第75話

 夕方六時過ぎの道路が混雑する時間帯。大小様々な車両がさほど騒音を立てることなしにせわしなく往来する中を、イクとエリシオーネは、最寄りのバス停から自宅へ向かって歩いていた。沿道から目を配ると、古くなった建物が木立ちの隙間からぱらぱらと見えるのみで、相も変わらぬ殺風景な景色が広がっていた。

 二人はそれぞれ、くたびれた長袖のシャツにダサい感じがする二本線の入った黒のジャージパンツ、スニーカーというアウトドア風な服装で、着替えとタオルと飲み物が入ったデイバッグを背中に背負い、顔がすっぽり隠れるくらいの大きさで、安物っぽい柄違いのキャップを深めに被っていた。


「たまには気分転換に良いかと思ってお連れしたわけなんですけれど、楽しんでいただけましたか?」


 声を弾ませて、そう言い、屈託のない笑顔を見せるイクに、にこやかにエリシオーネが落ち着いた声で応えた。


「ええ。いくら幻と分かっていても、どれも自然と体が動いて、久しぶりに良い運動になりましたわ」


 だみ声のイクとは正反対の若く澄んだ声だった。


「そうですか。そう言って貰えればうれしいです。それじゃあ、どのステージが良かったですか?」


「そうですね……。エアロビクスダンスは楽しかったですし、綱渡りとか空中ブランコとか対戦型格闘技などは臨場感があって迫力満点で良かったと思いますし。どれも素晴らしくて、良くできていて優劣つけ難いのですが……。それでよろしいですか?」


「そうですか」イクは満足そうに頷くと言った。


「今日は全部ご覧にいれられなかったのですが、他にもトライアスロンやフットボールやカートレースやラクダレース、サーフィン、カヌーレース、オールラウンドなものとしては敵キャラを倒したり障害物を越えてゴールを目指すアクションゲームみたいなのもあるんです。良かったらまた行って競争しませんか」


「そうですね」イクの誘いに曖昧な返事を返したエリシオーネはほのかに苦笑いすると、話題を変えた。


「ところで、あのようなところに体験型トレーニング施設があろうとは驚きでした。まさか、あのような”この先立ち入り禁止”の立て看板の裏側の岩山に入口が造られていようとは、思いもよりませんでした。上手く考えられていますね」


「ああ、あれね」造作もないと言う風にイクは明るく応えた。


「あれはセキカが全部やったことなんです。そのセキカの話によると、あそこは自然公園の外れにあたり、何もないところで、滅多に人が来ない。例え来たとしても看板の文字に目が行くだけで、裏側の岩山には注意が向くことがない。さらに好都合なことに看板は入口の目印となっているということでした」


「なるほど……」エリシオーネは目を細めると、感心したように呟いた。「そういうことでしたか」


「実はあそこは、あたしがうっぷん晴らしする専用の場所なんです」


「はっ?」


 イクから出た意外な言葉にエリシオーネは一瞬きょとんとすると、ちらっとすぐ横を歩くイクの顔を覗き込んだ。


「何かピンとこないんですけれど」


「それ言われると思ってました」


 イクはすかさず相槌を打つと、にこっとしながら切り出した。


「それでは、お話しますが、あのセキカに言わせると、どんな生き物でもストレスを貯め過ぎると自分自身を理由もなく壊すか、目に付いたものを手当たり次第に壊して回る病気になりやすいんだそうです。

 そういうわけで、あたしが学校へ行き始めたときに、学校でそうなって問題を起こさないようにと、ああいうものをセキカが、わざわざあたしのために作ってくれたんです」


「へえ~」少し間をおいてエリシオーネが朗らかに笑った。「そうでしたか」


「長いこと、あたしが問題を起こさなかったのは、みんな、あそこで気晴らしをしていたからなんです」


「なるほど、そういうことでしたか」


 仲睦まじく話しながら二人が歩いて行くと、そのうち前方の片側に、ほぼ同じ格好をした二階建て住宅が連なるようにして建っているのが見えてくる。その一番奥から二番目が目指すイクとダイスの居宅だった。

 そうして自宅まで、もうあと少しというところまでやって来たとき、いつもこの時間帯に庭先の駐車スペースに止まっている筈のワンボックスカーは、どこへいったのか見当たらなかった。

