短編小説 留

彼女は昼休みになると教室から姿を消す。いつもはしっかりと机にしまう椅子も押し出されたままにしてさっと教室からいなくなる。僕が「日常間違い探しゲーム」なんかを始めなけりゃいつまでも気づかないままだったかもしれない。

ある昼、僕は音楽の授業でカッコつけるためにギターの練習をしようと思って音楽室へ向かった。音楽室のある棟に入って階段を登ろうと踊り場に出た時にピアノの音が聞こえてきた。僕と同じ考えで誰か来てて、できるとこでも見せつけているんだろうなと思って、自分が何も弾けないことが急に恥ずかしくなって駆け足気味だったのを遅めた。

音楽室へ入るとそこにいたのはお昼にいないあの子だけだった。へえ、ここにいたのかと思って納得しながらギターを練習した。流れていた音楽はエリーゼのためにだった。

自分の疑問に自分で答えを出せたことが心地よくて、一時の思いつきだったギター練習にその日から毎日行った。毎日彼女はピアノを弾いていた。

「君、その曲しか弾かないね」そう聞いたのは3日目のことだった。彼女は手を止めて、こっちを向かないまま独り言みたいに「好き、なの……」と言った。それだけのために毎日ここに来るなんて変だなあと思った。なんだか悪いことを聞いたみたいで、僕がバカみたいだったから聞こえないふりしてギターを弾いた。

やっぱり彼女はいつまでたってもその曲ばかり弾いていた。もう二週間はやっていた。

「好きなんだね」二週間越しに応えた。僕が応えなかったことを覚えているかわからないけど。

「うん」彼女は答えた

僕は無視したのに、答えてくれるなんて優しいなと思った。

それで終わればよかったんだけど、泣き始めてしまった。

「君、どんどんうまくなるね」泣きながら、やっぱり僕を見ずに言った。

「そう? ありがとう。継続は力なりってやつ」

「私、この曲好きって言ったの嘘なの」彼女は鼻をすする。

「これしか弾けないの、なのに毎日弾いちゃう。うまくなるまで……うまくなれないの。ごめんおかしな事言っちゃった」

他の曲弾けばいいじゃんって思ったけど、そんな事分かってるに決まってる。

「継続は力なりだよね? 」

「うん、でもうまいしもういいんじゃない? 他の曲したらいいじゃん」言わないつもりだったけど言ってしまった。

「あなたは弾けるの? 」

「いや」

「だめなの」声を震わせて笑っているようだった。

「ここにいると時間が止まったみたい」小さくそう呟いて彼女は鍵盤をじっと見つめていた。

その日はもう彼女はピアノを弾かなかった。

その日からもう彼女は音楽室に行かなくなった。

お昼に教室にいることで、人と話す機会が増えたのか彼女についての話を耳にすることがあった。母親がピアノを教える先生で、大好きだったこと。お母さんはピアノに厳しかったこと。お母さんはもういないこと。

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