神託のアヴァレーノン

Hetero (へてろ)

第1話 指輪の導き

 何時もながら、とてつもなく巨大な湖の畔にある小さな田舎町は、それは閑村とは言えない程の観光客で賑わっている。

 30人ほどの観光客を展望デッキに乗せた観光用魔導飛空挺はその小ぶりとは言えない図体を湖畔に円を重ねたように縦に連なる波止場の一番上に寄せて寄航姿勢をとっている。

 その多層構造の円形の寄航場から斜めにスロープを掛けたかのように町は広がっていて、湖のほかは丘陵地帯であるこの地域では遠目には町自体が城のように見える。 だが実際は小さな店舗兼住宅が犇きあっている、観光客目当ての田舎町のひとつに過ぎない。

 デッキでは上を見上げる観光客の手前、誰もこちらは見ていないのをいいことに鶯嬢がマニュアルを凝視しながらいつもの説明を始める。

「今から10000年前の魔導暦0年、偉大なる大魔導師アイネールは愚かなる争いを続ける人々を監視する為に、

 この地の大地を切り取り、遥か2キロ上空にあの広大な"月の大地"を創造しました。

 現代に至る全ての魔法の原初が彼の地によって産み出され、皆様の搭乗されているこの魔導飛空挺の飛行原理も彼の地によって編み出された魔法が根底となっており――」

 観光客は上を見上げたきり誰一人として必死にテキストに向かい合うガイドの方に向き直ることはない。

 それも当然、彼らはこの光景を見るために世界各地からこのフォートハイゲンを訪れるのだから。

 直径20キロはあるこのムーンレイクは世界最大の魔導産物であり、その湖畔には世界首都であるアイネリアも構えている。

 東の世界首都アイネリアから湖を隔てて西の反対側に在るのがこのフォートハイゲンであり、湖自体は人工物であることをこれ見よがしとする為もあってか正円を描いている為その淵には山間部もあれば谷もあり、

 たまたま10000年の昔からの丘陵地帯であるフォートハイゲンは格好の観光スポットとなっている。

「ねぇパパあれすごいね! 逆さまのお城だよ!!」

 観光挺のデッキに備え付けられた5分100クートの双眼鏡を覗き込みながら興奮を隠し切れず、男の子はガイドの説明が続いているのも無視して歓声を上げる。

 観光客が見上げるその先の"月の大地"は当然のことながら上空に存在している為こちらからは裏側しか見えないのだが、

 その裏側にはムーンパレスと呼ばれる古の魔術を結集したクリスタルで出来た白銀に輝く城があるのだ。遠めに見えるそれは確かに他を圧倒する構造物であった。世界首都アイネリアにも城は存在するがその巨大さと、日中にしか見えないもう一つの役割によって明らかに想像を絶する光景が空に存在しているのだ。

「――現在お昼の14時です、本来この時間湖の西側にあるフォートハイゲンは"月の大地"の影に入ってしまい真っ暗なはずですが、かのアイネール様の魔術により、ムーンパレスは上空の日光を透過するように造られており、"月の大地"の下にあってもこのように日が隠れることは無いのです。」

 上空に存在しているムーンパレスは日を透過していて確かにそこにあることは解るのだが更に半透明に光り輝いている。

 まるでガラスの城が空に浮いているように見えることから付いた別名はグラングラスパレスだ。

 遊覧を終え帰港した観光挺は、フォートハイゲンの1番波止場に止まり、観光客たちは街の散策に向かう。

 その大通りの賑わいを他所に、路地を少し奥に入り湖に向いた小屋にソフィアは住んでいた。

「あー、もう、今日はまた一段と五月蝿いなー!絵がちっとも描けないっ!」

 観光客の喧騒に苛々が最高潮に達し、すらと腰裏まで延びた黒髪を掻き揚げると絵筆を絵の具色が散乱している床に叩き付ける。

 長い睫に紫色の瞳、細身で小柄、絵の具だらけの前掛けをした格好は流石に綺麗とは言えないが、顔立ちにはどこか高貴さえある美しさがある美少女だった。しかし、この世界で彼女を少女と捉えるものは居なかった。

