第43話
程なくして、テーブル上には武器がずらりと並べられていた。
それを見ながら芸術家風の男はニヤリと微笑むと、これからの予定と二、三の注意事項を、テーブル向かいに腰掛けた二人の男女に念を押すようにして伝え、次に基地オリジナルの携帯を取り出すと「今から参ります」という趣旨のメールを三ヶ所同時に送った。
時間を見れば午後の九時四十分。
これでやっと用意は整ったと見た男は「さあ、参りましょう」と周りに声を掛けて、すっと立ち上がった。そして後ろを振り向かずに出口の扉の方へ歩いていった。
声を掛けられた男女は、にこやかに顔を見合わせると、すぐさま男の後を追った。
彼等の後ろに、屈強な男が二人、黙ってその一行に従った。
外は暗闇色に染まっていた。昼間良く目にした芝生の緑やその他の景色が完全に消え失せていた。
その中を、男女五人が道路の傍に点々と立つ屋外灯のオレンジ色の灯りを頼りに、急ぎ足で歩いていた。もちろん、先頭を行くのは、芸術家風の男、クリークで、その直ぐ後ろを若い男女が並んで歩き、三人からほんの少し遅れるようにして、二人の男が辺りを警戒しながら歩くという構図を取っていた。
晴れた夜の空に、あいにくと月は見えなかったが、星がパラパラと光り輝く、何の変哲もないありふれた光景が広がっていた。
一行のちょうど前方には、屋外灯に照らされて、高層の商業ビルか、はたまた中世の城のように荘厳にそびえ立つ巨大な白い建物がぼんやりと見えていた。
辺りは無人で物音一つしなかった。本当にここが基地の敷地内なのかと思われるくらいの静けさだった。
歩いて一分も経たぬ内に、人が手をつないで二組ほど通れるくらいの、それほど広いとは言えない建物の入り口の前に到着。入り口へ向かう階段を三段上って、開けっ放しになっていた扉から建物内に入ると、入ってすぐの両サイドに地下に下りる階段があった。一行は、脇目も振らずにその一つへ向かった。
基地において中心的役割を持つ白い建物に常設された地下通路を通って目的地に向かおうというのである。
一行を先導する芸術家風の男、クリークがそのとき目指していたのは、最初に勝ち名乗りを上げた男の元だった。
地下通路は、天井が比較的高く、横幅も車二台がゆったりと通れるぐらいで、居心地は悪く無かった。また真昼のように明るく。それ以外にも、内部は空調が効いていてひんやりとしていた。それが長く伸びていた。
途中、十字路になった地点が二度現れた。が、迷うことなくそこを通り過ぎた。その間、誰とも出会うことはなかった。
尚もしばらく行ったとき、通路はまだ先に通じていたが、男は急に立ち止まると、何を思ったのか壁側に見えたタッチボタンを押した。見る間に、壁の色をしていた扉が左右に開いて狭い個室が現れた。
「さあ、どうぞ」
そう言って促した芸術家風の男に、すぐさま四人が素直に従い、中へと入った。
それはエレベーターだった。男は全員が入ったことを確認すると、8Fと記されたボタンを押した。エレベーターは静かに閉まると、一挙に上昇していった。
一行が向かっていたのは、白い建物から少し離れた地点に建つ高層建築物だった。そこは女性の士官が普段入居する建物で、目的の相手は、その八階部分の一室で待機している筈だった。
八階に到着し、細長い通路に出たところで、誰ともなく深い吐息が漏れた。また、いずれもが緊張した面持ちでいた関係で、口を開く者は誰もいなかった。先ほどの部屋において、芸術家風の男が警戒を促すために言った注意事項、「相手はいずれも極めて物騒な奴らです。油断なりません。会うにも命の危険が伴います」が、明らかに利いているらしかった。
エレベーターは通路のちょうど中間寄りにあり、両側と向かい側にブロンズ色をしたドアが幾つも連なる光景が見えていた。その様子は、高層集合住宅の仕様と何ら変わらないものだった。
そこでも芸術家風の男は、何の迷いもなく歩を進めた。少し薄暗い感があった通路はひっそりしていた。人の気配はやはりなかった。
