謝罪と償い
翌朝。
いっそのこと会社を休んでしまおうかとも思ったけど、社会人としてそんな無責任な事をするわけにもいかない。
僕は仕方なく起き上がって台所に立った。
夕べはいろいろ考えてなかなか眠れなかった。
渡部さんの事も原因のひとつだけど、やっぱり一番悩むのは杏さんの事だ。
恋愛経験がないということは、杏さんは初めてだったんだと思う。
シーツに血がついてたのがその証拠だ。
それなのに酔って自分のした事を覚えていないなんて…僕はバカか?
バカというよりは、むしろクズだ。
いや、クズというよりゲス過ぎる。
僕が美玖にフラれた事は、杏さんにはなんの関係もないのに。
八つ当たりもいいとこだろ。
ここはやっぱり、土下座でもなんでもして、素直に謝るほかない。
酔っていたとは言え、責任取れとか訴えてやるとか言われても仕方のないような事をしたのは僕なんだから。
何を言われても仕方ない。
覚悟を決めて謝罪しよう。
いつものように出社すると、オフィスの床に杏さんが寝転がっていた。
また社泊したんだな。
それにしても無防備だ。
タイトスカートの裾から伸びるスラリとした脚が艶かしい。
……変だな。
今までこんな姿、何度も見てきたというのに。
寝起きの杏さんは色気がないと思ってきたはずなのに、今日はその寝姿がやけに色っぽく見える。
とりあえずコーヒーを飲みながら心を落ち着かせ、謝罪の言葉を口の中で何度も呟いた。
よし、僕も男だ。
覚悟を決めて誠心誠意謝ろう。
「杏さん、起きてください。」
僕が体を揺すると、杏さんは眉間にシワを寄せた。
「ダメだ…そこに味噌汁を入れたら…汁がこぼれる…。」
なんの夢を見てるんだ?
「杏さん、朝ですよ。」
「運搬時のコストを考えろ…。」
まったく…。
夢の中でまで仕事してるんだから、この人は。
せめて夢の中くらい、イケメンと恋愛とかすればいいのに。
もう一度、強めに体を揺する。
「杏さん、起きてください。」
「うーん…目標、客単価100万円!!」
ないない、いくらなんでもそれはないから。
思わず吹き出してしまった。
杏さんの見てる夢がちょっと気になる。
笑いを堪えていると、杏さんがゆっくりと目を開いた。
僕の顔を見ると、杏さんは驚いてのけぞった。
「う…わぁ!!」
ゴツン!!
鈍い音がした。
どうやら杏さんが床に頭を打ち付けたようだ。
「大丈夫ですか?」
あまりにひどい音がしたので、咄嗟に杏さんの頭を触った。
杏さんは身構えて顔を強ばらせた。
僕は警戒されてるらしい。
…当たり前か。
「そんなに怯えないでください。何もしませんから、打った所、見せてください。」
杏さんは何も言わずじっと身を固くしている。
頭を触って調べてみたけど、どうやらコブにはなっていないみたいだ。
「大丈夫みたいです。」
「ああ、うん…。」
僕が手を離すと、杏さんの体から一気に力が抜けるのが見て取れた。
僕は床に正座をして、杏さんに向かって頭を下げた。
「杏さん…すみませんでした。」
「……なんの事だ。」
「金曜の夜の事です。あの日、僕を送ってくれたのは矢野さんじゃなくて杏さんだったんですね。」
「そうだが…何か?」
杏さんはしらを切るつもりなのか、知らん顔をしている。
「僕…杏さんにひどい事しましたよね?」
「……そうだな。」
「酔っていたとは言え、僕のした事は人として許される事じゃないです。本当にすみませんでした。」
額を床に擦り付けながら謝ると、杏さんはため息をついた。
「鴫野、何をしたか覚えてるのか?」
「いえ…失礼ですけど、ハッキリとは覚えてません。でもこれ…杏さんのですよね?僕のベッドに落ちてたんです。」
ボタンを差し出すと、杏さんはそれを指でつまみ上げて、手の中にギュッと握りしめた。
「覚えていないか…。あれだけ酔っていればな…。」
「すみません…。できればお詫びというか、償いの意味を込めて何かしたいんですが…。」
「償いね…。それは鴫野が…。」
そこまで言って、杏さんはゆっくりと立ち上がった。
「顔洗ってくる。」
「ハイ…。あ、今日も弁当作ってきましたから!」
僕がそう言うと、杏さんは何も言わずに軽く右手を挙げた。
オフィスを出ていく杏さんの後ろ姿を眺めながら、僕は小さく息をついた。
杏さんは一体、何を言おうとしたんだろう?