 と、すぐに長屋の隣室の住人が棒かなにかで壁をドン、ドンと叩く。

 びくりと肩を竦ませたソフィアは音を立てないように絵筆を拾い上げ、その壁際に近づき、深々と頭を下げた。

「ご、ごめんなさい。」

 湖面を照らす光が窓から差し込んでいる部屋は隣家側の壁際などほとんど暗闇に近いが、その中でその闇に消え入りそうな声で謝罪した。

「し、静かにしますから……」

 ほとんど聞こえない声でそういうソフィアは今にも泣きそうな顔で、両の手をぎゅっと握り締めている。

 壁の向こうから甲高い老婆の声が聞こえる。

『これだから化けもんはいやだよぅ!』

 化けもんと言われたところでもう立っては居られず、床につっぷして額を床に押し当て、少し震えていた。

 ソフィアは"持たざる者"であった。この世界において魔力の欠損は人格の欠損より遥かに重大であり、産まれながらに魔力を一切持たない"持たざる者"としての烙印を教会により与えられたソフィアには居場所が無かった。

 持たざる者は人口約1億人に1人という割合で存在し、その特徴としては魔力が無いだけは無く、更に身体的な欠落または異常がある場合が多く報告されていた。

 ソフィアもそれに準じ、両性偶有という奇異な体質をしていた為、周囲や親からは化け物扱いされ続け、両親は数年前にソフィアを残し自殺した。

 それでもソフィアが今日まで生きてこられたのは、教会の司祭でこの町の魔法学の教師をしている変わり者のアレクサンドロス師に絵の才能を見出されたからだ。

 日銭も稼げるし、絵に没頭している時間は自らの体のことや、周囲のことなど一切気にせず居られるから、ソフィアは耐えられた。

 しかし、過去のしがらみは断ち切れるものではなく、それに気づいては体を震わせる生活を送り続けているのも事実である。

「う……うっ……」

 頬を伝って泪が落ちる、床の青い生渇きの絵の具の上に落ちた泪は窓から入る湖面の光で一瞬薄い青い膜を張り、すぐに乾いて固まった。

「う……」

 今度は別の痛みが腹部をのたうった。これが自身を自覚する一番いやな瞬間でもあった。

 女性ならではの月の物の始まりを示すサイン。自らの性すら定かではないことを自覚させるいやな時間。

 便所に駆け込みうずくまり、自らの奇異の象徴である下半身に目をやると、吐き気を催し泪さえ出なくなる……

 どうして私だけこんな……

 誰も居なくなった部屋に掲げられた縦1メートル、横2メートルもある巨大な画板には、描きかけのソフィアの家から眺めたムーンレイクと遥か上空の月の大地までが描かれた美しい風景画が描かれていた。


 その夜、ソフィアは夢を見た。

 普段はなるべく外出しないように心がけているのに、

 珍しく外に行くときの服装をしていた、誰か大切な人を追っていた、

 気が付くとムーンレイクの湖畔の、見知った砂浜に立っていた。

 すると遥か天空のムーンパレスから一筋の光の筋が自らの足元に落ちる

 光の先には何かが輝いている。

 砂を掬ってそれを取ろうとするのだが掬い上げることは出来ない。

 ふと人の気配を感じ振り返ると、

 白い魔導着を着た美しい少女がこちらを見つめて立ち尽くしていた。

 少女は胸に手を当ててなにやら叫んでいるが、その声は全く聞こえない。

 どうしたの?

 なにを無くしたの?

 私に、何をしてほしいの?

 問いかけるが、彼女は首を横に振るう。

 そして小さくすっと息を吸う音の後

 辺りの風景が吹き飛び、真っ白の空間に少女と自分だけになる。

 少女は語り始めた。

「助けて欲しいの。あなたの現実を。」

 え?

「助けて欲しいの。私の夢を。」

 次の瞬間強い光を感じ目を覚ますと、

 壁に掛けられた鏡が日の光を反射して彼女の顔を照らしていた。

 ただの夢だったのに妙な感触を覚え、鼓動が早くなる。

 胸に手を当てるとその膨らんだ乳房に違和感を覚えつつもそれ以上に先の少女の言葉が脳裏にこだました。

 わたしの現実? あの子の夢? 私が、助ける?

