第42話

 午後の九時過ぎ。ちょうど芸術家風の男が政府の役人の男女と話し合いを持っている頃。

 白い建物の最上階の通路上で、周囲をうかがうように二つの人影が立ち止まっていた。彼等の周辺にだけ張りつめた空気が漂う。


 一人は、肩までかかる銀の髪をボサボサ気味に流した色白の女で、首には無造作にピンク色のバスタオル、身体には黄色をしたパイル地のガウンを着用し、素足の出で立ち。そしてもう一人は、陽に焼けた顔をする茶髪のやさ男で、上半身は裸で下はブルーの半パン、スニーカー姿で片方の手に黒のキャップを持っていた。

 ホーリーとロウシュで、五階下の階から階段を一気に駆け上って来たところだった。

 そのときホーリーは鋭い眼光を放ちながらムスッとした表情で立ち尽くしていた。その一方で、直ぐ後ろの方でいたロウシュはうっとりとした表情で薄笑いを浮かべていた。

 普段のポニーテイルや結い上げた髪型も良いが、このような自然に流した髪型も風情があって良いものだぜ、とロウシュは感無量だった。


 石鹸の香りのような優しい香りが、ホーリーの洗いざらしの髪の辺りから漂っていた。いきさつから言って、風呂上がりの香りに違いなかった。

 他にも、透き通るように澄んだ彼女の声質。いかに死闘の証とはいえ、身体中の至る所にばんそうこう型の人工皮膚と、疲労回復と眠気解消を促す湿布剤をこれでもかというほどべたべたと貼ってあるのは何となくいただけなかったが、それでも仄かにピンク色に染まってより色っぽく見える素顔、ガウンからはみ出しそうな豊かな胸、ガウンの下から垣間見えるすらりと伸びた美しい素足と、うら若き女のみずみずしい色香が男の目の前にしっかり披露されていた。


 彼等の視線の先には、長い通路に敷かれた赤いカーペットが天井の補助照明と壁際の間接照明により仄かに映える光景があった。それ以外、これといった変化は見られなかった。辺りはひっそりと静まり返っていた。まだ誰も足を踏み入れた形跡がないかのように整然としていた。

 二人は今しがた、後見人的存在であるゾーレから、向こうが動き出すみたいだから一度集まろうと云った趣旨の連絡を受けて、一先ず作戦を中断して引き返して来たところだった。


 あれは午後の七時前。全員が部屋に引き揚げて、簡単に携帯食の夕食を摂ったちょうどその頃、主催者側から最初のメールが届いた。

 その内容とは、“賞金は来客が全員帰ってから支払いたい。それまで待って欲しい。用意ができ次第また連絡をする”といった漠然としたもので。これは何かあるなと疑い、一時臨戦態勢を取った。ところが三十分待ったにもかかわらず何も起こらなかった。

 それから考えられたことは、相手が神経消耗戦を仕掛けているというもの。それならばと、わざと油断する振りをしてやることで相手の動向をうかがう攪乱戦法に出ることを決定。一ヶ所に全員が固まっていたなら相手も動き辛いだろうとして、ゾーレと魔物、ホーリーとロウシュの二手に分かれると、ゾーレは部屋に留まり様子を見る。それに対し、ホーリーとロウシュのコンビは相手の気を引く別行動を取るという作戦に出た。

 そういう理由によって、部屋を出たホーリーとロウシュは、どこへ向かうかは自由に任されていた関係で、一旦外に出ようと屋上へ向かった。

 ところが途中で、そのとき主導権を握っていたホーリーの「狙われる確率が高い場所にわざわざ出向くことはわざとらしいんじゃなくて」との意見で取りやめると、次の候補としてロウシュが挙げた五階下のエレベーターが止まらない階へと向かった。

 その場所は、昨日建物の中を探索した折に彼が話題に出した、階段からのみ行ける隠された階で、隠し階段と隠し扉を通って中に入ると、基地には不釣り合いな豪華な設備が整い、男にとってまさにパラダイスな歓楽の世界が広がっているというものだった。

 一度立ち寄ってみるかのロウシュの誘いに、ホーリーが興味本位で聞き入れた形で決まっていた。


 間もなくして二人はその階に着くと、内部を見て回った。すると、広いフロアには古代の王侯の浴場を再現したかのような豪華な入浴場や全長五十メートル幅二十五メートルのプール及びその付帯施設。それ以外にもラウンジ、ミニバー、ミニシアター室、ミニ会議室、仮眠室、マッサージ室。世界各地のカジノや競馬場やサッカー場や証券取引場、物品先物取引場とネットで結んでいて、各種のギャンブルが楽しめる特殊な部屋、バーチャルリアリティーのゲームが集められた部屋、ミニ遊園地などがあり。ロウシュが言った通り、大人向けの娯楽施設がほとんど揃っていると言っても過言でなかった。しかも、それらが壁で幾つにも区切られるようにして配置されていたことから、大勢で使うというより寧ろ、プライベート或いは五、六人の少人数で使うように造られた印象があった。

 また、どの部屋・施設にも電源が入っていたり、入浴場やプールに水が張ってあったり、食品貯蔵庫で肉野菜が減ったようなあとがあったり、どの部屋にも鍵がかかっていなかったりと、少し前に使った形跡がはっきりと見られたのだった。


