彼女に片思い

ねね

第1話

―――ぽつぽつと、雨音が聞こえる。


今日も午後から雨が降り始めた。


蒸し暑い教室の中、僕は、授業もろくに聞かずに、外ばかりを見つめていた。


時折、意識せずとも視界に入ってくるのは、斜め前の席に座っている佐々木春奈。


身長が低くて、髪が長い。


どちらかというと真面目系で、でもとても明るい可愛い子だ。


つまり、そう、それ。






僕は、彼女に片思いをしている。






言っておくけど、告白する気はない。


というか、考えられない。


ボクが彼女に告白するなんて、天と地がひっくり返っても、ありそうにない話だ。


「山本ぉ!」


先生の声に、反応して立ち上がった。


まだ若い英語の教師は、1つ小さなため息をついて、腰に手を当てた。


「ぼーっとしている暇があったら、少しは勉強しろよ?」


その通りだった。


ただいま、高校1年生。


入学してから数ヶ月がたったが、未だに勉強というものがよくわからない。


テストの点も相変わらず悪く、僕が高校に入学できたこと自体が、奇跡と思えてならない。


とりあえず適当に返事をして、また外を眺めた。


いつの間にか、外は大雨になっていた。


ざあざあという音が心地よい。


僕は雨が好きなんだと思う。


じめじめしているのは嫌だ。


でも、雨は好きなんだと思う。


この雨音のリズムが好きなんだと思う。






どれだけ雨を眺めていたのだろう。


僕は、中学からの友人である笠原翔哉に声をかけられ、我に返った。


―――気づけば、授業は終わっていた。


昼食の時間だ。


「光一! 授業終わったぜ」


山本光一。


それが、僕の名前。


ありきたりな名前だけど、別に嫌っているワケでもない。


気に入っているワケでもない。


結局、どうでもいいのかもしれない。


「雨ばっかで嫌になるよなぁ……」


翔哉が漏らす。


僕は、それに対して


「そうかぁ?」


と答える。


さっきも言ったが、正直、雨は嫌じゃない。


さらに続けて、


「お前って、いつも、ぼーっとしてるよな?」


と、言われた。


確かに、僕はぼーっとしている。


簡単に言うならば、間が抜けているのだろう。


「そうかぁ?」


でも、適当に答えた。


翔哉は小さく笑って、


「なんか最近、雨のせいでテンションが下がってんだよな」


と言いながら、ご飯をほおばった。


朝から、思い切り騒いでいて廊下に立たされたのは、どこのどいつだよ、と心の中で思ったが、口には出さなかった。






昼の休憩時間も、たいして何かをするワケでもなく、翔哉とくだらない話をしながら過ごした。


考えてみれば、ボクは学校に勉強をしにきているのではない。


こんな風に、友だちと話をしにきているんだ。


まぁ、それはそれでいいか、と思うが、さすがにそれでは何のために受験をしたのか、よく分からない。


勉強する気がないのなら、働くべきなのかもな、と思うこともある。






そのまま午後の授業も、無意味に過ごしたボクは、部活動に行く翔哉と別れて、いつもの帰り道を歩いていた。


傘はない。


もともと持ってくる気はなかった。


濡れても別に構わないし、風邪を引けば、それはそれでラッキーだった。


そんな風に、若干浮かれ気味だった僕は、ふと前を見て、体が一気に固まるのを感じた。






―――春奈だった。






ビニール傘をさして、1人で歩いている春奈だった。


とりあえず驚いた。


ちょっとの間、身動きが取れなかったが、すぐに僕は小走りで、彼女の後ろ姿を追いかけだした。


別に理由があったわけじゃない。


無意識のうちに体が動き出していた。


ここで、追いかけなきゃ、ここで、言わなきゃ……。


そんなところなんだろう。


雨は激しく降っており、僕の足音が、水たまりを踏んで大きな音を立てても、全く気づかれない。


……声は出なかった。


大声をあげれば呼び止められたかもしれない。


でも、声が出なかった。


喉のどこかで引っかかっているみたいだ。


だから、ボクは追いかけた。


追いかけたけど追いつかない。


その繰り返しがしばらく続いた。











「―――ちょっと待って!」


出た。


やっと声が出た。


声が出たという表現では足りない。


……僕は叫んでいた。


引っかかっていた声が、一気に飛び出したようだ。


彼女は、それでやっと僕の存在に気づいた。


とても驚いているらしかった。


彼女の顔を見ると、途端に頭の中が真っ白になった。


これから言うべき言葉が出てこなかった。


また、声がどこかで抑え付けられているような、そんなもどかしさと格闘することになった。


心臓が口から飛び出そうだった。


それでも、呼び止めたのは僕だ。


何か、


何か言わないと―――。


「あの…、えっと、何て言ったらいいかとか、よく分かんないんだけど……」


無理やりに声を搾り出したが、なんだか僕が言っているのではないような、そんな不思議な感じがした。






「僕は、あなたのことが……、好き、みたいです」






雨音にかき消されながら、それでも彼女に伝わるように、僕はできるだけ、大きく、けれど小さく、言った。


彼女は僕の言葉を聞き終えて、さらに驚きを増した表情になった。


その顔を見て、僕は、その場にいることが耐え切れなくなって、返事も聞かずに逃げ出した。


彼女が僕を呼び止めたような気がしたが、足を止める度胸はなく、ただ全速力で走った……。


雨は、ますます強くなった。


僕の心にも、その冷たさが、ひしひしと伝わってくるようだった。


