と断った。そして道中、あたしはくじけていた。

 保健室くらいひとりで行ける。余計な手間は取らせたくないというより、毎月のもので友達付き添いなどさせたらどれだけ大袈裟なのかと思われるのも恥ずかしい。

 ええ、愚かな自尊心などいらなかったのだ。あたしは見事に道半ばで貧血で膝をつけている。

 意識はある。ただ、足に力が入らず暫く自力で立ち上がれそうにない。保健室は別棟の校舎で教室からは少し遠く、あたしは渡り廊下の中程で壁に持たれてしゃがみ込む。

 屋外の廊下はより冷える。足元から這いよる外気が腰を冷やす。

 これ、保健室まで辿りつけるかなぁ。授業休みたくはないんですけど。

 未だ立ち上がれず蹲り、ひたすら痛みが和らぐのを待つ。

 せめて鎮痛剤が欲しい。


「ほれ」


 目の前に差し出される、一般的に流通して見慣れた市販の鎮痛剤のパッケージ。差し出したのは……。


「火浦君……」

「やるよ。俺の常備薬で良けりゃ」


 ご丁寧にペットボトル入りのミネラルウォーターまでくれた。


「飲みかけで悪いがな」

「なんで常備してんの」

「香水匂いとか、キツイと頭痛いんだよ」


 なるほど、鼻が効くんだっけか。

 それならどうしてあたしに鎮痛剤を渡せるかなんて、そんな察しの良さについては尋ねないでおこう。今、自分がどんな匂いを発してるかなんて知りたくないし。


「……ありがと」


 気まずいけれど、正直助かるので遠慮なく水と薬を受け取った。火浦君は笑うとか怒るとか表情を露にするでなく、ただポツリと「世話になったから」とだけ言って無言であたし腕を取って肩まで貸してくれた。

 火浦君のおかげで無事保健室に辿り着き、ソファーに腰を下ろして薬を飲んだ。保険医の先生は留守だったから勝手にベッドを借りるのははばかれたが、まともな場所に体を預けるだけで負担も軽い。

 あたしはソファーの背もたれに頭ごともたれて、痛みを散らすことに専念する。その間、火浦君があたしの方を観察するように見ていたのには気付かないふりをした。

 昼休み終了を告げる予鈴を耳にあたしは体を起こす。薬が効いたか、痛みは大分引いたみたい。


「授業出んの?」

「出るよ。あたし皆勤賞狙ってるもん」


 結局、火浦君は昼休み終わりまで付き添っていた。特に何するでも話すでもなかったからただそこに居ただけなんだけど、この調子だと元々サボる気だったのかも。


「火浦君は戻らなくていいの?」

「俺は頭痛いから遠慮する」


 学生の本分を遠慮とするもんじゃないだろうに。と言ってもあたしもそんなに世話焼きじゃないから口にはしない。苦言するなら先生の仕事だろう。しかし何故か保険医の先生は戻って来なかったな。あの先生、校舎裏で猫に餌付けしてるって噂があるから、それ? 職務怠慢だ。


「じゃあ、あたしは教室戻るから。薬、分けてくれてありがとう」


 もう関わることはないだろう。彼に関わらなければあたしの日常が穏やかなのは証明されたんだし。

 さて、悠長にしていては本鈴が鳴ってしまう。あたしはそそくさと、火浦君を振り返らずに保健室を出ようとすると、ぐっと背後から手を引かれた。


「何?」


 わりと強めに掴まれた手首が痛くて、気持ち睨んで火浦君を見る。一瞬怯んでしまったのは、火浦君がまるで迷子の子供みたいに不安げな様子だったから。


「若月、やっぱり俺の手助けしてくれよ。確かに俺勝手だったけど、次はちゃんとお前にも合わせるからさ」


 合わせるって何をだよ。くしゃみなんて急に来る生理現象だし、基本どうしようもないじゃないか。

 それに、問題はそこじゃない。


「前にも言ったけど、火浦君、今までもどうにかしてこれたんだし、これからだって大丈夫でしょ」

「ひとりじゃ限界あんだろ」

「あたしがいても同じだよ! くしゃみを止めるわけでもフォローが出来るわけでもないのに!」

「同じじゃない!」

「痛っ……」


 声を張り上げると同時に火浦君の手に力が入る。あたしが痛みに呻いたらすぐに力を緩めてはくれたけど、離してくれる気はないみたいだ。

 どうしてそんなに必死なの。

 あたし、特別役に立っていたとかないよね。何がそんなに彼を駆り立てるのか。

 埒の明かない火浦君とあたしの問答は保健室入り口で行っている。別棟にひと気はないとはいえ、室内より目に付きやすい場所だ。これでもしこの誤解されかねない状況を誰かに見られでもしたら、あたしの平穏は再び乱されるに違いない。

