風呂とビールの曖昧な関係

神又 露

風呂とビールの曖昧な関係

 僕と入谷先輩は、毎週金曜日、一緒に風呂に入る。

 

 入谷先輩は中学の剣道部の先輩だった。一つ年上で、面倒見が良く、サバサバした男みたいな人だった。部活の中では、女子の団体の主将を担い、部内試合では男子にも負けない。先輩が負けたところは、県大会の個人戦でしか見たことがない。僕はあまり強くはなかったから、そんな先輩に強い憧れを持っていた。

 先輩を久々に見かけたのは、地元の銭湯の玄関でのことだった。そのとき、僕は大学に入学したばかりだった。給湯器が壊れたせいでお湯が出ず、風呂に入れなくなった。それで銭湯に行った。先輩は僕に気づかなかったようで、靴を履き、扉をガラガラと開けて出ていこうとした。僕は話しかけようかどうしようか迷っていた。先輩の腰まである長い黒髪から漂うシャンプーの香りが、僕の鼻孔をくすぐった。はっと我に返ると、すでに先輩はそこにいなかった。

 再び先輩に会ったのは、銭湯で見かけた三日後のことだった。そこは大学のキャンパス内だった。食堂に行く途中だった。前方から歩いてくる先輩の、背筋がピンとしていて、凛とした姿は、中学のときの憧れの先輩そのものだった。

「入谷先輩」

 今度はほとんど迷わずに、声をかけた。先輩は、突然声をかけられたことに驚いたようで、顔が強張っていた。

「…?……」

 僕の顔を訝しげな目で見た後、ちょっと待って、と右手で名乗るのを制止しながら、左手の人差し指、中指、薬指の第二関節でこめかみをぐりぐりと押し、勢いよく言った。

「…深海洋介!」



*****



 先輩には、風呂に入るとき、行動の順番がある。

 まず、桶で湯船からお湯をすくい、身体を流す。ついでに化粧を落とす。その後ゆっくりと湯船に浸かり、ふうーとため息を吐く。そして本を読む。恋愛、ファンタジー、ライトノベルと、様々な小説を読む。この間はビジネス書まで読んでいた。好みや偏りはあまりないらしい。額から汗がダクダクと流れて、顔中に張り付いて鬱陶しくなるくらいになると(冬だとだいたい一時間、夏は二十分ももたない)、湯船から脱出し、五百ミリリットルのペットボトルに入れておいた水道水を半分くらい飲む。ちなみに、ここまでは僕は風呂の外にいる(二、三度試してみたが、僕には長風呂は難しいようだ)。ここで、先輩は僕のことを呼ぶ。おーい、もういいぞ。そうしたら僕は風呂場に向かう。洗面所で服を脱ぎ、畳んで、自分のリュックから部屋着と下着を出して、脱いだ方の服をしまう。それから風呂の扉をガチャリと開ける。そのとき先輩は足だけを湯船に浸けて、浴槽のふちに座っている。僕は湯船のお湯を桶ですくい、身体を流して、浸かる。先輩はそれを見届けた後、シャワーのお湯を出して、しっかりと髪を流す。シャンプーはせず、髪を一つにまとめる。そして、洗顔をする。泡ではなく泥らしい。右頬、左頬、鼻、顎、鼻の下、額の順で洗う。泥を洗い流すと、再び髪を洗う。今度はシャンプーをする。二回。それからコンディショナーをして、お湯できれいに流したら、身体を洗う。僕が風呂に入ってから、ここまで三十分(前言撤回。僕は長風呂な方のようだ。ずっと本を読んでいるのが難しいのかもしれない)。先輩が風呂から出ると、僕は動き始める。僕はけっこう気分で動くタイプなので、髪から洗うときもあれば、身体から洗う時もある。その間先輩は、化粧水とかクリームとかで肌のケアをしたり、髪を乾かしたりしている。僕も風呂を出ると、二人で水を飲んで、十分、二十分くらい休む。そうしたら、僕は帰る。ただそれだけで、他に何かあったことは一度もない。風呂の中で、大学でのことや、将来のことなど、色々なことを話して、聞いて、ただそれだけ。

 ただ、今日だけは違った。

 それは、先輩と再会してから一年半ほど経ったときだった。

「深海。私さ、彼氏ができた」

「そうなんですか」

「うん。バイト先の人」

 先輩は、高校でも剣道を続けていたけれど、大学ではバイトをするためにやめていた。親に迷惑をかけたくないからと言っていた。大学の近くのコンビニエンスストアでレジをやっているのを何度か見かけたことがある。掛け持ちしているらしく、どうやらそこの先輩ではないらしいけど、三つ年上の大人な感じの人らしい。その人はアルバイトではなく、正社員だそうだ。

