『夕焼』

矢口晃

第1話

「戸棚つけます」

 そんな奇妙なチラシが郵便受けに入っていたのは、十月の終わり頃のある土曜のことだったと思う。夕方、夕焼け雲に誘われて何となくマンションの下まで降りてみたら、郵便受けに何やら白い紙が入れられているのに気がついた。

 どうせまたいらないチラシの類だろうと思って開いて見てみたら、中には手書きの文字で、「戸棚つけます。どんな場所にも、どんな大きさにも対応します。」という文言と一緒に、電話番号と工務店の名前が印刷されていた。

 変わったチラシだな、と思ったなり何となく捨てずに部屋の机の上に放りっぱなしにしておいたら、それから二週間ばかりたったある週末の午後、そう言えば流し台の下が最近鍋やフライパンで乱雑になっていることが急に気になりだした。

 私の部屋は鉄筋コンクリートのワンルームマンションで、いわば台所という場所がない。部屋の隅に、わずかに煮焚きができる一口コンロと小さな流しがついているだけだ。鍋釜を置くスペースは当然流し台の下になる。ところがここはここでまた、何やかやともらいものだったり捨てられない雑貨だったりで、食器を置く余地を大分減らされている。流しの上にもものをおける棚があったら便利なのにな、と以前からふと考えることはあった。しかしわざわざそれをする手間が面倒だったので、これまで放置してきたのだった。

 私は散らかった机の上のものをどかし、二週間前にそこに置いておいた例のチラシを見つけ出した。そこには相も変わらず汚い乱れた字で「戸棚つけます」という大きな文字が書かれてあった。私は週末の午後の無聊に任せて、そこに書かれている工務店へ電話をかけてみた。電話は何度かの呼び出し音の後につながった。

「はい。相沢工務店です」

 しわがれた、中年以上と思われる男性の声だった。

「あの……」

 私の言葉は意図せずそこではたと止まってしまった。この先を何と説明したらよいのだろうかと、少し考えた。

「はい? もしもし?」

 電話先の男性に促されて、私はとにかく話を続けなくてはと思った。

「あの、戸棚をつけて欲しいのですが」

「戸棚?」

 男性の怪訝そうな声が私に聞き返した。

「はい。以前、戸棚をつけますっていうチラシがポストに入っていたものですから、それを見てお電話しているのですが」

「ああ、あれですか」

 男性の声が急に嬉しそうになったのを私は聞き取った。

「今から来て頂けますか?」

「ええ。もちろんです」

 それから話はすぐにまとまった。私が自宅の住所を告げると、相手は一時間後には来てくれると言った。料金は実際取り付けてみないと分からないが、出張量、作業量込みで一万円を少し出るくらいだということだった。そんなに安くていいのか、と聞くと、

「ええ。それくらいでないと、最近のお客さんは棚をつけさせてくれませんから」

 という返事だった。そんなものかなあ、と思った私は、

「まあ、とにかく待っていますからぜひ来て下さい」

 と言って電話を切った。

 それから一時間もしないうちに、私の部屋のインターホンが鳴った。電話口に出てみると、相手の男性は

「相沢工務店です」

 と名乗った。

「今開けますので、ちょっと待って下さい」

 そう電話口でつげてから、私は階段で一階に下り、マンション入り口のドアを内側から開けた。そこには身長が百六十センチくらいの、頭髪の白い、頭頂部の薄くなった七十近いと思われる男性が立っていた。背中には何枚かの木材を担いでいた。

「平沼さんですか?」

 そう聞かれたので、

「そうです」

 と私が答えると、男性は自分の背中の方を指差し、

「マンションの前、車停めちゃって大丈夫でしょうか?」

 と私に尋ねて来た。

「どれくらいかかりますか?」

「一時間もかかりませんよ」

「ならたぶん大丈夫です」

「そうですか」

 愛想よくにこにこと笑う男性の口元は、歯が何本か抜けてなかった。残った歯も、黄ばんで汚れていた。

「どうぞ」

 私は玄関のドアを押さえて男性を中へ入れた。そして二人そろってエレベーターで二階へ上がった。

 部屋へ入ると、私は、

「あそこにつけてほしいのですが」

 と流しの上を指差した。

 がちゃがちゃ、と担いできた木材を玄関に下ろすと、相沢さんは、

「はあ、あそこですか」

 と一人ごとのように言って、流しの前に小さな脚立を立てると、差し金を使っていろいろ寸法を測り出した。少し離れた場所からそれを見ながら、いかにも手慣れた職人の手つきだと私は思った。第一印象の歯の抜けた頼りない老人とは、今の相沢さんの印象とはだいぶ違ってきていた。