 靴を移動させられただけだったけど、ちょっとキツイ言葉かけられたくらいだったけど怖かったんだから。

 ねえ、次は何をされるの? もっとひどいことになるの?


「……こわいよ」

「こわい……?」


 自然と口から漏れ出たあたしの不安を繰り返して、火浦君はあっさり引き下がる。

 どうして急に解放する気になったか引っかかるけど、人目と時間があたしを急かして動かした。

 振り返ると後悔すると思って、あたしは火浦君に目も向けずにひたすら教室へと足を早める。チャイムと同時に席に着いた時、あたしは自分の世界に戻れた気がした。

 次の日もその次の日も火浦君はやっぱり来なくて、もう周りも彼の不在に何も言わなくなった。当たり前だ。王子様が脇役の教室に毎度毎度顔を出す方が非日常で、王子様がいない風景が普通なのだ。あれは何かの気紛れだったのだと皆の中で自己完結しているに違いない。

 あたしだって火浦君の事にばかりかまけていられない。だって期末テストが近いのだ。

 中学三年一学期のこの結果如何で夏休みでの取り組み方が関わってくるし、それよりも先に三者面談という苦行が待っている。

 これがあたしの望んだ平穏な日常。

 楽しいことばかりじゃないけど、テストが終わったら母さんが好きな作家の新刊を買ってくれると言っている。そんな細やかな身近な未来を心待ちにしている小市民感覚。

 狼さんの我儘に振り回される困った日常はあたしの手に余る。

 本心だ。ファンタジーは好きだけど、あたしにはとても別世界に飛び込む勇気はとてもない。

 置いて来た別の世界に対する罪悪感だってない。遠目で見かける火浦君も至って変わりないものね。

 やっぱりあたしがいなくても大丈夫じゃない。

 改めて認識して燻っていたモヤモヤを綺麗に打ち消す。

 その内にあっという間にテスト週間が来てあたしは火浦君の事なんて一切考えなくなった。

 テストからの束の間の解放に友達と歓喜し、直後に配られた三者面談の日程のお知らせというプリントに溜息吐いて、今度は進路と言う名の束縛に中学三年のあたしは悲鳴を挙げるのだ。

 在るべき本来の日常に完全に戻ったあたしが火浦君の話題を耳にしたのは、その三者面談も無事終わって夏休みを待ち遠しく待つだけのカウントダウンに入った頃だった。


「火浦君のお父さんって超イケメンだったよ!」


 なんて、朝のホームルームまでのひと時の中で唐突に興奮気味に始まった。


「三者面談で見たの?」


 誰かが聞いた。発言者は頷く。

 まあ、同級生の親を見る機会なんて今なら昨日までの三者面談ってのが濃厚だ。あたしは特別何か話題に加わるでもなく、ただ女の子同士の輪の中に混ざって耳を傾けるだけ。


「それで、火浦君のお父さんってどんな感じ? やっぱ火浦君ってお父さん似?」

「ううん。似てる部分はあるけどタイプは違うかな。火浦君は美少年! って感じの中性的な感じだけど、お父さんはワイルドセクシーみたいな!」

「うん、分からんがイケオジなんだな」


 伊依ちゃんが興奮気味な感想に適当に相槌打つ。


「火浦って父親より母親似だったよ。小学生の時見たけど、凄い美人だった」


 そう言ったのは、火浦君と小学校が一緒だった子。その情報提供に美男美女の子供もやはり美少年かと盛り上がる。美形遺伝子って優性遺伝なのかとぼんやり考えてしまうあたしは何処か発想が悲しい。

 そう言えば火浦君の体質の事は勿論親なら知ってるよね。と言うかもしかして遺伝、両親も狼人間の可能性があるのか。否、両親と言わずどちらかが同じ体質だと考える方が自然だ。