「深海は、彼女いないの」

「まさか。僕みたいなのにいるわけないじゃないですか」

 そう。と先輩は言って、その話は終わった。沈黙の時間が流れる。先輩は泡だらけの髪をシャワーで流し始めた。シャワーの音が耳に張り付く。そうか、先輩に彼氏ができたのか。あまり実感が湧かない。当たり前だ、他人のことだしな。

 先輩はいつの間にか身体を洗い始めていた。首、胸、左肩、左腕、右肩、右腕、脇、お腹、背中、太もも。

「深海、誕生日いつだっけ」

「一昨日です」

「まじで?」

 何にも用意してないや。別にいいですよ。二十歳になったの?はい。

「じゃあ、酒でも飲むか」




 風呂を出ると、まだ暑いからなぁと言って、先輩は扇風機をつけていた。部屋の中央に、こ洒落たガラステーブルがある。周りには薄茶色と白のボーダー柄の座布団が四枚置かれている。冷蔵庫からキンキンに冷やされた缶ビールを一本取り出し、一旦テーブルに置いてから、食器棚の方へ行き、シンプルなビールグラスを二つ持ってきた。

「ビールは、飲んだことある?」

「小さいときに親父に飲まされました」

「あはは。私は水と間違えてお父さんの日本酒飲んじゃったことあるんだよね」

 先輩は、グラスにビールを勢いよく注ぐ。

「誕生日でさ、お酒飲まなかったの?」

「日本酒だけ。ちょっと飲んだだけで、酔っちゃって」

 いただきます、と言って、一口飲んでみる。苦い。しかし、幼いときに飲まされたときほどではなかった。僕も大人になったのだろうか、と思う。飲み込むと、苦味はすっと消えた。

「適当でよければ、何か作るね」

 先輩は冷蔵庫を漁って、キャベツやニンジンのようなものを出した。間もなく、包丁で何かを切る小気味良い音が聞こえてきた。落ち着く音だ。ガスコンロで、火をつけるチチチという音が聞こえ、少しするとジュウゥと聞こえる。

先輩が料理をしている間、僕は部屋を見渡した。全体的にきれいな感じだ。今まで何度も入ったことのある部屋だったが、こうやってよく見るのは初めてだった。床は畳で、壁には小さ目の本棚がある。本棚の中は、志賀直哉の本ばかりだった。好みや偏りはないと思っていたが、そんなことはなかったようだ。いつも読んでいる本は、どこにあるのだろう。本棚をよく見てみると、どの本もとてもきれいで、透明なブックカバーで丁寧に保管されているようだ。いつも風呂で読んでいる本は、防水カバーがされていたけれど、ここまできれいではなかった。もしかすると、図書館で借りてきているものなのかもしれない。

「さ、できたよ」

 先輩は、白い平たい大皿に野菜炒めを乗せて、割り箸と一緒に持ってきた。焼肉のたれのような匂いがただよってくる。先輩は冷蔵庫から缶ビールをもう一本取り出し、自分のグラスにも注ぎ、ゴクゴクと、半分まで飲んだ。僕は野菜炒めを一口食べる。美味い。家で食べるのとは違う味だ。

 しばらく、僕も先輩も黙っていたが、突然先輩が口を開いた。

「もう、やめようか」



          *****



 経営学部の経営学科。将来の夢は経営コンサルタント。大学での再会を果たしたとき、先輩はそう言っていた。先輩も食堂に向かっていたらしく、一緒に行って、向かい合ってラーメンをすすった。いつもはお弁当なんだけど、と言っていた。その日先輩が寝坊していなければ、僕はあのまま、先輩と一生再会できなかったかもしれない。そう思うと、不思議な力を感じた。僕らは運命の絶対的な力に影響されているんだ、と思うと、ぞくぞくした。

「本当は、三日前、銭湯で見かけたんですよ」

「え、そうなの?三日前はね、実家に戻ってたんだ」

 声かけてくれれば良かったのに、と言われたが、先輩の匂いで我を忘れていたなんて言えるはずがなく、返事をしなかった。先輩はメンマを食べた。

「偶然、二回も会うなんて、すごいよね」

 運命みたいだね、と言う先輩は、中学のときに憧れたあの先輩より、丸くなった感じがした。可愛らしくなったと言えば良いか。僕は先輩の真似をしてメンマを食べた。

「私さぁ、今はこの近くでバイトしながら、一人暮らししてるの」

 キャンパスは、地元からはけっこうな距離になるため、帰りが夜遅くなってしまうこともしばしばある。僕は男だから良いが、先輩は女だから、夜道を一人で歩くよりは、一人暮らしをした方が良いという結論になったそうだ。一人暮らしもけっこう危ないと思うが、先輩は多分、早く独立したいのだろう。先輩はのりを食べている。

