第1章:遺跡へ
[1]
迷子の羊は羊飼いの声を聞かない。 モンヴァサの諺
《ミスル公国・首都カーヘラ》
物乞いの子どもが入口の隙間から体をこじ入れ、カフェをすばやく一瞥した。窓からワラを編んだ簾をすかして強い日差しが差し込み、埃っぽい床を照らしている。安い作りのテーブルとぐらついた椅子が乱雑に置かれた店内はこの時間、ほとんど空だった。蠅がじっとりとよどんだ空気の中を飛び回っている。
物乞いの眼は独りの男に留まった。頭を垂れている男の顔はほとんど帽子に隠れている。物乞いは肩から下げたボロボロのカバンを背負いなおした。カバンの中で木片がカラカラと音を立てる。足を忍ばせて近づいて見る。男のテーブルの上には紅茶が半分ほど入ったグラス1つと、その脇に硬貨が適当に積み上げられている。物乞いはニヤッと笑い、そっと片手を伸ばした。
突然、男の手が硬貨の上にばたんと落ちた。顔はまだ伏せたままだ。物乞いは仕方なく曲がった歯をむき出しにして笑い、カバンを持ち上げた。木片が鳴る。
「ねぇ人形、買ってくれない?たったの10ピアスンだよ」
男が顔を上げる。物乞いはがっかりした。その顔立ちは思っていたよりも若い。年齢は10代後半といった感じだった。肌は白い。瞳は緑。
「ぼくが人形遊びするように見えるかい?」青年は言った。
物乞いはかまわずカバンから木製の人形を取り出し、テーブルの上に置いた。ジャッカルの頭を持つ、30センチくらいの人形だ。派手な原色に塗られている。
「アビヌスだね?なんで、ぼくが死に神の人形を買わなくちゃならないんだ?」
アビヌスはミスル公国に古から伝わる神である。死者の魂を審判の場へ運ぶと言われている。
「5ピアスンにまけておくよ。手作りなんだ。お願い、姉さんがひどい病気なんだ」
「隣の居酒屋で元気に働いているんじゃないか」
青年は眼の前のグラスを持ち上げ、ぬるくなった紅茶をひと口ふくんだ。物乞いは動こうとしない。
「なぁ、ほっといてくれないか?」
「いやだ。じゃあ、母さんに会ってよ。20ピアスンで」
青年は物乞いに眼をやった。みすぼらしい鞄にボロボロの服。まあいいか。10ピアスンもあれば、こいつの家族も少しはまっとうな食事にありつけるというものだ。青年はため息をついた後、テーブルの上の硬貨を1枚、相手に弾いてやった。硬貨をひっつかんだ物乞いは礼も言わず、逃げるようにカフェを立ち去った。アビヌスだけが残った。
「聖ヴィッサリオン?」
頭上から別の声がかけられる。青年は顔を上げた。眼の前に、年配の白人男性が立っている。上等な仕立ての麻のスーツに白い帽子。銀の持ち手のついたステッキを脇にはさんでいる。
「あまり賢明とは言えませんな。鳩に餌をやるようなものだ」
青年は黙ってグラスに口を当てる。
「1羽にエサをやると、100羽寄ってくる。挙げ句、頭にフンを落とされる」
「失礼ですが?」
青年は面倒くさそうに言った。男は向かいに腰を落とした。ぐらついた椅子がギシギシといやな音を立てる。
「ピジクスという者です、聖ヴィッサリオン・・・」
「その名で呼ぶのはやめてもらえますか」
「そうですか・・・なら、ギデオン・ローレンスさん。私はある骨董収集家に雇われてましてね。先週、ホテルにお手紙を差し上げたんだが」
「ああ、そう言えば」
ギデオンはぬるい紅茶を飲み干した後、ウェイターにグラスを持ち上げた。
「返事もしませんで」
「実はアファル大陸の東で、陸軍がある遺跡が発見しましてね。おそらく2000年前に建てられた教会なんですが・・・」
ピジクスはエメリアの公用語を話していたが、聞きなれない訛りがあった。ウェイターがグラスを持って来た。
店内はじめじめとした熱気を帯びている。ギデオンは2杯目の紅茶を口にふくんだ。紅茶の清涼な香りがこの街の饐えた臭いをかき消してくれる。残飯と動物の糞尿。土埃。人々の体臭などが入り交じった臭い。
「・・・いいですか?2000年前のニカイア帝国時代の教会なんですよ」
ピジクスはまだ喋っていた。ギデオンは相手を一瞥する。よせばいいのに。そう思いながら考古学者としての自分がふと頭をもたげ、かろうじて答えを掘り起こした。
「それは有り得ないでしょう。ニカイア帝国はそんな南まで進出していない」
「それが実際にあるのです」
ピジクスの両手がステッキの上にのっている。
「エメリア政府が発掘の資金を出しています。内部はおそらく、政府には想像もつかない、珍しい秘宝が眠っているはずだ。それを探して、持ってきてほしいのです」
ピジクスは分厚い封筒を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「ぼくに盗賊のマネをしろと?」
「いや。あなたは自分以外、何も信じられなくなった人間にすぎない。なかなか面白いお立場だと思いますがね」
「勝手なことを言わないでください。何も知らないくせに」
「そうでもありませんよ。あなたは6歳で初等教育を終え、9歳でギムナジウムを卒業。飛び級で聖コンスタンティン神学大学校に入り、考古学を専攻。12歳でイコンに関する博士論文を発表し、教皇から表彰される。その後は教会の派遣で、宗教関係の遺跡発掘に携わった。あなたの発掘した出土品のいくつかは教皇府に展示されていて、少なくともその1点は教皇の個人資料館へ移されている。15歳の時、教皇から侍従長になるよう要請されたが、それを拒否して司祭への道を選んだ。あなたは聖職と科学の両方に、情熱を捧げてきた」
ピジクスは首を横に振った。
「ま・・・それも今は昔、ですかな?」
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