男は、直ぐ隣に階段が見えた部屋番号L816と記されたドアの前で急に立ち止まると、後ろを確認するように振り返った。
「ここですか?」若い男が芸術家風の男を硬い表情で覗き込むと、小声で尋ねて来た。
「真っ赤なスーツを着ていた男の部屋です」芸術家風の男はにっこりすると、丁寧に応えた。
「登録名はガルチエ・ゼヴラとなっています。恐らく偽名でしょうが」
「約束通り、笑っているだけで良いのですね」若い男の隣から女性が念を押して来た。
「はい」芸術家風の男は小さく頷いた。「そうして頂ければ」
「分かりました」
男女は顔を見合わせると、目と表情で確認を取り合った。
芸術家風の男はここへやって来る前に、ある考えを二人に伝えていた。それは、二人は男の上司ということにする。役割は、何も喋らないで愛想笑いだけするだけにする。代わって男が全てを仕切るというものだった。
よし、これで用意は整った、と男は四人の男女に背を向けるとドアへと向き直り、ドアを軽くノックして呼び掛けた。
「大会主催者側の者です。遅くなってすみません。賞金を持って来ました。入っても宜しいかな?」
次の瞬間、喉に痰が絡んだような男の大きな咳払いがいきなり部屋の中からしたかと思うと、「おい、お前ら。遅いじゃねえか。この大馬鹿野郎」と乱暴な声が返って来た。
芸術家風の男が「それはどうも」と苦笑しながら丁寧に応じると、途端に中から、特徴のあるでかい声が、更に威圧的に飛んできた。
「今何時だと思っていやがるんだ。待つ身になって見ろよな。こっちも都合というものがあるんだぜ。このう……」
その瞬間、相手の顔が見えないことを良いことに、芸術家風の男は露骨に嫌な顔をした。が、そこはそれ、形だけは平謝りで応対した。「それは申し訳ございませんでした」
「まあ、良い。入れ! 鍵はかかってない」
男のぶっきらぼうな声が響いたかと思うと、タイミング良くドアがひとりでに外側へゆっくりと開いた。
五人は時を移さず、半分ほど開いたドアを慎重に開けて部屋内に踏み入った。
中は、最低限の明かりが灯っており、生ゴミと煙草の臭いが入り混じったような悪臭が鼻をついた。入って直ぐに、
「そこで止まれ」と、また特徴のある声がした。声帯がつぶれたようなガラガラ声だった。
その声の指示で彼等は立ち止まると、そろって周囲に目を配った。
すると、長方形の形をするそれほど広くない室内に、アスリートが汗を搾り出すときに着るサウナスーツのようなものを着込み、それと一体となったフードを頭からすっぽり被った男が、部屋の奥の方に丸テーブルを挟んで腰掛けていた。またそのテーブルの上には、口が開いた煙草の箱が二ケースと缶詰の容器のような円筒形が五つ、六つ固めて置かれていた。
それ以外に目立ったものと言えば、超特大サイズのトランクが二つ、縦に積まれた状態でベルトによって固定され、部屋の隅に立てかけてあったキャリーカートに載せてあったぐらいで、他には何も見当たらず。部屋はほぼがらんとしていた。
そのとき、ドアが突然閉まると、部屋は密室と化した。
もしや閉じ込められたのかと思わず後ろを振り返った五人は、一瞬立ち尽くした。そんな彼等を、部屋の住人の男はじろりと眺めるや、丁寧な物言いながら凄みのある低い声で言ってきた。
「金を渡すのが惜しくなったのかと思っていましてね」
「いいえ、そんなことはありません」
かなり警戒しているように思われた相手に向かって、芸術家風の男は穏やかに否定した。
「じゃあ、賞金はどこにあるので?」
そう問い掛けて殺気を飛ばして来た男に、芸術家風の男は全く動じず、普段の口調でさらりと言ってのけた。
「それについて、ここまで話し合いに来たわけでして」
「ああ、そうですかい。嘘じゃないでしょうね」
「ええ、もちろんです」
「で、あんたは?」
予想外なことに、こちらから自己紹介する前に先に尋ねて来た相手に、芸術家風の男はこれ幸いと、
「私はこの大会をプロデュースした者です。名はある事情があって明かせませんが」
と、前もって決めていたシナリオ通りの受け答えをした。
「じゃ、そちらは?」
