第4章:深き淵より
[1]
腐った体にすがる者は蠅に困らない。 モンヴァサの諺
ギーッと音を立てて、祭壇の上部が口を開けた。蓋を横にずらし、暗がりにカンテラを照らしてみる。石段が地下に続いていた。
ギデオンは祭壇をまたぎ、石段を下り始めた。古い石は荒く削り出されている。下りきったところは洞窟だった。壁は乾燥している。向かいに大きな丸い岩があり、大きな盆を立てかけたように行く手を塞いでいた。岩の外周に文字が刻まれている。
カンテラをかざし、岩の縁に彫られた文字の解読を試みる。エラス語のように見える。エラス語はニカイア帝国の公用語だった。暗がりの中、かろうじて皇帝ゲオルギウスと皇后ゾフィの名前が読み取れた。
「聖ゾフィ・・・姉さんが尊敬する人だね」
不気味に静まりかえった空間に自分の声が響いた。心なしか孤独が薄れるような感じがする。ギデオンはそのまま喋り続けることにした。
「シンボリズムとしてはごく標準的なものだよ、姉さん。階段の下の入口は丸く、その上の祭壇は四角い。丸と四角の組み合わせは民を保護するシンボルだよ」
ギデオンは丸い岩の床をカンテラで照らしてみた。溝が掘られている。この岩戸は脇に転がす仕組みになっているようだ。
「皇帝ゲオルギウス閣下、どうぞお許しを」
ギデオンはカンテラを置き、岩戸に両手をかけて押した。最初はやや抵抗があったが、やがて岩は滑らかに転がって脇に退いた。ギデオンはカンテラをかざす。その先にさらに洞穴が続いていた。胸の激しい鼓動を抑えつつ、ギデオンは歩を進めた。
広い空間が眼の前に開けている。周囲をカンテラで照らす。ギデオンの顔は青ざめた。そこは天然の洞穴をさらに掘り広げた洞窟だった。壁一面に彫刻が施されている。教会のモザイクよりも原始的で、背筋がぞっとするデザインだ。
悪魔があらゆる角度から自分を睨んでいる。残虐きわまる一連の地獄図が壁をびっしりと埋め尽くしていた。老若男女を問わず、あらゆる人間が悪魔にいたぶられている。人間の肉欲を描いた彫刻もある。情欲の入り混じった苦痛と恐怖の世界が広がっていた。脳裏にクーベリックのデッサンが浮かぶ。ギデオンは胃がむかむかしてくるのを感じた。
岩壁からは鎖や手枷、足枷のような拘束具がぶら下がり、その下には岩を四角く削り出したテーブルが並んでいた。カンテラの明かりで金具がきらりと光った。大きな五寸釘、ペンチ、火箸、ノコギリなどの道具だ。乾燥した空気のためかほとんど錆はなく、どれも黒い染みがこびりついていた。
「一体ここで何があったんだろうね、姉さん」
カンテラで洞窟の中を照らしてみる。祭壇のような石のブロックが見えた。ブロックに近づいていくと、視界の隅で何かがちらりと動いた。ハッとして振り向いてカンテラを突き出した。途端にジュッという音がして、火が消えてしまった。深い闇が視界を閉ざす。
「クソッ!」
何かがさっと通り過ぎ、ギデオンの足首を軽く触れた。唇を噛み、叫びを押し殺す。カンテラを振ってみる。オイルが空になったようだ。オイルを足して再び明かりが灯る。あやうくカンテラを落としそうになった。
眼の前に怪物が立っている。両手を伸ばし、鋭い爪でギデオンに襲い掛かろうとしている。刹那、それが石像であることが分かった。思わず笑おうとしたが、出てきたのは甲高いしわがれ声だった。
「なかなか見事な石像だね、姉さん」
牙を剥きだした肉食獣の頭を持った男の裸像だった。鷲の脚、背中に四枚の翼とサソリの尾、股間は蛇の男根。全長は約3メートル。腹のあたりにくぼみが彫られている。ギデオンはくぼみに手を入れた。その奥に別の像が彫られていたようだ。形はピジクスが持っていた拓本の偶像そのものだった。
