第6話まずは挨拶です

 今日は大学の講義がない日だ。大学の講義は基本的に自分の受けたい講義を

受講するという方式で、云わば自分で時間割が決められる。

それはつまり、どの講義も休みである土曜、日曜以外にも休日を作れるという

ことだ。

 そして俺はその休日を平日に一つ設けてある。それが今日というわけだ。


 いつもなら朝早くに起きて大学へ行かなければいけないのだが、今日は

ゆっくりと気の向くまま寝ていることができる。アルバイトも辞めた俺にとっては、

完全に自由な一日。



 微かに雨音が聞こえる。二度寝か三度寝ぐらいしただろうか、

俺はまたまどろみを楽しんでいた。

寝ているときと起きているときの狭間。なんと表現したらいいのだろう。浮遊感、

幻と現実、それがたまらなく心地いい。


 それをたっぷり堪能してから、ベッドの上で体を起こし目を窓の外へと向ける。

どんよりとした灰色の雲が空全体を覆い、そこから水の雫が

しとしとと降り注いでいた。


 二階の部屋から下の道路を眺めると、色とりどりの傘が見えた。それはまるで

白い画用紙に水彩絵の具をいたずらに垂らしたようだった。赤、黄色、青、黒、緑。

それぞれの絵の具が垂らされている。見ようによっては少々幻想的かもしれない。


 外を見てから部屋の隅を見た。少女はいつもの格好、いつもの姿勢で座っていた。

渚は俺の方を一瞥し、


「ずいぶん遅い起床ですね」といってきた。


「今日は休みだからな。今までは大学が休みでもアルバイトがあったりで、丸一日

休みっていう日はあまりなかったんだ」


「じゃあ今日はなにするんです?」


「今後、いったいどうすれば俺に友達ができるか考える」


「なるほど。やっと本格的に考え始めたわけですね」


「そういうことだ。だが、まずは飯を食わないとな。カップ麺でいいか?」


「私は構いませんけど、もっとちゃんと栄養あるもの食べた方がいいと思いますよ?」


「今冷蔵庫の中は空だ。それに起きた直後にこの雨の中買い物にいきたいとは

思えない」


「そうですね。ではカップ麺が遅めの朝食っていうことにしましょうか」


 それから俺は湯を沸かし、カップ麺に注いで三分待ち、部屋の真ん中にある

テーブルに、二人向かい合わせになって食べた。


 空腹を満たしたところで、今後のことについて考えることにした。

かといって俺一人で考えても今までとなにも変わらない。

ここは渚の力を借りるべきだろう。

 俺は「さてと」と切り出し、渚に対して率直にこう訊いた。


「なぜ、俺に友達ができないんだと思う?」


「随分、直球な質問ですね」


「他に訊き方を知らなくてな」


「そうですね……雨宮さん、昨日の大学で他の人と全く関わろうとして

いませんでしたよね?」


「そうだな」と相槌を打つ。


「あなたは別に容姿が悪いわけでも清潔感がないわけでもないんです。

他人に不快感を持たせるようなことは、見た目に限ってはありません。

だから、普通に挨拶して、普通に話しかける。それだけでいいんですよ」


「その普通ってやつが問題なんだ。俺にはその普通な能力が備わってないんだ。

備わってたらあんたを雇って問題を解決しようなんて思わない」


「なるほど、一理ありますね。でも、まず話しかけないことにはなにも始まりません。

まずは挨拶をしましょう。人間の会話というものは、挨拶に始まり、挨拶に終わる

ものなんです。挨拶ぐらいする知り合いぐらいならいるでしょう?」


「たしかにそれぐらいのやつならいる」


「では明日、その人に挨拶をしましょう」


「どう挨拶すればいいんだ?」


 はあ……と渚が嘆息を漏らす。


「挨拶というのは、おはようとか、こんにちはとか、そんなのでいいんです。

あくまで話すことのきっかけなんですから」


「わかった。『あくまで話すことのきっかけ』」俺はその言葉を反芻する。


「そうです。そして挨拶が済んだら、いよいよ会話です。話すんです」


「それはなにを話せばいいんだ?」


「そんなの天気の話でも、勉強の話でも、最近なにがあっただの、そんな程度の

ことでいいんですよ。簡単じゃないですか」


「挨拶をしてから会話だな。そして天気とかの話をする、と」


「はい、その通りです。雨宮さんの場合まずは挨拶の練習からした方がいいかも

しれませんね。今日から毎日私に、『おはよう』と『おやすみ』の挨拶をしてください」


 なんだか照れくさいと思ったが、その提案に承諾した。俺は今日から毎日、

渚に「おはよう」と「おやすみ」をいう。まるで同棲している男女みたいだなと

思った。


 それから俺たちは雨が止んで曇り空だけとなってからスーパーへいき、買い物をした。

その後、本屋に寄り、渚が読みそうな本を適当に数冊買った。

これで少しは暇つぶしになるだろう。いつも部屋の隅で暇そうにしているからな。

帰り道の空気は水分で満たされ、雨上がり独特の匂いがした。



 夕飯を食べ終わりいつものように晩酌をする。渚は相も変わらず部屋の隅に座っていて、

なんだかこの光景が落ち着くようになってきたと思う自分がいた。

そして暇そうにしている渚にこう話しかけた。


「なあ、渚」


「なんでしょう? お酒は飲みませんよ」


「そうじゃない。あんたにプレゼントがあるんだ」

 俺はそういって先ほど本屋で購入した本数冊を渡した。


「なんですかこれは?」


「いつも暇そうにしてるだろ? いい暇つぶしになるんじゃないかと思ってな」


「こんなに貰っていいんですか?」


「構いやしないさ。協力してもらってるお礼だと思ってくれ」


「すでに雨宮さんは魔法協会にお金を払ってるじゃないですか。受け取れませんよ」


「じゃあチップだとでも思ってくれればいい」


 渚は少し悩みつつも本を受け取ってくれた。


「ではいただきます。ありがとうございます」

 そういうと、早速一冊目の本を手に取り、読みだした。

俺はその光景をながら酒を飲んだ。

渚がページをめくる音だけが聞こえる。


 酒を飲み干した後、ベッドに横になる。

そして電気を消そうとしたとき、渚が「挨拶はないんですか?」

といってきた。

俺は少し照れながら「おやすみ」といった。渚は「おやすみなさい」

と答えた。



 布団に入ったものの、なかなか寝付けなかった。明日、大学で知り合いに挨拶

をし、会話をすると考えると緊張したのだ。

こういうときはどうすればいいのか、それは経験的によく分かっていた。

 電気スタンドを点け、棚からCDとウイスキーを取り出す。

眠れない夜にはジャズを聴きながらウイスキーを飲むのが一番だ。

CDをプレイヤーにセットし、ヘッドフォンをつける。

それはジャンゴ・ラインハルトのCDだった。

ウイスキーをグラスに注いでストレートで飲む。

 軽快だけれども、どこか心に染みるピアノとギターの音が眠れない夜には似合いだ。

 しばらく酒を飲んでいたら眠気が訪れた。

 俺はその眠気に身を預け、そのまま眠りについた。


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