午前中の試作班でのミーティングを終え、昼休み。
僕は試作室で杏さんを待った。
こんな時でも食事だけは欠かさない。
人間って、案外強いんだな。
お茶を淹れていると、杏さんがやって来た。
午前中の部長会議のせいか、杏さんは少しお疲れの様子だ。
部長会議のせい…かな?
僕との事が原因なんて事は…。
いやいや、仕事人間の杏さんに限ってそれはないだろう。
「お疲れ様です。」
「ああ、お疲れ。」
湯飲みを差し出すと、杏さんは熱いお茶をゆっくりと口に含んだ。
僕はバッグから弁当とスープポットを取り出して、杏さんの前に置いた。
杏さんは今日も静かに手を合わせ、小さくいただきますと呟いて、弁当に箸をつける。
そう言えば、ここ何日か、杏さんがカロリーバーをかじっている姿を見ていない。
デスクの横には注文したカロリーバーが段ボール箱ごと常備されているのに。
僕は弁当を食べる杏さんの表情をそっと窺いながら、味噌汁をすすった。
「今日の弁当はお口に合いますか。」
「うん…今日も美味しい。」
「それは良かったです。」
杏さんは時おり箸でつまんだおかずをじっくり眺めたり、匂いを嗅いだりしながら、黙々と弁当を食べ進める。
ちょっと変わってはいるけど、僕の作った料理に興味を持ってくれているのかも知れない。
昼休みが始まって30分ほど経った頃、杏さんの携帯電話が鳴った。
杏さんは口に入れた山芋の落とし揚げをモグモグと噛み締めながら、スーツのポケットの中の携帯電話を取り出した。
着信表示を見た杏さんは、不機嫌そうに深く眉間にシワを寄せた。
「食事中に悪い。」
「いえ…どうぞ。」
杏さんは立ち上がり、試作室の隅の方へ歩いて行って電話に出た。
何やらボソボソと小声で話しているところを見ると、どうやら仕事の電話ではなさそうだ。
「だから…その件はお断りしたはずです。」
盗み聞きしているわけではないけれど、語気を強めた杏さんの言葉がところどころ耳に入る。
「ええっ?今日ですか?待ってください。急にそんな事を言われても…。」
何やら杏さんが慌てている。
僕はなんとなく聞き耳をたてながら、知らんふりして豚のしょうが焼きを口に運んだ。
「わかりました、わかりましたよ。行けばいいんですね?でも期待なさっているようなお返事はできませんよ。」
珍しい。
杏さんがかなり興奮している。
一体、なんの電話だろう?
電話を終えた杏さんは、ため息をつきながら戻ってきた。
そして少し苛立った様子で、味噌汁の中の豆腐を口に入れた。
……ここはあえて、何も聞かないでおこう。
きっとプライベートな事だ。
上司のプライベートに踏み込むのは、部下としてタブーだろう。
いや、もうこの上ないほど踏み込んじゃった僕が言うのもなんだけど。
別に約束をしたわけでも、強制されたわけでもないのに、僕は当たり前のように杏さんの弁当を作っている。
大袈裟に誉めたり、わかりやすく喜んだり笑ったりはしないけれど、杏さんは杏さんなりに、美味しそうに食べてくれていると思う。
うわべだけならなんとでも言えるんだ、美玖みたいに。
『章悟の作った料理はホントに美味しいね!こんなの毎日食べられたら、幸せだろうなぁ。』
いつもそう言って食べていたくせに、心の中では地味でつまらないと思ってたんだ。
今更だけど、やっぱりヘコむな。
「どうした?」
杏さんが箸を止めて僕の顔を見た。
「食事中に難しい顔をして。鴫野らしくないぞ。」
杏さんの一言で、自然と笑みがこぼれた。
「そうですね。食事中にいろいろ考えるのはやめにします。」
「そうしろ。そんな顔してると、せっかくの美味しい弁当が台無しだ。」
何気ない杏さんの一言が、なんだかとても嬉しかった。
「…ですよね。」
どんなに体にいい美味しいものを作ったとしても、食べる本人の気持ちで味も何もかも、変わってくるんだ。
食べ物をいただくって、そういうこと。
僕はそんな基本的な事を、改めて杏さんに教わった気がした。
その後杏さんは、電話で時間をロスした分を取り戻すかのように、いつもより急いで弁当を食べ終えた。
残すのがよほどいやなのか。
今度から、杏さんの弁当の御飯はおにぎりにした方がいいのかも。
午後7時50分。
僕は杏さんに指定されたホテルのロビーで、ソファーに身を預けていた。
指定されたその意味もよくわからないまま、裕福そうな客やホテルマンの行き来する様子を眺めている。
弁当を食べ終わった後、試作室を出る間際に杏さんは言った。
「この間の事を反省しているなら、今夜7時半にホテルプリマヴェーラのロビーに来い。」
それだけ言い残すと、杏さんはさっさと試作室を出ていった。
なんでホテル?