 今日父親のダイスの仕事は休みだと知っていたので、不思議そうにイクは、家の周辺をきょろきょろと見回した。しかしどこにもそれらしいものは発見できなかった。


「父さん、まだ戻って来ていないみたいね。またいつものように買い物に行っているのかしら? それとも急な仕事の依頼があったりして?」


 首を傾げてぽつりと呟いたイクにエリシオーネがにっこり笑って言い添えた。


「来るとき、道が混んでいたみたいですから、たぶんそれでしょう。直に戻ってくるんじゃないですか」


「そうよねえ」


 エリシオーネさんのいう通りだ、例えもし仕事で出掛けたとしても何らかのメッセージを残している筈だからと、イクは納得すると、玄関のドアのところまで歩み寄り、庭先の赤い郵便ポストから取り出し持ってきた合鍵でドアの施錠を解除。ドアを開けて灯りを点けると、さっそく中を覗き込んだ。すると、やはりというべきか内部はシーンとしていて人の気配はなく。


「父さんたら、どこまで行ったのかしら」


 家に住み着いているセキカもどこへ消えたのやら見当たらなかった。しかしセキカは、いるかいないか分からない空気みたいなもので、いつも忘れた頃に目の前に現れるんだからと、イクはそれほど気にする様子もなく、まっすぐに合板張りの廊下を歩いて行くと、一番奥へ向かった。エリシオーネも追随した。

 そこはリビングとダイニングが一緒になったリビングダイニングで、家の中で家庭団らんの中心的役割を果たしている部屋だった。二人は奥側に置かれたダイニングテーブルをちらっと見て何も載っていないことが分かると、いつものようにその手前にあったソファまで向かい、それまで背負っていたデイバッグをそこへ下ろすと同時に、その傍に仲良く腰を下ろした。――ほんと、父さんたら。いつもだったら、この部屋でテレビを見ているのにね。

 

 そこでようやく二人は、深く被っていたキャップを取ると、お互いに顔を見合わせて、ほんのわずかな沈黙のあと、どちらからともなくにっこり笑った。 

 そのとき茶色の髪をボブヘアー風にしていたイクは、どこか子供っぽく見えていた。

 一方、初めてやって来た時、腰近くまであった長い黒髪を頭の後ろでひとまとめにしていたエリシオーネは、どことなく大人の女性の雰囲気を帯びていた。

 

 そんなとき、急にイクは「今は何色かな?」と楽し気に口走ると、クリクリとした目を大きく見開いて、ほくろもシワもシミもそばかすも全く見当たらない、人形のように真っ白いエリシオーネの顔をまじまじと覗き込んだ。そして直ぐに、「はーい、きれいに澄んだブルーでした」と叫んで茶目っ気たっぷりの笑顔で嬉しそうに笑った。

 そんなイクの言動に、何のことなのか察したのか、エリシオーネが「私で遊ばない、遊ばない」と繰り返すと軽く微笑んだ。

 

「だってエリシオーネさんの瞳って、見る時間によって色が違うんだもの。ゴールドのときもあるし、あたしと同じ茶色のときもあるし、今みたいにブルーのときもあるし。ほんと不思議!」


 そう言い訳したイクに、エリシオーネは少し生真面目な口調で応えた。


「そう言われても困ります。この私もあなたに指摘されるまで分からなかったのですから」


 イクはエリシオーネのやや当惑した顔を眺めて満足そうに頷くと、どことなくゆとりのある表情で話題を変えた。


「それはそうと、エリシオーネさん。今日も上手くいったみたいですね。誰にも絡まれなかったし、誰にも付けられませんでしたし」


「ええ、本当に上手くいきました。ここまで上手くいくようになるとは思ってもいませんでした」


 そう言ってにこやかに笑ったエリシオーネに、イクはどことなく充実感を覚えていた。


 上手くいったとは、二人の変装を指していた。

 