それにしても、早く家に帰らないと、風邪を引いてしまいそうだった。






家に帰って、風呂に入り、気持ちを落ち着かせてみると、後悔の念にとらわれた。


なんで、あのタイミングで告白したのだろう……。


あのときの僕は、本当の僕じゃなかったのかもしれない。


だって、僕が彼女に告白するなんて、ありえない話のはずだったのに……。


頭の中が、ごちゃごちゃで、もともと整理整頓が苦手な僕にとっては、綺麗に片付けることは不可能だった。


風呂から出て、翔哉にメールをした。


誰かの助けが必要だった。


「んで、返事はいつ聞くわけ?」


確かに……。


先ほどから後悔してばかりだが、加えて、返事を聞かなかったことまで、後悔し始めた。


なんか、今日はダメ日だ。


僕は、思いっきりテンションを下げたまま、


「わかんねぇ」


と、翔哉に返した。


翔哉の返事を待ちながら、僕はベッドに寝転がった。


そして、そのまま、眠ってしまった―――。






翌日。


まだ小雨が降っていた。


地面は昨日の雨のせいで、水たまりだらけ。


あまり学校に行きたい気分ではなかった。


好きなはずの雨も、なんだか僕に呆れているみたいで、ちょっと苛立った。


学校に行こうと、家を出ると、また雨が強くなっていた。


「しかたない……」


今日は、傘を持っていくことにした。


さすがに、雨でぬれたまま授業を受けるつもりはなかった。






―――登校中。


僕は、足を止めることになった。


春奈の背中があった。


困った。


僕は、彼女を追い越さないように、ゆっくりと歩いた。


そんな風に、神経を尖らせていたからだろうか、不意に後ろから肩を叩かれた程度のことで、僕の心臓は思い切り飛び跳ねた。


「おっす」


翔哉だった。


僕は、一つ大きな息を吐くと、


「おはよう」


と言った。


ひきつった笑顔だったみたいだ。


翔哉は、からかうように、


「何びびってんだよ。今、聞きに行けよ」


翔哉は、春奈のほうに目を向けた。


「本当に無理」


そう言ってから、僕も春奈の背中を見つめた。






学校に着くころには、また雨が弱まった。


さっきは、呆れ顔だった雨も、今度は僕をなぐさめてくれているようだった。


やっぱり、僕は雨が好きだ。


そんなことを考えて、少し夢見心地な気分になったけれど、教室に入ると、すぐさま現実が飛び込んできた。


春奈の席は、斜め前。


何もしなくても、昨日のことが頭に浮かぶ。


僕は机の上にうつぶせて、そのままチャイムがなるまで、顔を上げなかった。






僕の激動の想いとは裏腹に、いつもの1日が過ぎていった。


相変わらず、僕は授業を聞いてなかったし、外では雨が降り続いていた。


結局、彼女とは目を合わせることもできなかった。


人生で、1番疲れた1日だった。


「お疲れさま」


授業が終わり、春奈が教室を出て行ったのを見届けてから、翔哉が声をかけてきた。


僕の顔には、はっきりと“今日は本当に疲れました”と書かれていたように思う。


「さて、どうする?」


翔哉が訊ねた。


僕は「何を?」と言おうとして、ぎりぎりのところで食い止めた。


告白の返事の話に決まっている。


「まぁ、今日はいいんじゃないの?」


僕は、荷物をまとめながら言った。


翔哉は、不服そうな顔をして、


「早いほうがいいんじゃないの?」


僕の言い方を真似て言った。


早いも遅いもなかった。


僕としては、もう、そのことについては忘れていたかった。


それに、返事がどちらであっても、その先の僕を想像することはできなかった。


「まっ、気長に待つよ」


僕は、一言、そう言い残して、教室を出て行った。


「いつもみたいにぼーっとしてると、返事を聞き逃―――」


翔哉が言ったが、僕の耳には、最後まで届かなかった。






雨は、いつの間にか、止んでいた。






―――僕が告白してから、数日が経過した。


春奈からの返事はなかったが、僕の緊張は、だんだんと積み重なっていっていたように思う。


返事がないのは、それはそれで、結構な苦痛だなぁ、とか考えていた。


春奈は、何事もなかったかのように振舞うので、僕は僕で、あの日のことは、実は夢だったのではないか、と考えてしまう。


まぁ、落ち着いてみると、僕が彼女に告白したなんて、それこそ文字通り、夢のような話だ。


いや、夢のような、じゃない。


夢なんだ。


僕が彼女に告白したのは夢で、僕は、その錯覚に陥っているんだ。


「……あっ」


授業中にも関わらず、いつものように先生の話を聞かずに、別のことで頭をいっぱいにしていた僕は、窓の外を見て、思わず声を洩らした。


「どうした?」


先生が訊ねる。僕は、


「いいえ」


とだけ答えて、外から目を逸らした。


あれから降っていなかった雨が、また降り始めたのだ。


久しぶりの雨だった。


軽快なリズムに耳を傾けていると、なんだか眠くなった。


あぁ、やっぱり、あれは夢だったかもなぁ……。


と考えたところで、僕の思考は止まった。







「こら、山本!」


耳元で大きな声がした。


僕は体を震わせて立ち上がり、


「すいません」


と叫ぶようにして言った。


……隣にいたのは、笑いをこらえきれずに吹き出した、翔哉だった。


「なんだ、お前かよ…」


僕は肩の力を抜いて、椅子に腰掛けた。


「寝てんじゃねーよ。もう、授業終わったぜ」


翔哉はそう言うと、部活道具を持って、さっさと教室を出て行った。


知らぬ間に、授業は終わっていた。


僕は大きな伸びを1つ、あくびを1つした。


荷物をまとめて教室を出る。


そういえば、春奈の姿は教室にあったっけ? 