「二人は私の上司で、この大会の主催者です。また賞金の提供者でもあります」
「ふ~ん。そしてその横にいるのがボディガードということですかい」
「はい、その通りです」
「なるほどねえ」
「それで、ぞろぞろとどうして来なすった」
「別に大した意味はありません。あくまで大会の主催者としての職務を果たしにきただけです」
「はあ、さようですか」
「はい」
芸術家風の男は一言そう受け応えした。そして念のために後ろをちらっと振り返った。四人の中の一人でもへまをしたなら、相手がすぐさま疑いを持ってきて、この先やっかいなことになると思ったからだった。
見ると、上司に設定していた男女は、薄明かりの中でぎこちない笑みをそれなりに作ってはいたが、緊張しているのか棒立ちの状態で表情がどことなく硬かった。
さらにボディガードの二人というと、相手の毒気に当てられたのか、金縛りに遭ったかのようにその場に呆然と立ち尽くしていた
それらを目の端にとらえて、芸術家風の男はまあ合格だなと薄笑いを浮かべると、すぐさま視線を元に戻し、正面の男に向かって簡単な相手確認をした。それから何もなかったように簡単な祝辞の言葉を述べた。
「それでは先ず月並みですが、勝ち残ったことを祝福させて頂きます。おめでとうございます。尚、大会開催の趣旨と我々に関する諸々のことは、申し訳ありませんが緒事情により一切答えられませんのでよろしくお願いします。これで我々の話は終わりです。
もうそろそろあなた様がご希望の話に移りたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、聞かせてくれ」
部屋の住人が、待ってましたとばかりに飛びついて来た。芸術家風の男はしめしめと話を始めた。
「ええ、賞金のことですが、この場で八百万ドルを紙幣でお支払うことは至って簡単ですが、持ち運びに不便な上に、持ち返る途中で盗難の恐れもあるかと思いまして取りやめることに致しました。その代わり、代用としてもっと軽くてコンパクトなものでお支払いしようかと考えています」
「それで何で払ってくれるつもりだ。俺はてっきり、あんた等が(エレベーターから)ぞろぞろと出て来たんで、小銭かよその国の紙幣を運んで来たのかと思っていたのですがね。
ふん、まさか鉛の弾とは言わないだろうな!」
最後に、開き直った荒々しい口調でそう釘を刺すと共に心中を探ってきた相手に、「ええ、もちろんですとも」と涼しい顔で一笑に付すと、ずるがしい商人のような目つきで、
「これは内輪の話で、ここにおられる上司が話しても構わないというので、あなた様にだけ教えて差し上げるのですが、今回我々が投資した金額は、あなた様方御三人に渡す賞金二千四百万ドルを含めて総額四千五百万ドルほどでした。それに対して売上はざっと五千万。差し引き五百万ドルが粗利益となりました。
しかもたった二日間での収益です。分かりますか、この効率性が。
これが結構なビジネスになると分かった以上、そんなことは致しません。よって賞金の出し惜しみをする気は毛頭ありません。寧ろ返って我々は、第二弾の構想を練る段階に入っております。また近いうちにもっと豪華な大会を、賞金も一千万ドルに増額して開く予定にしております」
と、半ば口から出まかせを言った芸術家風の男に、一癖も二癖もありそうな住人は急に人格が変わったように機嫌良く笑いながら「ああ、そうかい」と納得すると、「じゃあ、何だ?」と尋ねてきた。
あ、はいと芸術家風の男はにこやかに応えると言った。「それはカードです。つまり電子マネーです」
「ほ~う」
なるほどそういうことかと感嘆を漏らした住人に、男は即座にへりくだるように言葉を継いだ。
「何でしたらお見せしましょうか」
そう言うと、相手の警戒を更に緩めさせるために、
「カードが入るケースを取り出すために、今から少々不審な行動を取りますがご容赦下さい」
と前置きして、おもむろにダブルの濃グレーのスーツの裏側に手を入れ、中を探ると、黒革製の立派なカードケースを取り出した。