『私とあなたとが一緒に暮らすにしても、世間のしがらみの中を長いこと生きて来た私と、環境が世間と余りに違う別世界で生きて来たあなたとでは、理想と現実に大きなギャップが、どう前向きに考えても相当な量あるように思えてしょうがないの。その点、こう言っては何だけど、あの家族は現在の社会情勢がわかる格好な材料をみて間違いなさそうと思う代表的な庶民だから、しばらく一緒にいて世間を勉強して貰えると私としてはうれしいんだけど』といった姉のパトリシアの意向に沿う形で、エリシオーネがダイスとイクと一緒に暮らすようになって、早いもので、あっという間に一ヶ月半が過ぎていた。

 他方、エリシオーネを預かることになったダイスとイクも、言い回しは違っていたが同様な内容の説明をパトリシアから同じ時期に受けており、二つ返事で引き受けていた。

 その際、相変わらず厳しい状態が続いている訳ありの事情があったダイスに対しては「そうして貰えたら、預かっていただく手間賃とは別に、もし本業の方でお困りの様なら私のルートで仲介をして差し上げてもよろしいのですが、どうかしら?」、毎日暇を持て余しているようだったイクに対しては「もし妹の話し相手になってもらえたら週給制で謝礼を差し上げても良いのだけど。妹はあなたより少し年長で、あなたが飼っている猫ちゃんと親しいみたいだから、仲良くできると思うわ。あ、それと交際費はもちろんこちら持ちよ」と言った風に、パトリシアによる二人への根回しがきっちり効いていたからに他ならなかった。

 その中でイクが任された役割は、生まれ育った環境が違う上に長いこと世間から離れて暮らしていたエリシオーネを外に連れ出し、社会が今どうなっているかを知って貰うことだった。

 そのために、学校もろくに行っていなかったイクが能天気な頭でじっくり考えて先ずやったことは、近所に住む人達やジスやレソーに彼女を紹介することから始めて、単純に家の周囲を一緒に散歩し、そのついでに道路を走る車のことやその辺りの様子の説明をすることだった。


「語学研修のために来られて、うちにホームステイすることになりましたエリさんです。しばらく一緒に住むことになりましたので宜しくお願いします」


「エリシオーネさん、ジスとレソーです。二人はあたしの幼なじみで、今、父さんのところで働いているんです」


「ジスにレソー、彼女はパトリシアさんの妹さんよ。わかってるでしょうね、二人とも。失礼のないようにしてよね」


「ええと、今走っているのは、たまにハイブリッド車もありますが、ほとんど電気自動車です」「あの車体全体に広告があるバスはこの周辺を巡るバスで、ブルーの車体にオレンジ色の横線が一本あるバスは高速バスと言って郊外まで行くんです」


「この辺りは人の気配が全くしませんが、どの家にも人が住んでいます。みんな結構な年で、年金で暮らしているんです」


「見ての通りの空き家です。人が住んでません。こんなのがこの辺りにいっぱいあります」


「コンビニです」「あたし行きつけのカット屋さんです」「何の変哲もない普通の工場です。一週間と短期でしたけど、あたしはあそこで荷物仕分けのアルバイトをしたことがあるんです」「あそこにある、人で混み合ってるあのお店は地元で有名なパン屋さんです。ちょっと高いけれど、どれも間違いなくおいしくて直ぐに売れ切れるんで、いつもあのような行列ができているんです。クリームパンとクリームチーズパンとホイップクリームパンが人気です。あたしとしてのお薦めはカレーパンとピザパンです」


「何もない原っぱです。家のない無職の人達が住んでいるところです」「普通の公園です。ただ夜になると物騒になります」「あそこも公園です。だだっ広いだけで何も見るべきものはありません。時間つぶししたいときだけ来るんです」「見ての通り、ホットドッグ屋さんです。味は二の次だけどボリュームたっぷりで、あたしもちょくちょくお世話になっているんです」


「あの倉庫みたいな大きなお店はワンコインショップです。日用品からお菓子、飲み物とほとんど何でも安く手に入ります」「ずらりと居並んだ車は、見ての通り移動販売の食べ物屋さんです。価格はピンからキリまであります。味はどこも似たようなものです」


