第十二夜 池の底
或る山奥の村のことである。
私は家族と一軒の家に住んでいる。湖とも思える大きな『池』のある家である。
肝心の屋敷はというと『池』の近くに申し訳程度に建っているくらいで、頼りないものである。
『池』の直径は五〇メートルほどはあろうか。遥か昔、この地に隕石が落ちて、その後に出来たものだそうだ。
淵には切り出された石が段々に敷き詰められ、屋敷の近くには『池』全体が見渡せる木製の
一見、まるでどこかの国の庭園のように整えられた『池』の周囲は、しかし芝生が生えるばかりで荒涼とした雰囲気さえ感じられる。
きちんと手入れをしているわけではない。そもそも何時の時代に『池』が整備されたかは誰も知らないのだ。
『池』の底は見えない。
私には十にも満たない下の弟と、十二、三歳の少し頭の足りない上の弟、そして足腰の弱った祖母がいた。
上の弟は不思議な子供だった。
乱暴なことはしないし、聞き分けも悪くはない。ただ、『池』を見ると時折ガタガタと震え、膝を抱え込んで動かなくなることがあった。
そんな上の弟は、或る日を境にふいと姿を消した。
家族総出で探したが、結局二度と戻らなった。
ああいう類の人間は、大抵自分から姿を消すことが多い。
少なくとも、この村ではそうであった。
捜索は打ち切られ、上の弟は亡くなったとして簡単な葬式が挙げられた。
その数か月後のことである。
『池』から奇妙な虫が湧いた。
小さく黒いそれは、蟻のような、しかし靄がかかったようにその姿を見定めることができない。
その虫はちらほらと『池』の周りを走りまわり、人を見つけると足元へ近寄ってくる習性があるようだ。
私は何だか厭なものを感じ、触れることを嫌って『池』に近寄らないでいた。
或る時、村人の一人がその足で虫に触れた。するとその村人は黒い塵になって消えた。
私は恐怖した。こんなものが家の近くに巣食っていたのだ。
だが、いつの間にか我が家だけではなく、村全体に虫は居た。
すでに村は虫の巣となっており、私たちは虫への餌……否、食べられるわけではない。あの厭らしい虫どもの、いわば
虫どもは『池』を中心に湧き続けている。
虫のいる外へ出られず、家の中で下の弟は膝を抱えて震えている。まるでいなくなった上の弟のようだ。
――上の弟?
彼は『池』に何を見て震えていたのだろう。まさしくこの虫どもを見ていたのではないか。
ふと、下の弟を見ると、虫が近くに居るのを発見した。
私は危ないと思って下の弟に声をかけようとしたが、声が出ない。咄嗟に抱き上げるには遠すぎる。
このまま下の弟が塵になるのを見るしかないのか、と諦めかけたが、一向にその気配はない。
虫は、まるで下の弟などいないかのように振る舞い、今度は私へと向かってきた。
逃げようとしたが今度は足が動かない。恐慌に陥った私は、いつの間にか下の弟がしたように、否、上の弟がしたように膝を抱え、体を震わせていた。
数瞬が一刻にも二刻にも感じられた。虫は来ない。
そうしている
ほっと溜息を
祖母は足腰が弱いだけでなく、老齢から目も耳も……思考力も弱っている。虫のことなど何も知らないのだ。
まずい。だが、祖母を助けるには『池』まで虫に触れることなく祖母の
それは困難を極めるというより、最早不可能なことであった。『池』には無数の虫がいるのだ。祖母がまだ生きている方が奇跡なのだ。
何も知らない弱者たる祖母が犠牲となるのを見ているしかない歯がゆさに悶えていたが、しかし予想に反して祖母は依然として無事な姿を見せていた。
何故、と目を
体中に棘を生やしたそれらは、人の形をした植物のような姿をしていた。
彼らは『池』に飛び込むと、敷かれた石の隙間に棘を差し込むようにして入り込んでいく。
虫にも劣らない数の彼らが『池』へと進行するにつれて、虫は逆にその数を減らしていった。
きっと彼らは上の弟だ。
私はそう確信した。根拠はない。そう信じたのだ。
あの不思議な家族が守ってくれたのだと。
そうして事態が鎮静化し、村は平穏を取り戻した。
無論、取り戻せないものも数多くあった。
私は自分の家の役割を朧気ながら感得しつつあった。私の家は祭司……『池』を守るものではない。『池』から守るものなのだ。
底は、やはり見えなかった。
(起床)
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