まさか、金曜の夜の仕切り直しなんて事は…。
いや、ないない。
いくら僕が覚えていなかったからと言って、杏さんに限ってそれは有り得ない。
この場所と時間を指定した当人の杏さんと言えば、珍しく慌てた様子で、定時に退社した。
杏さんが定時に退社するなんて、滅多にない事だ。
社泊して床に転がっている姿なら、何度でも見てるんだけど。
それにしても喉が渇いたな。
時計を見ると、約束の時間から既に20分以上過ぎている。
時間に厳しい杏さんにしては珍しい。
もしかして、7時半にここで待ち合わせと言うのは嘘だったとか?
いや…バカ正直で真面目な杏さんに、そんな事ができるとは思えない。
でももしかしたら、酔った勢いでひどい事をした僕に対するちょっとした意地悪だったのかも…。
なんて、考えなくもない。
ホテルプリマヴェーラと言えば、泣く子も黙る超一流ホテルだ。
しがない若いサラリーマンの僕が気軽に出入りできるような場所ではない。
長い時間ソファーに座っている僕を、さっきからホテルマンや客たちが、チラチラと訝しげに見ている。
どうしたものか。
ここで帰ってしまうと、反省しているならと言った杏さんの言葉でここに来た僕の意にそぐわない。
こうなったら、摘まみ出されるのを覚悟の上で杏さんを待つしかない。
いつになったら杏さんは現れるんだろう?
時計の針が8時を指した頃、ようやく杏さんが僕の前に現れた。
しかし杏さんは、見た事もないようなエレガントなドレスを身に纏っている。
えーっと…。
なんだこれ?
杏さんてばお姫様みたいなカッコしちゃって。
仮装大会か何かですか?
紳士服の店で買った安いスーツ姿で仕事帰りに足を運んだ僕とは、どう見ても世界が違う。
そんな事はお構いなしで、杏さんは僕の腕を掴んだ。
「とにかく!そのお話はお断りします!私は彼と結婚します!!」
………え?
結婚って…なんの事だ?
まさか、金曜の夜の責任を取れって事なのか?
突然降って湧いた結婚話にパニックを起こしそうになる僕に、杏さんは振り返って、話を合わせろと小声で凄んだ。
話を合わせろと急に言われても…。
「会社の事はイヅルに一任すると言ったはずです。私は今の会社に勤めて、彼と結婚して家庭を築きますから!お祖父様にはご迷惑をお掛けしません!!」
…なんのこっちゃ。
状況はよくわからないけど、杏さんは僕と結婚するらしい。
お祖父様と呼ばれた老人は、険しい顔をして僕を睨んだ。
すごいオーラだ。
ただ者ではない。
あ、なんかヤバイな、これ。
どうしようか?
頭をフル回転させて、うまくこの場を切り抜ける方法を考える。
杏さんはまた、すごい目力で僕に話を合わせろと促した。
これは一体なんですか?と尋ねたいのを精一杯堪えて、僕は姿勢を正した。
「君はなんだね?」
お祖父様はすごい威圧感を漂わせて、静かに僕に尋ねた。
仕方ない。
杏さんの言う通りにしよう。
「はじめまして。鴫野 章悟と申します。杏さんと結婚を前提にお付き合いさせていただいています。」
…こんなもんか?
杏さんは満足げに小さくうなずいた。
「ほう…。君が杏の言う婚約者だと…。」
お祖父様、めっちゃ怖いんですけど!!
こんな大役、ホントに僕みたいな若造で良かったのか?!
しかし杏さんの手前、ここで怯むわけにはいかない。
「ハイ、真剣にお付き合いさせていただいています。」
今すぐ逃げ出したいのを我慢しながら僕がそう言うと、お祖父様はニヤリと笑った。
「真剣にな…。では君は、杏と結婚して、有澤グループのトップに立つ覚悟はもちろんあるんだな?」
……は?
なんの話?
有澤グループって言えば、外食チェーンとか大手食品会社を束ねる、国内でもトップクラスの大企業じゃないか!!
しかもそのトップに立てとか…。
これはドッキリか何かなのか?