 そんな具合に案内して、エリシオーネが近場の環境に慣れた頃。見た目にも可愛らしい柄物のブラウスに無地のスカート、肩には若者に人気のトートバッグ、足元はショートブーツと、イクはよそいきのお洒落をすると、日取りを決めて今度はバスを足に、サンドイッチとかお菓子とかハンバーガとかのお弁当を持ち遠出した。目指したのは、世界的な不景気などどこ吹く風と、いつも多くの人で混雑している、イクもそれほど行ったことがなくて、イクが暮らす地区とは明らかに違う空気が漂うバリバリの都会で。イクはエリシオーネを連れ、賑やかで活気のある街の通りを巡りながら、エリシオーネを案内するために前もって準備しておいた知識を頭の中で整理。淡々と説明していった。


「あたし達が暮らしている地域の中で一番大きな都市です。何でもかんでも値上がりしたせいで、かなりな収入がないと、ここでは住むことが難しいんです」


「学校です」「病院です」「教会です」「銀行です」「警察署です」「高層ビルです」「お酒を飲んで騒ぐところです」「レストランです」「ラーメンショップです」「カレーショップです」「スーパーマーケットです」


「地下鉄です。都会を素早く巡るならこれに乗った方が早いんです」「食べ物屋さんです」「不動産屋さんです」「あの立派な建物は美術館です」「一人で行ってもつまらないので、あたしは行ったことがありませんが、あそこは水族館で、その隣が植物園です」


「高級ブランドのお店が並んでいる通りです。宝石店や時計店やバッグのお店、洋服のお店、車のディーラーなどさまざまです。一般市民には敷居が高くってセレブしか入れないところです」「何とかかんとかという難しい名前の超有名なスイーツ屋さんです」「有名なチェーン店が運営するカフェスタンドです」「生ものが苦手なので入ったことがありませんが、健康に良いと評判のスシレストランです。高級な食べ物だけあって値段が高いです」「セレブ御用達のデパートです」


「あたしは今でも行ったことがありませんが遊園地です。親子連れが多いみたいです。あと若い子たちがデートにも使うみたいです」


「何がそんなに楽しいのかあたしには分かりませんがテーマパークです。いつも混雑している上に、入場料がバカ高くって、さらに乗り物やアトラクションにまたお金を払わないといけないので、一日中いるとかなりな出費になります」


「巨大な広場です。今は何もありませんが、各種イベントやコンサートがあそこで開かれます」

 

 そのような具合で、エリシオーネは色んな乗り物に乗ったり、スーパーや専門店で買い物を楽しんだり、銀行で用事を済ませたりと幅広く社会経験を積み、今や新しい日常生活にすっかり溶け込んでいた。

 そのような中、一つだけ困ったことがあった。エリシオーネがどことなく目立っていたことである。

 エリシオーネは自身が白魔法の宗家とみなされている世間的な理由で、どこへ行くにも真新しい全身白ずくめの清楚で優美な恰好をしていた。

 それにつけて、周りから浮いているような異色な風貌は、高貴な身分の女性のように印象付けられて万人の目を引き付けないわけはなく。当然ながら、無頼の者や遊び人風の男や怪しい人物が放っておくわけはなかった。格好の標的となっていた。

 二人が連れ立って歩くと、必ずと言って良いほど、遠くから好奇の目でじろじろ見て来たり、通りすがりに鼻の下を長くして二度見してきたり、すれ違い様に振り返って興味深そうにチラ見してきたりしてきた。

 まだそれくらいならマシな方で、二人が歩く後をいつまでも付いて来たり、行く先々に先回りして付きまとったりする者も現れ。遂には大都会の暗部を垣間見るように、一旦薄暗い場所や人気がない場所や死角となった空き地や行き止まりになっている場所に入ると、決まったように、


「どこから来たの?」「どこへ行くんだい?」「あのう、今何時か教えて頂けませんか?」「どうも久しぶり、こんにちは」「別に怪しいものではありません」と声を掛けてきては「ちょっと時間ありますか?」「あのう、よければお話しませんか?」「遊びませんか?」「もし良かったら、うちの事務所と契約しませんか」などと言い寄って来た。

 さらにもっと酷い場合になると、集団による力ずくの暴力で無理やりに言うことを聞かせようとしてきた。


 そのようなとき、イクの意見「あたしは経験上良く知っています。みんなロクな人間じゃあありません。いちいちかまう必要なんてありません。かまうだけ時間のムダです」を取り入れて、二人は決まってその場から逃げ出すことにしていた。結果、騒動らしい騒動は起こらずに平穏無事な日々が続いていた。

