第45話

 間接照明がぼんやりと灯るやや薄暗い部屋の中の様子を慎重にうかがいながら、芸術家風の男と彼に率いられた四人は、可能な限り急がず焦らず歩いていった。

 そのとき、ほんのりと良い香りがした。どうやら一緒に歩く女性が付けた香水の香りのようだった。


 室内には、時代がかった感じがする油絵が数点壁に掛かり、古いタイプの高級家具が壁際にずらりと並べ置かれ、その棚やガラスのケース内にグラス・茶器、骨とう、何かの記念品らしき調度品がずらりと並び、またフロアにはこれまた伝統的なデザインのカーペットが敷かれ、その上に古めかしい応接セットがニセット置かれている、といった風にレイアウトされており。それらは見た目、ずいぶんと落ち着いた雰囲気を作り出していた。

 入って直ぐ、正面奥に人の背丈ほどもある大きな絵画作品が掛かった壁とブラインドが下りた窓があった。その右側の奥の方の応接セットの一つに、黒いスーツに奇妙なマスクを頭から被った三人の人物が、横に居並ぶように腰掛け、こちらを見ていた。


 すぐさま芸術家風の男は彼等に気付くと、一旦立ち止まった。後ろの四人も同様に追随した。

 良く見れば、いずれも二本の長い耳が印象的なウサギのマスクを被っていた。その中の一人が返事を返して来た人物のように思われた。

 ちょうどそのとき、ひんやりとした風が一行の周辺に勢い良く吹きずさんだかと思うと、衣服から露出した部分を撫でて、消えていった。

 だが、誰も気にする様子はなかった。いきなり五人も部屋に入ったことで換気装置が働いてそのような風が吹いたのだろうと決めつけていた。


 すると思いがけず、今にもキレそうな女の金切り声が、間をおかずに室内に響いた。


「そこのサングラスをした黒髪のあなた。一体あなたは誰なの!」


 状況から見て、席に腰掛けた三人の中の一人からであるのは明らかだった。

 芸術家風の男は、いきなりピリピリした空気に包まれたことに、「既に分かっていたこと、やはりそう来たか」と内心うそぶくと、ゆっくりとサングラスを外し、落ち着き払った声で応じた。


「私ですか。私はこの大会をプロデュースしたものです」


「そんなことはどうでも良いの。あなたの名前を聞きしたいの」


「それは事情があって応えることはできません」


「そう。それで後ろの人達は?」


「直ぐ後ろの二人は私の上司で、この大会の主催者です。また賞金の提供者でもあります。それからその最後尾に控える二人は、我々のボディガードです」


「ところでその顔はどうしたの。整形をしたの、それとも地顔かしら」


 一方的に話題を変えて訊いて来た女に、男は素知らぬ顔で応えた。


「はい、生まれついてこの顔です」


「それにしても、良く似ているわね、そっくりねぇ」


「誰にです」


「いや、何でもないわ」


 何かしら不満そうな声を漏らした声主に、芸術家風の男は安堵の吐息を一つ漏らした。一つ間違えれば命を失う危険な賭けだったが上手くいったようだな、と内心胸を撫で下ろした。


「そうですか。それでは用事を済ませたいと思いますが宜しいですかな?」


「ああ、どうぞ」


 女の声が引っ込み、代わって男の素っ気ない声が響いた。その声の主は、最初に「どうぞ」と返事を返してきた人物の声だった。

 芸術家風の男は、この男がリーダーなのかと考えながら、「はい、それでは遠慮なくいかせて頂きます」と応じると、丁寧な言い回しで、


「ええ、おめでとうございます。大会主催者に代わってここに祝福させて頂きます。改めて本題の賞金の引き渡しの件についてでありますが、他の二名様の方にも納得して頂いたのですが、賞金は警備上の問題もあり、キャッシュで支払うことは致しません。代わってダイヤの原石という案も考えたのですが、皆さん本物かどうか疑って来るだろうと考えると、後でごたごたが起こっても困るので、これも止めることにしました。そうして辿りついたのは電子マネーでありまして」


 そう伝えて、板についた口調で代表的な電子マネーの説明をしていった。それから改めて相手の出方をうかがった。

 男の目的は、身分を偽っているこれらの者達に本当のことを白状させることだった。それができた時点で初めて対等な立場で交渉に入ることができると考えていた。それには正体が分かった女の方から切り崩す方が妥当と見ていた。が、そのきっかけが問題で、どう話し掛ければ良いか分からずにいた。そんなとき、女が自分の姿を見てしつように名を訊いて来たことで、願ってもない口実ができた気がした。あと残る問題は、こちらが正体を明かしたとき、向こうがどう出て来るかだけだった。


 すると、先の男の声で、「そう手間は取らせない。少しの間、待って頂きたい。みんなで相談したいので」と返事が返って来ると、ウサギの被り物をした状態のままで顔を見合わせるようにして三人は話し出した。余りに小声であったため、その内容はさすがに聞き取れなかった。

 波に揺られる船の気分で、芸術家風の男は待つよりほかなかった。さあてどう出てくる。


 果たして、そのまま呆然と立ち尽くした五人を尻目に、ゾーレとホーリーとロウシュの間でやり取りが始まっていた。


「どうする?」


「どうもこうもないだろうがよう。向こうがくれると言ってるんだ。貰っておいた方が良いに決まってるじゃねえか」


「私も賛成よ。旨い話だと思うけど、ここは相手に合わせるべきだわ」


 そのとき彼等は、テーブルの後ろに肘掛付きのイスを真横に並べ、その中央にゾーレ、両端にホーリーとロウシュという具合に腰掛けていた。何事かが起こったとき、二人が直ちに動けるように配慮したもので、芸術家風の男を始めとする五人が部屋に入るそうそう、急に冷たい風が吹いたのは、目にも留まらぬ瞬発力で二人が動いたその名残りだった。しかもそのとき、一瞬の早業で相手の反応を見、能力者かどうかの判別も同時に行っていた。


「では何が良い?」


「そうねえー」


「俺はパトリシアと同じキャッシュカードが良いと思うが。ゾーレ、お前はどうだ?」


「そうだなあー」


「私もそれで良いわ。無難じゃないかしら」


「そうか、それじゃあそれに決まりだな」


「ああ」「ええ」


「ところでホーリー。なぜ思い留まった。なぜ俺を止めたんだ。あのとき殺ろうと思えばできたのにだ。どうせワナに違いないから、先手を打って出ようと言ったのは、お前からだったのにだぜ」


「ああ、あれね。あれのことね。あなたも分かったでしょう。パッと見た瞬間、こいつらは能力者じゃないってことを。ゴールド・レーベルには力を持たない人間も多数在籍しているから別におかしいと思わなかったけれど、一番前にいた男がつい気になってしまってね」


「なんだそりゃ!?」


「他人の空似というけれど、私が知る男に余りに似てたもので、これは何かあるのかと思ってそのままにしておいたのよ。どうせ普通の人間なのだから、殺るのに遅い早いということは無いかと思ってね」


「ふん、それでそいつは一体何者だ」


「あなたもゾーレも面識が無い筈だから知らないのは当然だと思うけれど、五年前、例の落とし前をつけた件で、そのときホワイト・レーベルの最髙幹部だった男、レージ・アイン・ヘルムダイムよ」


「ふん、そいつは大物だ。それでしつこく訊いたわけか」


「ええ。顎と鼻下にひげを生やし、長い髪をオールバックにした特徴のある風貌に、彫りの深い浅黒い顔。忘れもしないわ」


「だがよ、訊くところに拠ると奴は確かザンガ―が殺った筈じゃなかったのか。あのとき、フロイスが居合わせていてよ、はっきり最後を見届けたと言っていなかったか」


「ええ、もちろん聞いてるわ」


「それによう、ホワイト・レーベルにいた奴がなぜゴールド・レーベルにいるんだ。そんなはずがないだろうがよ」


「そうよねぇ。でもそれにしても……」

「そいつは、そのそっくりさんさ」


「私もそう思うわ。思いたいわ」


 ホーリーがそこまでヘルムダイムという男に執拗にこだわったのには、歴とした理由があった。かつて彼女が秘科学協会(ホワイト・レーベル)に所属していた頃、曲がりなりにも一時期、その男の愛人になっていたことが縁で、生まれて初めて愛情らしきものを男に抱いたことがあったからだった。


 そもそも秘科学協会と世界導師協会の二つの組織は、あるときは人知れず影として、またあるときはこの世に見え隠れしながら、長きに渡って人社会とかかわりを持って来ていた。

 それからいうと、裏社会の犯罪組織に、ある意味良く似ていた。だが、裏社会の犯罪組織が強者にこびへつらい弱者を虐げ搾取する悪の集団であるのに対して、二つの組織は強者から弱者を保護することを旨として、人より遥かに力が強いモンスターや魔物や人の突然変異体(ミュータント)と称された能力者達の脅威から護ったり、或いは人類同士の争いによる世界の破滅を防ぐといった、人側から見れば、正義の味方のような存在だった。


 その中、ヘルムダイムという人物は秘科学協会(非科学協会)、通称名、ホワイト・レーベルの最髙幹部の一人で最高責任者の役割を担っていた。いわゆるトップだった。

 その実力は組織内屈指の折り紙付き。また性格は、奔放、豪快、親分肌。ときによっては人が変わったかのように横暴、強引、暴力的、冷酷な面を見せるが、普段は至って温厚。他にも決断が早い、頭が切れる、物わかりが良い。それでいて気配りも忘れないと、指導者としての資質は文句なしと思われた。

 そのような絵にかいたような人格者であったが、ただ一つだけどうにもならない悪癖があった。英雄色を好む。即ち、優れた人物は軒並み色を好む傾向が強いと言われるが、この人物も例外でなかったのだ。しかも異常と言って良いほどだった。それくらい度を超していた。

 封建時代の王のように、日常的にお気に入りの若衆或いは女人若衆を周りにはべらせたり(無論情交していた)、行く先々に深い仲となった数多くの情人・愛人をかこい自ら等級を付けて管理をしていた。まさに、背徳の同性異性を問わない不純交遊を平然と行っていた。


 そのような男の毒芽にホーリーは運良くかからずに、長い間無事でいた。

 同じく最高幹部の一人であったホーリーの師、ヨハンナことデリート・モノナム・ヴァルキリアが子飼いの彼女に変な虫が付かないようにと、その威厳で持って、彼の男の耳に入るのを封殺して守っていたのが効いていたらしく、目を付けられずに済んでいたのだった。