 親から子へ継がれる狼の遺伝子。表に出ないのは秘密の伝承が確立してるのではないだろうか。だって、狼人間の存在が知れたら絶対話題になるもんね。

 確証はないけどなんか腑に落ちて、火浦君の焦りがない態度が裏付けているようで妙に納得してしまった。

 なんだ。ホントにあたしなんていらないじゃん、みたいな。

 学校のアイドル、火浦君の話題は盛り上がる。あたしも聞き手専門で参加するけど、見たこともない親の話でも盛り上がれるなんて火浦君のカリスマ性が窺えるよ。

 ワイルドセクシーなお父さん見てみたいとか、親子セットで眺めたいとか。卒業式には揃うでしょみたいに花が咲く一方で、小学生時代の火浦君を知る友人は何処か苦々しい顔で口を閉ざしていた。

 様子が気になったのでこっそりどうしたのと尋ねたら、彼女は「あまり人に話しちゃいけない話題なんだけど凛子ならいいかな」とぽつりぽつりと、当時の事を教えてくれた。

 小学生の同級生は誰も知らないだろう話。たまたま彼女の母親が看護士だったから知り得た話。


「火浦のお母さんね、今はもう一緒に暮らしてないんだって。小学校六年の二学期の終わりぐらい、自宅階段から転落して打ち所が悪くて幻覚を見るようになったみたい。“息子はバケモノだ! ケダモノだ! 人の皮を被った狼だ!” そう叫んで火浦に手を挙げるようになったから、今は施設で療養中って聞いた。怖いよね。人間の脳ってよく分からない傷で可愛がっていたひとり息子を狼人間だって言って怯えるようになるんだからさ……」


 なんて話をあたしならと明かしてくれたんだ。そう訴えれば彼女は不思議そうに言った。


「だって火浦が気を許してる女子じゃん。分かるよ。あたしも小学生の時から火浦が好きだったんだもん」


 そんなことない。あたしは期待を裏切った卑怯者だよ。

 懺悔の言葉はすんでで飲み込んだ。




*6*

 火浦君のお母さんの話なんて知らなかった。知らなかったから許されるわけじゃないのは分かってるけど、傷つけたくて傷つけたんじゃない。

 だけど、きっとあたしはあの日火浦君の傷に爪を立てたに違いないんだ。

 不用意にあたしが洩らした「こわい」の一言。気付いていたのに。火浦君がそこであっさり引いたのをおかしいと気付きながら、あたしは気付かないふりをした。

 実の母親に拒絶されるなんてトラウマになるよ。

 あたしも自分の親に置き換えて想像したけど心臓が握り潰されるみたいに悲しかった。

 美少年アイドルが好きで、二時間サスペンスの配役で犯人を当てにいくような能天気な我が母があたしをバケモノと言うのだ。

 あたしは火浦君をバケモノと思っていないよ。

 あたしがこわかったのは、火浦君じゃなくて迫害される自分。

 弱いから、群れから弾かれるのに怯えていた自分自身。

 だからって火浦君の事をなかった事にするなんて卑怯だって分かってたのにね。あたしはその罪悪感にすら目を背けたんだ。

 我儘なのはどっちよって話だ。

 今なら火浦君があたしに求めていたものが何となく分かる。

 だから仲直りしようなんて簡単にはいかないけど、ただ火浦君に謝りたい。

 あたしは一度だって火浦君と正面から向き合えてなかったんだから。


 謝ろう。そう決意したはいいものの、何故か火浦君が捕まえられない。

 なけなしの勇気を振り絞り教室まで向かったけど不在だったわ、クラス中の女子から睨まれるわで散々。どうやら地味だ地味だと思ったあたしの知名度はいつの間にか悪い意味で知名度を上げてるらしい。王子効果凄まじき。

 と言うか、どうやらあたしは火浦君に避けられてるんじゃなかろうか。

 気付いたのは行動に移して三日目。

 思えば人間形態でも鼻の良いらしい火浦君だ。近付くあたしの気配をいち早く察知して距離を置いてるのだろう。

 顔も見たくねーよって意思表示か、それともあたしを怯えさせない配慮か。どちらにせよ腹が立つことこの上ない。こうなりゃ意地でも捕まえてやるとお姉ちゃんの香水を勝手に拝借して身につけたけど、適量を知らなかったあたしは下手につけ過ぎて匂いに噎せて体臭撹乱作戦は止む無く取り下げた。と同時にあたしにおしゃれ女子は無理だと自覚して膝を折ったのは完全な余談だ。