 ところが、そのうちに、イクもエリシオーネも予想だにしていなかった状況に出くわしていた。相手が五、六人くらいまでなら容易に逃げ去ることが可能だったが、十人以上の集団に囲まれると、そういうわけにはいかなかったのである。


 ある日のこと。たまたま人気のない路地に立ち寄ることとなり、しばらくそこを歩いていると、五、六人の男達が前に立ちはだかり、いつものごとく声を掛けて来た。


「どうだい、一緒に遊ばないか?」


 見れば、男達はいずれも若く見え、ブランド物のサングラスをかけて高級そうなスーツを一応着こなしていた。が、その何人かの首筋や手の甲にタトゥーが見えていたり、唇や耳や眉にピアスをしていたりしていた。

 加えて、暗く静まり返った直ぐ前方には、セレブが乗るような高級車やスポーツカーがずらりと六台、縦列駐車していた。

 そのような集団で高級車やスポーツカーを乗り回しているからには、男達はそれまで遭遇したストーカーやナンパ師と違って、明らかにヤバい奴等に違いなかった。

 それならまだしも、計画的と言うべきか、同じような風貌をした男達が背後から十人ばかりと前方に止めてあった車から六人ばかりが下りてきて歩いてくると、最初の男達と合流。一緒になって前後左右から挟みうちする格好で逃げ場をなくしてきた。

 どうやら逃げ足の速い二人のことをどこかで聞きつけて知っていたらしく、そのような万全な陣形を取ったと思われ。あれよあれよという間に取り囲まれていた。


 けれども、そのような輩を相手にしても、イクは動じなかった。


「急いでいるんです。どいてくれますか。そうしないとあんた達、どうなっても知りませんから」と毅然とした態度で応じた。


 そうはいっても、二人連れの若い女子の言うことなど全く聞く耳を持たないということか、要求は通る気配はなかった。男達はお互いに顔を見合わせてニヤニヤしながら、「お前には用はない。お前の横のお嬢さんに用があるんだ」と言って来ると、男達の中心にいたリーダーとおぼしき一人が「ちょっとだけ顔を貸して貰うぜ」と言うなり、取り囲んでいた者達が一斉に距離を縮めて来た。

 次の瞬間、舐めたマネをしてくれるじゃない、どうなっても知らないから、覚悟しなさい、とイクは開き直って反撃に出ようと身構えた。

 父さんにもパトリシアさんにもあのセキカにも、外で騒動は起こさないでときつく止められているけれど、今ここで何もしないでいると、エリシオーネさんを案内する責任を負った自分の立場がなくなるわ。もうこうなったらあたしがやるほかないみたいね。


 ところが、その矢先に不思議なことが起こっていた。

 突如として周りを囲んだ男達に向かって数十本の手のようなものが青白く光りながら伸びて行ったかと思うと、男達の身体をつかんで空中へ持ち上げた。そのとき彼等には手のようなものが見えていないのか、呆然とした表情でかたまり、されるままになっていた。

 手のようなものは、ちょうどエリシオーネの頭上に浮かんだ、人が優に立って入れるくらいの大きさがありそうなリング状のものから出ていた。そのうち手に捕えられた男達はリングの中に連れ込まれ、跡形もなく消え去っていた。それとともに手のようなものもリングのようなものも一緒にかき消えて見えなくなっていた。

 その間、二、三秒かかっているかいないか。まさに一瞬の出来事で、イクは何が起こったのか呑み込めず、身構えたまま、ぼけっと突っ立っていた。

 それでも、このような経験が初めてでもなかったせいで、それからいくらもしないうちに大きく息を吸い込んで我に返ると、エリシオーネさんのおかげで邪魔者がいなくなったみたいと状況を把握。ふうーと安堵の息を吐くと、直ちにぺこりと頭を下げて、