 寝ぼけているだけだ、と床から這い出し、窓を開け放ち、洗面所へ向かう。

 バシャバシャと顔を洗い、左隅に割れた跡がある鏡にうつる自身の顔を覗く

今日は女の顔だった。

 体の臭いも女のそれだ。

 しかしなぜか、今日はそれが嫌には感じなかった。

 ふと夢でみた砂浜の情景が脳裏に蘇り、無性にそこに行きたいと思った。

 何故そんな気持ちに駆られたのかは解らないが、行かねばならないと思ったのだ。

「行かなくちゃ……」

 思えば外出するのは絵の具の買いだしか師のところへ行くときくらいで、

 その時の為の服も、夢に出てきた外出用の一張羅一着っきりなかった。

 あたりまえか。

 そう思いつつも女性の服装であるそれに袖を通すのは余り気が進まない。

 ゆったりとはしているものの、体のラインは出てしまうし、

 町の者が見たらまた化け物と思われてしまうのは当然だと……

 暗い思いしかめぐらないがそれしか着るものは無く、裸で出たらもっと酷い。

 いつもの格好で町を出歩けば乞食にしか見えない。悔しいがそれしかないのだと言い聞かせその格好になり町に出た。

 なるべく人通りの少ないとおりを選び。

 観光客には女にしか見えないであろう振る舞いを意識し、なんとか町外れの下りの石階段まで来た時だった。

「珍しいな、ソフィアじゃないか」

 心臓が飛び上がる思い、

 実際にちょっと飛び上がってしまいつつ声のほうを向く。

「え、エルネか。驚かさないでよ!」

 丁度町外れの造船所から出てきて声を掛けて来たのは飛空挺乗りのエルネだった。

 彼は私と同い年の18でいっぱしの飛空挺の艇長であり、この町では比較的有名人であるため、

 できれば避けたい相手だ。が、どういうわけか、彼だけは私のことを化け物扱いしなかった。

 普通に接し、普通に触れてくれる。私も彼のことは特別嫌いではなかった。

「なに、造船所に用事があってな、ってかこんな朝っぱらから出歩くなんて、神父様の用事かなにかか?」

 手にした子袋をなにやらまさぐりつつ話しかけてくる栗色の髪をした私よりちょっと、いや結構上背の高いこの男の子は、

 町中が化け物扱いしている私の前でも全く普通の友達に話しかけるような口ぶりでいる。どうして平気なんだろうか。

 まじ、と彼の黒い瞳を覗き込んでしまった。

「ん?これか、お前も朝飯食ってなさそうだし、やるわ、ほれっ」

 彼がいつも朝飯にしている硬い小麦パンだ。

 湖畔の町は朝霧が出ており、彼の抱えているパンからも湯気が出ているところを見るとまだできたてのようだ。

「わ、あ、ありがとう」

 あわてて受け取ったので受け取った動作が女っぽくなってしまったかも知れないと思い、少し動揺する。

「ううん、神父様の用事じゃないよ。ちょっと、散歩」

 ふーんと頷きつつパンを咥えて、二歩後をついてくる……

「ついてくる気?」

 問うととたんにぶーたれた顔になり。

「ん、一緒に散歩しちゃまずいか?」

 意外な返事に戸惑う。

「だって、私なんかと一緒にいたら皆に怪しまれるよ?」

 パンを飲み下すのに一緒に袋に入っていた果物をかじってから、ずいっと一歩近づいてきた。

「私なんかとは心外だな? ソフィアはソフィアだろ?」

 といいつつ洋梨と思われる果物をもうひとつ袋から取り出してこちらによこす。

「むぅ。ありがと。私と付き合うから変な噂立てられてるんでしょ? 実際」

 右手にパン、左手に梨を受け取りつつ聞き返す。

「うーん、噂は立てられても船は落ちたこと無いし、落とすつもりもないしなぁ」

 飛空挺乗りを貶める為の噂の種と言えば、船が落ちるが代名詞だが、彼の場合は腕は確かなのでそれは在りえないらしい。

「それに、俺が仲良くしなかったらお前友達いなくなっちゃうじゃん?」

 にこりと微笑んで話しかけて来てくれるのはお世辞抜きで嬉しいが、こんな事を他人が聞いていたらと思うと心臓が持たない。

「ちょ、ちょっと。」

 辺りをつい窺ってしまうが、造船地域の下り階段を抜けたそこはもう浜辺へ向かう一本道で、朝の6時では野良犬とウミネコくらいしか辺りを動く影はなかった。

「気にしすぎだよ。ソフィアさ、お前こないだその格好で出歩いてたときに、

 うちの船のお客さんで見かけた人が居たらしいんだけど、そのお客さんなんて言ってたと思う?」

 外部から来る観光客でも常連の人になるとこの町の人とそれ以外の人との区別がどうしても付いてしまうらしく常々そういう人の目には留まらないように生活しているつもりだが、やはり見られてしまうことはあるようだ。