 ところが、弱肉強食の修羅の世界でホーリーの目覚ましい活躍が日増しに知られてくるようになると、どこからともなく彼女の美貌の噂が漏れ出て男の耳にも自然と入ってくるもので、あるときとうとう事件が起きた。


「急に野暮用ができた。それで少し遠くまで行くことになった。この分だとたぶん三日ほどかかると思う。人手はそういらないからお前は留守番だ。暫く留守を頼んだよ。ああ、それと、いつも言っているように私が戻るまで誰も入れちゃあダメだよ。分かったね!」


 ある日の午後。ヨハンナはそう言い残すと行先も告げずにどこかへ去っていった。

 その頃には、暗殺を生業としていた組織には珍しくも何ともないとはいえ、二人いた兄弟弟子はもはやこの世におらず。仲間であるヨハンナの身内の者と彼女に古くから付き従っていた友人は、別の離れた場所に居を構えていた関係で、ホーリーはヨハンナと二人で暮らすようになっていた。

 従ってホーリーは、いつものように仲間と連れだって行くものだと思い、普段通りに彼女を送り出すと、身の回りの用事を済ませながら待つことにした。


 通常、高級幹部クラスの住居は、組織の極秘事項になっており、余程の事でもなければ他人には知らされないことになっていた。仮に訪問客があったとしても、それはごく親しい友人であったり、住所を予め教えられた者に限られていた。

 ちなみに彼女等は、この方が落ちつくという師ヨハンナの好みで、尖塔状をする自然の巨石をくり抜いて造った空間を住まいとしていた。大小合わせて十余りの部屋数があり、中には百人ほどが集会を開かれるぐらいの広さのものもあった。

 一帯は風変りな形をした巨石がごろごろ転がっているだけの不毛の大地で、二人以外に住んでいる者はいなかった。


 ところがそのときに限って、彼女が出て行ってからそれ程時間が経たない内に訪問客があった。

 人里離れたこのようなへんぴな場所に、連絡も無しに人がやって来るとはと、怪しみながら外を眺めると、威厳に満ちた雰囲気を漂わせて一人の人物がさっそうと立っていた。

 協会のトップであった彼の男、ヘルムダイムだった。供も連れずにひょっこりやって来たらしかった。

「わたしだ。入れてくれぬか。お前の師に頼まれて来た」


 ホーリーは男の顔を見知っていた。それで何の疑問を抱かずに気を許すと、話を聞こうと部屋の中へ通そうとした。だが男は部屋へは入らずに、

「このわたしと一緒に来てくれぬか。それ程手間は取らせない」


 そう告げると、「実は、とあるところから推薦があってのう、無役のお前に役を与えたいと思うのだが、その力量が果たしてあるのか、このわたしが直々にその確認をすることになってな。そういうわけで、ここではなんだから、迎えに来たというわけだ」


 とホーリーを外へと誘った。

 師が急に呼び出しを受け、それに相前後して協会のトップが供も連れずにやって来る。まさに良くできた話であった。だがその当時のホーリーは、上司である協会の人間、しかも協会を統べる組織のトップを疑うことなどできるはずもなかった。大人しく従うと、少し行った先に見えた、男が乗って来たと思われる人工知能が運転を行う無人車へ一緒に乗り込み、行先も告げられぬまま連れていかれた。

 車中で、男は愛想が良かった。目を細めてホーリーをのぞき込んでは、最近起こった出来事や世間話を面白おかしく語った。ホーリーも六十歳以上年が離れた年長者に礼儀正しく対応した。二人は仲むつまじいとまではいかなかったが、雰囲気は悪くなかった。

 それで、何とはなしにどこへ行くのかと行先を訊くと、「今向かっているのはその研修施設だ」との返答が返っていた。


 休憩することなしに二時間ほど走った頃、緑の森に囲まれて建つ、一軒の古そうなコッテージ風の建物が見えてきた。どうやらその高さからいって平屋ではなさそうだった。

 と、まもなく車は図ったようにその建物の前に停車した。二人は揃って下り立つと、男の方が、


「ここだ。この場所で取り行おうと思う。何も心配することはない。すぐ終わる」


 そう言い残すと、建物の玄関の方へ向かって、先にさっそうと歩いて行った。ホーリーも腰の辺りまで伸びた長い銀の髪をなびかせながら、大人しく後へ続いた。


 建物の中は、案外シンプルな造りだった。一階部分は、ダンスができそうなくらい広いがらんとしたワンルームの間取りで、オープンキッチンとソファのセットが板張りのフロアの片隅に据え置かれているのが見て取れた。また、階段が見えたことから二階部分があるのがうかがえた。


 部屋に入るそうそう、「そこに腰掛けてくれるかな」と男は視線でソファを指し示すと、「そうだな。試験を行う前に一息入れようか」と独り呟きながら、自身は部屋の隅の方に歩いて行き、そこにあったワインセラーの扉を開けて、一本のワインのボトルを二個のワイングラスと共に持って戻って来た。

 そして、テーブル上にワイングラスを並べて各々に赤紫色をした液体を注ぐと、その一方を取り、グラスを揺らしながら匂いを確かめてぐいと軽く一気飲みにして、「飲みたまえ。色と香りのついた無害有益な水だ」と言ってホーリーにも勧めた。

 ホーリーは、雰囲気を和ませるために男がそう言ったのだろうと思ったが、そのとき何も断る理由がなかったので、勧められるままにワイングラスを手に取り、一度口に含んでは味わいながら、何度かに分けて上品に飲み干した。その間、さしもの彼女も緊張からか、はっきりとした味を感じとることができなかった。

 森の方から漂って来ているのか、香草の爽やかな香りがした。開け放たれた一方の窓からこぼれ日が射し、人気のない室内を明るく照らしていた。いつの間にか、遠くの方でカッコウがさえずる声が聴こえていた。

 のどかな昼下がりの陽気だった。

 その中、テーブルを挟んで相席に腰掛けた二人は、舌鼓を自然に打ちながらワインのボトルを一本空にすると、「さあ始めようか」との男の呼びかけで受け答えが始まった。男はホーリーに向かって、本名、組織に入って何年経つのか、師フリードとのなりそめは、出生地、本当の両親、兄弟の有無、性別、配偶者の有無、実年齢、得意なこと、苦手なこと等、簡単な聞き取りを一通りした。ホーリーが包み隠さずに応えると、男はメモも取らずに全て頭の中に入れていった。


 穏やかに一時間ばかり時が流れ、ホーリーに固さが見られなくなったところで、男は急に難しい表情になると、


「これは組織を統括する者として基礎的なことだが、大きな組織を運営する上で大事なこととは、上から末端まで意志の統一ができているかだ。ところが人それぞれに個性や才能や主義主張がさまざまであるため、それが中々上手くいかない。それではどうやるかと言えば、各人が信頼関係で結ばれるような趣向を取るのが望ましいと言える。つまりそれは、兄弟や親子関係といった血と血のつながりであったり、師匠と弟子といった師弟のつながりであったり、仲間・友人関係のような言葉と言葉のつながりであったり、契約書・刻印のような書面のつながりであったり、原始的な下等生物に良く見られる肉体と肉体とのつながりであったり、忠誠心や道義心から由来する精神的なつながりであったりする」


 そのような誰が聞いても至極まっとうに聞こえる難しい話を切り出して、会ってからまだ数時間しか経たない者と打ち解ける方法として一番手っ取り早いやり方は、野生動物のごとく身体と身体をすり合わせ触れ合わせることなのだと、これから行う行為の正当性をもっともらしく唱え、言葉巧みにとか、気遣いみたいなことをしながら口説くといったまわりくどいことはせずに直接言って来た。


「今までのは参考程度に訊いただけだ。これからが本試験だ。その身体で、このわたしに忠誠心を見せて欲しい。なーに、お前の師匠にも了解はとってある。心配はいらない」


 そのような男の要求は、ホーリーにとって、はた迷惑な話だった。

 周りに誰もいない部屋に男と女が顔を突き合わせて座っていて、相手は若い男女に見境なく手を出す常習犯で、おまけに無類の好色で。これらの状況下では何も起こらない筈はないと薄々感づいていたが、その好みは男の性癖から若い美男美女と相場が決まっていた。それなのに、どういう物好き、気まぐれ、勘違いから目を付けたのか知らないけれど、なぜ私のような若くない者がという思いだった。

 十二歳で師デリートに弟子入りして、十八年を要して師直伝のスートア流剣技の奥義を極め、それから八年が経過していた。往々にして能力者は年齢と容姿は一致しないといわれるとはいえ、実年齢は既に三十八歳だった。あと二十五年若ければ分かる気もするけれど、というのが本音だった。


 だがホーリーは、組織の絶対的権力者にそこまで言われては断ることができなかった。「私みたいな者で宜しいのですか?」と、思わず訊いていた。しかし冗談か間違いで終わって欲しいとのホーリーの願いは、残念ながら叶わなかった。

 男はそれに応えず、ただにやりと笑うと、ホーリーの手を優しく取り二階へと上がっていった。ホーリーは男のされるがままになりながら、とうとう私にも巡って来たかと妄想を膨らませていた。


 お前が一人前になったと私が認めたなら、お前に見合った男をこの私が見つけてきて上げるから、それまでは他のろくでもなし共と付き合うんじゃないよ。良く分かったね、とヨハンナが日頃から言っていたけれど、その男というのは実はこの男だったの? いやそんな筈はない。この男が、師が選んだ未来の夫である筈はない。だって、この男は正妻を持つことなど眼中にない男。多くの情婦、情人を周りに侍らせることに生きがいを見出している、いわば常識のない男なのだから。やはり、この事は師の知らない話なのかしら。

 ではどういう理由で私を? それにどういう理由で師が了解済みという嘘を? さっぱり分からないわ。


 中々疑問が晴れぬままホーリーは男の後へ続いて二階へと上ると、どうやら身の回りの世話をさせるために男が根回しをして用意していたと思われる、白磁色の肌をしたマネキン人形そっくりな個体が全部で六体、そこに待っており、「おはようございます、ご主人様」と感情のこもらない言葉を口々に投げ掛けてきた。

