[3]

 教会の屋根に取り付けられた滑車装置につながれたロープにしがみつき、ギデオンは闇の中を滑り降りていった。頭上には丸天井がぽっかりと口を開け、青空がのぞいている。眼下には小さな光の点があり、それを大きな明かりの輪が取り巻いている。光の点はせわしなく揺れ動いた。

 ギデオンは手袋をはめた手に力をこめ、速度を調節しながら底に近づき、頃合いを見計らってロープから飛び降りた。堅い石の床に着地する。

 床には天井から埃っぽい白い光が落ちている。ちょうどその真ん中に、見るからに落ち着かない様子のムティカがカンテラを手にして立っていた。ギデオンは暗がりに眼を凝らした。闇の奥は見えない。

 教会の中はひんやりとしている。埃の匂いがする。空気は乾燥していた。周囲は広い空間が広がっているのを感じる。

 頭上に影がよぎる。ムティカが飛び退いた。ギデオンも身をすくめた。影の主はアンだった。ロープを降りてきたアンは軽やかな身のこなしで床に降り立った。カーキシャツを黒いワンピースの上に羽織っている。

「ついてきたんですか?教会を代表して」

 ギデオンの声は周囲に反響した。アンは闇の奥にじっと眼を向けている。

「歩き回って大丈夫なんでしょうか?」

「本来なら、ダメでしょう」

 闇の中にはどんな危険が潜んでいるか分からない。瓦礫、崩壊した床、どこかの隙間から入り込んだケモノ。身の回りの安全を十分に確保した上で、もっと強力な照明設備を運び入れ、建物がしっかりしているかどうか技術的な調査をすべきだった。

 アンは子どもの頃に聞いた迷信を思い出した。元日に最初に家に入る人間は金髪でなければならないという話だった。ギデオンの髪はダークブラウン。これは不運を意味する。実際に、最初に教会に入ったムティカの癖毛は黒。アンも黒。そんな考えをギデオンの言葉が打ち消した。

「まぁ、とにかく見てみましょう」

 ギデオンはムティカが床に置いたもう1つのカンテラを手に取り、火をともした。少なくとも過去千年間、この教会に足を踏み入れた者はいない。自分がその最初の人間になるのだ。大きく息を吸った。

 用心のため、まず床を調べる。石の表面は滑らかで、外壁と全く同じものだ。空間に奥行きがあり、はるか頭上に天井の高みが感じられる。カンテラの明かりで闇を払いながら、ギデオンは踏み出した。

「信徒席がないようね」アンは言った。

「ニカイアの教会は礼拝の間、信者はずっと立っていたんですよ」

 カンテラの明かりの中で、アンの顔が赤らんだ。

「それにしても、この地でどんな礼拝が行われたのかしら?」

「それを調べるのが、ぼくらの仕事です」

 前方に身廊が伸びている。暗闇がカンテラの光を飲み込んでいる。身廊には二列の柱が平行して並び、空間を三等分している。左右の柱の両側にそれぞれ回廊を造りだしている。

 ギデオンは独りうなづいた。ここまではごく普通のカテドラルだ。教皇府の聖ヴィクトリア大聖堂ほどではないが、天井も高い。唯一、気になるのは窓がないことだ。最初から埋めるつもりで建てたということなのか。ギデオンは畏敬の念を持って周囲を見つめた。ここで学ぶべきことは多い。

 床には分厚く塵が積もっている。歩く度に床から舞い上がった埃がカンテラの光の中で躍った。聞こえてくるのは、後から黙ってついてくるアンとムティカの息づかいだけだ。

 3人は正面玄関にたどり着いた。ギデオンは巨大な柱に歩み寄った。埃っぽい白い円柱が大木のように林立している。ギデオンは考えながら呟いた。

「妙だな・・・」

「アファルの砂漠にニカイアの教会があること以外に?どういうこと?」

 アンが聞いた。

「ここには窓がないし、正面の扉もどうやら簡単に開きそうにない。つまり、ここは人が出入りするようには出来てないんだ」

「我々も含めてね」

 ムティカがむっつりと言った。

 その時、3人の足元でシューッと不気味な摩擦音が響いた。アンが素っとん狂な声を出して飛び退いた。水筒が床に転がる。何かが床を這っていった。ムティカがカンテラをかざす。砂の色をした太い蛇が浮かび上がった。

「パフアダーだ。猛毒です。甥っ子の友だちがこいつに咬まれて、あっという間に死んだんです。シスター、踏まなくてよかった」

「助かったわ・・・どうやって、ここへ入って来たの?」

 アンが荒く息をついた。

「どこかに隙間があいてるのかも」

 ギデオンはカンテラで壁を照らした。壁は一面、モザイクで覆われている。何千、何万もの輝く色タイルの欠片を貼りつけて絵を描いたものだ。ギデオンの眼は入口に最も近いモザイクに引き寄せられた。ドア付近まで戻り、間近に観察してみる。

 最初の柱の間から見える絵は神のものらしき空っぽの玉座が描かれ、その周りを天使たちが取り囲んでいる。その中に金髪で他の天使よりもひときわ背の高い、美しい天使がいる。アンは囁いた。

「ルシフェルだわ・・・最も神に愛された天使」

 2番目の絵は自らの軍を集めているルシフェル。3番目の絵はルシフェルの軍勢が大天使ミカエルに闘いを挑んでいる情景が描かれている。その先は天使たちの戦争が続いている。その次の絵で、ミカエルらがルシフェルの軍勢を天国から追い落としている。ルシフェルたちは果てもなく墜落し、次第に美しい顔と均整のとれた体が醜く歪み、地獄に堕ちる頃には騒々しい悪魔に姿を変えている。最後のモザイクは堕天使ルシフェルが地獄を支配し、大天使ミカエルが天上に君臨する様子が描かれている。

「ルシフェルが戦いに敗れ、天国から追放された。驚くべき作品ね」

「悪くないですが・・・」

 ギデオンは言った。アンが驚嘆している様子に、素直に同意できなくなってしまったのだが、それでもこれが非常に珍しいモザイクであることは事実だった。

「天国の戦いよりも、主が受けた十四の受難の場面を描くのが普通なんですが」

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