 そうこうもだもだしてる間に終業式の日になってしまった。

 夏休みに入ると火浦君への接触機会がますます減ってしまう。

 体育館に集まる全校生徒中から、火浦君の姿を探すけれど徒労に終わる。そもそも出席すらしていないからどんだけ自由なんだと。同じ受験生としてその意識はどんなんだと文句を言いたいけど、これも火浦君なりの処世術なのかもしれない。まず、この中でくしゃみなんてしたら一発で終わるものね。

 いっそあたしも抜け出してしまおうか。ちらりとそんな手も脳裏を過るけど、サボるなんてそんな豪胆さを持ち合わせてないし、皆勤賞の文字もチラついて情けないあたしは一生徒として校長先生の話を聞いてしまうのだ。

 茹だるような夏の気温に、全校生徒の熱気が溜まる体育館内でどうして校長先生は長話が出来るのだろう。

 夏休みに対する心掛けなんて毎年聞いている。夏は誘惑が多いから、盛り場に気をつけようとか、三年生は受験生だから勉学に励みだとか本人がよく自覚してるよ。

 どうせなら上手な謝罪方法とか、狼人間の捕まえ方とか教えて欲しい。

 思わず溜息を溢すと、後ろに並んでいた伊依ちゃんがあたしの肩を叩いて来た。


「どうかした?」


 具合を気にされたみたいで、大丈夫と答える。それでも伊依ちゃんはあたしの隣に来て顔を覗き込んだ。


「……凛子、最近、火浦を追っかけ回してるって聞くけどあんた達拗れてんの? 付き合ってんの?」

「付き合ってないよ」

「付き合ってた?」

「それもない」


 あたし達はそんな仲じゃない。

 だからってそれじゃあどんな仲なのと問われると困るけどさ。

 恋人じゃないし恋人未満とか甘酸っぱい関係でもない。かと言って友達でもない。

 どれでもないから言葉に詰まる。けど、何か近しい答えを言わないと話が終わりそうになくて、あたしは頭を悩ませて一番しっくりくる言葉を捻り出す。


「……お母さん、かなあ」


 毛むくじゃらの火浦君も見てあげるお母さん。

 あたしなりに納得のいく答えに伊依ちゃんはますます渋面になり、意味分からんと吐き捨てた。それは仕方ない。

 改めて考えると、あたしと火浦君の関係ってはっきりしないよね。

 立場的にはお母さんとは言ったものの、彼を怯えない存在の代理みたいな意味合いだし、火浦君自身はそう思ってないだろう。

 大体あたしって、火浦君の事ってよく知らないまま付き合わされてたんだよね。

 火浦君に謝ろうと追っかけながらやっと知ったのは、火浦君がわりと休みがちってことだ。欠席の理由は多分、体質の問題かなと想像つくんだけど。風邪気味の時に物凄く用心してるんだろうなとか。

 あと、特定の彼女がいた話もないとか。愛想がすこぶるいい方とは言い難いけど、言い寄る女の子と話したり遊んだりはよくあるみたい。いま一歩踏み込んだ関係にはならないらしいから、やっぱりあの体質が問題だろう。