それから男は、カードが一杯詰まったケースを相手に良く分かるように見せると、中を開いて、
「この中にあるものならより取り見取りです。欲しいのをおっしゃって下さい。例えば、月並みですが信販会社が発行するギフトカード、金融機関が発行するデビッドカード並びにキャッシュカード。信頼がおけるビットコイン会社のカード。少し毛色が変わったところでは、国際シンジケートが後ろ盾になった現物支給のジュエリーカード。これだと八百万ドル分の宝石の原石や貴金属が即時に手に入り、場合によっては利回りが付くことも有るので、取引手数料を引かれる現金払いに比べお得と言えます」
そのような口上を述べながら、代表的な有名どころのカードを数点挙げ、「どれかお好きな方を言ってください」と反応を待った。早く済まして次へ行く腹積もりだった。
ところが相手は、直ぐに応じて来るどころか、「分かった、ちょっと待ってくれ」と言うなり、黙ってしまった。その間、考え込むようにう~んと唸ったり、ニタニタと薄気味悪い笑みを漏らしたところを見ると、たぶん決めかねているのだろうと思われた。だが、それにしても長かった。
かれこれ三分以上が過ぎ、何となく気まずい空気が流れた頃、ようやく不穏な気配を察知した芸術家風の男は、語気を強めて早急に呼び掛けた。
「どうかされましたか。まだお決まりになりませんか?」
その行為自体を傍から見れば、中々返事をしてこない相手に芸術家風の男がしびれを切らして催促したように見えていた。だが黒いサングラスをしたその表情には焦りの色がはっきりと見え、額には冷や汗がびっしり浮き出ていた。
それもそのはず、もし今襲われたなら、二十フィートもないこの距離では逃げる暇もない。ここにいる全員が、あっという間に皆殺しにされてしまう、と気が気でなかったからだった。
というのも、男が手に持っていたカードケースには、縦二列に総数二十四枚のカードが収納されていた。
つまり早い話、八百万ドル相当のカードが二十四枚、単純計算でおよそ二億ドルに及ぶお宝がカードケースの中に納まっていることを暗に意味していた。
そのことは、ちょっと悪知恵が働く者なら、カード一枚をここで手に入れるより、寧ろ手っ取り早くケースごと奪う方が断然得だと考えても、それほど不思議でなかったのである。
それから十秒ぐらい待ったが返事はなかった。芸術家風の男はカードケースを相手の目の前に晒したことを後悔しつつも、今更どう言いわけをしようが返って火に油を注ぐだけだと開き直ると、カードケースを持った手をベルトの辺りにそれとなく移動させ、もう一方の手で被うようにして手を組んだような姿勢を取ると、ごくりと唾を飲み込み「あのう……」と、もう一度呼び掛けた。それ以上時間の余裕を与えると、ろくなことにならない、非常にやっかいだと思った。
するとそのとき、邪魔くさそうに応える声が、やっと響いた。「ああ、分かった」
どうにかこうにか、部屋の住人から返事が返ってきたことに、芸術家風の男は一先ず胸を撫で下した。が、まだ安心はできないと、相手の顔色を伺うように訊いた。
「それで決まりましたか?」
しかし相手は応えず。逆に「それだけか」と、例のしわがれ声で乱暴に言って来た。
芸術家風の男は、男の問い掛けの意味を、まだ聞きたいことがあるのかととっさに判断。ここでその誘いにのれば、話が長引いていよいよ相手の思うつぼにはまるとして、「はあ、何でしょう?」と無難な受け答えを選択した。
そのようにとぼけた芸術家風の男に、住人の男は「それだけかと訊いているんだ」ともう一度問い掛けて来た。芸術家風の男が再び「あ、はい。そうですが。それが何か?」と再びとぼけると、やがて「まあ、良いだろう」と諦めたように男は一言呟き、何かが吹っ切れたような物言いで「俺は、本当は現金が良かったんだが、難しい選択だったぜ」と切り出し、
「俺は、金融機関はどうもいけ好かなくてよう、どうもあの雰囲気が反りが合わないというか嫌いでね。最近は皆目利用したことがないのさ。といってギフトカードもビットコインも、あれは持っているという実感が湧かないしな。またダイヤは加工して何ぼということもあってその道の専門家の言いなりにされてしまうからなあ」