「偶像はどこに行ったんだろうね、姉さん?」
ギデオンは石像から少し離れてみた。床には円を描くように文字が刻まれ、左回りに内側に向かっている。その円の中心に、祭壇と思しき石のブロックがあった。ギデオンの方向感覚が正しければ、それはちょうど上の教会にある四体の天使像の真下に位置しているようだ。祭壇には鎖や足枷、腐った革製の手錠などの拘束具が巻きつけられていた。下方に穴が開き、石の表面に深い溝が刻まれている。
「ここは第2の寺院なんだ・・・」
ギデオンはなんとか気を紛らわそうとして口を開いた。
「上の教会よりも古い。皇帝閣下、あなたの民がここを見つけた。ここを改修して、ずっと後になってから、その上に新たな教会を建てた」
ギデオンはしゃがみ込む。カンテラで床の文字を照らし出した。
「これはニカイアの魔術だ。呪文を唱えながら、内側に向かって円を描くように歩いていき、中心にたどり着いたところで魔法がかかる・・・」
もう一度、祭壇を照らしてみる。
「これは血の染みのようだ・・・皇帝閣下、あなたの臣民がここで犠牲になった。生贄にされたんです」
ギデオンは表面に刻まれた溝を入念に調べた。
「これも魔術だ。注がれた血が溝を伝わって流れ、あの穴に入る。悪魔か神か、その中にいる何かを養うために。まるで宗教裁判のようだ。もちろん、閣下はご存じなかったんでしょう。あなたなら、このような蛮行をお許しにはならない」
手の甲がムズムズする。ギデオンは視線を落とした。1匹の蠅が指の上を這っている。掌を返してみる。今度は3匹いた。シューッという奇怪な音がして、何かが足元をかすめた。カンテラで床を照らしてみる。
床が蠅に覆われていた。何億という数の蠅が蠢いている。まるで海のようだ。すでに足首がつかるほどに深い。ギデオンがハッと息を飲んだ瞬間、周囲の蠅が一斉に爆音のような唸りを上げて飛び立った。
ロキリアは苦痛に満ちた悲鳴を上げた。そばにはティティがしゃがみこみ、両手を差し出して赤ん坊を待ち受けている。フェラシャデーともう1人の助手がロキリアの身体を支え続けた。ロキリアは疲れている。体重が次第にフェラシャデーの腕や肩にずしりとのしかかってきた。
「いきんで」
ティティは励ました。
「もっと強く!」
ロキリアは歯を食いしばる。懸命にいきむ。
「ほら、見えた」
ティティは安堵の声を上げた。
「頭が見えたよ。もうお母さんだ。もう少し・・・ほら、頑張って!来た!」
赤ん坊がするりと生まれ落ちた。ティティがギャッと叫び、赤ん坊を取り落とした。赤ん坊がロキリアの脚の間に転がる。後産が生温かい塊となって排出され、ロキリアはすすり泣いた。ティティはさらに悲鳴を上げる。フェラシャデーはロキリアが横になるのを手伝った。
「赤ちゃんは?私の赤ちゃん・・・」
ティティは小屋の隅まで後ずさりしていた。眼を見開き、激しくあえいでいる。フェラシャデーは足元に眼をやった瞬間、両手を口に当てる。叫びだしそうになるのを必死にこらえた。
赤ん坊は明らかに死んでおり、その小さな身体はびっしりと白い蛆虫で覆われていた。ロキリアの股間から大量の蛆虫が吐き出される。後産が蛆虫と一緒にのたくっている。腐った肉の甘く強烈な臭いが小屋を満たした。身体を起こしたロキリアは赤ん坊を見た途端、絶叫した。
入口のシュロの葉を押し退け、セビトゥアナがずかずかと入ってきた。その眼は生まれたばかりの息子の腐乱死体をとらえた。セビトゥアナの顔はみるみる青ざめ、怒りのあまり岩のように硬直した。
「白人の侵略者どもめ!奴らの仕業だ!」
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