 男の趣味なのか、出迎えた六体とも身長五フィート内外の幼顔をした美男美女で、一糸まとわぬ姿をしていた関係で、少年少女の思春期の体型がまるわかりだった。


 二階部分は一階と打って変わって趣向を凝らせた造りになっていた。透明ガラスの壁で四つの部屋に分割されており、一番手前の部屋は、フロア全体がタイル貼りで、滝が流れ落ちるモニュメントが付属として付いた、大理石製のジャグジーバスがでんと据え付けられていた。丸い形をした十人ぐらいが一度に入ることができる大きさで、既に湯が上限いっぱいまで張られ、いつでも入ることができるようになっていた。そして男のちょっとした機転なのか、入浴剤が入れられて水面が淡いレモン色に染まり、細かい泡が弾けていた。

 ジャグジーバスの部屋の隣は化粧室の部屋。直ぐ奥の方は寝室らしい部屋。あと一つは鉄格子に囲まれた部屋となっていた。


 二人は、六体の人形の介添えを受けて、速やかに生まれたままの姿となると、一定の距離をおいて入浴した。

 そのときホーリーは、異性に裸を見せることはこれが初めてのことだったので、昂ぶった気持ちをどうにか抑えようと、必死に平静を装い、紅潮した顔をうつむいて隠しながら、しおらしくしていた。一方、男の方は慣れたもので、三体の人形に身体を洗わせながら、大らかに男らしさをアピールしていた。

 二人はおよそ十分間入ったところで風呂から上がった。それから身体を拭いて貰ってガウンを着せて貰い、言われるまま下のタイルに身体を横たえると、これまた人形によるマッサージが待っていた。二人はおよそ四十分間身体中をもみほぐして貰いながら、簡単な会話を取り交わした。

 やがてマッサージが終了すると、今度は、飲み物や食べ物の提供や高級エステサロンのサービスのような奉仕が人形達により続いた。

 ホーリーがリラックスできるように男が段取りしたと見られ、まさに至れり尽くせりのもてなしにすっかりのせられその気になったホーリーは、うっとり夢ごこちのまま、これから起こるであろう、彼女にとって生まれて初めての行為に思いをはせていた。


 そうして三十分ほど経った頃、いよいよその時が来たらしかった。それまで寝そべってビールを飲んでいた男が、もうそろそろ良い頃合いかと、人形の一体に尋ねていた。


「準備ができているか?」


「はい」と即座に人形から返事が返ってきた。そうかと頷いた男は立ち上がると、着ていたガウンを脱ぎ、ホーリーに向かって眼光鋭くあごを軽く振り、奥の方の寝室らしい部屋をさりげなく指し示すと、


「あそこへ場所を移そう」


 そう伝え、傍に付き従う人形達に「もう良い、お前達」と言って、これが百歳を超える老人なのかと思えないくらいの筋肉隆々のほれぼれする後ろ姿をみせつけるようにして、堂々とした足取りで先に歩いて行った。

 そしてホーリーはというと、その頃はまだ素直で従順であったこともあり、相手が相手だけに逆らわずに全てをこの男に委ねようと、期待と緊張で硬直化した頭で決め、神妙な顔で大人しくその後へ従った。もはや逃れる術はない。これは儀式の一つなのだからと自分に言い聞かせながら。


 するとホーリーの目に予想した情景が飛び込んで来た。

 辺りを円盤状をした天井照明が冷たく照らす中、そこには純白のシーツが掛かった木の切り株のような形状をした巨大なベッドが一つ、部屋のほぼ中央に置いてあった。

 また壁際には高さ四フィートぐらいの脚付きチェスト。その上には、金属製の燭台が載っていた。

 そしてベッドの直ぐ傍には、イスが収納された楕円形のテーブル。その上には、エキゾチックな色をした果物が載るガラス製のボール、同じくガラス製の水差しとコップのセット、キャンディとチョコレートの包みが入る陶器製の容器がそれぞれ載っていた。

 ちなみに、キャンディとチョコレートの中には、ホーリーは全く知らなかったが、雌だけに絶大な効果をもたらす媚薬というものが入れられていた。


 ホーリーが部屋の中へ入って行ったとき、男は裸のままベッドの縁に腰掛けていた。しかもどこも隠さずに堂々とである。

 それにつけて、彼女が入った途端、透明なガラスの壁が突然鏡張りに変わり、部屋全体が密室化。これにはさしものホーリーも一瞬あ然として立ち尽くした。その様子を男は楽しんでいるかのような顔つきで、ホーリーの頭のてっぺんからつま先までまじまじとみつめると、凍り付いたように突っ立ったホーリーに言って来た。


「さあ、始めようか」


「はい」


 良く通る声でホーリーがはっきりと返事をすると、いよいよ本心を言って来た。


「さあ、着ている物を脱いで、ひざまずいて貰おうか」


 傍から見れば、一糸まとわぬ姿の男の前に、あたかも奴隷か罪人のように裸でひざまずかせ、従わせることは屈辱を与える以外のなにものでもないように思われた。だがしかし、そのことが従属を問うことであるのなら話は別だった。主従の関係を結ぶやり方として、血をなめ合う血の契り、身体に印を刻む刻印の契りと並んでどこでも普通に見られる光景で、異常な行為と言い切れなかった。


 ホーリーは、幾ら組織の長であるとは言えここまでしなければならないのかと男に分からぬように溜息をつくと、恥ずかしいという感情は二の次にして、これ位なんでもないと言う風に着ていたガウンを潔く取り去り、一糸まとわぬ姿となり、その場で正面の男に向かって片膝を付いた。そうして、顔に長い髪が被さるのも気に留めず、うやうやしく頭を垂れた。


「これで宜しいでしょうか」


 そのときホーリーは、か弱い人間の女になりきって、どのようなことも受け入れる覚悟でいた。

 そんな彼女の思いを知ってか知らでか、男は主従の礼を取ったその姿をじっくりと見て、目を細めてにやりと笑うと言った。


「よしよし、良く分かった。もう頭を上げて良いぞ」


「はい」


 ホーリーは言われたとおりに、速やかに顔を上げると、伏し目がちに男を見上げた。覆い被さっていた長い髪が両側に流れ、顔かたちの整ったホーリーの美しい容貌が現れた。

 男は満足そうな顔をして頷くと言った。


「もっと近くへ」


「はい」


 ホーリーはにじり寄るようにしてさらに近付いた。そうして男の身体に触れる間近まで近付くと、透き通るくらい真っ白い肌を惜し気もなく晒しながら、ピクピクと小刻みに表情をけいれんさせて訊いた。


「これで宜しいでしょうか」


 男は眼前に片膝をついてかしづいたホーリーを静かに見つめると、


「よし、分かった。お前の忠誠心を試させて貰おうとするか」


「はい、何事も仰せのままに」


 かしこまって従順を現す言葉を述べたホーリーに、男はそうかと頷くと、「さあ、心を開け。心を開いてわしを受け入れるのだ」と呼びかけながらホーリーの頭をいきなり両手で乱暴にわしづかみにして自分の方へ引き寄せ、顔を近付けて来た。

 これにホーリーは、男にされるがままエメラルドグリーンの瞳を静かに閉じると、素直に受け入れた。次の瞬間、男のひげが当たったのだろう、むず痛い感触とともに唇と唇が重なり合うのを感じ取っていた。

 こうなってしまうと、案外肝が据わっているというか、ホーリーは不思議なくらい戸惑いや動揺は覚えなかった。程なくして、相手の舌が生き物のように口の中に入ってきたが、冷静に応えていた。同様に、カラメルソースのような味がする仄かに苦い男の唾液が多量に流れ込んできたときも例に漏れず。ほとんど反射的に無理やり飲み込んだ。そう応えるのが、自身が知識として持っていた大人の男女の営みの行程として、正しい応答だと理解していたためだった。


 いつの間にかホーリーは立ち上がっていた。男が口付けをしながら、一緒に立つようにと強引に促したためだった。

 その内、頭から背中に移動した男の大きな両手が身体をきつく抱きしめて来た。無論ホーリーも男の首に手を回して応じた。その拍子に裸の身体と身体が密着。すると女の性なのか、身体が勝手に敏感に反応。思わず甘い吐息を漏らすと、全身を小刻みにけいれんさせながら弓のように逸らせていた。

 そういったホーリーの反応に気分を良くしたのか、男は目尻を下げて、さて次だといわんばかりにホーリーの尻部を両手でわしづかみにすると、ホーリーの身体を軽く抱き上げて、彼女の豊満な胸の谷間に自身の顔を埋めた。

 その瞬間、ホーリーは脳天まで突き上げられるぐらいの、えも言われぬ快感に襲われ、思わず天を仰いで喘ぐと、無意識に歓喜の声を上げていた。


 だが問題はそれからだった。何が何だかわからない内に、手足の力が急に抜けるような感覚に襲われると、意識が急速に薄れていき、その後のことは記憶になかった。

 そしてどれくらい時間が経ったのかも分からず。ようやく自然の摂理で目を覚ましたときには、彼の男は忙しい身分なのだろう、もはやそこにいなかった。

 その代りに、ロングのブロンドヘアに紺色をした素敵なレースのワンピースに身を包んだ人型人形が一体、無表情な顔で傍に立っていた。

 ぴったりと似合う様子からして、これが正装した本来の姿と思われた人形は、ホーリーが目覚めたのが分かると、生気のない目でじっと彼女の顔を見つめながら話し掛けて来た。その内容は、――帰りは、後片付けはしないで良いから、下で駐車している車に乗りなさい。車は自動的に自宅まで送り届けるだろう、と男の簡単な伝言をそのまま伝えるもので。


 かなりの虚脱感に見舞われて意識がもうろうとする中、ホーリーは分かったと頷いて、周辺を見回しフロアに落ちていたガウンを捜し当てると、よろよろと立ち上がり、裸の身体に羽織り、重い身体を引きずるようにして化粧室の方へ向かった。

 そのとき彼女は、あるだけの魔力を一気に使い切ったような、相当な脱力感を感じていた。その原因がまさか媚薬のせいであったとは夢にも思わず。逆に、男に抱かれることがこれほどまで体力を消耗するものかと感慨深く思っていた。

 併せて、昨夜何が起こったのか興味本位で思い出そうとした。だが、変に思い出して悪い思いをしたくないからと直ぐに中止した。

 酷い疲労度とベッドのシーツの汚れ具合からみて、記憶に残らないくらいの恥さらしな出来事があったのは一目瞭然だと見てのことだった。


 ものの数分でホーリーは用事を済ませると、今はいつごろかしらと、化粧室の小窓から外を見た。すると、すっかり夜が明けていた。太陽の向きと高さ、森の景色の様子から見て、どうやら朝の午前七時から八時の間らしく。かなりの時間爆睡したらしかった。

