焔の軌跡

織倉こた

01/影井 穂邑

 朝練を終えて、水道で汗を流す。この時期の水はまだ冷たく、練習後の火照った体には丁度いい。蛇口から溢れる水を手で掬いながら何度も頭にかけてはその冷たさを実感した。

「影井、珍しくぼーっとしてるな?」

 声変わりはしているのに、少し高い響く声。振り向くと富田が少し不安げな顔で俺のことを見ていた。

「そうかな」

 惚けるように首をかしげると雫をタオルで払う。

 こいつは普段空気を読めない男のくせに、こういう時だけやけに鋭い。普段からもう少し気をつけていれば持てているだろうにと、心の中でつぶやく。

 惚けたのがわかったのか、顰め面を一瞬だけ見せるがすぐに何かを察したように富田は戯けた様子を見せた。

「ま、最近朝練もキツくなってるしぼーっとする気持ちもわかるけどな」

 そのまま隣にやってくると蛇口をひっくり返して水を飲み始める。流れる水の音が一瞬だけ会話の間に鎮座した。

  別に疲れたからぼーっとしていた訳ではない。本当は今朝に見た夢が忘れられなくて、ずっと考えていたのだ。多分、そのことを話せばどんな夢だったのかと追求されるだろう。それはめんどくさい。めんどくさいというより、そんなに覚えていない。覚えていないものは伝えられないのだ。

 だから、そのことは敢えて口にしなかった。

「俺たちも三年生で、次の試合がラストだからな。しょうがないさ」

「ラストかあ。もうそんな時期なんだよなあ」

 とっさに口に出たそんな言葉に、富田は続く。続いたものの、あまりにも咄嗟に出た話題すぎてそれに返す言葉がなくなった。

 そうだな、なんて無責任に返すと蛇口を捻り、上体を起こす。

 流水音が止まる。

 汗がまたじわりと滲んで、乾ききっていない髪の雫と共に頬を伝った。

「あ、城里だ」

「城里?」

 沈黙を破るように不意に声を上げた富田の視線を追うように校舎に入っていく女生徒に目を移す。

 横顔しか確認できなかったがそれは確かに隣のクラスの城里だ。凛とした目、肩口で揃えられた髪。着崩さず、ちゃんと着用された制服。進学校ではないこの学校において、判りやすい優等生。その存在は一瞬見ただけでもすぐに分かった。

 ほうっとしばらくその背が昇降口に消えるまで見守る。

「まだお前城里好きなのかよ」

 はっとして視線を戻すとニヤニヤとした顔の富田と目が合った。

「ちがっ……そうじゃない!」

 確かに以前彼女のことが気になると相談したことはあるがそういうことではない。ただ、不思議と彼女とは初めて出会ったような気がしないというだけで、入学初日にそんなナンパみたいな声の掛け方をした事はあるがそこにやましい気持ちなんて欠片もなかった。

 なかったのだが、噂というものは恐ろしいもので入学して一週間で学年中にあっという間にそれは広がってしまっていた。今ではこのネタも仲間内では定番のものとなってしまっている。

 こっそりと“口説きの影井”なんて呼ばれているのも知っている。かなり不名誉だ。

「とにかく、城里に対して俺はそういう感情持ち合わせてない!」

「ははーん。ま、そういうことにしておくけどさ」

 否定も虚しく、意味ありげな顔を浮かべながらロッカールームへと姿を消す背中を追って、制服に着替える。

 本当にそういうのじゃないんだけどな。


   ◇


 今日も難なく授業が終わり、ようやく部活の時間だ。富田と数人の仲間に声をかけてグラウンドに向かう。その途中で、またしても見覚えのある人物が前を歩いていた。

「おい、あれ城里じゃね?」

「ほんとだ。ラッキーじゃん、影井。本日二回目だぞ」

 クスクスと笑い声が廊下を包む。その騒ぎように教室から身を乗り出して、ことを確認してからなんだ、と笑みを浮かべる者もいる。

「だーかーらー」

 冷やかしに定番の否定をしながらも城里の横を早足で通り抜けるとぼそりと耳元で声が聞こえた。

「……気をつけて」

 ……?

 今のは城里か?