「エリシオーネさん、すみません。面倒かけちゃって」と礼を言い、「エリシオーネさん、行きましょう。厄介なことにならないうちに」


 そう促して足早にその場から立ち去っていた。

 そのとき、虫も殺さない優しい顔をしていても、エリシオーネさんはやるべきことはやるんだと内心感心したイクは、もちろんの事、帰りがけに尋ねた。


「あれは一体どうしたんです?」


「ああ、あのことですか。実は私は何もしておりませんの」


 そう言ってしばらく沈黙したエリシオーネは、やがて穏やかに応えた。


「実はですねえ、あれは私を守護してくれるようになった聖霊さんがやったことですの」


「ふ~ん。それで、あいつ等はどうなったんです?」


「少しお待ちください。訊いてみます」


 その言葉にイクがきょとんとする中、空で何かを言っているのであろうか、エリシオーネの唇が小刻みに動くと、やがて改めて口を開いた。どうやら答えが出たらしかった。


「ええと、聖霊さんがおっしゃるのには、あの人達は無事ですが二度と戻って来れない遠くへ移動させたとのことです」


「というと、どこまで移動させたんです?」


「さあ? それは私にも分かりません。しかしもう二度と戻って来れないと言っているのですから、それで良いのではありませんこと」


「まあ、そうですけれど……」


 少し考えてイクは、まあ自業自得かもねと呑気に納得すると、それ以上何も尋ねることはせず、その日はそれで終わっていた。

 ところが不思議なことに、一度あることは二度ある、二度あることは三度あるという風に立て続けに同じことが起こっていた。数日後、またその数日後と、どこで嗅ぎつけたのか最初に遭遇した人数以上のグループに取り囲まれ、その都度エリシオーネを守護する精霊によって、そいつ等はどこかへ飛ばされていった。

 その頃になると、行方不明となった人数はどうひいき目に見ても百名以上に達しており。いくらイクでも、毎日の様子を逐一パトリシアにメールで報告することになっていた手前、気にかけないわけにはいかなかった。

 金持ち風の身なりをした若い連中が徒党を組んで悪さをしてくるのはと、ああでもないこうでもないと一時間以上もよくよく考えて、ようやくそれまで襲って来た連中の正体が何となく分かった気がした。


「ああ、そうそう、思い出した。この辺りはストリートギャング団の巣だったっけ。色んなギャング団が縄張りを主張しているんだった。

 あいつ等はお金になることなら拉致や誘拐をするのは朝飯前で、人殺しくらい平気でやりかねないって聞くし。

 どうもエリシオーネさんだけがあいつ等に狙われているみたいだから、それから言うと、エリシオーネさんを外国からプライベートでやって来たどこかの王家のお嬢様とか、もしくは億万長者のお嬢様と勘違いでもしているのかな?

 まあそう考えると、こう毎度毎度襲われるも合点がいくわ。それにしてもどれだけ大胆なのよ、昼日中に襲ってくるなんて。マフィアの末端組織の分際で生意気なんだから」


 しかし今頃思い出しても既に遅しの感があった。

 いくら相手が世の中から消えてなくなっても痛くもかゆくもないろくでなしの人間であっても、短い期間で百人以上が行方不明となってしまったとなると、事件性が高いとして警察が動くに違いない。

 そうなった場合、警察は聞き込み捜査することはもちろんのこと、街中の至る所に取り付けた防犯カメラを調べるだろう。その結果、あたしとエリシオーネさんが捜査線上に浮かんで調べられたりして。そうなると後々面倒なことになるわ。そんな考えを巡らしたイクは、きっと二人が目立つからなのだろうと結論付けると、年長のエリシオーネに向かって、遠慮がちにこう進言した。


「あたしたち、こう何度も被害に遭うのは、二人が目立ち過ぎるからじゃないかと思うんです。それでなのですが、一度お互いに地味な恰好で出掛けて見たらどうなるかやってみたいと思うんですけれど」


 そのときイクは、何か言われるのではと思った。ところがその予想に反して、「そうですか、分かりました。一つやってみましょう」と案外快く請け入れてくれていた。

 その日イクは、そうと決まれば話が早いと、いつも利用する衣料品店でカジュアルな衣服と身の回りの品を調達。いったん自宅へ戻り、購入した品を試しに二人で着込んで外出した。