「――この格好で?」

 地域に伝わる民族衣装を今風にアレンジした服装なのだが、これは亡き母のお下がりに過ぎない。

 烙印が二の腕の裏に押されている為それを隠す為、長い丈の青い上着に茶色のズボン、それに民族文様の入った腰巻をスカートのようにまとってあるだけの格好だ。

 したからまじまじと見られると恥ずかしいが、エルネには別段恐怖心は感じない。

「うーん」

 こちらが答えられなくなるのを楽しんでいる様だ。意地悪な奴。

「はは、普通にさ、かわいいお嬢さんって言ってたぜ?」

 外からの評価を付けられたのは久々で一瞬驚いてしまった後に、

 ひょっとしてエルネがフォローのために言ってくれてるのではないかと勘ぐってしまって、

「もう、からかわないでよ」

 と言い放ち浜への道を進む。

「おい、待てよ、嘘じゃないって。だから俺の友達なんっすよ。って言えて嬉しかったって話なんだからさ」

 年齢に合わない飛空挺乗り特有のごつい手が私の手首を掴む。けれどこんな話をされてどんな顔をしたらいいのかなんて解らない。

 ――嬉しいのだけど。

「ありがとうー! ふんっ」

 無理やり言ってのけると彼は手首を離した。

「あ、ごめん。ちぇっ、素直じゃねぇなー」

 このごめんは一瞬なんのことか解らなかったが、思わず手を掴んでしまったことかと後で気づいた。

 彼は私が他人に不用意に体に触れられるのを恐れていることも知っているんだ。

 尻切れトンボになった会話はそれで終わり、けれどエルネは帰る様子はなかった。

「どこまで着いてくるの?」

「邪魔か?」

「そうじゃないけど……」

 朝の湖の浜辺に着いた。この時間は人っ子一人いないし、不思議な霧が漂っているだけで辺りはしんと静まり返っている。

 今朝の夢の場所だ。夢で追いかけてた大切な人は彼だったのだろうか?

「んーーー、いい空気だな~」

 ちらっと彼の方を見やるとさっきのことを気にしているのか目を逸らされた。

「あ……」

 ふと夢でみた光の筋のあった場所に目を投じた時だった。

 この砂浜は国立公園であるからごみなど捨ててはならず、まっさらな砂だけがあるはずなのだが、そこにはキラリと輝く何かが落ちている。

 衝動に駆られそれに駆け寄ると、エルネも気づいたらしくそれに目を向けた。

「指輪、みたい」

 手に取ろうとそれに指が触れた瞬間だった。

 辺りの風景も、エルネも遠く消え去り、今朝の夢と同じ真っ白な空間が目の前に広がり今まで湖があった手前に今朝の夢の通り少女が立っていた。

「貴女、来てくれたんだ。ありがとう」

 これは夢の続き?

「夢じゃないよ、指輪に魔法を掛けておいたの。貴女に届くように」

 え? 私は"持たざる者"なのよ? 魔法は効かないんじゃ……散漫する意識の中なぜかそんなことが思い浮かぶ。

「時間がないの。どうか、助けてください」

 どういうことなの?

