[8]

 ルイスは柄杓から水を飲み、柄杓をバケツに戻した。ペットのアカゲザルがホテルから飛び出してきて、バケツに走り寄った。名前はボボ。ルイスは柄杓で水を飲ませ、柔らかい頭を指でなでてやる。

 突然、ボボが金切り声を上げた。思わず手を引っ込める。ボボはシューッと唸り声を発してルイスの背後に向かって牙を剥きだした。ルイスは振り向いた。薄明りのついた戸口にジョセフが立っている。

「こわい夢を見たんだ」

 ジョセフがそっと言った。ボボがまた唸り声を上げた。ルイスはボボをたしなめた。パパはあまり猿が好きじゃない。ちょっとでも何かあると、ボボを捨てられるかもしれない。

「もう遅い。寝よう」

 ルイスは精一杯、兄らしく言った。ジョセフは激しくかぶりを振る。

「パパに怒られるぞ」

 ジョセフはホテルの裏庭に造られた簡素なベランダに眼をやった。ギデオンからもらった小さなロックハンマーが床に転がっている。ジョセフが手を伸ばすより早く、ルイスはさっとそれを拾い上げて弟をからかうように頭上に持ち上げた。ボボがまた金切り声を上げる。ジョセフは爪先立ちになって、懸命にロックハンマーを取り返そうとする。

「返せ!ぼくのだ!」

 ルイスは庭に後ずさりした。ボボが後を追うジョセフにシャーッと威嚇する。ジョセフはとうとうと泣き出した。

「わかった、わかった」

 ルイスは慌てた。パパを起こしちゃまずい。

「部屋に戻れば、返してやるから」

 泣き止んだジョセフは激しくすすり上げた。ボボがシューッと鋭い声を上げ、ルイスの肩に飛び乗った。刹那、腐った肉のような湿った息の匂いがルイスの鼻をかすめる。暗がりから黒い獰猛な影が躍り出た。ボボの身体が宙にさらわれ、悲鳴がグシャッというこもった音とともに止んだ。

 ルイスの身体は震えた。すぐ眼の前に黄色く光るハイエナの双眸が睨んでいた。口からボボの身体がぶらさがり、地面に血をボタボタと垂らしている。ボボの血と内臓の匂いが鼻を突いた。ジョセフが引きつったような声を上げた。不気味な笑い声がする。物陰から2頭目のハイエナが現れた。堅い地面の上で爪をカチカチと鳴らしながらジョセフに近づいている。

「ジョセフ!」

 ルイスは囁いた。

「ジョセフ、気をつけろ!」

 ルイスは2頭目のハイエナを見た。ジョセフは呼吸が浅くとぎれ、足がすくんでしまったようだ。弟の身体もボボのように、グシャッと音を立てて砕けるのだろうか。ところがハイエナはジョセフのそばを通り過ぎ、ルイスに向かってくる。

 ぎょっとして後ずさりする。すぐ後ろに3頭目が現れた。耳元でせせら笑いが聞こえる。ベトベトした唾液と腐った肉の臭いが降りかかる。ルイスは失禁した。生温かい液体が足を伝わる。3頭のハイエナはじっとルイスを睨んだまま、円を描くようにゆっくりと周りを歩き始めた。

「パパを呼べ、ジョセフ」

 ルイスは喉をつまらせた。

「早く!」

 ジョセフはその場に凍りついていた。1頭のハイエナがルイスの脇腹めがけて稲妻のように前脚を振った。焼けつくような痛みが全身を貫いた。ルイスは絶叫する。けたたましい笑い声を上げ、2頭目が飛びかかる。ルイスは悲鳴を上げた。

 アンはベッドから飛び起き、ホテルの廊下を駆けた。今しがた耳にしたものが何なのか分からないまま、キッチンを突っ切って裏口から飛び出す。

 裏庭では、惨劇が繰り広げられていた。ジョセフは眼を見開き、3頭のハイエナからわずかに離れた場所に立ち尽くしている。ハイエナはルイスの身体を貪っていた。1頭が左腕、2頭目が肩、3頭目が脇腹に食らいついている。血が噴水のように迸る。ルイスの悲鳴が闇を切り裂いた。なす術もなく立ち尽くしていると、すぐ後ろにギデオンがやって来たのに、ほとんど気づかなかった。

「どけ!」

 アンを押し退けるやいなや、ギデオンは両手で銃を構えた。くすんだ黄金色をした回転式拳銃。轟音が耳をつんざき、1頭のハイエナの頭が吹き飛んだ瞬間、ハイエナの身体が青白い炎を上げて塵となって消えた。

 残った2頭の内、体格の大きい方がルイスの頭に噛みついた。ギデオンは即座に2頭目に向かって発砲した。だが銃弾は上方をかすめ、2頭のハイエナはルイスを引きずりながら走り去った。その後ろから、オラトゥンジが大声をわめき散らしてライフル銃を振り回しながらハイエナを追っていった。

 ジョセフが白目を剥き、地面に崩れ落ちた。アンはすかさずジョセフを抱え上げ、病院に走った。

 病院に着くと同時に、ヘレーネが勢いよくドアを開けた。

「悲鳴と銃声が聞こえたけど、一体・・・?」

「ジョセフよ。ショックで失神したの」

 病院の中はすでにランプに火がともっている。アンは空いているベッドにジョセフを横たえる。ヘレーネが瞳孔と脈をチェックした。唇と歯茎が真っ青になっている。

「脈拍も呼吸も浅くて速いわ。チアノーゼを起こしかけてる。ショック状態だわ。そこの毛布を取って、早く!」

 アンが隣のベッドから引きはがした毛布をジョセフの身体に巻きつけた。ヘレーネはジョセフの腕を持ち上げて、点滴の用意をしている。

「脱水症状を緩和する以外、たいしたことはできないわ。一体、何があったの?」

「ハイエナよ。眼の前で、ルイスがハイエナに襲われたの」

 ヘレーネは息を呑んだ。ドアがばたんと開いて、ギデオンが飛び込んできた。

「見ましたか、ギデオン?」アンは言った。「ジョセフは眼の前にいたのに、ハイエナは無視したのよ!」

「奴らはルイスに集中していた。それだけのことです」

 しかし、自分の耳にもその言葉は白々しく響いた。普通ならハイエナは当然、2人に襲いかかるはずだ。獲物が多いほど、分け前も多い。

「まるで奴らには、ジョセフが見えてないようだったわ」

 アンが断固として言った。

「何が言いたいんです?」

「この地に悪魔がいる・・・」

 ギデオンは呆れたような仕草をしてアンから眼をそらした。

「あなたはたしか、悪魔祓いに関する論文も書かれてましたね」

「なんですか、急に?」

「あの銃は祓魔師エクソシストしか持ってないものよ。撃たれたハイエナは青白い炎を上げて、塵に変わった・・・」

 ギデオンはアンの言葉を遮った。

「ヘレーネ、今夜なにか異常はなかったですか?」

「いえ。特に、何もないわ」

 ヘレーネはジョセフの肘の内側を消毒し、点滴の針を刺した。ジョセフは全く反応しない。

「あなたは何か気づいたんですか、シスター?」

「あたしは・・・その・・・」

 アンはギデオンから厳しい視線を向けられて口を噤んだ。

「いや。何も」

「明日はやっぱりエヴァソへ行くの?」ヘレーネは聞いた。

 ギデオンはうなづいた。

「クーベリックに聞きたいことがある。何か必要な物があれば、リストを作ってください。貰ってきますから」

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