 すると、思った通りに効果てきめんだった。それまでのようなことは何も起こらなかった。それ以後、そのことに倣って地味な恰好をするのが習慣となっていた。


 イクはエリシオーネとの戯れがひと段落したところで、「さあてと」の掛け声とともに、不意にソファ横のサイドテーブルからリモコンを取り上げると、十フィートほど先のテレビの電源を入れた。

 途端にテレビの画面が急に明るくなったかと思うと、ブルー、オレンジ、グリーンといったカラフルな色で数字と複雑な折れ線グラフが幾つも表示された掲示板をバックに、上等なスーツに身を包んだアナリストらしい三人の男が、いかにもホワイトカラーといった毅然とした風格で、『マネーというものは不思議なもので、無理に追いかけると逃げていくが、腰をじっくり落ち着けてあせらず待っていると、結果として後に付いてくるもの』などと口では立派なことを言いながら、これから儲かる投資は何であるかについて女性の司会者の仕切りで意見を交わしている映像が映し出される。

 父親のダイスが、最近になって再び良く見るようになっていた金融商品の取引の模様を伝える番組の一コマだった。人と物とカネが動く実体経済は未だ回復の見込みは立っていなかったものの、カネのみが動く仮想経済においては回復の兆しは顕著で。底なしの不景気を生き残った者達が、さらなる高みを目指してマネーゲームを繰り返し、市場は活気を取り戻していたのだった。

 それをろくに見もせずにイクはチャンネルを切り替えていくと、ある番組のところまできたときに、ようやく手を止めてリモコンをテーブルに戻した。

 画面では夕方のニュースと題して、スタジオのモニターに写された録画映像について、若作りした男性のアナウンサーが、のっぺりとした表情と淡々とした語り口で、全国ニュースからローカルニュースまでの話題を手短に幅広く発信していた。


 しばらくの間、イクはアナウンサーが読み上げる記事の内容について、じっと耳を傾けた。そのとき聴こえてきたのは、


 ・先日航空機事故で死亡した代議士の葬儀の日取りが決まった。

 ・不法滞在者並びに難民を対象に、滞在を認める代わりに国固有の言語、文化、慣習、宗教観に従うことを義務付ける法案を可決。

 ・新たに百万人の受刑者を収容できる刑務所の建設を可決。海外の高放射能汚染危険地帯を候補地として予定。

 ・全長一万五千フィートに及ぶ超巨大な海底資源採掘タワーが完成。荘厳としたその全貌が船のドッグから引き出されてお目見え。

 ・損保会社が相次いで自動車保険の保険料の見直し、値上げを発表。

 ・貴金属の価格が高騰。

 ・業界では中規模の新興投資グループが重大な経営危機に陥っている模様。CEOが独断で数多くのM&A(企業買収)を手がけ、規模の拡大を図ってきたほころびが出たと思われる。