 当初二人は、単なる思い付きで覗きにやって来たつもりだったが、見て回るうちに基地の建物内にこれだけの施設が隠されていたことに、ただ見るだけでは面白くない。どうせ税金の間違った使い方で造った高級幹部専用の施設なのだから、一度内部を体感しても罰は当たらないだろうと両者の意見が一致。つい羽目を外して、それぞれ好き勝手に施設内を巡り回った。

 そんなときだった、二人にゾーレから非常招集の連絡があったのは。

 ちょうどそのとき、戦いの疲れを癒すため、天然の岩石で造られた巨大な入浴場でゆったりとくつろいでいたホーリーの携帯に、予め決めていた暗号で、“!!(向こうからメールが来た)“といった着信が、ゾーレからあった。その内容は、“たいへん長らくお待たせ致しました。準備が整い次第こちらから順次そちらの方へお伺いさせて頂きます。合計三ヶ所回りますので一時間から一時間半くらいの待ち時間を目安にしてお待ち下さい。そう手間は取らせません。賞金を紙幣で直接渡すと、余りにかさばり荷物になると思いますので、渡し方の方法を幾つかの事案から選んで頂く形でお伺いしようかと思っています。二十分ほどで終わります”だった。


 いよいよ動き出したみたいね、と怪しんだホーリーは取るものもとりあえずそのとき目に入ったガウンを火照った身体に速攻で羽織ると、洗い髪のまま脱衣場を出て、直ぐ近くの部屋でビール缶片手に日焼けマシーンで横になっていたロウシュに声を掛けて呼び出し、時をおかずにここまで急いでやって来た、というのがてん末だった。


 ゾーレが待つ部屋まで、目測で七、八十ヤードといったところだった。

 何も異常が無いようね、とホーリーはほっとした表情でガウンのポケットに忍ばせていた携帯をその場で操作すると、“??(どう?)”とメールを送った。即返って来た応えは”――(なにも変わりはない)”だった。すぐさま“―― ・・・(こちらも異常なし。少し待ってみるわ)”と送ると、向こうが送りつけて来た指示 “@(分かった。了解)”を確認。携帯をしまい、後ろに振り返るとロウシュに話し掛けた。


「向こうは異常がないと言っているわ。もう少し様子を見ましょうか。それから戻った方が良いんじゃない」


「ああ、分かった」


 ロウシュは頷くと、手に持ったキャップを粋に被り、落ち着き払ってニヤッと笑った。「俺たちがちょいと早過ぎたかも知れねえからな」


「ま、そうかもね」ホーリーの唇からにこやかな笑みが零れた。「ほんと、慌てて来て損したわ」


「ああ、そうだぜ」


 ロウシュの口元が自然とほころんだ。相手が幾ら高嶺の花、毒のある花であるとはいえ、ガウン一枚身に着けただけで直ぐ目の前に立っているのだから、男として内心うれしくない筈はなかった。束の間のひとときを、妄想を膨らませながら堪能していた。

 だが、そんないやらしい目で見られていたとは夢にも思わず、ホーリーは素っ気なく問い掛けた。


「それにしても黒幕がゴールド・レーベルだったとは。本当にやっかいね」


 するとロウシュは、無造作に半パンの後ろに差し込み持ってきたヌンチャクのような形状をした武器をあっという間に引き抜き、肩にのせるや、自分なりにポーズを決めると、


「相手にとって不足はない。と言いたいがそういう訳にもいかないか」


 と、いつものように強がりを言ってにやついた。すぐさま、「当たり前でしょ。馬鹿ね」とホーリーは一蹴すると、冷やかに言い添えた。


「ほんと、呑気なんだから。相手は強敵よ。油断ならないわ。どんな手段を取って来るのか分からないし」


 次の瞬間、別人のような真剣な眼差しでロウシュは恨めしそうにぼやいた。


「ああ、分かってる。それに、あいつ等にはまだ借りを返し終わっちゃあいねえんだからな」


 一気に余裕の表情が消えたロウシュに、ホーリーはうふふと薄く笑うと視線を逸らせて、ちらっと通路側を見た。そのついでに、等間隔に並ぶそれ以外の部屋のドアもさっと見渡した。が、何も異常が見られなかった。

 ホーリーは、ほっと表情を和ませた。

 なんだかんだと言ってもゴールド・レーベルが油断ならない相手だと分かっているようね。


 それからホーリーはガウンの腰ひもをしっかり結び直すと、狭い場所における戦闘に準じた対応をしたロウシュにあうんの呼吸で合わせるかのように、片方の手をパッと裏返し空気をつかむような仕草をした。たちどころにガラス様の透明な楯状の物体が空中から出現し彼女の手に握られていた。彼女はそれを手に身構えた。

 一方が攻め、もう一方が守るという攻守の連携というやつで、仲間間でコンビを組んだとき、彼等が通常時行っていた行動パターンを手際良く取ったまでのことだった。


 三人の間では、これまでの事実関係(特にホーリーの対戦相手が決め手となっていた)から、この見世物にはゴールド・レーベルが関係していて、そのゴールド・レーベルが黒幕である可能性が高いという結論に達していた。それというのも、現実的に考えると理屈が通らないとはいえ、向こうには報復してくる十分過ぎる動機があったからだった。


 その後、何か異変が起こらないか見るためそこに留まった二人は、納得するまで滞在すると、やがて部屋へと舞い戻った。それ以後、誰ひとりも部屋から出ることはなかった。

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