 次の瞬間、ホーリーの脳裏に、ひょっとして予定より早く片付いたからと、もう既に師が戻っているかも知れない。そんな考えが浮かんだ。

 ホーリーは、これはやばいと憮然とした表情で寝室へ戻ると、急いで帰り支度を始めた。

 直ぐに、着て来た衣服がテーブルのイスに揃えて掛けられていたのを見つけると、あっという間に身に着け。同時に酷く空腹感を憶えてテーブルを見回すと、陶器製の容器に入っていたお菓子類は全て消え失せて包み紙だけとなっていたが、果物がまだ半分以上ボール内に載っていたので、その中から名前の知っている小さなりんごのような形をする青い果物を手に取り、用心深くかぶりついた。皮は仄かに酸味と塩味が入り混じったような味がしたが、実は甘味があっておいしかった。ホーリーは同じ果物をあと四個食べて簡単に食事を済ますと、真っ直ぐに階下へと向かった。

 ほどなくして建物の外に出ると、人形が言った通り、近くに例の昨日乗って来た車が横付けされて止まっていた。急いで車の後部に乗り込みシートの上にバターンと倒れ込むように横になると、ホーリーは静かに目を閉じた。即座に運転手のいない車は、意志を持っているかのように発車した。


 およそ二時間後に自宅に帰ったとき、師ヨハンナはまだ戻っていなかった。

 ほっと安堵したホーリーは、その日は疲れていたので自宅から一歩も出ず、師の帰りを待った。

 すると予定通り、あくる日に師は戻って来た。ホーリーは何食わぬ顔で出迎えた。もちろん男との出来事を胸に秘めたまま、一切話すことはなかった。


 それから間もなくして、協会の人事にあたる部署の者が三人、書筒を携えやって来た。彼等は使者として、晴れて協会の構成員となった証である名跡を名乗る権利を、それまで本名のアウグスティで活動してきたホーリーに授与すると伝えに来たのだった。

 一般に実力主義をうたう秘科学協会には世界導師協会のような階級制度はなかった。その代りとして、一定の実力があると協会の上層部が認めた場合、或いは協会に貢献があった場合に限って、勲章や階級代わりに付与される協会固有の名跡或いは称号というものがあった。

 名跡(称号)は空位になっている物を含めると、全部で百余り。普通、名前の後ろに付けたりそのまま名前代わりにして用いられ、その中には上級の構成員、つまり幹部でなければ名乗れない代物もあった。ちなみに、彼女の師ヨハンナのモノナム・ヴァルキリアやヘルムダイムという名は数ある名跡の中で、代々高級幹部だけに名乗るのを許されたものだった。


 無論、使者がやって来ることは、師も前もって知っていたらしかった。だが、これといった反応は示さず、寧ろその表情はうれしくないという風だった。

 それもそのはず、ホーリーの評価を低く抑えていた張本人だったのだから。


 ちなみに構成員になるということは、実力を認められたということはもちろんのこと、それと共に、個人を名指しして任務依頼がくるようになる。それまで所属していたグループから自由に独立できる。それまで許されなかった単独行動が自己責任で許される。部下を持つことが許される。新たに住居を構えることが許される。何か問題が生じたときは、例えそれが不条理なことであろうとも責任を取らされる場合がある、といった特色があった。


 そう言ったわけで、一週間もしない内に、ホーリー本人充てに任務依頼が来た。単独で来いというもので、ホーリーが自発的に目的の場所へ向かうと、彼の男、ヘルムダイムが供も連れずにこっそり隠れて待っていた。いわゆる逢引きというもので、その後二人が関係を持ったのは言うまでもなかった。

 そのようなことが、一月に一度と回数が少なかったが続いた。が、ホーリーのように理屈っぽく妄想癖があるタイプには、返って効果てきめんで。当初愛情などこれっぽっちも持っておらず、半ば仕事だと考えて行っていたものが、次第にその日が待ち遠しく思うようになり、いつの間にか愛しく思うようになっていた。

 それから一年余り、相変わらずそう頻度は多くなかったが、そのような愛人関係が続いた。

 ところがある日を境に、二人の間にトラブルが生じたわけでもないのに、突然関係が切れた。男の方が一方的に呼び出しを掛けて来なくなったのだ。


 当時、目が覚めるようなパーフェクトな美形で、組織の男達のみならず女達の間でも、羨望の的で見られていることは薄々知っていたホーリーは、なぜ私ではいけないの、という思いだった。

 やはり私は彼の好みと違っていたから、なるべくして飽きられたのかしら、と自分を卑下しても見たが、やはり諦め切れなかった。またそうかといって、常に少年のような好奇心旺盛な眼差しで、いつまでも戦いの場を求める自由奔放な生き方を選び、周りの男など眼中になかった師、ヨハンナ。その生き方に憧れた影響なのか、気位が変に高かったので、自ら訪ねて行くことも、ストーカーのようなまね事さえできるはずもなかった。

 そうなると、どうにもならないこととして、きれいさっぱり諦めるほかなかった。ところが、思い込みが人一倍強過ぎる上に恋愛に一途で、加えてひときわ長く乙女であった者が生まれて初めて味わう失恋であったのでは、一度燃え上がった恋の情念をそう簡単に消し去ることは決してなまやさしいものではなく。持っていき場のない思いはやがて憎悪と妬みと怒りとなり、しばらくの間ホーリーは悶々とした日々を送った。

 その間幾ら考えても思い当たる節は何もなかった。自分に落ち度があったとは到底思えなかった。

 いつもそのプロセスは男任せで。先ず抱擁しながらの口付けから始まって、それがしばらく続いた後、互いに服を脱ぎもう一度抱き合い、それから向こう主導の愛撫が続き。するといつも全身が気持ち良くなり。その内に生まれ持った体質なのか、意識が無くなるのだった。

 そして、目覚めたときは決まって朝になっていて。おまけに男がどこかに去っていないというワンパターンばかりの繰り返しが続いていたのだから。


 情が深い性格が災いし、すっかり人間不信となったホーリーは、やがて人が変わったように素直な性格でなくなり、皮肉や独り言を良く言うようになると、冷酷非道・残忍なことをますます平気でするようになっていった。他にも、その頃直接とがめる者も死んでいなくなっていたせいで独断行動を度々取るようになり、ときには命令に素直に従わなかった等々。はからずも、態度や言動や行動に苛立ちのはけ口を求めていたのだった。

 ロウシュやパトリシアの父親に出会ったのも、二人からBJ・シュルツを紹介されたのも、瀕死の状態で死に逝く寸前だったフロイスを何の気まぐれか命令違反をして助けたのも、ちょうどその頃だった。


 しかしながらホーリーは元々合理的な思考の持ち主で、そのようなことで深く精神を病むような柔な人間ではなかった。

 二、三ヶ月もしない内に、満たされない不満をある大きな目標にすり替えて立ち直っていた。

 それは、組織内で身内と呼べる者が誰もいなくなって、漠然と思い浮かんだもので、つまりこういう内容だった。

 組織はこの世を平和(平穏無事な世界)にするためと称して、先が見えない無理な命令を強いて来る。

 このまま行くと、いずれは私も師や師の友人の二の舞になる。いつこの世とおさらばしないとも限らない。 

 そうはいっても、私はいつまでたっても、かごの鳥。組織にはもはや未練がないが、残念ながら決別することはできない。なぜなら、私は殺し以外何も知らないのだから。

 だけど、世間は狭いようで広いもの。仕事内容はボディガードで、集った者同士、仲間割れしないという簡単な条件さえ呑めば一生面倒を見てくれる上に、規則に縛られない自由な生き方をさせてくれるところがあるという……。


 そう、目標とはいわゆる転職のことだった。だがしかし、そう簡単に組織から抜けることができないのはホーリー自身が良く知っていた。

 実際、組織を無断で離脱することは、それ即ち死を意味するという、暗黙の掟があった。その場合、必ずといっていいほど追っ手が直ちに差し向けられ、釈明はもはや無用と否応なく死の制裁が下された。ホーリー自身も、自ら追っ手役となり、離脱した者を始末した覚えがあったから、間違いのない事実だった。

 とは言え、身分は構成員であるため、単独で動けるから、腕に覚えがある者なら好きに逃げればお終いだろうと思われがちであったが、実はそうはいかないのが世の常で。良くできた仕組みが出来上がっていた。


 先ず一つに、そこそこの実力を持つと思われる準構成員の立ち会い人が、自動的に一人乃至二人。そして実力が未知数の見習いの準構成員が数人付いていた。彼等は上級クラスの幹部の許可がない限り、外れることはなかった。

 二つ目として、組織の番犬と呼ばれる、実力はそれ程でもないが卓越した俊敏さを持ち、任務が遂行できたかを確認する見届け役という役目の者が二人、遠巻きにして監視していた。彼等は仲間と網の目のような情報ネットワークを張り巡らせていたから非常に厄介と言えた。

 というのも、少しでも不穏な動きを察知したとき、ホーリーも彼等の存在を知っているだけで姿をまだ見たことがない、組織の猟犬と呼ばれる、裏切り者の追跡捕縛せん滅に特化した者達を呼ぶことができたからだった。

 従って、幾ら実力があろうとも、追われる側の弱みで、上手く逃げ切れるかは疑わしかった。

 また、もし無事に逃げ切ることができたとしても、それは一時的なことで、それからも受難が続くのが見えていた。

 組織には千里眼のような能力を持った者がいて、たちどころに居場所を突き止めてしまうからだった。


 以上のことから、ちょっとした思い付きや単独で逃げ切ることは無謀以外の何ものでもないと判断。それ故、逃れる道筋の確認や手引きする者の手配、一時身を隠す場所、その間の食料・水などの物資の確保等の下準備が終わった頃、固い決意の現れとして、二十年以上伸ばし続けてきた髪を肩の辺りでバッサリと切ると、いよいよ決行。数々の思い出が残る協会を出奔したのだった。


 結果、監視網を上手くかいくぐり、追っ手をまくことに見事成功。あらかじめ用意していた仮のアジトへ身を潜めた。

 ところが二、三日経った頃、どこからかぎつけたのか知らないが、組織から離脱したホーリーを追って二人の男達がやって来た。組織から差し向けられた追っ手だった。組織内にはホーリーでさえ知らない監視専門の秘密機関があり、千里眼能力が及ばない細工を施したホーリーの居場所まで、ほんのわずかな手がかりを頼りにやって来たのだった。


