第7話二人で相合傘です

 窓を叩く雨の音で目が覚めた。窓の外を見るまでもない。今日も雨らしい。

渚は先に起きていたようで、本を読んでいた。


「おはようございます」


「おはよう」


「よく挨拶できました。今日はこの調子でいってくださいね」


 渚のいい方はまるで小学生を相手にしているようないい方だった。

まあ、俺のコミュニケーション能力は小学生レベルなのかもしれない。

いや、小学生程度あればいいが。


 ベッドから起き上がり、洗面所へ向かい顔を洗った。鏡を見ると、いかにも

冴えない男が写っている。試しに挨拶をするときのために、笑顔を作ってみる。

だが顔が引きつり上手くいかない。今まで表情筋をつかってこなかった弊害

だろう。目はぱっちりと開かず、広角もうまく上がらない。

こんなので大丈夫なのか不安になってくる。そこで、俺は渚に訊いてみることにした。


「笑顔ってどうやればできるんだ?」


「はい? 笑顔ですか? 普通に笑えばいいと思いますが」


「ここ最近笑った記憶がないんだ。どうすれば笑顔になるのか教えてくれ」


「それは難しいですね。私もあまり笑う方ではないので。急にどうしたんですか?」


「挨拶をするときに表情も大事だと思ってな」


「いいところに気づきましたね。ですが、すみません。私は力になれそうに

ありません」


「そうか、ならしょうがないな」


「落胆の表情は得意なんですね」

 と渚は皮肉をいってきた。だが、渚のいう通り、落胆の表情、失望の表情、

絶望の表情、悲しみの表情などはよくしている気がする。


 俺は笑顔を作ることを諦め、朝食の準備をした。昨日スーパーで買った

食材を適当に調理した。朝食を終えると俺は大学へいく用意をした。

今日の講義は午後からなので、時間はまだまだあるのだが、昨日渚に本を

買ったとき、俺の読書欲が掻き立てられ、久しぶりに大学の図書館にいこうと

思ったのだ。


 いつもより自分なりにおしゃれだと思う服を選んだ。もしかすると、今日

挨拶をし、会話をし、友人ができるかもしれないのだ。

 渚はそんな俺を見て、


「昨日もいいましたけど、雨宮さんは別に見た目は悪くないので、普通の

格好をしていればいいんですよ?」といってきた。


「そうだとしても最大限の努力はしないとな」



 鞄を持ち、玄関を開けたとき家には傘が一本しかないことに気づいた。


「すまないが、途中のコンビニまで、俺と一緒の傘でいいか?」


「別に構いません」


 家を出て傘を開く。俺は渚と自分の中心に傘がかかるよう、左手で傘を持った。

渚がそこに入ってくる。自然と二人の距離は近くなり、肩と肩が触れ合う。

心臓の鼓動が速くなる。今まで相合傘なんてしたことがないのだ。

しかも、相手は可愛いと思っている渚。どうしても緊張してしまう。

心臓の音が渚に聞こえないか心配だった。


 途中にあるコンビニに差し掛かる。俺はコンビニへ向かい、傘を買おうとしたのだが、


「もったいないから、このままでいいですよ。もちろん雨宮さんが嫌でなければ

ですけど」といわれた。


 正直、このままでいたいと密かに思っていた俺は、結局コンビニには寄らず、大学を

目指した。初めて相合傘の良さを知った。今まで相合傘をしている連中を見て、

なぜ、わざわざお互いが雨に打たれやすいことをするのか理解できなかったが、

今回の件で理解した。

渚と出会ってから、俺が忘れてしまった異性への気持ちというものを思い出しつつ

あるように感じた。



 大学に着き、図書館へ向かう。


「今日は講義を受けるんじゃないんですか?」


「講義は午後からだ。その前に図書館にいって本でも読もうと思ってさ」


「雨宮さん読書するんですね」


「大学に入る前は読書ばかりしていた。入学してからは、アルバイトと講義で

忙しくて読む暇がなかったんだ」


 図書館に入ると、渚は「おお」と感嘆の声を漏らしていた。

うちの大学の図書館は数年前に建て直したばかりで、まだ真新しく、広さもそれなり

だ。

 雨の日の図書館は人はまばらで、ぽつぽつとそこら辺に数名、人がいるだけだった。

俺は適当に図書館を見て周り、色々悩んだ末、ヘルマン・ヘッセの短編集を

選んだ。午後の講義までに読める本がよかったから、短編集は丁度いい。


 渚は俺の隣に座ると、昨日買ってやった本を読み始めた。


「せっかく図書館にきたんだから、他の本を読めばいいのに」

と俺がいうと、


「たしかにそうなんですが、私は雨宮さんが買ってくれた本が読みたいんです。

雨宮さんが買ってくれた大切な本ですから」

 嬉しいことをいってくれる。買ってやった甲斐があるってものだ。


 それから二人で本を読み、お昼になったら学食で昼食を食べた。



 午後になって講義が始まるので教室へ向かう。席へ座って、少しすると、

見知った顔のやつが教室に入ってきた。俺の近くに向かってくる。

これはチャンスだ。ここで挨拶ができればかなりの進展が見込めるかもしれない。

心臓が高鳴る。挨拶をするだけで、人はここまで緊張するものなのだろうか。

唾を飲み込み、声を発声する準備をする。そいつが俺の横を通りかかる。今だ。


「よ、よお」

 震えた情けない声が出た。相手はそれに気づき、こっちを向く。

「よう」

と返された。

 それから俺はどうにか話題を引き出そうと頭をフル回転させる。

しかし、頭の中は真っ白になり、なにをどうやっても話題が出てこない。

そうしているうちに、相手はそのまま行ってしまった。

落胆する俺の隣で溜め息が聞こえた。


 それからまたしばらくして、他の知っているやつが現れた。そいつに視線を向け、

挨拶をするタイミングを見計らう。だが、今度は挨拶の声さえ出てこなかった。

隣でさっきよりも大きな溜め息が聞こえた。


 結局、この日は一人に挨拶をするのが精一杯だった。

我ながら情けない結果に嫌気がさした。

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