[7]
アンはホテルの堅い木の床にひざまずき、低い声で夜の祈りを唱えた。子どもの頃からずっと続けている、1日の終わりの静かな儀式だ。心がほっと安らぎ、さまざまなストレスやプレッシャーから解放される。たとえひと晩の間だけでも、自分の悩みを神の前にさらけだし、安らかに眠れるのは有り難いことだ。
明日はいよいよミッションスクールを始めなければならない。教科書や資料はひと揃い持ってきている。教室はオラトゥンジがホテルの空いた部屋を提供してくれる。今までは発掘現場に行かねばならず、また学校を開く前にデラチをよく知る必要があるからと言い訳して、開校を1日延ばしにしてきたのだ。しかし、たしかに遺跡の発見は教会の注目に値するものだが、出土品の扱いについては、ギデオンが自分よりもはるかにふさわしいことも事実だ。正直に言って、あの遺跡には心身ともにすくんでしまった。
自分は学校を言い訳にして、遺跡を避けようとしているのか。アンは唇を噛んだ。そうかもしれない。しかし、学校を立ち上げるのは自分の仕事である。それに早いことに越したことはないのだ。
それにしても・・・と、アンはギデオンについて考えた。ヘレーネと初めて会った時、ギデオンは何か衝撃を受けたような表情を浮かべていた。例えはよくないが、まるで死んだはずの人間に再び会ったような感じだった。戦争がきっかけでギデオンは神への信仰を失ったと人伝に訊いたことがあったが、そのことと関係があるのだろうか。また、不思議だったのはヘレーネとギデオンの顔だ。世界には自分と似ている人が3人はいるという話だが、ヘレーネとギデオンは本当によく似ていた。まるで血のつながった姉と弟のように。
いつの間にか祈りを中断していることに気づき、アンはため息をついた。今は明日の朝まで悩みを忘れるべきで、いつまでもくよくよと考えるのはよくない。アンは眼を開けた。ふと見ると、壁にかけた十字架が逆さまになっている。
「誰が、こんな・・・」
刹那、地中の教会で逆さ吊りにされた巨大な十字架が頭によぎり、身震いする。あのような冒涜を誰がどうやって、やってのけたのだろう。謎が増えれば、悩みも増える。アンは震える手で十字架を元に戻し、ランプを吹き消してから部屋を出た。闇に閉ざされた部屋の壁にかけた十字架が再び逆さまになっているのには気づかなかった。
ギデオンは自室のベッドに腰掛けていた。隣からドアを開け閉めする音がする。アンが礼拝室から戻ってきたのだろう。部屋はまた、時計の音だけになった。
ベッドの周りに並べたクーベリックが描いた悪魔のデッサンに眼を戻した。その中心にピジクスから渡された拓本がある。デッサンを見つめる。絵の中に隠された意味を見出そうとした。しかし、何も見つからない。諦めて紙をまとめて寝ようとした時だった。開いた寝室の入口に、女性の影が立っていた。ギデオンは顔を上げた。
「ヘレーネ?」
そっと呼びかける。返事はない。女性が掌を開いた。切り裂かれたような傷口が露わになり、鮮血が滴った。ギデオンはベッドから立ち上がろうとした。デッサンと寝具が身体にまとわりつき、身動きが出来ない。
《なんとかしてやらないのか、神父?》
耳元で湿った声がした。ギデオンが背後を振り向いた。すぐそばに黒い制服を着たアメンドラ党親衛隊の将官が立っている。襟に特尉の記章が見える。
「ヘンケ?」
部屋の壁にかけられた時計の音が行進する軍靴になった。8歳くらいの少女が歌いながら、石畳をスキップする。冷たい雨が降りしきる中、広場には村民がひとかたまりに身を寄せ合っている。その周りでサブマシンガンを手にした兵士たちが村民を見張っている。
《おい、神父。名は何という?》ヘンケは言った。
「ローレンス神父だ」
ギデオンは必死に立ち上がろうとしながら言った。
ヘンケは村民の中から10代の娘を引きずり出して頭に拳銃を突きつけた。
《今日、神はここにいないよ。神父》
「やめろ!」
ギデオンが叫んだ瞬間、ヘンケは少女の頭を吹き飛ばした。
眼を見開いたギデオンはベッドから跳ね起きた。デッサンが床に落ちる。ランプの灯が消えかかり、薄暗がりが部屋を包んでいる。辺りを見回した。何も変わったところはない。
呼吸は荒く乱れ、心臓は早鐘のように鳴っている。耳の傷がズキズキと脈打つ。ギデオンはデッサンの中に横たわり、長い間じっとしていた。いつもと同じ、ただの悪い夢だ。紙をまとめ始め、ピジクスから渡された拓本に眼を止めた。悪魔がじっと自分を見つめているような感じがする。拓本に手を伸ばし、ふと時計の音が止まっていることに気づいた。
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