第6話
「このところやけに楽しそうだね、興梠(こおろぎ)さん?」
「ああ、吃驚した!」
積み重ねた美術書の山の間で顔を上げた探偵。
灯りをビューローの周囲にしかつけていなかったせいで、闇の澱(よど)んだ事務所の戸口に立つ少年を目を細めて見返す。
「フシギ君? まだ居たのか? とっくに帰ったものと思っていたよ」
「チェ、これだものな! 絵を見始めると周囲が全くお留守になるんだから! 強盗とかだったらどうするんだよ? 動き回る僕の足音くらい聞こえてたろう?」
「いや、ノアローかと思った」
「!」
最近、子爵邸の令嬢の部屋では、まさにそれ、自分がノアローのような気がしていることもあって志儀(しぎ)は顔を顰めた。
その猫、ノアローも、何故か、ここ数日、志儀の傍へ寄って来ない。
バタバタ足音を立てて走り回っていたのはそのせいだった。捕まえようと追い掛け回していたのだ。
諦めて、珍しく猫を抱かずに事務所に入って来た助手は音を立ててソファに腰を落とした。
張り詰めた横顔。
一方、そんな助手の様子を気にも留めず探偵は美術書に目を戻して言った。
「どうだろう? 令嬢には、明日は物語の絵を見せようと思うんだ」
大きく息を吐くと志儀は言った。
「ねえ、こんなの時間の無駄だよ! キリがない。終わりにすべきだ。どんな絵を見せてもあの娘は満足なんかしないんだ。だって……」
「だって?」
椅子を軋ませて振り返った探偵。
助手は言葉を飲み込んだ。
言い方を変える。
「だって、あんなワガママ娘、どうせ何を持っていっても100%満足するはずない。だとしたらテキトーに選べばいいのさ! そして、他の画商同様、匙を投げればいい! それで終(しま)いだ!」
「そういうわけにはいかないよ」
探偵は微笑んだ。いつもの微苦笑ではない。本物の微笑み。
ライブラリーランプの優しい灯りのせい? いいや、そんなはずはない。
「興梠さんて、推理が得意とか言ってるくせに鈍感だよね? だからモテないし、猫にも嫌われるんだ」
毒舌に慣れている探偵は聞き流した。
「こっちが見ててイライラする。弄(もてあそばれ)てるのがわからないの? しかも、あんな、生意気なネンネに!」
「ハハハ! 弄ばれるのは慣れてるよ」
「誰に? ノアロー?」
「そうだな」
「嘘つき。それ、好きだった人のことだろ?」
「まあ、僕の場合は……弄ばれたというより、相手にされなかったという方が正しい」
俺は全身全霊駆けて愛したのに……恋焦がれたのに……
哀しい思い出に囚われかけた探偵を助手の現実的な問いが引き戻した。
「ねえ? あの後、どうしたの?」
「あの後?」
「お茶の時間に執事が来ただろ? その時、興梠さん呼ばれて――他所(よそ)へ出て行ったじゃないか。何かあったの?」
強い口調で少年は問い質した。
「何の話をしてたのさ? 僕は助手だから、僕にも知る権利がある!」
「悪かった」
思い出して、心底申し訳なさそうに探偵は詫びた。
「つい失念していた。別に隠そうとか、そんなことじゃない。あの時、子爵ご本人から電話が入ったんだよ」
「?」
―― 今回の件で篤胤(あつたね)様ご自身から興梠様へ直接御礼を申したいとのことです。
第何番応接室かは定かではない。こじんまりと居心地のよい一室へ導かれて、そこに据付(すえつけ)てあった電話を示された興梠。受話器を取ると声の主(ぬし)は子爵・鷲司篤胤(わしつかさあつたね)だった。
電話の内容は――実際、助手に伝えるのを忘れるほど――これと言って大したものではなかった。
今回の特殊な依頼を引き受けてくれたことへの感謝と、本来なら、直接会って挨拶すべきところ、現在やんごとの無い事情のためにそれが出来ない、その謝罪の言葉だった。
これに対して、お気遣い無く、と興梠は返答した。
ご依頼の件、ご満足いただけるよう努めさせていただきます。
「そういうわけだからね。わかったろう? 言うまでもないが、この件に限らず、引き受けた以上、依頼は途中で投げ出すわけには行かない」
「わかったよ!」
荒々しく助手はソファから腰を上げた。唐突に付け足す。
「ところで、僕は今日、ここに泊まるからね! いいだろ? 明日は日曜だしこう遅くなっちゃ帰るの面倒だもの」
「じゃ、ベッドを使いたまえ」
美術書を繰りながら上の空で探偵は言った。
「僕はソファでいいから」
面白くない。
本当に面白くない。こんな依頼、早くケリをつけてとっとと終わりにすべきだ!