 しかし、追っ手は二人とも明らかに格下だった。瞬殺で返り討ちにすると、三週間内に五人と、割と短い周期で追っ手が引き続いてやって来た。だがどれもホーリーの実力にほど遠く。ことごとく彼女の剣の餌食となった。


 秘科学協会は実力さえあれば年齢性別関係なく評価され、幾らでも成り上がることができる世界であると言われていたが、実際のところ、実力主義というより寧ろ、結果が全てという成果主義の世界だった。

 よって、どれくらい実力があろうとも、最終的に評価する者のさじ加減で、どうでもなっていた。

 それで言うと、ホーリーの実力評価は、名跡を与えられた約百名の間では中の下の下あたり。下から数えるほうが早かった。師が生前、貢献度をなぜか低く設定していた関係でそうなっていた。

 そのことがどうやら関係したのはほぼ間違いのない事実であったらしく、最後にやって来たのが、「私は組織の人事の責任者だ。ケリをつけに来た」と名乗った、全身を赤い防具に身を包んだひとりの女戦士で。女は追っ手選定の責任者として詰め腹を切らされる形で来たらしく、始終協会への不満を支離滅裂にぶちまけた。その女も血祭に上げると、それ以後追っ手はとうとう来なくなった。


 やがてホーリーは転職した先で引き合わされた四人の男女とグループを組むこととなった。その後しばらく経って一人の人員を補充したグループは、不特定多数のところから、良い意味でも悪い意味でも忌み嫌われる存在となるのだが。ま、そのような黒歴史はさておき、ウサギの被り物をつけた三人の間で、まだひそひそ話が続いていた。

 

 賞金の受け取り方はパトリシア同様キャッシュカードにする。賞金を手にした以上は、当初計画していた賞金相当分にあたる物品を基地からかっぱらうというやり方は、我々は元々物取りではないのだから、帳消しにする。恐らくこの様子では帰るときが危険のようだから、その際は一旦二手に分かれ、その後に決めていた場所で落ち合うことにする。全てのことが決まったらパトリシアの方に連絡する、等とそういったことはすんなり決まったが、どのような経路で追っ手の追跡をかわすかが問題となっていた。

 つまり、相手が動き出す前に先手を打ってひと暴れし、それに乗じて逃亡するのなら何の問題もないと言えたが、賞金を受け取ってからでは後の対応の仕方が後手後手に回る恐れがあるとして、最終目的地である港のふ頭まで行くまで追跡者の目をごまかすために設けていた一時的に立ち寄る場所(中継地点)を若干変更すべきか、それとももう一、二ヶ所増やして対応すべきか、もし増やしたとしてどこにすべきかを検討していたのだった。


 そんなこととは知る由もなかった芸術家風の男は、待ち時間が五分を超えた頃、待ちくたびれたように「あのう」と口を挟んだ。即、張りつめた空気が漂う室内に三人目の男の声で「うるせえ。ちょっと黙ってろ」と、罵声がいきなり飛んで来た。


「はあ、どうも」男はほんの一瞬だけ身を硬くすると苦笑いを浮かべた。すると、またもや「何だ!?」と乱暴な声が、うっとおしそうな響きで返って来た。


 声を掛けて来たのが男であったのは残念と言わざるを得なかったが、ともかくきっかけができた。このときを逃す手はないと、男はセールスマンのような口振りで問い掛けた。


「何でもめておられるので? 選択肢が多過ぎてお決まりにならないというのなら、こういう商品も特別に用意しておりますが」


 そう言って、すかさず「ちょっと失礼して」と上着のポケットから白手袋を取り出し、「大変貴重なもので、直接手で触れるのには注意が必要でして」


 思わせぶりにそう伝えながら両手にはめると、スーツの内ポケットから、拳大の黒っぽいものをつまむようにしてゆっくり取り出した。それは光沢感があるビロードか何かでできた布製の小袋で、男の口振りから、中には貴重な品が入っているのが明解だった。

 当然ながらその瞬間、ピタッとひそひそ話が止むと、一斉に白いウサギの顔が男の方へ向けられた。

 刺すようなその視線に芸術家風の男の黒い目が鋭く輝いた。


「そう慌てないで下さい。物騒な物ではありませんから。まあ見ていて下さい」


 立て続けにそう述べながら、袋の口を慎重に開け、面前の三人に良く見えるように、白手袋をした片方の手の上に取り出した中身を載せると、あなた方の中にこの価値が分かる方がおられる筈です。そう言いたいのを我慢したわざと遠回しな物言いで、


「ええ、その昔、発見した錬金術師が賢者の石と勘違いしていたものです。ヒントは魔法の宝石、魔石、魔法の素。またはゴールドダイヤモンドとも呼ばれています」


 そうして相手の反応を待った。協会に所属していた魔術師がこれを知らなければもぐりだからな、と思いながら。


 それはちょうど、電極のように見える金属製の足が下部に数本付いた真空管のような形状をする黒いガラスの器で、外観からは何らかの機器の部品のように見えていた。


 案の定、ほんの一瞬の沈黙の後に、女の声が歯切れ良く響いた。


「それってもしかしてカリレット……」


 よし、思った通りだ、と男は頭の中で微笑むと、すかさず愛想笑いをして応えた。


「ええ、そうです。これがその原石です。まあこれだけのものは滅多にお目にかかれないと思いますが」


「なぜ、それを私達に披露したの?」


「なぜとは、それは……」


 男は何食わぬ顔で口調を変えた。たちまち、それまで喋っていた言語とは異なる外国語が口から飛び出した。


「それはですねえ、あなた方の正体について、本当のことを知りたいからです」


 発音がはっきりしていて聞き取り易いが何を言っているのか単語の意味がさっぱり分からない芸術家風の男の聞き慣れぬ言葉に周りが呆気に取られる中、女の声で男の言語に恐ろしく良く似た言語が響いた。


「それはどういうこと、ホワイト・レーベルのスパイさん」


「やはりばれましたか」


「もちろんよ。こんなバレバレな手を使って来るなんて思いもよらなかったわ。そういう私ものせられてこうして喋っているわけなんだけどね。それで一体何の用? 言わなくてもおおよその事は察しがついているけどね」


 女が最後に言い足した言葉に、芸術家風の男は眉間にしわを寄せ、当惑した表情を浮かべると、


「いやそのう、そういうことではなくてですなあ、私は賞金を渡すときに一緒に協会からの伝令を伝えるよう言われていまして。それで来ただけでして」


「伝令って?」


「その前に私にも重要な仕事がありまして。実は本人確認をしなければならないのです。

 それに先立って私の自己紹介をさせていただきます。私の名はヘルムダイム。と言っても先代のレージ・アイン・ヘルムダイムとは関係がありません。私はクリーク・ジェイスン・ヘルムダイム。先代が死んで無理やりそう名乗れと言われただけでして。

 これでよろしいでしょうかな。それでは本題に入りたいと思います。あなた方がロザリオの一味であると認めて欲しいのです。そうでなければ話をするなと上からきつく言われておりますので」


「つまり相手確認ということね。でもね、口なんてあてにならないものよ。幾らでも嘘がつけるものだしね」


「しかし上からの命令ですので」


「ふん、お堅いこと」片端のウサギの被り物をした方が小さく頷いた。


 そう言った具合に、二人はいつの間にか一対一で直接会話を始めた。一方、何となく取り残された感があった周りは、軽快に繰り返される理解不能な言葉のやり取りを、お手上げといった表情で見守っていた。

 それもそのはず、二人が話す言語は、唯一秘科学協会の中だけに通じる特殊なもので、ここまでは男の計算通りだった。


「どうです、はっきりと認めては貰えませんか、アウグスティ」


「一体何のこと?」


「じゃあ、アウグスティ・ユーナム・ヴァルキリア。これではどうです。確かあなたは北欧の大陸の生まれで、髪はプラチナゴールド。瞳の色はエメラルドグリーン。長くレーベルの大幹部として君臨したフリート・モノナム・ヴァルキリアの秘蔵っ子でしたね。

 あなたは我が協会を裏切り、秘密結社ロザリオを立ち上げたことは全て調べが付いています」


「そんな話を今さらぶり返してきて貰ってもね。そのことならもう既に話が付いている筈じゃなかったかしら」


「ええ、その通りです」男は平然とした顔で応えた。


 ホーリーの言ったことはいちいち間違いのないことだった。

 ロザリオと秘科学協会は、今でこそ敵対関係にあるが、少し前まで友好関係にあった。彼女の脱走の件に関しても同様で、協会内で無かったものとして処理されていたのだった。


「実はここへやって来たのはそういう話をしに来たのではなくて、伝えたい話を持って来たのです。ですが、話が分かる人がどうしても必要で」


「それが私だったってこと?」


「ええ、そうです」


「それはおあいにく様。全くのお門違いよ。私には残念ながらそんなマネジメント力はないわ」


「じゃあ誰が?」


「それを聞いてどうする気?」


「もちろんその人物と話し合いを持つつもりです」


「ふ~ん」


「我々においても、そちらにおいても極めて重要な話です」


「それって、口から出まかせのくだらない話じゃないでしょうね。もしそうなら分かっているでしょうね」


「もちろん存じております。私がやって来たのは、実は和解案に関することです、互いに賠償も謝罪も無しの対等条件による」


「ふん。それを、はいそうですかと直ぐに信じると思ってるの。私達は馬鹿じゃないのよ」


「分かっております。でもこれだけは信じて貰うほかありません」


「……」


「あれからしばらくして協会の規則が刷新され方針が変わりました。またイグゼクティブ(指導部)も大いに変わり、協会の組織全体が新しく生まれ変わりました。

 トップは二人制となり、以前は協会の顧問という肩書で協会の運営に口を挟まず、一定の距離を置いておられたシャトー・バランス様とウイルヘン・コウム・ラッセル様が就かれました。お二人は導師協会の代表とは血縁関係にある上にじっこんの間柄でもあるということで、協会継続の危機に直面したのを機に協会を立て直すのに協力して下さることになったのです。また、その取り巻きもお二人の友人達がなりました。

 それにつれて、あなた方への対応も百八十度変わりました。もはや協会はあなた方を敵視しておりません。それどころかこれから仲良くやっていこうと考えております。そのことをお伝えしようと、手を尽くして捜し出そうとしたのですが、中々見つからず。とうとう捜し出すより見つけて貰う方が手っ取り早いだろうという話になり、姑息なやり方と思いましたがこのような目立つ催しを思い浮かんだわけです」