「お、凛子の探してた男発見」


 終業式も終わって、教室に戻る道中伊依ちゃんが廊下の先を指差し示す。

 あの顔面クオリティは確かにそうそういないので間違いはないが、よし突撃とも行かずあたしは「いたねー」と間延びして同意するに留めた。

 何故なら火浦君に近付くには強固な壁が立ちはだかっていたからだ。


「しっかし、ハーレムが出来るくらいモテる人ってマジでいるもんなんだな」


 通行の邪魔と言いたくなるくらいに廊下にひしめく女子の群れ。その中心にいる火浦君を見てあたしは感嘆の息を漏らした。

 見つかる時はこんなにあっさりで、かと言って太陽属性の厄介さに日陰属性として舌打ちも出そうだ。


「夏休み前のアピールかね。青春してるよなー。受験はいいのか」


 うん。部活で恋愛を二の次にしている伊依ちゃんの台詞も十分負け犬っぽい。さすが親友。

 あたし達は混雑する集団を遠巻きに眺め、どう通過してやろうかと往生する。

 同じ女子ですが、黄色い声って耳に痛い。

「泰助君、夏休み海行こうよ」とか「新しい水着買ったんだ」って積極的アピールとか物凄い。

 火浦君人気は前々からだが、此処まで積極的に彼女らを動かすのは夏の魔力なのか。


「噂では凛子が火浦の彼女候補ってんで、ファンの動き顕著になったらしいよ。うかうかしてるとせっかくの油揚かっさらわれるかもねー」

「だから火浦君とはそんなんじゃないし」


 伊依ちゃんが面白そうに煽るが、あたしに彼女らに張り合う気概はない。

 あんな事件がなければ関わる筈のない人だった。それ以外にも、火浦君の周りの子って皆可愛い子ばかりで、自分に自信がある感じがひしひし伝わって気圧されてしまう。読書と言う名の草を食むあたしとは明らかに主食が違う。

 そもそも勝負になるわけがない。

 それを群れの彼女達は知っているのだろう。あたしが脇に差し掛かっても上から目線で勝ち誇ったように笑う。

 ……最初から白旗上げるあたしと何を張り合いたいのだろうか。

 通り過ぎ様、ちらりと火浦君と目が合う。

 きっと捕まえて謝るなら今が最後のチャンスなのかも知れない。

 だけど女の子の壁と、あたしに気付きながらあからさまに目を逸らした火浦君の態度に今までのあたしのなけなしの勇気が萎んでしまった。

 そうだよね。一度自分を見捨てたやつに何言われても信用出来ないか。

 人気者の火浦君ならすぐに彼の全部受け止める子が出来るよ。

 だって火浦君、狼になっちゃうけど狂犬病予防もフィラリア予防も要らない犬種だし、噛みグセもないし、怖いとこなんて全然ない狼人間だから。うん、大丈夫。

 あたしじゃなくても大丈夫だよね。

 なんて思いながら、アイドルみたいに囲まれ、腕を組まれ、写メを撮られるくらいの人気者の狼さんを横目にあたしは通り過ぎようと人混みを突き抜ける——筈が、あたしは一つの危機に足が止まった。