 少女は上を向き"月の大地"を指差した。

「あそこで待ってます。お願い。貴女にしか頼めない」

 全てが光に包まれ、その光は彼女の指先の指輪に収束して消えた。

「なに、今の?」

 手に取った指輪は複雑な文様が折り重なっているが特になんの変哲も無い様に見える。

「助けてだって?」

 隣にいたエルネが不意に口を開き愕然とする。

「エルネにも聞こえたの?」

 指輪を握り締めて問う。

「ああ。これはかなり高位の思惟伝達魔法だ。」

 彼は飛空挺乗りの他に"変え得る者"としての資質を持っていた。魔導には詳しいはずだが、

「でもどうして? 私は"持たざる者"なのにさっきの子の声が聞こえた。」

 エルネは首をかしげて指輪を眺めている。

「俺にも解らないな。で、こういうときはあの人に相談するしかないだろ?」

「先生のところに」

「当然、俺も行っていいだろ? なんか面白いことになりそうだしな」

 あの少女のあの瞳にこもった力は尋常じゃないものを帯びていた。

 何か悪いことが無ければいいけれど、とソフィアは思った。


 一歩、教会へ続く長い石階段を登るため、足を踏み出した時、突然ふらりとめまいがした。

 下腹部に独特の痛みがのたうつのを感じた。生理による貧血だ。

「おっと」

 隣を歩き一段目の階段で躓きかけたソフィアの腰をやさしく倒れないようにエルネが抱く。

「大丈夫か? 魔法やけとかじゃないのか?」

 魔法やけとは強大な魔力に器を越えてさらされた時に魔導師が起こす病のような症状だ、自分は魔力にさらされることなど一度たりともなかったのだから先の現象の効果によりもしかしたらそうなのかもしれないという思いも沸いたが、

 この身体を考える限りその可能性は低いようだ、

 腰に回されたエルネの腕を無遠慮に解き。

「だ……大丈夫、……ただの生理だから……」

 後のほうは聞き取れないくらい小さい声になっていたに違いないが、

 朝の街の静けさではエルネに届いてしまっただろうか。

「そうか、それなら無理するなよ。朝、さっき俺のやったパンと梨だけだったんだろ?」

 エルネは手を解かれたことを気に留める様子もなく心配顔で覗き込んでくる。

「うん、でも、大丈夫。だよっ」

 一歩、一歩、大丈夫なふりをして石階段を登るのだが動悸を感じる。

 見かねたエルネが無理やり腕をとって先に上り負ぶさる形で私を抱えてくれた。

「無理すんなっての。鉄分とか、ミルクとか全然摂ってないんだろ?

 教会に行く石段、落ちたら結構痛いしさ、ふらふらじゃあぶなっかしくってみてらんねぇよ」

 エルネは過去にこの石階段の上のほうから落ちたことがある。

 頭にたんこぶをいくつかつくっただけですんだのは無意識で防御魔法を展開したからに違いないのだが、必要以上にこの階段を恐れているので一緒に登るときはこういう事も覚悟しておかなければいけなかったのだが、

 急に負ぶされてしまっては恥ずかしい。

「ちょ、ちょっと、降ろして! 誰かに見られたらどうするのっ?!」

 エルネの親切心には普段から甘え気味なのだが、

 流石にこの体勢でいるところをエルネの知人に見られたらと考えるとぞっとする。

「それに、私抱えてたら、エルネ、魔法使えないじゃない、落ちたらどうするの?」

 貧血で運動したことで息があがっているのだがそれ以上に胸が高鳴っているのは気のせいではない、”持たざるもの”である私に接触している状態ではエルネは魔力を行使することができないのである。

