第16話 美桜
あの日を境にお兄ちゃんは言語を話さず、自力でも動けず、目も虚ろになって過ごしている。
私が母である我妻千代子と話している間に。
「美桜。今までゴメンね。」
「池永家への養子のことについてなら、気にしてませんよ。お兄ちゃんについての情報も入ってきましたし。」
「そう。」
と、言うと、少し哀愁の帯びた声で、
「ここで過ごした事や、私達のことをぽっかりと忘れちゃってるけどね……」
その事については、私も悲しいし、残念に思う。お兄ちゃんが、私との大事な約束も忘れたのだから。
「で、本題に入らせてもらうけど、美桜は聡夫と一緒に暮らしたいの?聡夫と会ってからずっとうずうずしてるの気付いてる?」
「っ!!」
「図星ね。」
その通りだ。折角お兄ちゃんが帰ってきてくれて、この家を一緒に脱出しようとしてるのだ。そのまま一緒に暮らしたいと思わないはずがない。
けど、お兄ちゃんには沙奈江さんが……
「良いわよ。聡夫と一緒について行っても。」
「ホントですか!?」
私はとても言い表せないぐらい嬉しかった。一緒に過ごせることに。笑えることに。泣けることに。悲しみを分かち合えることに。
「まぁ、監視役としての人物が欲しかっただけだけどね。」
私は嬉しすぎて、その言葉を聞き逃した。とても大事な言葉を。
「じゃあ、部屋でその話を進めてくれる?私は今すぐ資料を整理しないといけないから。」
そう言って、母は自分の書斎に帰っていった。
私は感謝の意味も込めて、その背中に敬礼を送っていた。その立派な背中が見えなくなるまで。今思えば、そんな事をせずに、このまま部屋に入っていればよかった……
私は少し幸せな気持ちで部屋に入った。だけど、お兄ちゃんの様子がおかしいのは、明らかだった。
「あは……」
私はお兄ちゃんの様子がおかしい理由を探した。
「あはは……」
その原因となる人物を見つけてからの私の行動は、今まで生きてきた中で一番早いと確信できるほどだった。
「あははは……」
原因の沙奈江さんは、何故かお兄ちゃんを傍観していた。まるでお兄ちゃんの事が見えてなく、自分は関係がないと言わんばかりに。
「あはははは……」
沙奈江さんを無視して、私はお兄ちゃんの元に走った。たった数メートルの距離なのに、中々お兄ちゃんの元にはたどり着けないように錯覚した。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
「お兄ちゃん!!どうしたの!?ねぇ!!しっかりしてよ!!お兄ちゃん!!」
お兄ちゃんの目は虚ろな物だった。何も見えてなくて、私の事をきちんと認識してくれてるのか分からない。でも、お兄ちゃんの魂がここにないことはすぐ分かった。
「お兄ちゃん!!戻ってきてよ!!お兄ちゃん!!」
私の声は、心は多分届いていない。届くかどうかも分からない。下手をすると、叫ぶだけ戻ってこないかもしれない。でも、それでも私は大好きな、大事なお兄ちゃんに対して叫び続けた。
「お兄……ちゃん……」
アレ?目から何かが流れていく。後に続く言葉とともに流れていく。
「戻って……きてよ……昔言ったじゃん……約束したじゃん……例え心をなくしても……死んだとしても……私の側で……私を守ってくれるって……好きな人が出来ても……一緒にいるって……言ったじゃん……約束は……守るものだって……教えてくれたのは……お兄ちゃんじゃん……そのお兄ちゃんが……約束を……破らないでよ……!!」
目から流れていく涙を必死にこらえ、坂之上剣が知らない記憶を叫んだ。
当時からして、立派に生き、当主としても移り変わりないぐらいの私のお兄ちゃん。姉に私が無理矢理奴隷にさせられかけると、私の代わりに奴隷になってしまったお兄ちゃん。
でも、記憶は違えど私を守ろうとしてくれるお兄ちゃん。優しいお兄ちゃん。
「帰ってきてよ……私を守ってよ……」
私が泣き喚き始めてしばらくすると、メイド長が駆けつけて来て、私をお兄ちゃんから剥がし、どこかに連れ去った。そして、私はその場で、疲れ果てて、眠ってしまった。