「泰助ー、ツーショットで撮らしてよ」


 携帯端末のカメラを構え、ひとりの子が思い切り火浦君に腕を絡めて体を密着させる。その時、彼女の頭が火浦君の鼻先を掠めていたのだ。

 ヤバい。

 思ったと同時にあたしは輪の中心に飛び込んでいた。

 無理矢理女の子を掻き分けるあたしを罵倒する声を聞いたけど、それよりもあたしは火浦君に手を伸ばす。


「火浦君っ!」


 伸ばした手の意味を即座に理解したか、火浦君は迷いなくしっかりとあたしの手を握り返した。あたし達は人の群れを突き破って一緒に走り出す。

 こんな強引さ、あたしにもあったんだと、自分でも感心する力を持って火浦君を引っ張った。

 何処でもいい。あたしは火浦君を周りの目から隠すように彼をあたしの前に押しやって、とにかくひと気のない方向へ走らせた。

 直後に前方でくしゃみの声を聞いた。

 瞬き程の速さで火浦君の姿が消えるが、あたしは器用に火浦君の服と体をキャッチして動く足を止めずに走る。

 あたしの背中が目隠しになったかな。

 背後の反応に耳を澄ませつつ、あたしは真っ黒の狼になった火浦君を胸にとにかく校内を奔走した。

 その最中に予鈴が響いた。ああ、これからロングホームルームだ。どうしようか。

 小心者がひょっこり顔を出したけど

、初犯だから大して怒られないよねと考えている時点で答えは明白だった。

 そうして火浦君を抱えたあたしはいつかと同じ空の視聴覚室に飛び込んだ。

 息を切らしてその場に膝を着く。かなり大胆な行動に出た気がするんだけど、なんでだろ。意外に清々しい。


「お前、アイツらを敵に回したな」


 他人事みたいに、なのに愉快気に火浦君が言う。確かにこの後を考えると女の子達の反応がちょっと怖い。だけどあたしは笑ってしまった。


「その時は火浦君に借りを返させるよ」


 火浦君も、獣の姿で不格好に笑った。




*7*


「あれな、香水とか整髪料とか俺の鼻にはキツい訳よ。やっぱ、人間素材で勝負がいいよな」


 まだ余韻があるのか、前足で不快そうに鼻を擦る火浦君の言葉をあたしは黙って聞いていた。

 一人と一匹が薄暗い視聴覚室で肩を並べ、壁を背もたれに地べたに座る。

 本鈴もとうに鳴ったけど、あたしはまだ狼のままの火浦君の傍にいた。

 初めてサボった不安感はもうない。後ろ足で耳を掻く火浦君が和ませるからかな。

 畳んだ膝に肘を置いて頬をついた姿勢であたしは火浦君を見る。人と狼では愛嬌が違う気がする。


「そういやお前、俺がくしゃみするとかよく気付いたな」

「ああ」


 火浦君の質問にあたしはつい思い出し笑いを浮かべた。


「あたしもお姉ちゃんの香水の匂いで似た経験したから、整髪料もヤバイかなって思っちゃったんだよね」


 女の勘かなって言ったら鼻で笑われた。なんでだよ。


「それにしても、マジでお前に助けられるとか思いもしなかった」


 不貞寝か、床に顎をついて眠る火浦君の姿は悔しそうに見える。

 狼の姿なのに、悔しそうに見えるとかちょっと表現変?

 でも、あたしには狼も人間も変わりなく火浦君に見えるんだよね。と言うか、狼姿の方が表情は豊かだと思う。

 火浦君の隣り。あたしは無意識に彼の背中を毛並みに沿って撫でていた。

 不意に何をしでかしたか気付いた時、手を離そうと思ったけど、火浦君が無言だったので甘えて続行してしまう。

 漆黒の艶が綺麗なちょっと長めの、硬い狼の毛。我が家で飼ってる子はダルメシアンの雑種で短毛だから、違う毛触りがちょっと新鮮。ついつい夢中で撫でてたら、ずっと黙っていた火浦君が不意に体を起こして鼻先をあたしに向けて牙を覗かせた。


「――お前さ、俺が怖いんじゃなかったのかよ」


 拗ねた声にあたしは「あっ」と声を上げる。本題をすっかり忘れていた。


「ごめんなさい。あの日言った怖いは火浦君に対して言ったんじゃないの」

「はあ?」


 目を丸くした火浦君に、あたしはかいつまんであたしに嫌がらせした女の子達の話をした。告口みたいだけど、下手に誤魔化して謝罪が嘘っぽくなる方がよっぽど嫌だ。

 きちんとした犬スタイルのお座りで火浦君が居住まいを正すから、合わせてあたしも正座でしっかりと向き合う。

 説明を終えたら火浦君はへなへなと伏せて「なんだよ」と悪態吐いた。あたしはもう一度ごめんと謝る。


「迷惑してたのはホントだけどね」


 こっちの本音を伝えるのも大事だ。火浦君はバツが悪そうに顔を逸らした。


「理解者が欲しいなら素直に言ってよ。あたし、結構犬好きなんだよ?」

「犬扱いはやめろよな」


 火浦君は怒るけど、あたしが首の皮を引っ張る気持ち良さそうに目を細める。これの何処が犬じゃないと?