あなた・・・ができないなら――
あなた・・・にそうするつもりがないなら――
そうだ、僕・がやってやる……!
自分が何をすべきか既に決心を固めていたと言うのに。
丘の上の探偵社に泊まったその夜、志儀はなかなか寝つけなかった。
寝返りを打って反転すると窓辺に黒い影――ノアローだ。
黒猫は少年を見ていた。
「わかってるさ」
目が合った黒猫に人指し指を突き立てて志儀は言った。
「世の中には2種類の人間がいる。人を好きになると、優しくなる人間と、困らせてしまう人間。たとえばノアロー、おまえはそれだろ?」
かまって欲しくて、自分だけ見ていて欲しくて、我儘(わがまま)を言ったり残酷なことをする。
「ニャーオオ」
「否定したってダメさ! そして――」
あいつ・・・もさ。
鷲司薫子(わしつかさかおるこ)。
長い睫毛。潤んだ瞳。そっぽを向いてるくせにこっそり覗き見る熱い眼差し。薔薇色の頬。
でも、決して、優しい言葉は吐かない。口を突いて出るのは辛らつな憎まれ口だけ。
〝その人〟が――
〝大好きな人〟が受け止めてくれると知っているから。
困ったように眉間に皺を寄せて、でも何でも聞いてくれる……探偵、そのひと。
そうして、その優しさが自分でない誰かに向けられると我慢できず爪を立ててしまう。
『はっきりおっしゃったら? あなた、私のこと大っ嫌いでしよう? わかっててよ?』
今日ピアノを弾いたあの後、入って来た執事に呼ばれて興梠が席を外した際、薫子は志儀に言ったのだ。(だから、あのお茶の時間のできごと、その全てを話していないのは探偵だけではない。助手もまた報告の義務を怠った。)
二人だけになった自室で、優雅に紅茶を飲みながら子爵令嬢は言った。
『でもね、私も、あなたのことなんか、大―――ッ嫌い!』
『光栄だよ!』
志儀も負けてはいなかった。角砂糖を2個、乱暴に紅茶に放り込む。
『だけど、あんまりワガママを言うのはよせよ? 興梠さんが何でも聞いてくれると思って調子に乗るなよな。大体、君の気まぐれに付き合って、興梠さんがどんなに一生懸命〈絵〉を探し出そうとしているか知ってるのか? 君なんかのために、そりゃもうがんばってるんだから、あの人』
嫌味で言ったのに。少女の瞳が輝いた。
『それ、本当?』
ロイヤルコペンハーゲンのカップから顔を上げる。
『私のために? そんなに?』
『!』
その嬉しそうな顔が――
許せなかった。
後年、この時のことを思い出すたびに志儀の胸に悔恨の波が打ち寄せる。
もう少し大人で、気づくだけの余裕があったら良かったのに。
あの娘も僕も鏡を覗いていたんだ、と。
令嬢も僕も境目がなかった。
双子のように瓜二つだった。
寂しがりやの子供だったのさ。
大切な美しい玩具を取り合う喧嘩友達。
それがあの夏の僕たちだった――
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