と云った御託をうだうだと並べ立てたかと思うと、
「ここは一番信用のおけるものとして、俺はジュエリーカード、その中でも金のインゴットを所望することにしたぜ」と突然公言した。
これに芸術家風の男は「はい、それでは」と一も二もなく応じた。
長い長考の割には案外すんなりと話が付いたことについて、妙だという思いは無いと言えば嘘だったが、今はとにかく先を急ぐ必要があったため、まあ相手がそれで良いというのならば、と理由付けして、自分を偽ったまでだった。
間を措かずに芸術家風の男はカードケースから言われたカードを指先で素早くつまみ出すと、男が待つテーブルの前まで静かに進み出、手に持ったカードをテーブル上に一直線に滑らせた。男はカードを素早くつかむと、流れ作業のように、用意していた携帯ぐらいの大きさの認証装置にかけて本物かどうか確認した。そして、数秒もしない内に、返事を返して来た。
「確かに受け取ったぜ」
そう言って薄気味悪くニヤッと笑いかけてきた男に、芸術家風の男は「それではこれでおいとまします」とだけ伝えると、さっさと踵を返し、直ぐ後ろに立った男女に、「さあ、参りましょう」と声を掛けた。
男のその一言で、二人は催眠状態から突如目覚めたような目で覗き込んで来た。他の二人も同様だった。何が起こったのか分からぬ放心した目で、辺りをきょろきょろ見回していた。
ともかくそれから一行は、あいまいに手を横に上げる程度の仕草で、形ばかりの別れのあいさつをすると、速やかに部屋から退出した。その直後、彼の男から「お互い裏切りっこ無しだぜ」といった決まり文句のようなものが背中越しにかかったが、誰もが緊張から解放されたほっとした気持ちでいっぱいと言った風に、無言を貫いていた。
かくして一行は、一旦地下通路に下り、元来た路を戻りながら、次の目的地へと向かった。
その間、芸術家風の男はずっと辺りに警戒を怠らなかった。けれども後ろから例の男が追いかけて来ることも、意表を突くように先回りして待ち伏せしていることもなかった。どうやら芸術家風の男の取り越し苦労に終わったらしかった。
それについて、何もなしで終わったことは自重する理由が相手にあったからだろうと見ていた。だが、その自重する理由が何かを詮索することはしなかった。考えれば考えるほど心当たりが多過ぎて、考えるだけ無駄だと判断したためだった。そう判断を下した彼の意向は、ある意味正しかった。当たっていた。
彼の男は抜け目なくわざと時間を取った上で、得意の法術を駆使して芸術家風の男の心を読み、その正体を探っていたのだから。
男はその際に、芸術家風の男の気になる事実を得て、体力が底をついた今の状態ではとてもかなわない。それに金銭目的でやって来たわけでなかったからと、これ以上安易に深入りすることは割が合わないと避けたのだった。
そのような事情は知る由もなく、芸術家風の男は、途中で別の方角へ進路を取った。彼は、一件辺り二十分内外で用事を済ませるつもりだった。それが一件目から結構時間がかかってしまっていて、既に夜の十時半を回っていた。つまり三十分以上部屋に留まっていたらしかった。その遅れを少しでも取り戻そうと近道をしたのだった。
気が付けば、一行は地上に出ていて、基地の敷地内に建つ建物を巡る目的で敷かれていた通用路を歩いていた。沿道に屋外灯が点々と並び、全く人気のない道路にオレンジの光を冷たく放つ光景は、どこか哀愁を帯びていて、ある意味新鮮だった。
その中をしばらく行くと、別棟の建物に突き当たった。軍需品の保管倉庫と考えられる二階建て風の建屋だった。
大型シャッターが開いていた正面入口から中に入ると、内部は通常の倉庫に見られる吹き抜け構造をしていた。従って二階部分はなく、何も置いていなかった空間はがらんとしていていた。
そうして、そこからの行き方がかなり特殊だった。部屋の壁に設置されたタッチボタンを押すと部屋の床全体が地下へゆっくりと沈んでいったのだから。どうやら部屋全体が巨大なエレベーター構造をしているらしかった。
