北奉神綺譚

Suzukisan

第一章 アツァーリの神々

プロローグ

プロローグ

 

 北嶺の水は赤い。


 未明からの雨は上がり、山脈に注いだ雨水は地に留まることなく滑っていく。払暁にある山肌には一本の低木も見えず、一切の下草も茂っていない。夜明け前の仄暗さが次第に破られ、恒星が東の空から昇ってくるにつれ、黒々とした大地に赤みが差していく。

 滑り落ちる水の流れを受け止めるだけの力が、この土地には無かった。その表面を覆うのは赤黒い礫片である。濁った褐色の大地が山裾には広がっていた。


 灰色の曇天を背景に、山嶺は巨人の肩のようにそびえている。首から上、頂に向けて白い化粧をほどこしながら、赤黒い肌を晒す、荒廃の山脈。アツァーリの北辺を閉ざす山脈は人を拒む。


 平野の民に曰く神の血涙と呼ばれ、山裾に流れる小川は季節を問わず朱に染まる。禍々しい色合いに忌避の念を抱かれながらも、その流れはやがて南の平原へと向かい、この地方の穀倉地帯へと山鉄の滋養を運ぶのだ。

 収穫の季には、麦の穂に満たされる黄金の皿、クリソピアト平野を睥睨する北辺山脈は、畏怖を以てアツァーリの人々に拝されてきた。


 古紀──散逸して久しいロスト・エラについての数少ない伝承によれば、かつて山脈は緑豊かな森を抱いていたという。しかしながら山裾に広がっていたはずの森はなく、そこには褐色の原野が茫々とあるだけだ。

 そして時の流れとともに、その原野にもまた変化が訪れる。



 朝の訪れに、銅鑼鐘が打ち鳴らされる。段々に掘られた大穴の周囲には簡易の兵舎が立ち並ぶ。銅鑼の音に負けないほどの大音声だいおんじょうが幾つも響き、山肌に反響する。

 声の主らは短躯ながら、その首周りから胴、腕に至るまで空気を吹き込んだように膨らみ、彼らが膂力に優れた種族であることを誇示していた。

 彼ら──シディルギアンは元来、クリソピアトの更に南、アツァーリ地方の南西部に盲腸のようにはみ出た半島部を根拠地とする種族である。そこには炉神シディルルゴスの御座がある。

 彼らは己の奉じる神を喜説させる供物を常に求めていた。神の炉にくべるに相応しい鉄の確保はシディルギアンにとっての勤めとも、神へ積む信仰の表れとも言えた。


 北辺山脈が良質の鉄鉱床として知られる起源は古く、今なお山肌に見える無数の洞穴は、かつて坑道の入り口として利用された名残である。しかしながら森の枯死とともに地肌を露わにし、それは裾野にまで及んだ。

 シディルギアンの祖にあたる者らは、森の中に居を構え、坑道を横堀りしていたと思しいが、探査の手管も発展の途上にあったのか、その多くには崩落し閉山された跡が見られた。

 そのような経緯から当世には坑道を掘り進む手法は衰微し、大規模な露天掘りが行なわれるようになっていた。植生の喪われた土地には似合いの手法である。


 露天鉱床は螺旋を描くように段々に深く掘り進められている。穴の底から地上へと仮設された線路が置かれ、鉱夫の役を担う者が土砂を満載にした人力貨車を押して上がる。

 少しばかりの平らかな場所には選鉱のための作業場が設けられる。砂状に磨り潰された礫片を、薬液池に浸けて浮沈を見る。資源鉱と捨石の簡易な選別を終えれば、仮設線路ではない、整備鉄道の貨車へと運ばれる。そこを走るのは機械式──とはいえ、屈強なシディルギアンを十名一組とした人力動力の列車である。

 彼らは応応と掛け声をあげながら、一心不乱に脚漕ぎ式のペダルを廻す。監督役の車掌の号令に従って、十人二十腿の筋骨が軋む様は圧巻と言える。

 朝の便の十名は到着次第に兵舎へ収容され休息をとることとなる。昼過ぎまでには前日に選鉱済みの資材を搬入し、夕の便には五日程度の役を終えた十名が人力列車を曳いて、炉神の待つノストフェオウ神山へと帰っていくのである。


 そのようなことで、露天鉱床には常々七十名程度のシディルギアンが入れ替わりながら滞在していた。彼らは種々の役に就いているものの、大別して二通りに別れた。

 一つは、鉱山の運営そのものに携わるもの達。採鉱から選別、運搬を担う者らである。もう一つに類する者らの姿は、シディルギアンの中にあっても異様であった。彼らは全身に傷を負い、またその中には真新しいと見受けられる傷も少なくない。膨らみきった筋肉は捩じれ絞られ、並みの同胞に比して見るからに密度が高い。膂力に優れたシディルギアンにあって、特別に優れた戦士こそが彼らであった。