―――それは、いまいち、思い出せなかった。







雨は、それほど強くなかった。


やはり傘を持ってきていない僕は、ポケットに手を入れたまま、多少かっこつけて歩いた。


ちょっと寒かった。


何個か角を曲がって、僕は家に向かって歩く。


だんだんと、人の数も少なくなってきた。


まぁ、部活をしていないボクが帰る時間は、いつも人の数は少なかったけど……。







不意に、雨を踏みつけるような音が聞こえた。


正確には、水を踏みつける靴の音。


誰かが走っているみたいだった。


雨は先ほどより強かった。


普通、傘を持っている人ならば、走ったりはしない。


だって、濡れるから。


でも、逆に、傘を持っていない人でも、走ったりはしない。


だって、歩いているときよりも濡れるから。


ということは、今、僕の後ろにいる人は、濡れるのが好きな人か、走ったほうが濡れることを知らない人か、もしくは―――







何か用事があって急いでいる人だった。









答えは、最後の人だった。


「山本君!」


振り返らなくてもわかる。


聞き覚えのある声だった。


僕が毎日、学校に聞きに行っていた声だった。


1番好きな、声だった。


振り返ると、そこには、傘を差していながらも、足元がびしょ濡れの、佐々木春奈が立っていた。


―――ここで確信した。


あれは、やっぱり、夢じゃなかった、と。


またも口が心臓から……おっと、心臓が口から飛び出そうだった。


どうやら思考もままならないくらいに緊張しているみたいだ。


もしも、こんなに緊張する夢があるなら、絶対に見たくない。


夢の中ってのは、もっと安らげるところのはずだ。


だから、これは夢じゃないんだ。


僕は、そんな風に、いろいろなことを考えすぎて錯乱していた。


でも、顔は、あくまで冷静を装っていた。


「な、何でしょうか?」


声は震えていた。


「……」


春奈が何かを言った。


声が小さすぎるのか、雨音が大きすぎるのか、彼女の声を聞き取ることができなかった。


僕は人差し指を立てて、もう1回言って、と合図をした。


彼女は、小さく頷くと、そっと僕に近づいた。


突然のことに、僕は驚いて、ちょっと身を引いてしまった。


「へっ?」


それで、間の抜けた声を出してしまった。


でも、彼女はそんなことお構いなしに、僕に傘をさしかけた。


先ほどまで、僕の耳に入ってきた雨音とは違う音が、僕の耳に飛び込んできた。


例えるなら、曲の旋律が変わったかのように、違う音が僕の耳に飛び込んできた。


彼女の小さい傘では、2人は入りきらず、結果的に彼女の背中が濡れることになった。


僕は、傘を手にとり、彼女が濡れないようにさしかけた。


僕は既にびしょ濡れだったので、傘は何の意味もなさなかった。


それに、僕らの身長の差を考えると、僕が持ったほうが良かった。


彼女が持つと、どうしても、精一杯手を伸ばさなくてはならず、きつい姿勢になりかねなかった。


彼女は、傘を持つ僕を見つめて、見上げて、とても、本当にとても小さい声で言った。


それは、まるで耳元でささやかれたかのような、か細い声だった。







こんなに近くでも、聞き取れないかと思った。







でも、なぜか、そのときだけは、僕らの周りは、静かだった。


彼女の声だけが、僕の耳に飛び込んできた。


大好きだった雨唄でさえ、僕の耳には入ってこなかった。







「…好きです」







―――それだけ。


彼女が言ったのはそれだけだった。


僕の体のどこかで、それは響き渡り、何度も何度も、僕の耳を刺激した。


一瞬ためらったが、なんだか無性にそうしたくなって、彼女をそのまま抱き締めた。


僕の体は冷え切っていたが、彼女は暖かかった。