「こんなに可愛いのに、怖いわけないじゃん」

「可愛いやめろ」


 男子の矜持に触れてしまったか、火浦君はあたしの手を除けるように身体を起こして距離を置く。


「若月、お前絶対変だろ。でなきゃマゾだ」

「マゾやめて」


 とんだ誤解だ。あたしは犬好きなだけであって、火浦君の我儘に喜んだ覚えは一切ない。あと、変と言うなら火浦君だろう。


「火浦君だっておかしいよ。毎日教室に来てた時もさ、あたしに何を求めてるかはっきりしないでさ。仲良くなる気ないでしょ。そっちの行動こそマゾだ」

「誰がマゾだ。つーか、他人がいたら体質の愚痴零せないだろ」

「愚痴りたかったの?」

「話そうにもお前、俺がいると勉強始めるし、邪魔しちゃ悪いかなってなるだろ」

「コミュ障かこのイケメン!」

「なっ……⁉︎」


 突いて出た暴言に火浦君が息を飲み、あたしもしまったと口を塞ぐ。


「付き合い下手なのはあたしもだから、人のこと言えないけどね」

「…………」


 フォローになってない。


「……思うに、あたし達会話が足りなかったよね。今後の課題かな」

「お前、俺にまだ付き合うのか?」

「うん。やっぱり知らないふりは寝覚めが悪いよ」


 不安なのは火浦君ファン女子だけど、そこはもう、毒を食らわばだ。

 女子の嫉妬か、火浦君かで天秤にかけた場合、この数日でわかってしまったから。


「とりあえず、友達を前提に仲良くしようよ」


 火浦君の前脚を取って握手。決してお手ではない。

 硬直する肘の動きに火浦君の戸惑いが伝わるけど、そこは強気に押し通す。


「愚痴聞くのは得意だよ?」


 お望みの物件でしょ? なんて首を傾げて、目線の低い狼さんを覗けば火浦君はまた目を逸らす。


「お前、やっぱ変だ。母親は拒絶したのに付き合ってくれんのかよ」


 火浦君の口から出た母親の話題にあたしはどきりとして、彼の手を離してしまった。その反応に火浦君が「もしかして知ってる?」と聞いたので、下手に誤魔化せなかったあたしは正直に頷く。

 火浦君は特に怒る様子もなく、じゃあ、同じ内容だろうけど愚痴だから聞いてくれと話を続けた。


「親父から発症して聞かされたんだが、この呪いはさ、火浦の直系男子にのみ継がれてるらしいんだ。なんでこうなるかは不明だが、呪いは男に男子が産まれたら解けるみたいで、産まれた子は最初は普通に育つ。親父はお袋には呪いの話を隠してたらしいし、俺も今よりガキん時は普通だったから、ホントに暫くは何処にでもいる家族でいられたんだ」


 小六のクリスマス前頃かな。

 そう言って火浦君のトーンが落ちた。


「ある日、いきなり自宅で狼になっちまった。それもお袋の目の前だったからさ、混乱ぶりが凄過ぎて、逆に俺は自分の変化にビビる間もなかったよ。錯乱したお袋は階段から足を踏み外して怪我して、暫く意識不明だったんだが、起きたら起きたでもう俺を我が子として見てくれなかった」