怯む僕を、杏さんが睨み付けた。
こんな状況下でさらに猿芝居をしろと?
ええい、どうにでもなれ!
「杏さんからお話はうかがっております。僕はまだ若くて経験も浅いですが、管理栄養士をしておりますので、微力ながら御社のお力になれるかと。」
なんだそりゃ。
よくもまあ、そんな薄っぺらい無責任な台詞が出てきたもんだ。
そのアドリブ力に、我ながら感心する。
しかしこの猿芝居劇場は、いつになったら幕をおろすのか。
そろそろ、ここら辺で幕引きにして欲しい。
「杏!そんなパッとしない庶民の男のどこがいいんだ?約束通り、俺と結婚しよう!!」
幕引きどころか新しいキャストの登場だよ…。
というか…。
パッとしない庶民の男って…僕の事か?
改めて言われるとカチンとくる。
言っちゃなんだけどな、確かに派手ではないけど、それなりにモテんだよ!
思わぬところで、僕の自尊心に火が点いた。
こうなりゃとことんやってやる!!
「失礼ですが…あなたは?」
僕が目一杯冷静さを装って尋ねると、その男は敵意を剥き出しにして僕を睨み付けた。
「俺は市来 穂高(イチキ ホダカ)。杏のお祖父様に選ばれた婚約者だ。」
イチキ…?
イチキって、あの運搬業国内最大手のイチキコーポレーションか!
さしずめコイツは、イチキコーポレーションの御曹司ってとこだな?
そんな婚約者がいる杏さんって…一体何者?!
いやいや、杏さんのために、ここで負けるわけにはいかない。
ハッタリでもなんでもかましてやろうじゃないか!!
「失礼しました、あなたは杏さんのお祖父様に選ばれた方なんですね。でも僕は、杏さん本人に選ばれてお付き合いしているんです。」
僕がドヤ顔でそう言うと、イチキの御曹司は悔しそうに顔を歪めた。
「お祖父様、お願いします。私は彼を愛しています。他の人と結婚なんて微塵も考えられません。どうか、今回の縁談はなかった事にしてください。」
愛していますって…。
杏さん、恋愛経験もないのに、芝居とは言えそんな事が言えるんだ。
これにはかなり驚いた。
お祖父様は立派な顎ひげをさすりながら、うーんと唸った。
「杏がそこまで言うとはな…。わかった、この話は一度白紙に戻そう。」
その瞬間、イチキの御曹司は青ざめ、杏さんは嬉しそうに頬を紅潮させた。
…巻き込まれているとは言え、他人事ながら面白い。
「ただし、おまえたちの言う本気とやらを見せてもらおうか。」
……え?
なんですか、それは?
「見たところ、そこの若いのは庶民だな?結婚を許すのは、そんな男と暮らして本当にうまくいくのか、この目で確かめてからじゃ。」
えーっと…どういうこと?
「わかりました。私たちがどれだけ真剣に将来を考えているか、お見せしますわ。」
え、ちょっと待って。
それってつまり…僕と杏さんが一緒に暮らすって言うこと?
もしかしてその先に、ホントに結婚とか…。
いやいやいや、有り得ないでしょ?!
杏さんは僕の上司で、僕はしがないサラリーマンだよ?
なんでこんな事になったんだ?!
「それでは近々、二人の暮らしぶりを見に行く事にしよう。楽しみだのう…。」
お祖父様はニヤリと笑いながら、すれ違い様にすごい力で僕の肩を叩いた。
こっ…こえぇー!!
呆然と立ち尽くしていたイチキの御曹司は、慌てて杏さんに駆け寄った。
「杏、今からでも遅くない、考え直してくれ。俺と結婚しよう。」
「それは無理。私は彼と結婚する。いくらお祖父様が決めたからって、穂高と結婚は考えられない。」
「なんでだよ!!俺はずっと杏が嫁入りしてくれるのを待ってたのに!!」
…必死だな。
よほど杏さんが好きなのか、それとも家同士の兼ね合いの問題で引くに引けないのか、なんかイチキの御曹司がかわいそうになってきた。
「穂高はただの幼馴染み。それ以上に思った事はない。だからもし万が一結婚したとしても、指一本触れさせないから。」
うわ、きっつー…。
男として、さすがにこれはこたえるだろ。
「俺になんの不満があるって言うんだ!!庶民のその男のどこがそんなにいいんだよ!」
さっきから聞いてりゃ庶民庶民って…。
庶民バカにすんなよな。
「うん?どこがって…。章悟は美味しい御飯を作って食べさせてくれる。」
僕のいいところって、そこ?