「ふん、でもまた裏切るんじゃないでしょうね?」


「まさか。裏切るならもう既に裏切っています」


「それはそうかもね」


「既に知っておられると思いますが、あのときは導師協会の要請を受けて動いただけのこと。その当時の指導部のメンバーはもういません。現協会はあなた方に何の恨みつらみもありません」


「あなた達が私達とそのような話をすることを導師協会は知っているの?」


「動向ぐらいは察知しているのは明らかですが、おそらく知らないと思います」


「そう」女は少し間をおくと続けた。「それで後ろの四人は?」


「四人は今日会ったばかりの見も知らぬ者達です。ですが、私にとって大切なお客様でして」


 そう男は当たり障りのないように伝えると、今夜の出来事の一部始終と、どうしても断ることができなかった事情を正直に話した。

 ここで適当なことを言って隠したところで、後になってボロが出ても困ると判断したのと、二人の男女に対して全く興味がなかったからだった。


「あら、そう。わざわざ政府の役人がボディガードを引き連れコンタクトを取りに来たと?」


「ええまあそうです」


「ふふん、一体何の用事かしら。私達には心当たりはないんだけどねぇ」


「……」


「まあ良いわ」


「では受けて貰えるので?」


「ふふん、あなた達は運が良いわ。私に殺されなかっただけでなく、今ここに渉外に通じた仲間が来ているのだから。

 私を初め柄の悪い言葉を使うもう一人は、他人の言うことは信じないたちなんだけれど、彼だったら物わかりが良いから話が分かるかもね。ま、どう返事するかは別にして、一度交渉してみたら良いわ」


「あ、はい。それでは」


 芸術家風の男は、ウサギの被り物を被った前方の三人が、小声で何か話し始めたのを確認すると、ほっとした表情で改めて後ろを振り返り、じっと待ち続ける二人の男女に、元の言葉で丁寧に話し掛けた。


「終わりました。ご安心ください。受けてくれるとのことです」


 魔法が解けたかのように普通の会話に戻った男に、次の瞬間、二人の男女は目を丸くしながら分かったと頷くと、あくまで慎重を期すという意味なのか、若い男の方が目をそらし、直ぐ後方に立つボディガードの立ち位置を確認した。

 そんなとき、どこからともなく柄の悪い声が、仄かに明るい室内に響いた。


「信じられねえな」


 その声に不意を突かれた芸術家風の男は、一瞬ハッと身を震わせた。目の前の者達にかかれば、人の命などは極めて軽いものに過ぎないと知っていたからだった。


 その内、ウサギの被り物を付けた三人の中から二人が黙って席を立つと、前方にあった別の応接セットへ揃って移動。訪問客を監視するように、テーブルの角を挟んで着席した。

 そして、残った一人が時を移さす口を開いた。男の声質で、ちょっとした裁判官か何かのようなしっかりとした声が響いた。


「さあ、こちらへどうぞ。どちらからでも結構、一応お話を聞かせて貰います」


 エレガントな装飾が施されたモダンなテーブルを隔てて腰掛けるその人物の表情は被り物を被っていて分からなかったものの、落ち着いた雰囲気と、冷静なその物言いから察するに、いかにも場馴れしているという風だった。


 すると芸術家風の男は「直ぐに終わりますから」と二人の男女に許可を取ると、待つ男の元へ先に歩いていった。

 果たして、事前に三人の間でやり取りが行われていたせいで、ものの十分もしない内に話し合いはすんなりと終了。芸術家風の男はほっとした表情で席から立つと、元の位置まで戻り、次へバトンタッチした。「どうぞ、あなた達の番です」


 促されるままに二人の男女は、はいと頷くと、男と入れ違いに目的のテーブルへ整然と向かった。そのときボディガードの二人も一緒に向かおうとしたが、芸術家風の男が首を大きく横に振って止めた。

 だがそれを無視するように二人は男から目を背けると歩き出そうとした。けれども、両足が言うことをきかなかったらしく、一歩も踏み出すことができず、二人とも腰砕けとなって座り込んでいた。

 芸術家風の男は、放心状態のまま固まった二人のボディガードを見下しながら、それみたことか相手が悪すぎると苦り切った表情で彼等をあざ笑うと、ここで不審な行動を取れば全てがご破算になる恐れがあるとして、触らぬ神に祟りなし、ここは何もしないことだと自分自身に言い聞かせ、素知らぬ顔で薄い笑みを浮かべてじっと立ち尽くした。



 別の応接セットに腰掛けたホーリーとロウシュの二人がじっと見守る中、ゾーレは、真正面から近付いて来た、共にブロンドの髪で、濃紺のスーツの上下をきちんと着込んだ中肉中背の若い男とクリーム色をしたジャケットとパンツに身を装ったややふっくらとする女性を軽く手招きすると、さっそく呼び掛けた。


「お座り下さい」


 その一言で、二人は薄く微笑んで目で軽く会釈すると、直前に見えた肘掛付きの豪華なイスへ、それぞれ礼儀正しく腰掛けた。

 たちまちゾーレとテーブルを挟んで向き合う形となった彼等は、そのとき若干浅く座り、背筋を真っ直ぐに伸ばした姿勢を取ると、若い男の方が、掛けていた金縁のメガネを、スーツの内ポケットから出した良く似たデザインのハイテクメガネに交換した。一方女性はというと、うれしさを押し殺すような少し口を緩く結んだ表情で、服装の乱れがないかを品よくチェックする仕草をすると、手を重ねて両膝の上に置いた。

 二人が席に就いたと見たゾーレは不愛想に、さっそく切り出した。


「政府の役人が我々に用事があるとは、珍しいこともあるものですな。伺ったところ、我々に金で簡単な仕事を頼みに来たという話ですが」


「はい、その通りです」すぐさま若い男の方が応じた。「その前に、もう既に聞いておられると思いますが、一応我々の自己紹介をさせて頂きます」


 そう言うと、先の部屋で芸術家風の男に語ったのと同様の説明を、官僚らしい馬鹿丁寧な言葉遣いでした。また、お互いが親戚関係にあることも付け加えた。その言動には、何の迷いも緊張も感じられず。まるで仲良しの友人に向けて説明しているかのような感さえ受けるものだった。またその隣で、幾多の修羅場を経験してきたかのような雰囲気で異常に落ち着き払っている女性も、ある意味理解不能だった。

 自分達をわざわざ名指しして仕事を頼みに来たとなると、当然としてある程度の下調べをしている筈。それなのにここまでの落ち着きようは、幾ら政府がバックに付いているといっても不自然だ。ただの役人風情の態度ではない。きっと裏に何かがあるに違いない。ゾーレはそう考えると、疑念を抱いたまま、分かったと相づちをゆっくり打った。


「そうですか、なるほどねえ」


 そのときゾーレは知らなかった、その裏には単純なカラクリがあったことを。

 二人は手慣れたもので、基地に着いたとき、恐怖心や不安や心配を取り去りリラックスできるようにと、医師から処方される精神安定剤より遥かに強力な禁断の薬を服用していた。それが徐々に効き始め、今になって十分に効果を発揮していた。だから相手が誰であろうと、おじ気付くことは無かった。


 ゾーレのそのような心配をよそに、若い男は銀縁のメガネの下から不敵な笑みをのぞかせると、


「先に言っておきたいのですが、私達がこうしてやって来たことはあくまで非公式であって政府の意向でも、ましてや私達の私情でも有りません。そのことを先ず心に留めておいて欲しいのです」


 さりげなくそう念を押すと続けた。


「そうですね、これから直ぐにでもやって来た理由をお話したいのですが、その前に不仕付けながら、皆様が相談するのに相応しいかどうか審査する為、ご経歴を調査させて頂きましたので一度確認させて頂きます。いかにも回りくどいことをするものだとお考えかも知れませんが、これも慎重を期す為と思いお聞き下さい。多少長くなるかも知れませんが宜しくお願いします」


 ゾーレは分かったと首を縦に振るほかなく。それを確認した若い男は、片方の手の指をハイテクメガネのフレームの部分に持っていくと電源スイッチを入れタッチボタンを操作し情報端末へアクセス。マイクロプロジェクターの機能を利用して、空間に映し出された蛍光色のデータ情報を、フレームを通してさっそく読みながら述べて行った。


「次に述べて行くことは比較的極秘度が小さく、その為なのか内容が隠されずに示されていたもので、そちら側から受けたと断定している被害報告ですが。…… 一応抜粋してみます。

 我が国。とある某所で全滅していた特殊部隊の隊員の死因についての記述です。圧死、窒息死、転落死、落下死、転倒死、焼死、原因不明死、病死、事故死。何れも不適当な場所で起こっていたとなっています。またその総数は半端ではなく二千人余りと記されています。

 国名不明。強力な貫通弾で破壊されたと考えられる建物群とその中にいて同じようになった多数の死体が見つかったとあります。しかし現場検証によると、凶器が一切発見されず全く原因が判らないと記されています。

 国名、場所は不明。ガンマ線、中性子線などの放射線兵器や毒ガス、神経ガスなどの生化学兵器が間違いなく使用されていたとなっています。

 某国。軍用ヘリが一度に十二機と戦闘機が十機、突如消息を絶ったまま未だに発見されていないとなっています。同様の事件は他の国々でも起こっているようです。そこでは装甲車と戦車部隊の行軍が消えた、一個大隊の兵士全員が行方不明と有ります。

 国名不明。とある基地で大量に自殺者が出たと有ります。一応、原因として何者かが殺人電波のような兵器を使ったのだろうと結論付けたとなっていますが実際のところは不明となっています。

 これ以外にも不可解な死についての記述は、例えば身体を縦横に断たれていたとか、地面にめり込んでいただとか、血液が見つからなかっただとか、人体が溶けていたりミイラ化、石化していたりだとか多数有ります。

 船舶が行方不明、沈没とだけ記載されています。船名、所属国、形状などの項が一切省略してあります。が、わずかな事実関係から輪郭を辿っていくと、どうやら沈没したのは某国の原子力空母を旗艦とする総数十一隻の艦隊らしく、同時に潜水艦も二、三隻行方不明になっているようです。