 相沢さんは脚立の上から私に振り返ると、

「これならすぐにつきますよ」

 と言ってまた笑った。それから気合いをいれるように頭に白いタオルを巻くと、担いできた木材を手際よく流しの上の壁に取り付け出した。

 相沢さんが金づちで叩くと、叩かれた釘は喜ぶように木の中に入って行った。それは布に針が通るような滑らかさだった。そうして次から次へと壁に板が取り付けられていった。そして本当に一時間も経たないうちに、さっきまで何もなかった場所に、扉つきのきれいな戸棚が出来上がった。

「ありがとうございます」

 私は相沢さんに頭を下げた。照れたように相沢さんは笑った。

「たばこを吸ってもいいですか?」

 そう聞くので、

「どうぞ」

 と私が言うと、相沢さんは用の済んだ脚立の上に腰かけたまま、今できたばかりの戸棚を時々見上げたりして、おいしそうにたばこを吸いだした。

「昔はねえ」

 たばこを半分ほどまで吸ったところで、ふうっと煙を吐き出しながら相沢さんは言った。

「どの家にもでっかい棚や箪笥があって、私たち職人はそりゃあ毎日修理だの修繕だのに忙しく働いていましたよ」

 私は適当に腰掛けながら相沢さんの話を聞いていた。

「その他にもねえ、包丁を研げと言われれば研いだし、鍋の取っ手をつけろと言われればつけました。家の中のものなら、何でも直しましたよ」

 目を細めながら話す相沢さんの顔を、私はじっと眺めていた。

「ところが今は生活が便利になっちゃってねえ。壊れたら何でも取り換えちゃうでしょう? 昔は直して大事に使ったものですがねえ。今は――」

「変わっちゃいましたか?」

「ええ。変わっちまいましたねえ」

 相沢さんはどことなく寂しそうに言いながら、流しの中でたばこをもみ消した。

「一戸建てがなくなって、こうやってマンションが増えたでしょう? 工事は全部大企業がやっちゃうから、わしらのようなちっちゃな工務店なんぞは、こんな棚さえつけさせちゃもらえない。腕は確かなんです、わしらの方が、本当はねえ……」

 相沢さんは、流しの上に誇らしげについている戸棚をもう一度見上げた。

「気持ちを込めて作ったものには、気持が宿るんです。作った人の気持ちがねえ。それが家をあったかくするんだって、わしらが小さい時分には親からそう教えられたもんですが」

 私は何も言わなかった。相沢さんの発する言葉が、胸にじわじわとしみこんできた。

「道具は生き物でね。使った人のためにがんばろうって、そう思っているんですよ。職人が、ちゃんと気持ちを込めて作った道具はね。刀にしろ、ハサミにしろ、腹巻きだってそうだ。ちゃんと作られたものは、ちゃんと仕事をする。だから使う人も、道具に愛着っていうものが湧いてくるんだな」

 相沢さんはもう一本たばこを口にくわえた。私は流し台の上にあった首の長いライターで、相沢さんの口元に火を差し出した。

「すんません」

 とお辞儀をしながら、相沢さんはライターの火をたばこに沁み込ませた。

「今は使い捨ての世の中だからなあ。わしらの出番はどんどんなくなって行く。『棚をつけさせてもらえませんか?』って、頭を下げても誰も振りむいちゃくんない。チラシを配って歩いても」

「だめですか?」

「どうもねえ……」

 溜息交じりにそう言った相沢さんの表情が、私にはとても印象的だった。

 相沢さんは二本目のたばこを最後までゆっくりと吸うと、道具を片付けて帰り仕度を始めた。部屋の玄関を出る手前で、私は作業料を支払った。それは、あれだけ立派な棚をつけてもらったにしては驚くほど少ない額だった。

 一階の玄関まで相沢さんを見送ってから、私は再び自分の部屋に戻った。ベランダにつながる西向きの窓のカーテンを開くと、外は見事な夕焼け空だった。

 まるで大きなほおずきの中で、無数の綿がふわふわ舞っているような景色だった。

 なんて美しいんだろう。私は真っ赤に燃えあがる空を眺めながら、一人でしみじみとそう思った。

 その赤が、胸に沁みてきた。ちょうど相沢さんの言葉のように。

 空は止まっていた。雲も止まっていた。

 時計の針が五時になった。部屋の中には、やわらかな木材の香りが芳しく漂っていた。

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『夕焼』 矢口晃 @yaguti

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