「連絡先教えるよ。何かあったら、いつでも相談に乗る」

 慣れた手つきでスマートフォンを操作し、電話番号を見せてきた。僕は慌ててスマートフォンを出す。まだ慣れていないのだ。機械音痴ではない。まだ慣れていないだけだ。先輩の連絡先を登録する。真似をしてのりを食べようと思ったが、僕の頼んだラーメンにはのりが乗っていなかった。




 講義が終わり、帰ろうとすると、門の前で水をかけられた。

 花壇に水をやっていたらしい、事務員さんのような人だった。ホースで思いっきりかけられて、頭から靴までビショビショになった。どうしようか、と思っていると、後方からタオルを投げられた。少し低めの女性の声が聞こえた。先輩だった。

「おー…派手にやったね」

「やったんじゃなくて、やられたんです」

「うちおいで」

 先輩の家は大学から歩いて三分ほどだった。アパートで、狭かったけれど、一人暮らしをするには十分だそうだ。部屋は、外観からは想像できないくらいきれいだった。少し言い過ぎかもしれないけれど。観葉植物がところどころにあったから、余計にきれいに見えたのだろうか。

「風呂入っていいよ。服乾かしておくからさ」

「本当にすみません」

 いいっていいって、と言われ、シャワーを浴びさせてもらった。



          *****



「やめる、といいますと」

 先輩から、彼氏ができたと言われたときから、こうなると思っていた。けれど、僕はわざとらしくとぼける。先輩はとても言い辛そうな顔をしている。

「この関係」

「この関係、といいますと」

「だから」

 すこし苛立った声で言う。僕はわかっている。この関係というのが、どんなものであるかを。だけれど、僕はとぼける。この関係を終わらせたくないから。

「…どうしてこんな、曖昧な関係になったのか。深海、覚えている?」

「もちろん」

 僕は即答した。覚えているからだ。忘れたことはない。先輩のあの表情を。あの哀しげな表情を。あのときの先輩は、僕の知っていた先輩ではなかった。僕の知っている先輩は、あんな顔をしない。強くて、みんなの憧れで、かっこいい先輩が、初めて見せた顔。僕だけかもしれないと思った。あの儚さを見たのは。違うかもしれないけれど、もしそうだったら、どんなに良いかと思った。先輩が僕だけに見せた、僕だけの、独占して良いもの。そう思ったら、救われた。

「私は深海に、弱みを見せた。それは、今までの私だったら、有り得ないことだった」

 先輩はあの日、心に闇を抱えていた。そんな気がした。見た目じゃわからないけれど、話したらわかる。

「…私はお前に、縋ってしまった」

 縋ってくれたことが、嬉しかった。中学のとき、あんなに憧れだった人が、誰でも良かったとしても、僕を頼ってくれたことが、嬉しくてたまらなかった。

「そのせいで、お前の青春を邪魔してしまった」

 憧れを通り越して、愛していた人。

「ごめんな」




 先輩との曖昧な関係が終わっても、度々会って、居酒屋に行ったり、勉強を教えてもらったりした。しかし、もう先輩の部屋に入ることはなかった。先輩と僕が釣り合わないことなんて、中学のときからわかっていたことだった。だから、悔しさがなかったわけではないけれど、諦めはついた。あれから半年が経ったが、先輩と彼氏の関係は続いているらしい。僕には相変わらず彼女がいない。先輩のことは忘れられないし、そもそもモテるような顔や学力がない。先輩は何度か女友達を紹介してくれたが、どの人もピンとこなかった。先輩は、僕に女を紹介したいのなら、隣にいてはいけないと思う。

 諦めがついたと言いながら、僕の初恋は中学から高校を挟んで、大学三年になるまで引きずった。しかし、時間や青春を無駄にしたとは思わない。先輩には幸せになってもらいたいと思う。それは昔も今も、変わらない気持ちだ。今、僕は幸せだ。結局、想いは伝えていないけれど、友人として隣にいられる。僕みたいなやつには、それで十分すぎた。

 

 あのときのビールの味を、僕は今でも忘れられない。まるで恋の味だった。口の中にあるときはほのかな苦味があったけれど、飲み込んでしまえばあとには何も残らない、すっきりとした後味。酒を多く飲めるようになってから思い出してみれば、甘みもあった。まったく、僕の初恋そのものだった。

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