翌朝になると、沙奈江さんと、沙奈江さんの物全てが消えていた。携帯に電話を掛けようとしても、そんなやり取りをしてなかったから、履歴すら残っていなかった。
そして、私達の目の前から完全に沙奈江さんが消えた。
お兄ちゃんと再び会えたのは、沙奈江さんが消えてから3日後の夕方だった。
お兄ちゃんが元に戻っていればと思っていたが、やはりそのままの、姿だった。
そんなお兄ちゃんを見て、私はまた泣いてしまった。
だけど、泣いても解決はしなかった。当たり前だ。お兄ちゃんは、ここにはいないのだから。
次の日、私とお兄ちゃんは家を出た。お金は、私の貯金を使うつもりだったが、一生遊んで暮らせるぐらい入っていた。その金額に少し声を上げて驚いたけど、無駄遣いする気には全くならなかった。買いたい服や本等は沢山あるはずなのに。
それから、わたしは少しでも早くお兄ちゃんが回復する事を願って、お兄ちゃんが今住んでいる坂之上家にお世話になろうと考え、坂之上奏叔母さんに頼み込んだ。そしたら、誠意が通じたのか、私とお兄ちゃんの家事などを全てするという条件で住むことを許してもらえた。
本音を言えば、どこか山奥の別荘みたいな所で生活したかったけど、お兄ちゃんが戻ってきた時、馴染み深いところの方が良いと判断したからのと、食材を買うためのスーパーなどの理由からここに住むことにした。
その日から、お兄ちゃんの介護生活が始まった。家事全般は、メイド長から仕込まれているので、問題は無いが、一つだけ困難な事があった。それは、お兄ちゃんに食べ物を食べさせるという行為だ。
食事を作っても、お兄ちゃんは食べようとはせず、全く関心がない。だから、私は麺類や、飲み込みやすいものを無理矢理飲み込ませた。でも、自分では飲み込まず、飲み込ませても、咽せる事は一切なかった。
でも、何日も同じ事を続けると、お兄ちゃんは少しだけ自分で飲み込んだ。私はその事に少しの喜びと、大きな達成感を得た気がした。
それから数日後、私は行動を開始した。
行動と言っても、中学生の私に出来る事は少ないので、行動と言える行動は出来なかったが、1本の電話により、私は行動出来た。
その相手は……
『沙っちゃん』
そう。あの日消えた沙奈江さんからの電話だった。私は出るのを躊躇った。なんで今になって電話を掛けてきたのか分からないからだ。
私の頭の中では、なんでという疑問ばかりが出てきて、一言思いっ切り言いたかった。でも、そんな事を言ってもお兄ちゃんは戻ってくるはずもなく、お兄ちゃんも喜ぶはずがない。
そう考えを無理矢理落ち着け、私は電話に出た。
『あの〜。どちら様でしょうか。』
やはり、記憶を失っていた。
「私は、貴女が壊した人の妹です。」
間違いではない答えだ。お兄ちゃんはある意味沙奈江さんに壊されたのだから。
『出来れば、名前を言ってもらえないでしょうか?私には全く心当たりがありませんので。』
「それは無理ですね。私は貴女の事を知っている。それで充分じゃないんですか?沙奈江さん。」
沙奈江さんは、明らかに動揺した。名乗ってないのに、自分の名前を言われたのだから、当たり前だろう。
『……可能なら、会いませんか?』
「私は別に構いませんよ。秋刀魚公園で会いませんか?貴女が壊した人とよく会ってた場所らしいですし。」
『……分かりました。なら、1時間後に秋刀魚公園の南側の大きな滑り台の登り口前で会いましょう。』
そこが私の今日の戦場になるのは、言うまでもない事だ。
「それじゃあ、1時間後にそこで。」
私はそれだけを告げると、一方的に電話を切った。
そして、お兄ちゃんに沙奈江さんに会ってくるとだけ言って家を出ようとしたら、お兄ちゃんが、沙奈江さんという言葉に、少し動いた。だけど、すぐに元に戻った。多分、沙奈江さんの事はまだ覚えていて、諦められないのだろう。
「それじゃあ、行ってくるね。」
そう優しく告げ、私は沙奈江さんに会いに行った。
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