所詮は俗人
テレビのニュースを見ていたら、「長野市にある善光寺大勧進の82歳の住職が、寺の女性職員にセクハラ行為やパワハラ行為をしたうえ、差別的な発言をしたとして、善光寺傘下の天台宗の寺の住職で作る団体などが、辞任るよう求めました」という話が流れていました。
善光寺大勧進とは、善光寺傘下の天台僧の最高位にあたる僧侶です。僧という字は人偏に曽と書きます。曽は「かつて」という意味。即ちかつては人(俗人)という意味に取れますね。つまり、今は出家して俗人ではなくなった人を僧と呼ぶのです。
そして、僧となったからには、人としての煩悩を全て断ち切り、より仏に近い存在でなくてはなりません。だからこそ、人々は僧を敬い、僧の言葉に耳を傾けるのではないでしょうか。
しかし、どうでしょう。
セクハラやパワハラなんていうものは、本来、仏道修行には有ってはならないもの。当たり前ですよね。仏の道は慈悲の道です。どんな人にも慈しみの心を持って接することのできないものが、長いこと修行?してきたから高僧と呼ばれるって、それで良いんですか?
これは、飽くまでも私の目に映る姿を書いているもので、もしかしたら私は違うと仰る僧のかたもいるかも知れませんが……。
人の死に付け込んで金を貪り、羽振りよく夜の街を闊歩している。酒池肉林の僧侶が、結構多く見受けられるような気がします。そう言えば、織田信長の血を引くと言ってテレビ出演を数多くこなし、ポルシェにのって銀座のクラブでブイブイ言わせてた坊さんが二十数年前に警察に逮捕されたなんて話もありましたよね。
世間の人から、あのお坊さんは凄い人だなどと言われてる僧侶でも、果たして陰では単なる禿人(とくにん:はげた人)かも知れません。そんな人たちが、いざ墨染の衣を纏えば、有り難く見える。これは、日本人のDNAの中に恐らく長い時間をかけて刷り込まれた事なのだと思います。
一般庶民から慕われ、敬われるべき大寺院の最高位の僧侶が「セクハラ、パワハラ」では、拝観に行く人たちは何を感じるのでしょうか。そのような僧侶に頭を撫でられたって、気持ち悪いだけですよね。
それに、こんな人間に経文を読んでもらたって、何のありがたみもない。だったら、つっかえ乍らでも、自分で読んだ経のほうが絶対に有り難いと思います。
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