 二十名の戦士、というのは常の鉱山には多すぎる配置である。しかしながら、ここは神山の半島より、クリソピアトを隔てて離れた遠隔の地である。炉神シディルルゴスの権勢は半島を治めるに十分とはいえ、この北辺にまでは及ばない。

 言うなれば、ここはシディルギアンにとって他神の領地であり、彼らの行っていることは明確な侵犯と咎められて然るべきものであった。北辺山脈の孕む狂気に晒された無毛生物が、山裾にまで降りてくることは稀とはいえ、奉じる神を違えれば、この禍々しい褐色の山嶺が牙を剥くことは想像に難くない。

 事実、露天鉱床の稼働からこちら、無毛猿人の散発的な襲撃を受けていた。群れでの集団による狩りを行う猿人──スコルは今はまだ遠巻きに投石を行ってくるに過ぎないが、いずれはより大きな行動に出る可能性が高い。

 スコルにとっては縄張りに現れ大穴を穿つよそ者であろうが、シディルギアンにとっても露天鉱床は神に奉じる鉄の産出地という要地である。交渉の余地もなく、衝突する未来が待ち構えているであろうことは占術に頼るまでもなく見通すことのできるものであった。



 そしてその日がやってきた。


 鉱床の底に、黒々と輝く巨石が掘り起こされた。鉱夫が三人がかりでようやく地表に転がし出した大岩は、表面の錆土を払えば、この世の物とも思えぬ妖しい光を湛えている。夜の闇とも、錆の赤とも思われる。ぎらぎらと輝く色味は絶えず移ろい、まるで凶星のようであった。

 異様な石を検分するために現れたのは、露天鉱床を統括する館長やかたおさ──シディルギアンの社会はやかたと呼ばれる階層ごとに担う役割が異なっている。ここで言うのは採鉱、選鉱やら整理を担う三番館の長──エイドスである。

 炉神に仕える第四使徒でもあるエイドスは、節くれた太い指で漆黒の巨石を撫でる。普段はノストフェオウの浅層で運び込まれる資材を検分し、より深い層に送る物流を監視する彼が、鉱床の査察に居合わせたことは、全くの偶然であった。


 神の炉にくべる供物を数多目にしてきたエイドスにして、未だ見たことのない類の質感である。金属とも結晶とも、あるいは生物の死骸を起源とするもの、そのどれとも思われるし、どれとも違う。

 経験豊かな館長の下すであろう判断を待つ周囲は、エイドスのとった行動に困惑した。エイドスは豊かに伸びた口髭をたくし上げると、巨石の表面に唇を添え舐め上げたのである。健啖なシディルギアンにして石を食うという風習は無いが、炉神の恩寵を吹き込まれた使徒にとっては、身の内の炉に問うのは自然な行いであった。


 数度、確かめるように舐め上げたエイドスは、この謎めいた巨石を早急に館へ持ち帰るべしと下知する。その声音にはどこか焦りの色が浮かんでいる。平生にはたえて物静かな使徒の様子を受けて、館の子らは異常を察し動き出す。


 仮に、彼らがあと十日ほど早く石を見出していたならば、あるいはこの後の事態は大きく変わっていたかもしれない。とはいえ、アツァーリの歴史、三神紀トリニティエラのその後に影響を与えた発端に、仮定を持ち込むのは詮無いことではある。


 貨車を二台連結して、巨石を運搬するための急造の台車が曳かれてきたとき、それは起こった。獣じみた喚声が響くと、それに応える声が山全体から発せられる。シディルギアンの戦士らは声の主を誰何するまでもなく、武装を検めて方陣を組む。鉱夫らは鉱床から慌ただしく引き上げ、南へ伸びる鉄道を守るべく弩を構えた。

 声の主、スコルの襲撃はそれまでにない規模であった。錆山の斜面に穿たれた無数の洞穴から、無毛の猿人が這い出てくる。およそ百に近い頭数。血色の悪い浅黒い肌に、血走った目が炯々としている。しかし違うのは数だけではなかった。それまでは統制など無い群れに、集団としての意志が宿っているように感じられたからである。

 露天鉱床に反響するスコルの喚声は更に増していく。それは彼らを統率する酋長を迎える声だった。中央の小高い位置にある洞穴から、うっそりと現れたのは無毛の熊である。それに騎乗するスコルの手には、錆びた剣が握られている。


 エイドスは元素術を詠唱破棄ノーキャストするための準備をしつつも、その光景に驚いていた。スコルの数がいかに多かろうとも問題にはならない。それが酋長によって組織的に統率されていることもよい。獰猛で知られる無毛熊が屈服し騎乗生物になっていたことも、まだ理解できる。