 ・大手IT企業で新たな不正が見つかった。

 ・粉飾決算の疑いでAI企業の社長を逮捕。

 ・クレジット会社の顧客情報が流出した。

 ・局地的にシステム障害が起こり、携帯やスマートカードやクレジットカードが使えなくなる案件が発生。

 ・高速道路のトンネル付近で車十数台が絡む事故が発生。五人が死亡、十人が病院に運ばれた。

 ・AI工作機械が突然暴走して付近にいた作業員二人が死傷。

 ・今日の未明、家電量販店から出火、けが人はいなかったが、ほとんど全焼した模様。

 ・強盗未遂で指名手配されていた犯人が捕まった。

 ・コンビ二に二人組の強盗が入り、従業員が負傷した。犯人は今も逃走中。

 ・通行人が不法滞在の外国人の男に刺されて死亡。

 ・大手レストランチェーン店のステーキハウスでノロウイルスと思われる食中毒が発生、食事をした約五十人が下痢やおうとの症状を訴えて病院に運ばれた。

 ・アウトレットで年に一度の中古ブランド品のセールが始まった。

 ・老舗のホテルが新しくリニューアルされてオープンした。

 ・動物園で白い毛並みをしたゴリラが生まれた。――といった、いつものありふれた日常の出来事ばかりで、例のあの件のことはどこにも出てこなかった。


 今日も何もなかったみたい、とりあえず安泰ってわけね。

 安堵の色を浮かべてイクは心の中でそう呟くと、両手を頭の後ろで組むようにして、ソファの背もたれに深く身体を預け天を仰いだ。ああ疲れた。

 そして、膝の上に両手を上品に置いて物静かに腰掛ける隣のエリシオーネに向かって、舌足らずな口調でさり気なくささやいた。


「今日の事をみて、ほんとびっくりしました。エリシオーネさんは完璧な人だと思っていたんですけれど、あれですっかり印象が変わってしまいました。

 あのとき、つい勢いで、どちらが高得点を出せるか勝負しましょうと言ってしまって、まずいことになったなぁと思ったんですが、あんな風な結果になるとは思ってもみませんでした。あのとき、途中でエリシオーネさんが立て続けにミスしてあたふたするとは本当にびっくりしました。最初、あたしに気を遣ってわざと手加減してくれているんだろうとみていたのですが、あの真剣そうな蒼白な顔を見て、びっくりしました。あれは一体何だったんです?

 最後の方で元に戻って追い上げられましたけれど、結局あたしが逃げ切り勝ちとなりましたもの」


「ああ、あれですか」イクの方にエリシオーネが取り澄ましたような表情を向けてくると、


「向こうでいたときも同じ症状が不思議なことですが度々出るのです。どうしてか分からないですが、急に体が思い通りに動かなくなって、頭の中がパニックになってしまうのです。

 原因については分からないというのが答えです。ただ強いて思い当たることがあるとすれば、それは私自身がネピの当主としてまだ完璧でないということなのかも知れません」


「ふ~ん、そういうことでしたか」


「それにしてもイクさん、何でもそつなくできて器用ですね。感心しました」


「ああ、あれはですね、慣れ、慣れです。いつも暇があれば、あそこで夕方までひとりで入り浸りだったんです。そしたら、いつの間にか何でもこなせるようになっていたんです」


「ところでイクさん。あの方のことなのですけれど、いつからのお付き合いですの?」


「あの方って?」


「セキカ様のことですわ」


「ああ、セキカですか。セキカはですね、父さんによると、あたしが赤ん坊のときに既に傍にいたという話ですから。ええと、もうかれこれ十四、五年くらいだと思います」


「ふ~ん、そうですか」


「ぶっちゃけた話をしますとですね、あそこにお連れしたのはセキカに頼まれたからなんです。

 珍しくセキカはエリシオーネさんを相当気にかけているらしくって、あそこへ行けば全く異なる日常生活からの息抜きと運動不足の解消になるだろうと言ってました。これであの場所を知っているのはあたしとセキカとエリシオーネさんの三人となりました。実はセキカにあそこのことは話すなと言われていて、父さんにもジスにもレソーにも話していなくって、誰も知らないんです」


「そうでしたか……」エリシオーネは慎ましやかな笑顔を浮かべると言った「ところでセキカ様は良くしてくれますか?」


「ぜーんぜんです」


 イクはタメ口で一蹴すると、悪びれずに一気にまくしたてた。


「エリシオーネさん、見ての通りです。もしちょっとでも良くしてくれていたら、今頃はここよりもっともっと素敵なお家に住んで、何の不自由もなくお気楽に暮らしています」


「そうですか」


「まあ、そうは言っても、ああ見えて困ったときには気楽に相談に乗ってくれて頼りになることもあるし。長く居ついている間に、いつの間にか情が移っちゃって、家族の一員みたいなものですからね。

 それよりも、あれだけ運動してお腹すきませんか?」


「ええ、まあ」


「あたしなんかもうぺこぺこです。エリシオーネさんのせいで、いつもより頑張り過ぎちゃいましたので」


「それはごめんなさいね」


 そのようなたわいもない会話を笑いを交えながらすると、二人は傍らに置いたデイバッグから飲み残したペットボトルを取り出し、中の液体を少しずつ飲みつつダイスの帰りを待った。

 時刻は、午後の七時を既に回っていた。いつの間にかニュース番組が終わっていて。それに代わって、世界で起こった不思議な出来事を紹介するバラエテイ番組が始まっており。二人はテレビに釘付けとなると、やがて自然と無口になっていた。

 そのようにして、今日も一日が何事もなく終わろうとしていた。

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