 とある地域が消失。壊滅。水没。なぜか日付、場所に後からブラックマーキングが施されていて読むことができなくなっています。こういうのが幾つもあります。

 以上があなた方の仕業と結論付けられているものです」


「ふ~ん、そうですか」ゾーレはにこりともしないで相づちを打つと、憮然として言った。「あなた方はどうしても私共を極悪人にしたいようですね」


 急に態度を硬化させたゾーレに、すぐさま「いや、そういうことではありません」と若い男が、戸惑った様子で否定した。


「重要極秘資料の中に載っていた記述をそのまま述べたまでのことで、あくまで状況証拠なので。悪気があったわけでは絶対ありません」


 ゾーレはおもむろに腕組みをすると、冷たい視線を若い男に向けて言った。


「確かに私共は人殺しであることは逃げも隠れもしません。間違いのない事実です。しかしながら、あなた方は理解不能で不可解な事件なら全て私共の仕業だとおっしゃっているような気がします。何でもかんでも私共のせいにされるのはどうしても納得行きませんのでね」


「すみません。ですが全く根も無い話でもないと思うのですが」


 そう言って軽く念を押して来た若い男に、ゾーレは感情のない声で応えた。


「それで、そのようなことを私共に話してどうなされるおつもりで。私共がそれを認めると、逮捕するとか……」


 開き直ったようにそう言ったゾーレに、若い男はすぐさま敏感に反応すると、少し慌てた様子で、急いで取り繕った。


「いいえ、滅相もない。そんなことは決して考えておりません。ただその幾つかでも心当たりがあればそれで結構です。実績が確かなのか、そこに思想の背景がないかを知りたかっただけのことです」


「ふ~ん」


「どうやら私達の意向に合った方々と知り安心しております」


 若い男はニコッと笑い、上手く話題を逸らすと、いよいよ本題を切り出した。


「ええ、今回私達は現政府に属さない、とある特務機構から特使としてやって参りました。機構の名称は国に拠りましてヴェスティギウムと呼んだりダムールと呼称したりシュリットとかパッソ、パサオと言った呼び方をするところもあります。こうした複数の名があるのは、要するに機構は全世界に支部を持って活動しているということです。つまり多国籍に連なる壮大な組織体と考えて貰えば結構かと。

 機構が一体何をするところかと申しますと、当初機構が創立された目的は、国家と国家、若しくは一国の内政の争いごとを非公式ながら公平な話し合いで解決するというのが、意図した主な事柄でした。構成員は世界各国からボランティアで召集された政治界、経済界、法制界、宗教界の知識人、見識者からなり、あくまで多数決で調停、裁定を下すという、一見すれば強制力のある裁判所と同じ役割を担う筈でした。しかし、いざ蓋を開けて見れば大抵の場合、各国の思惑を旨く利用して当の国や当事者が招集に応じないばかりか、内政の干渉だと反発して裁定の判定を守らずに益々強硬になって争いを進めるところが続出してしまい、全く意味の無い有名無実の存在となってしまっていました。

 そのことを憂いたのが、相談役として機構を影から補佐し、また思想界の重鎮でもあった五人の老齢の男女でした。氏名は残念ながらお教えすることはできませんが、私達が敬愛する人達です。

 その前にこれだけは言っておきますが、彼等は決して隠れ全体主義者の集まりなどでは有りません。正直言って本心から将来の世界を憂う憂世の士なのです。

 そのようなことがあって彼等五人は話し合い、私達のような普段から現実と理想のギャップにわだかまりを持っていた者を多く集めて新しい機構を秘密裏に創立されたのです。彼等は私達を集めてこう言いました。

 おそらく本人が自らを卑下して言ったものだろうと思いますが、『人は年をとりたくはないものだ。若い頃は全てにおいて大らかで純粋で、あらゆるものを区別なく受け入れ、他人のことを思いやることができたのに、年をとればとるほど心に余裕がなくなって自分ばかりを心配してしまう。自分のことだけを考えて見てしまう』 そう例えて、『世の中も全くこれと同じで、相変らず権力者とその利権者を中心にして都合のいいように回ってしまっている。そこでは正論は完全に無視され押さえ込まれ、人と人とが互いに憎しみ合い殺し合うことが仕組まれ、結果、多くの無駄な血が流されることで、ようやく危機意識が芽生え平穏な世界を形作っているのだ』と説きます。またさらに、『そのような老人じみた考えを持った一握りの罪人のために多くの無垢な生命が消えて無くなるのは何と空しいことだろう』と嘆きます。しかしその反面、日頃から私達には間違った行動を取るべきでないといさめて来ました。『そうしたところで再び同じことの繰り返しになるのは歴史が認めているから』と。では私達は何をなすべきかと問うと、彼等は『世の中を急激に変えようとはせずに、自然に変わるように持っていくことを考えるべきだ』と説きます。しかしそれでは長い年月が掛かる。もしかすると弱い立場にいた人種が絶滅しているかも知れないと聞き返すと、彼等は言いました。『高望みはせずに自身に合うやり方でじっくりとやりなさい。これが一番大事なことです』と。

 では具体的にどうすれば良いですかと再度問い返すと、『勇気がいること。決断がいること。そのことで他人に迷惑が掛かっても直ぐにフォローができること。これが満たされるなら何をしようと構いません』 そういう答えでした。

 そう言う理由で、私達はほんの偶然でしたが、政府の秘密ファイルの中にあった情報からあなた方の存在を知り、ここまで会いにやって来たという次第です。ここまでがいきさつです。

 次に本題の相談したいことなのですが、それには現在の世界情勢を理解して頂かなくてはなりません。やや専門的な話も有り、退屈することもあろうかと思いますが暫くお付合い下さい。

 私達人類の歴史は例外なくその時代の権力者によって動かされ、小休止期を挟みつつ繁栄と滅亡を周期的に繰り返して今日まで至っています。そのことから見ると、人類には永続的な平和が訪れたことがなかったと言えるかも知れません。では、それはどうしてかと考えますと、昔においては、戦争とは、平和を達成する手段だと信じられて来たからだと言えます。また別の視点から言うなら、戦争とは、経済を豊かにする活性剤だという説が有ったからだとも言われています。

 だがしかし現在はそうでは有りません。一度大きな争いが起こればその影響は良い方向へは向かわず、返ってたちの悪い方向へ向かう傾向にあります。しかもこれら悪い流れは一部に留まらず徐々ではありますが重く世界中に広がるものなのです。

 もはやご存知かと思いますが、この前の危機で核のみならず、生物、化学兵器までも使われた結果、世界は酷く痛みました。何分と情報統制がされ、また危険地帯へ立ち入ることができませんのでさまざまな情報が飛び交い未だ正確な統計が取れていませんが、恐らく世界の二割強から三割の人々が犠牲になっただろうと推測されています。

 またその影響で大陸や公海の一部は今現在も汚染されたまま手付かずの地となっています。専門家の意見では、あと四、五半世紀は元に戻ることは無いだろうとのことです。それを神が人類に与えた審判だと国民に説いているどこかの国の元首もいますが、私に言わせて貰えば、そう言う輩こそ人類の危機を真剣に受け止めていない大馬鹿者と言えます。この世の破壊をよそ事のように受け止めてはいけないと私達は思うのです。

 元より私達人類がここまで繁栄を築いて来られたのは大地があり大海があり澄み切った空気があり、加えてそこに多くの動植物がいたからこそです。人類繁栄の為に多くの人間の生命が失われるのは残念で済まされますが、自然は残念で済まされません。一つ間違えれば全人類どころか全ての生命がこの世からいなくなるのですから。

 もう一度、あのようなことが起これば、今度こそこの地上に人類が住めなくなるのは間違い有りません。ですから、これ以上の人類同士の争いは絶対避けなければはならないのです。

 元々あのような出来事が起ったのも、元を質せば、長年に渡って世界に蔓延していた不況が大きく影響しています。

 その当時、自由体制はどこの国も崩れ去り保護体制へと移行していました。また既に経済が破綻していた国は全体体制か恐怖体制か、若しくは独裁体制になっていました。

 こうなっていた原因は四つほど理由が挙げられます。

 一つ目は世界中で異常気象が続いたことです。各地で台風、大雨、洪水。地震、津波、海水温上昇。火山の噴火、山火事、干ばつ、寒害とこれでもかと言う風な天災が例年になく重なり合って訪れました。その影響で世界の食料事情ががらりと変わり災害の復興費用やら物価の値上がりなどで国民の生活が苦しくなっていました。

 二つ目はそれを好機と見た外国資本、民族資本、犯罪組織を始めとする各種シンジケート、役人などの地位ある人々の意識でした。彼等の意識には何でもかんでもやったもの勝ちという風潮があり、世の中に悪い影響が出るのが分かっていても無視して己の欲望のままにやり放題やったことがそうです。

 三つ目は国家の姿勢でした。これら身勝手で無責任な経済活動を繰り拡げていた彼等を止める手立てを取らずにただ放任するだけだったことです。さらにどの国も中身のない成長戦略を吹聴しては、無駄な財政の支出を繰り返していました。そして危機状態に陥ったとき、景気を立て直そうと国民から重税を行い、益々過剰な支出を意味も無く繰り返したことが破綻を早めてしまいました。

 四つ目は責任の転嫁です。これが後の惨劇を生んだ一番の要因だと言われています。金儲けに暴走した人々は目が覚めるような大金を手にしましたが、それ以外の大半の国民は、経済が停滞破綻し失業が蔓延した結果、生きて行くのがやっとという最低の生活を余儀なくされました。要するに貧富の二極化が出来上がったのです。

 ところがこうして生まれた貧富の差をどこの政府も情報操作を行って、原因を国内の異民族、人種や外国のせいにしました。それに国民が簡単に信じ込まされてしまったのです。そうなると国民の不満のはけ口は、政府が悪玉に挙げた者達へ自然と向かう以外有りませんでした。

 悪玉が国内の異民族や人種とされた場合、至る所で頻繁に起こった暗殺テロとそれに引き続いた無差別殺りく、内戦に伴い、軍需産業とそれに付随する医療産業は潤いましたが、それ以外の生産業は壊滅し治安も悪くなる一方で国民の生活が益々困窮を深め、政府自体が機能しなくなったり無政府状態化してしまいました。

 悪玉が外国とされた場合、最初偏見による小さな小競り合いで始まったものが、やがて生活物資の奪い合い、利権の獲得へと発展し、遂にはどの国も保護主義や軍国主義や冒険主義が幅を利かす風潮へと傾いて行ってしまったのです。その後は見ての通りです。

 あのような大事件があって以来、どの国家も何とか自制力が働いて見掛け上は平和状態が続いていますが、大国が小国にばらまいた武器が拡散したままになっていたり、この世界をもう一度始まりの状態へ戻すべきと主張している馬鹿な指導者がいる国家もあるようですから、まだまだ予断はできません。実際、今現在の平和は各国が情報操作をしてそう見せかけているのがほとんどで、その裏ではきな臭い駆け引きがひっきり無しに行われているというのが実状です。