そこだけ?
もっとそれ以外に何か…と思ったけど、御曹司に勝てるとこなんて他にないか。
「美味しい料理なら、うちの料理長がいくらでも食べさせてくれるよ。三ツ星レストランのシェフを引き抜いたんだから!」
ボンボンめ。
三ツ星レストランのシェフみたいに派手な料理作れなくて悪かったな。
なんせ僕は調理師じゃなくて、管理栄養士だ。
料理は僕自身の趣味みたいなもので、プロの調理師が作るような物とは比べ物にならないだろう。
ましてや相手は三ツ星レストランのシェフなんて、僕はその足元にも及ばない。
「穂高の家の料理長の作った料理がどれだけ素晴らしくても、私は章悟の作った料理が一番好き。」
杏さん、かわいいこと言う!!
そんな事言われたら、一生でも作ってあげたいなんて、勘違いしちゃいそうだ。
「悪いけど今回の縁談はなかった事にして、もっと穂高を大事にしてくれる人を見つけて。穂高ならそんな人、いくらでもいるでしょう。」
イチキの御曹司に向かってそう言うと、杏さんは僕の腕にそっと腕を絡めた。
「帰ろう、章悟。」
しょ、章悟って…。
演技だとわかっているのに、僕を見上げて微笑む杏さんに、思わずドキッとしてしまう。
「ああ、うん。帰ろうか。」
腕を組んで歩きながら、杏さんは僕の腕に頬をすり寄せ、少し甘えた声を出す。
「ねぇ章悟。私、今日はあれ食べたい。」
「ん、何?杏のためならなんでも作るよ。」
「んーとねぇ、いろんな野菜とかお肉なんかの入ったトロッとしたのを、パリパリの麺にかける…。」
「あー…皿うどんか。杏はホントに皿うどんが好きだなぁ。いいよ、作ってあげる。」
「うん!早く帰ろう!!」
なんだこれ?
なんかめっちゃ気持ちいいんですけど!
こんな猿芝居に酔ってる僕も僕だけど、恥ずかしげもなく部下に甘えるふりをする杏さんもどうかと思う。
男よりイケメンな職場での杏さんとはまるで別人だ。
ま、いいか。
こんな経験は二度とできないだろうし、今だけの事だもんな。
ホテルを出ると、見た事もないようなリムジンが停まっていた。
ってか、車体長っ!!
ここは日本だ。
日本は狭いんだぞ?
これは無駄に長すぎるだろ。
杏さんはその無駄に長すぎるピカピカの車に、自然な身のこなしで乗り込んだ。
……さすがお嬢様。
良家のお嬢様だって噂は聞いていたし、時々垣間見る所作の美しさから育ちのいい人だとは思ってたけど…。
杏さんって、あの有澤グループの令嬢だったんだな。
その場の流れで、僕も杏さんに続いてリムジンに乗り込んだ。
うーん…緊張する…。
落ち着かない…。
どこに向かっているのか、リムジンに乗っている間ずっと、杏さんは僕の腕に腕を絡めて密着していた。
杏さんは胸元の開いたドレスの上にショールを羽織っている。
綺麗に浮き出た鎖骨とか、髪を上げて露になった華奢な首筋とか、妙に色っぽい。
勘違いして変な気だけは起こさないようにしよう。
リムジンはしばらく夜の街を走り、超高級マンションの前に到着した。
助手席に座っていた黒服の男が、素早く車を降りて後部座席のドアを開けた。
もしかしてSPとかいうやつ?
杏さんは当たり前のように車を降りる。
あ、そうか。
僕みたいな庶民にとっては、リムジンに乗るなんて一生に一度あるかないかの事だけど、有澤グループの令嬢の杏さんにとっては、これが当たり前なんだ。
なんと言うか…職場での杏さんからは考えられないようなギャップ。
とりあえずリムジンを降り、杏さんと一緒に歩いて、マンションのエントランスに足を踏み入れた。
深々と頭を下げていた黒服の男の姿が見えなくなって初めて 、僕はようやくまともに呼吸ができた。
「あのー…杏さん?ここはもしや…。」
僕から腕を離した杏さんの顔からは、さっきまでの笑顔が消えていた。
「私の住んでいるマンションだ。とりあえずうちに来い。」
あ…すっかり元の杏さんだ。
さっきの杏さん、かなりかわいかったのに。
もうちょっとあのまま甘えていて欲しかったかなー、なんて思ってみたりして。
なんか残念。
………って。
何を考えてるんだ、僕は?
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