 あまりにも小さい声。あまり聞いたことはないが、それでもなんとなく城里のものだと理解した。

 振り返ると、城里はこちらをじっと見つめて立っている。聞き違いではなかったらしい。凛とした目がこちらを捉えている。

 何を? そう問いかけそうになって周りに富田達がいる事に気が付いて慌てて視線を外す。またからかわれたりするのはごめんだ。その場をさっさと去りたいために仲間たちの背中を押して先を促すように走って一度だけ振り返って見ると、もうそこには城里の姿がなかった。


   ◇


 部活が終わって着替えているときに、何か足りないと感じた。

 そういえば古典の課題が出ていた気がする。それに必要なものがない。

「やっべ……」

 確実に置き勉している中にある。まだ教室は開いている筈だ。

 慌てて着替えてから鞄を持つと、帰り支度をしている仲間たちに先に帰るように伝えてから昇降口を潜り教室を目指す。三年生の教室は生徒棟の二階だ。上履きに履き替えるのも面倒で、靴だけ脱いで昇降口から右手にある階段を上って自分のクラスを目指す。

 案の定教室の扉にはまだ鍵はかかっておらず、するりと開いた。

 ラッキー、なんて思いながら教室に踏み込むと、ふと違和感を感じた。

 なんだろう。いつも通りなのに、いつも通りじゃない。

 この時間に教室にいることがいつも通りじゃない? ───違う。

 教室を間違えた? ───違う。

 自分しかこの教室にいないから? ───違う。

 そうじゃない、もっと明確な違和感。

 

 そう思った時には、あたり一面火の海だった。

 焼き尽くさんとばかりの炎はどこから現れたのか見当もつかない。一瞬にして呑まれた教室から出ようと思うも、体が言うことを聞かなかった。

 ジリッと肌と喉が焼かれていく感覚。口が渇く。目が痛い。

 もう目の前に炎が迫っているのにも関わらず、相変わらず手足は氷漬けられたように動かなかった。

 助けてくれ、なんて思わなかった。

 このまま死ぬんだ、とも思わなかった。

 案外、目の前に死が叩きつけられると人間は考える事を放棄するみたいだ、なんて他人事のように思いながら───目の前の死はあっけなく吹き飛ばされた。否、巻き戻された。

「だから気をつけてって言ったのに」

 やっと動くようになった体がその場にへたり込むのと同時に、背から聞き覚えのある声が聞こえた。振り向けない。だけど、後ろにいるのが誰か、瞬時に理解できた。

「城、里……?」

 後ろの主は答えない。

 代わりに背中に鈍痛が走った。蹴られたのだ。

 何故?

 そんな言葉も出ないぐらいに今は喉が焼けていた。そしてこの一瞬の間に起きた事態に混乱していた。

「幻覚か……。それも肉体的損傷を与えるぐらい強烈な」

 ボソリと呟く城里。いつもの調子とは違う荒っぽい口調に少し驚きながら、蹴られた背中がかなり痛むことに気がついて顔を顰める。本当に何故蹴られたんだ。

穂邑ほむらくん、そろそろ立てるでしょ。いつまで入り口で惚けてるの、邪魔」

 再び鈍痛。

 ああ、なるほど。邪魔だから蹴られたのか。

 混乱した頭で納得しながら、城里の為に道を開ける。ようやくそこで城里の姿を確認した。変わらない綺麗な髪、整えられた制服、凛とした瞳。

 ああ、何時もの城里だ。

 口調が変わろうと、あの炎を消せるような特殊な能力を持っていようと、俺の名前を呼ぼうと背中を蹴ろうと城里は城里だ。

「……うん?」

 そうじゃない。そうじゃないだろう。

 何故ここに城里が現れたのかはとりあえず置いておけるとして、あの炎を何事もなかったかのように消し去ったり、例の最悪の初対面以外で会話を交わしたことがないのに親しそうに名前で呼ばれる覚えはない。

 ようやく混乱がひと段落した脳は、いつの間にかそんな疑問まみれになっていた。

 立ち上がって、教室の様子を眺めていた城里の肩を掴む。

 少し驚いた様子を見せたが、城里はすぐにあの瞳でこちらを見据えた。

「君は一体、何者なんだ」

 全ての意を込めてそう訊くと、彼女は不敵な笑みを浮かべた。

「私は城里美奈穂しろさとみなほ。魔術師よ」

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