 剣、だ。よく見れば酋長以外にも群れを細かく率いる者の手には剣がある。そのどれもが魔力を帯びた魔剣であることが、エイドスに驚きを覚えさせたのだ。しかも錆び朽ちているとはいえ、目に見えるほどの濃密な魔力を込められた剣だ。大業物と呼ぶに如くはない。ノストフェオウの鍛冶師に打たせても、あれほどの物は仕上がるまい。

 それはすなわち、この北辺山脈を治める神の御業に他ならないことを意味していた。神話に曰くシディルルゴスとの争いに敗れ、中央平原を追われた堕神。以来、現世にかかずらうことに倦んだ隠棲の神スコーリアが健在であることの証左が、スコルの手に握られているのだ。


 鬨の声がかかり、地鳴りとともにスコルの軍勢が斜面を駆け下りる。迎え討つシディルギアンは固く方陣を崩さない。エイドスはこの場において迷いを抱いていた。館の子らを捨石としても、スコーリアの神剣が世に出たという報を持ち帰ることを第一に考えるべきではないか、と。

 錆びた魔剣が振るわれるたびに、炉に鍛え上げられた鋼が錆び朽ちていく。漂う瘴気の間合いに寄れば、肌は火傷を負ったように腫れあがる。弩から放たれた矢もまた届くことなく地に落ちる。炉神の恩寵に鍛えられた彼らの武器が、ことごとく通用しない。残されたのはこれまで共に館の炉を囲んできた同胞の絆だけである。


「人と鉄や、混然たるべし!」


 誰ともなくシディルルゴスの聖句が叫ばれる。エイドスは使徒たる己の不明を恥じた。二番館の館長のように戦に長じた身ではないが、ここで退けば神自らに恩寵を吹き込まれた身で「団欒」の信仰を誤るところであった。踏み出た使徒は音声おんじょうをあげる。


「人鉄混然とあるべし!」


 エイドスの血に注がれた恩寵を擬呪として、燃え盛る炎弾が顕現する。さらに加えて無詠唱ノーキャスト二重詠唱ダブルキャストされた炎の嵐を呼び起こす。

 戦士らは朽ちた武器、鎧を捨て、鍛え上げた身一つで、魔剣を握る隊長格の猿人に挑みかかる。皮膚が爛れ、剣に触れた裂傷は猛烈な勢いで化膿していく。それでも腕に組み付いた者は離すことなく、スコルともどもに地を転げまわる。

 炎の嵐は螺旋に絡み合い、這いずる蛇の如くに暴れ、放たれた炎弾はスコルの突撃の勢いを殺した。炎に巻かれたシディルギアンの戦士らは、不思議なことに火傷を負っていない。シディルルゴスの「耐熱」の恩寵に浴することによるものである。味方を焼くことを躊躇する必要なく、堂々と火術を振るうエイドスの目には、盛り返しつつある戦況が見えていた。


「くだらぬ。」


 腐食した礫片を擦り合わせるような声音が、エイドスが最後に聞いた言葉であった。丘上で督戦していた酋長が、捧げた剣を振り下ろすと、それまでに無い瘴気の波が打ち寄せた。スコルが人語を解することも驚愕に値したが、何よりその一撃の大きさは凄まじかった。

 前衛として突撃を食い止めていた二十名の戦士らは、はっきりと目に映るほどの赤黒い魔力の波に触れた途端に、全身を爛れさせ絶命した。炎の嵐もまた掻き消えた。エイドスは咄嗟に身を守ろうと外套を被ったが、それは何の用も為すことなく崩壊した。それでも使徒としての生命力によって、命だけは長らえた。エイドスの耳には絶えることのない呪詛の耳鳴りが響き続けることとなった。


 趨勢が決した後は一方的な蹂躙が行われた。シディルギアンの要地である露天鉱床は徹底的に破壊され、生き残った鉱夫は奴隷として攫われた。使徒は機敏なことに、いつの間にか逃げ出したらしく死体は見つからなかった。


 一通りの殺戮と破壊が行われた後、スコルの一党は凶星の巨石のもとに集まった。簡素な原始宗教的な儀式が、群れの中でも老いた呪師によって執り行われた。酋長は己の信ずる神に捧げる如く、剣を天に向けて奉じると、巨石に対して振り下ろした。

 錆び朽ちた剣は根元から折れ、宙を舞った。強大な力を秘めた魔剣の終焉に、群れの中には茫然自失とする者もあった。だが底の見えぬ漆黒の巌に、初めて傷がついた。小さな瑕は次第に罅割れへと変わっていく。内からは得体の知れぬ力の奔流が漏れ出してくる。


 酋長は言祝ぎの言葉を発した。

 それは錆神スコーリアに捧げる、彼らの初めての供物となる神子の誕生を意味していた。

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