傘が、地面に落ちた。


と同時に、先ほどまで消えていた雨唄が流れ込んできた。


素晴らしい唄が奏でられた。











―――あのとき、雨は、僕たちを祝福してくれていた。















楽しかった。


何もかもが楽しかった。


彼女と過ごした日々は、僕の時間のなかで、かけがえのない時間だった。


いつまでも、このままでいたかった。


誰もが願う、その気持ち。


そして、叶わぬその気持ち……。






楽しかった。


そして、瞬く間に去っていた。


あの頃の僕らは、すぐに去っていってしまった。


なんて、切なく儚いのだろう……。
















「春奈ぁ!」


誰かが叫んだ。


春奈と呼ばれた少女が声のほうを向く。


「悪い、遅れた。ごめん」


誰かが謝った。


春奈と呼ばれた少女は、小さく笑った。


「お昼はおごってね」


春奈と呼ばれた少女は、楽しそうに言った。


誰かは、は〜い、と間の抜けた声を出した。


「ぼーっとしてないで、行くよ〜」


春奈と呼ばれた少女は、笑っていった。


誰かは、は〜い、と答えた。






今日は、雨が降っている。


誰かは傘を持たずに走ってきたらしく、春奈と呼ばれた彼女の差しかけた傘を手にとり、2人で入った。


その狭すぎる傘の中で、誰かと、春奈と呼ばれた少女は手をつないでいた。


楽しそうだった。




―――そして、幸せそうだった。







そんな風景を、僕は見つめていた。


春奈、という名前に反応したからだ。


いや、そうではなく、彼らが僕たちに似ていたからかもしれない。


間の抜けた彼氏と、明るい彼女……。


あれから数年経ち、僕はもう大学生になっていた。


今でもやはり、傘を持っていなかった―――。






雨の降る日は、あの頃を思い出す。


あの恋が始まった日。


そして、……終わった日。







その日も、雨が降っていた。


窓を打つ雨の音が、やや心地よかった。


僕たちは、小さな喫茶店にいて、客は僕ら以外に、数人しかいなかった。


彼女は、あの日と同じように、とても、本当にとても小さい声で言った。







「…さよなら」







そのときもまた、雨唄が消えた。


僕の耳は、その声しか聞き取らなかった。


いつまでも響く、その声を僕は静かに聞いた。


分かっていた。


こんな日が、いつか来る、ということは―――。







一粒の涙が落ちた。







僕のじゃない……。


彼女の頬から落ちた。


その姿を見ると、僕の瞳から落ちかかった涙が、何が何でも落ちるまい、とよじ登った。


「春奈……、これまで、ありがとう」


僕は笑顔で言った。


同時に、雨唄が流れ始める。


―――あの日と同じ唄だった。


僕の顔は、涙で濡れた目と、笑った顔。


彼女の顔は、涙で濡れた顔と、笑った顔。


2人は、笑っていた。


そう、別れは悲しい。


でも、僕は彼女と出会えて、彼女は僕と出会えて、本当に幸せだったんだ。







「ありがとう」







彼女の、僕の彼女としての春奈の、最後の言葉だった。




―――まだ、雨は降り続いていた。






僕は、雨が大好きだ。


初めての恋が、始まった日も、終わった日も、ずっとそばにいてくれたから。


雨唄は、僕らに笑顔をくれたから…。


僕は、雨が大好きだ。


雨音が聞こえる。


僕の耳に……。


そしてきっと、今は隣にはいない彼女の耳にも……。


なぁ……。


最後に笑えてよかったよね…。











「僕は、……が、大好きだ」






―――雨音が、僕の言葉をかき消してくれた。

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