 以上が今現在の世界の大よその情勢ですが、このことから何を申し上げたいかと言いますと、国家を越えて悪いところを直接治療することができなければ、一度あることは二度必ずあり得るということです。

 私達の機構はそう云った主義主張の異なる国々へ的確なアドバイスをしてやって、偽りでない本物の平和を実現させて上げようとしているのです。

 そのことについて、ガイア・コラボ・ドクトリン(gaia collabo doctrine)という私達でまとめた草案がありまして、その中の趣旨に、『恒久な平和を達成する為と題して、各国は、互いにわだかまりを捨て過去の遺恨を全て水に流し、今現在の状態を踏まえ、足並みを揃えて協力し合い、あらゆる困難を乗り切る必要がある』という明文があり、私達はそれに添う形で日頃から活動していますが、この趣旨で行きますと、一国でも紛れがあってはならないのです。

 その為の方策として、これは例えばの話ですが、お互いの国が体制の垣根を越えて協力するよう働き掛けることも視野に入れています。と言うのも、現在はどの国の体制もこれは何体制だと区別も断定もできない時代に来ているからなのです。今やどの体制であっても、個人や一部の特権階級が国家を支配して、彼等の都合の良い方向へ政治が動いています。彼等がうんと言えば、残る全ての国民はそれに従うほか選択肢はないのです。そう、社会共産体制下で権力を振るう人々が国家を私物化、果ては所有化したいがゆえに、民衆が私有並びに知的財産を所有する権利を緩やかであるが認めたり。自由民主体制下で国家が民衆に自由の制限を加え監視したり、私企業のリストラで大量に出た失業者の大部分をわざわざ準公務員待遇で雇用してやったり、相次ぐグローバル化で国家間に帰属問題が発生した大企業を次々と国有化して行く現状がその例と言えます。

 その案を私達はさらに押し進めて、世界を一度改革して修正し、一つの共同体にできないものかと考えています。が、そこには人種、民族、歴史、伝統、宗教。人の利害、偏見、差別、貧富の差に権力の偏りなどの幾多の障壁が存在します。また人其々にイデオロギーの違いもあります。

 そこで考え出したのは新たなる国土の線引きと国家と民族の再編です。この世界には人種も言葉も環境も思想も違う大小百五十余りの国家があります。民族の範ちゅうで言えばその何百倍にもなります。これらの国が内戦になった場合、その多くは異なる民族間の嫉妬や民族愛、信仰の違いが発端です。それなら同じ価値観を持った人達が集まり一つの国を作りそれを解消できれば争いが減り平和秩序が確保できるのではと考えたのです。

 世界は前の危機で多くの人命が失われ、それと同時に人が住める相当な自然がこの世から消えました。また、祖国を失った何億人とも云われる人々が難民となり、偏狭な地で今だに苦しい生活を余儀なくされています。しかしどこの国も彼等を受け入れる余裕がありません。十分な援助すらできていません。

 よって、急を要することは確かなのですが、問題は資金と自己保身や自己賛美に夢中でこの提案に納得しない人達です。あいにくと私達は資金調達には関与していないので、国同士が御互いに軍事費に資金をかけるのを止めて浮いた資金を回すことぐらいしか思い浮かばず。それ以上のことは分らないのですが、後者には荒療治と言うか思い切った手を打ってでも目的を成し遂げなければならないと考えています。

 こうして見ると、なぜ現役の木っぱ役人である私達がこんな場違いなことをそうまでしてやるのか不思議に思うでしょうが、そこには当然のごとく理由があります。もちろん私達は単に現状を維持したいからこうやって行動している訳ではありません。

 良く考えて見て下さい。私達はお金儲けや権力をつかむ為にこの世に生まれて来たのではない筈です。

 では存在の意義を考えた場合、何の為に私達がいるのでしょうか。生きるのに意味などないとおっしゃるかも知れませんが、私達はそうは思いません。

 今現在、政府筋が情報操作をして表に出なくしていますから噂にも上りませんが、その道の専門家のほとんどは将来の世界像を悲観的に見ています。私達はその予想を覆したいのです。こういうのも何ですが私には二人の息子が、横に座る彼女にも一人娘がいます。私の子は今はまだ小さいので手間がかかりますが、けれども可愛いものです。やがてその子が成長して家庭を持ち子孫を残すのです。

 しかしその子達の時代に、私達のせいで世界がなくなっていたら、…… なくなっていなくても希望を持てない世界になっていたとすればどうします?

 人それぞれに、生きた証しは考え方も価値観も皆違いますからどうこう言える立場ではありませんが、私達は子供の未来に恒久な平和の道標をつけてやることがそうだと見ています。子供の未来は無限大であるべきなのです。今はそのことを達成することが喜びに満ちた人生、生きがいだと思っているのです。

 偶然見つけたあなた方の資料に、結社名はロザリオ。分類は犯罪組織で、特徴として暗殺、大量殺りく、破壊工作を得意とする。構成員は不明。しかし統制が取れた少数精鋭部隊。思想背景は無し。行動様式は昼夜、場所、天候を選ばず。全体像は合理主義者。意味のない行動はせず。

 そして最後の備考覧に、あなた方を評して、神出鬼没、軍隊キラー、用心深く証拠を一切残さないと殴り書きがしてありました。また補足として執念深いとありました。あの時、これを見てピンときて目の前が開けた感じがしました。あなた方なら十分に任せられると思いました」


 若い男はそこまで一気に喋り切ると、親指と人差し指で銀縁メガネのフレームに軽く触れ、位置を微調整。晴れやかな表情でウサギの被り物を付けたゾーレに真剣な眼差しを向けて来た。


「どうでしょう? 私達にお力を貸して頂けないものでしょうか。いざとなれば一国の軍隊とも張り合えるあなた方のお力がどうしても必要なのです。そして私達の思いをかなえさせて欲しいのです」


 そのとき、それまで物静かにじっとテーブルに目を伏せ、時折頷く仕草をしながら話に耳を傾けていた女性まで、何かを期待する視線を向けて来たことに、だがゾーレはあくまで冷ややかだった。

 世界の平和うんぬん、人々の暮らし向きや子供の将来がどうのこうのという、たかが役人の口車に乗せられて、はいそうですか、感動しました。是非手伝わせて下さいと、男気を出して引き受けるのは余りに稚拙過ぎる。ネゴシエーター(交渉人)として失格だ。そう感じて、腕を組んだまま、さして心を動かす様子でもなく、うんともすんとも言わなかった。

 若い男はほんのしばらく待って、ゾーレからの反応がないのを見て、少しの沈黙の後、更に言い添えた。


「前回の危機管理で私共が直接学んだことは、その後のことを考えない中途半端な国家に核を含む大量破壊兵器を裁量に任せて管理させてはいけないことと、国際舞台において取引材料にさせてはいけないというものでした。

 ガンや悪性の腫瘍は幾ら小さいからといって、放っておくと大概の場合、短期間に身体中に広がり、最終的には生命を危機に陥らせます。国の問題もそれに似かよっています。今は害がないからと放っておくと、何れ大手術が必要なときが必ず来るものなのです。そうなったときは遅いと言うほかありません。お互いに共倒れという滅びの危険がつきまとうことになり兼ねないとも限りません。そうならないためには、近い将来害となると分かっているものは小さな内に取り去ることが絶対必要であると思い知らされました」


 若い男が言い終えたタイミングで、その隣に座る女性が初めて口を開いた。強い信念がこもるしっかりした声が響いた。


「そのような国家は大抵、絶対王制のような独裁国で何十年も特権階級が国民を支配して来た国でした。その体たらくぶりは、ご存知のことだと思いここでは話しませんが、長く政権を保つためにやったことが深刻なのです。

 彼等は自らの個人崇拝を国民に強制するだけでなく、まだ善悪の区別が出来ていない年頃の子供に人格の洗脳から歪んだ思想教育、軍隊並みに人を殺す技術を教え込みました。つまり時間を掛けて国民を都合の良いように動く操り人形に改造してしまったのです。今もこう云った手法を真似ている国家がありますからそう露骨に非難できませんが、それが元で、国が倒れても抵抗を止めない罪深き者達が多くいまして、私達の機構が行おうとしている政策にとって大きな障害になっています。

 封建時代の国王、領主と云った人達は、戦いで降伏した敵の王や家来や捕虜にした一般の民を老若男女区別無く有無を言わせずに皆殺しにしたそうですが、その時代に私が当事者であったなら、私も至極当然にそうしたような気がします。無論、敗者をいたぶることで己の虚栄心を満たすのではなく、将来の憂いとなるかも知れない者には真っ先にこの世から消えて貰うのが平和への近道だと考えてのことからです。

 そう言った体制の中で洗脳された人々には可哀そうなことですが、同じ事が言えると思うのです。

 あれは二年ほど前のことです。当時、国会議員で私の今の役職、国防副大臣であった私の夫は爆弾テロの巻き添えになって亡くなりました。犯人は直ぐに捕まりましたが死刑が無いせいもあって悪びれることもなく今現在も刑務所でぬくぬくと刑に服しております。そのような悪人の面倒を、なぜ貴重な税金を使って一生見なくてはならないのでしょうか。そのようなお金はテロで亡くなった人への補償に使うべきだと私は考えています。

 また犯人を洗脳して実行を促した黒幕とされる大物の罪びとは、今も自国で悠々と豪華な暮らしをしながら、その権力で奴隷制度や八つ裂き・火あぶり・串刺しといった残酷な死刑制度を普通に復活させ好き放題やっています」


 そこで女性は一旦言葉を切ると、メイクで一応隠してはいるが下まぶたに隈が見える目を細めて自嘲とも取れる苦笑の笑みを浮かべ、


「もう笑い種です。呆れます。そのことがあってから、私は機構へ協力するようになりました」


 そう言うと、政治家らしい感情を抑えた口調で続けた。


「正直言うと、私個人としては、軍事力を行使する兵隊やあなた方みたいな殺し屋は好きではありません。しかし幾ら素晴らしい名言を吐こうが、白熱した話し合いをしようが世の中は絶対にまとまりません、良くなりません。そこにはどうしても絶対的な武力が後ろに必要不可欠なのです。ですが、急に大きな改革をすればするほど世の中は逆に混乱してしまいます。ですから私共はちょっとした行動を起すだけで世の中を穏やかに丸く治めようとしているのです」

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