 火浦君は笑った。渇いた声でちょっとだけ笑って、頭を垂らした。


「一番身近な筈の母親でさえ拒む俺を、受け入れてくれるかも知れない他人が現れて期待するのは人情だろ」

「あたし?」

「気絶されたけど、なんか理由が別のところっぽい気がしたし」

「…………」


 そうですね。あまり触れて欲しくないとこですけど。


「難癖つけて近くでお前の反応観察して、狼でも普通に俺として扱ってくれて……でも本心話すにはまだ慎重になりたいのも分かるだろ」


 こんな時、なんて声をかければいいのか全く思い付かない自分の語彙力のなさが歯痒い。

 あの日、逃げた自分が憎い。


「ごめんね」

「……何で若月が泣いてんだよ」

「うん、ごめん……」


 気付けば頬を濡らす涙にあたし自身戸惑って、意味もなく謝ってしまう。

 火浦君に突然降り懸かった呪いという災難がつけた傷は思いの外深くて、それに対するあたしの想像力があまりに貧相で情けない。

 あたしに見せた不遜な態度も、彼なりの強がりだったんだろうと分かって来て胸が痛い。


「謝るなら泣くなよ」


 苛々した火浦君の声が聞こえた。かと思うと、ペロリと生暖かい柔らかい感触が目尻に触れた。

 驚いて顔を上げると、火浦君の舌があたしの涙を舐めたのだと理解した。


「火浦、君……?」

「女の涙は拭うもんだろ」


 フンとそっぽ向く狼さんは照れていた。

 姿形はいつもと違うのに、伝わる不器用な優しさが素直に嬉しい。


「キザだね」

「うるせぇ」


 気を良くしてあたしが笑うと、火浦君は反対に不機嫌になる。

 あたし、今なら素直に火浦君の力になりたいって思える。

 火浦君の孤独を知って、大した取り柄のないあたしでも火浦君の支えになりたいって、そう思ったんだ。だから、素直になれる内に言葉にした。


「怒らないでよ。なんだって協力するから」

「協力?」


 その言葉に火浦君が反応する。少しお怒りは解けたかな。


「マジでなんでも?」

「あたしが出来る範囲ならね。大した事は出来ないからあまり期待しないで欲しいけど……」


 すると火浦君は暫し無言になって、やたら真顔になる。

 狼姿で真顔と表するのも変だが、そう見えるのだから仕方ない。沈黙の中、あたしは黙って火浦君を観察する。

 まだ成犬になりきらない、少し長さの足りない鼻先。湿った鼻が健康の印。耳がたまにぴくぴく動いて触りたい衝動に駆られるが此処は我慢する。

 触りたいな、撫でたいなってあたしの邪な感情に気付いたか、不意に火浦君があたしを見上げてじっと見つめて来た。

 円らな黒目がじっとこちらを見るから、あたしも見つめ返す。すると、火浦君は犬歯をニヤリと覗かせ、あたしの膝に前脚を二つ乗せたかと思うと、背伸びしてあたしの口許をペロリと舐めた。

 最初はよく分かってなかった。

 だって狼の舌だもん。うちのわんこと同じくらいにしか感じてなかった。

 あ、緩い。してやられた。みたいなね。

 が、遅れて火浦君の当たり前の姿を思い出して赤面する。


「やっぱ、人じゃねぇと反応もこんなもんか」

「……火浦君、今の、何?」

「キスだろ、馬鹿」


 照れもなく言ってのけるから、逆にあたしが更に動揺しちゃう。


「なんで、あたしに?」

「なんでも協力するんだろ」


 ニヤリと笑う獣の笑みに過ぎる一抹の不安。


「若月、お前、俺の子供を産めよ」

「――――――は?」


 突拍子もない要望に、またしても反応が追いつかない。だけど、そんなのお構いなしに火浦君は話を続ける。


「実はこの呪い、代を重ねるごとに弱く薄くなって、いずれは消える言い伝えなんだ。そんで将来俺に息子が出来たら俺は狼人間から解放されるだろ。でも、だからって子供に全て押し付けるのも気の毒だ。だったら子供が狼になっても受け入れられる器の母親が俺の理想なわけよ。意味、通じてるか?」

「通じてる、けど、ちょっと待って」


 頭がクラクラして来た。

 全てが一足飛びになってる気がする。

 子供って……つまり、そうでしょ。

 あたしが火浦君と……。


「無理っ! 絶対絶対無理っ!」

「無理じゃねぇよ。お前、俺が好きじゃないか」

「なっ――!」


 違う! そう言いたかったのに何故か否定出来ない自分自身に驚愕した。

 火浦君は確信があったにせよ、かまかけだったかにせよ、反射的に顔が熱くなったあたしの変化に気付かない筈がない。


「いいな。そういう慣れない感じ、ゾクゾクする」

「せ、性格悪い!」

「悪いよ。今更知ったのか?」

「知ってた……」


 笑い飛ばす火浦君が憎い。

 苛めっ子気質で、我儘で、考えが結構極端。


「だ、大体火浦君はどうなの! あ、あた、あたしの事好きなの⁉︎」


 自分で尋ねて恥ずかしい。憤死しそうなあたしに対して、火浦君はなんともけろりと舌を出して堂々たる四足立ちで胸を張る。


「なんとも思わん女に、自分の大事な運命を託す子供を産ませるかよ」


 死んだ。今度こそ死にました、あたし。

 なんの飾りもない、率直過ぎる言葉に動揺しない筈がない。

 痛む心臓を押さえ、あたしは狼相手に赤面するという奇行を晒す。

 狼相手にときめくなんて世にどれだけいるだろう。

 漆黒の狼さんは、未だ狼狽えるあたしの肩に前脚を置いてのし掛かり、裂けた口を妖しげに薄く開く。


「心配すんな。これからの交際に辺り学生の間にヘマはしねぇから」

「ヘマって、正体がバレること? それとも……」


 二つの問いを言い切る前に、狼の姿で火浦君は器用に笑う。


「さて、どっちでしょう?」


 仄暗い部屋の中でも光る獣の瞳に魅入られて、迂闊にもあたしは惚けてしまう。


「若月、逃げられると思うなよ?」


 まるで契約のように、狼の牙があたしの首を霞めながら舌を這わせた。


 若月凛子。十五歳。

 この日、ひとりの狼さんに捕まりました。


【end】

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狼さんに気をつけて 藤和 葵 @fujioaoi

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