「落ちない! お前が暴れなければ! まぁ落ちてもまだ15段くらいだから痛いだけだろ?」

「そういう問題じゃない!」

「怒るなよ、ちゃんと掴まってろ。んー、言うまいとはおもうんだけど、おまえまた軽くなってないか?」

 彼は背中でじたばたする私を気にもせず、抱きしめる手に力をいれて、

 ずんずん坂を登って行く、ぶしつけに話題を変えようとそんなことを聴いてきたに違いないのだが。

 今日は女の私はその質問には答えたくなかった。

「な、なにいいだすの?」

「ちゃんと食えって言ってるの、生理だったら尚更。元から無頓着なのにー」

「だって、お金が……」

 絵に買い手が付けばある程度のまとまった収入にはなるのだが、

 今はちょっと毎夜夢に出てくる光景を売り物ではない絵として描いているので

身を削っているのが実情だった。

「お金か……俺もないけどな……。でもそうだよな、ソフィアは外に買い物とかも行きにくいのか」

 なにやら考えるそぶりで頭を傾げているが、負ぶさっているので彼の表情は読めない。

「買い物とかしてやろうか?」

 ちょっとだけ振り返るそぶりを見せてそう提案してくる。

「え、いいよ、迷惑でしょ?」

 彼に目線を合わせられるよう顔を上から覗き込む。

 眼が合ったとき互いに気恥ずかしさを少し感じすぐ目線をはずしてしまう。

「おれの買い物のついでとかでよければ……だけどな……」

「うーん、迷惑じゃ……なければ……でもやっぱりいい」

 彼の背中は居心地がいい。普段は他人の肌なんて嫌いなはずなのに、触れている部分から伝わる熱も、彼の言葉も、遠まわしだけど私のことを心配してくれているのが伝わる。

 甘えたいのだが甘え方を知らないのでどうしてか気持ちを伝える言葉が下手だ。

「うん、解った。」

 そういうと彼は両の脚を抱える手にちょっと力を入れなおした。

 落ちないように、彼が落ちないようにしなければと肩にかけていた手を彼を後ろから抱く形で首の前でつなぐように持ち替える。

 胸が必然的に彼の背中についてしまう。

 女の私の胸がついてしまうのは、男性である彼にとっては、どうなのだろうか。

 でも彼の背中は温かい。

「そ、ソフィア?大丈夫か?」

 急にしがみついたから驚いたようだ。

「うん、エルネが落ちないようにと思って。ごめんね重いのに」

「あ、いや」

 気づけば、長い石階段の真ん中より上まで来ている、

 ここくらいの高さになるとムーンレイクに面して開けている街並が朝焼けと朝靄の

照らし出す斜面に浮かぶ美しいフォートハイゲンの朝の光景が見えるようになっていた。

 彼の後頭部に私も頭をもたげて横目にその光景を眺めている。

 淡々と同じペースでエルネは段を登っていく。

 最上段に着いた時には月の大地に太陽が掛かりだし、今はグラングラスパレスを通して違う光に切り替わる最中で、光と影がきれいに町並みを映し出していく光景が見えた、彼は私を最上段に降ろすのに後ろを向いて階段に腰掛けるように座った。

「――ありがとう。エルネ」

 思わず彼の栗色の髪を梳くように頭を撫でてしまった。

「ん……なんだよ照れるな……」

 向き直って立ち上がれば一段したの段に居るのに私と同じかちょっと背がそれでも

高いので手は届かない、少しだけ手てもちぶさたに引っ込めた手を隠すところがなくて胸の前で抑えてしまった。

「エルネは、私に優しすぎるよ。気をつけた方が……いいと……おもう」

 何の気なしに言ったのに胸の鼓動が速くなるのを自覚してしまう。

「ソフィアは普通にしてれば普通に女の子じゃんか。そんなに気にするなよ」

 私は女ではない……女であってはいけない。

「……でもっ!」

 言おうとしたところで胸の前の手をやさしく彼の手で取られる。

「持たざる者でもソフィアはソフィアなんだけどなぁ」

 いつも彼はこう言って差別しない。むしろ差別とかを気にしたり、

 魔力が一時的に使えなくなってしまうリスクすら気にも留めない。

 何故なのだろうと思うとこの答えを返してくる。

 私は私。両親が亡くなったときも、

 身体を呪い精神を病んでいく私をつなぎとめてくれたのは彼のこの言葉であった。

 そのまま手をつないで彼は階段の最後の段の上にあがり、

 振り返って朝霧の間から臨むフォートハイゲンの街並みを見渡して大きく伸びをする。

「はー、やっぱここは気持ちいいな! ん、調子悪いのもあるんだろうけどそんなにへこむなよな?」

 静かな朝の街をムーンレイクからの心地よい風が吹き抜ける。

 東の湖面の果てにそびえる世界首都アイネリアの高層都市や、王城の隙間から赤い朝日が昇ってくる。

 湖面の霧は徐々に晴れてゆき、月の大地も朝日に照らされ荘厳な風景が広がっていく。

 ソフィアはそんな景色をみつつも下腹部の違和感がぬぐえず、更には自身の感情の起伏がコントロールできてないことも自覚する。

 この時にありがちな衝動だった。

 彼はそれも解ってくれているらしかった。

 ぎゅっと彼の手に力がこもる。暖かい力。

 朝日をみつめ深呼吸している彼の横顔はいつにも増してやさしく見えた。

「うん……」

 彼の手元を見てから私がなんとか搾り出せたのはそれだけだった。

「さていこか」

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