巨大なエレベーターに乗り地下三階で下りた。すると、戦車や装甲車といった大型車両が楽に旋回したり、行きかいできるほどの広さがあるとてつもなく広い通路へと出た。また通路の側面の壁には頑丈な扉が幾つも並んで見えた。どうやら地下に造られた倉庫のようだった。
その中のB301と番号がふられた扉の前で、一行を先導していた芸術家風の男は立ち止まると、四人の方へ振り返り、
「さあ着きました。ここがそうです。男女のペアで、女の方は男のマネージャーらしく、登録名は、男の方はアバドン、女の方はボナ・ヴェネフィッカとなっています。まあ、取ってつけたような名前ですが」
瞬間、男女がにやりと笑った。芸術家風の男は、「相手はおかしな格好をしていますが気を緩めることがないように願います。いきさつからいって裏社会の人間と見て間違いありませんので何が起こるか分かりません」
そう付け加えて、「分かっていると思いますが、先程と同様のやり方でお願いします」
と二人に念を押すなり、頑丈そうな扉へ向き直り、さあ行きましょうかと背中越しに声を掛けると、いよいよ扉の向こう側へ声を掛けにかかった。
「大会主催者側の者です。遅くなってすみません。賞金を届けに上がりました。入っても宜しいかな?」
すると、部屋の奥の方から、若い女の声で「あ、は~い」と間延びした返事が返ってきたかと思うと、数秒の間をおいて、愛想良さそうな明るい声がした。
「はい、どうぞ、入って来て下さい。鍵はかかっていませんから。扉の前に付いたタッチボタンを押して下さい。自動的に扉が開きますので」
部屋の中から、ごく普通の言葉遣いで懇切丁寧に応対して来た相手に、芸術家風の男は思わず苦笑いを漏らすと、その言葉に従い、すぐ目の前に見えた、先ほどのエレベーターのタッチパネルほどの大きさがあったタッチボタンに軽く触れた。
次の瞬間、高さ十フィートはあるかと思われた幅広の扉が横にスライドすると、明るい光が外に漏れ出て、目を瞬かせずにいられないくらいの眩しい空間が目の前に出現した。
それもそのはず、そこに現れたのは天井も壁もフロアも白一色の世界だった。
そのような部屋のほぼ中央辺りに、ソファが長テーブルの周りにL字型に並べ置かれており、その一つのソファに、コスプレのようなちょっと変わった衣装を身に着けた男女が、横に居並ぶようにして一行を正面から見ていた。パトリシアとソランだった。
すかさず、「失礼……」と、先頭に立つ芸術家風の男が先にあいさつをして、同行者と共に部屋の中へ足を踏み入れると、全身赤ずくめの女の方が、鼻に付く香水の香りと共に「ご苦労様」とにこやかに出迎えた。
「どうぞこちらへいらっしゃって」
調子よく言って来たその言葉に導かれるようにして奥へ進むと、天井部には直管形ランプがずらりと並び、四方の壁は白い外壁材。フロアは白い防塵樹脂塗装がなされていた。予想した通りの広い倉庫といったところだった。
今ソファに腰掛ける二人は、たかだか三十万ドルの報酬目的で命を懸けたゲームに出たことが縁で、目的を遂げるための囮の役目を担うためスカウトされたペアで。ここまで来るとは考えてもいなかった、どこの馬の骨ともわからぬ者達だった。
それ故、本来なら二人を適当にあしらっても何の問題もなかった。
ところが芸術家風の男はそのとき、尋常ではない条件を二日に渡って見事クリアーして三名の中に残ったことは、奇跡や偶然だけでは到底片付けられない。寧ろ、却ってその実力は折り紙付きということになる。よって、取るに足らないと見なすのは無理があると、万が一の場合に備えて、ソファに腰掛けた男女からおよそ三十フィートばかり離れた地点で警戒するように立ち止まり、愛想笑いをすると慎重に「ええ、それでは」と口を開いた。
「私はこの大会をプロデュースした者です。後ろの者は私の上司とその取り巻きです」
「なるほど」分かったような口振りで女から返事が返って来た。
続いて先の男のときと同じ文言を繰り返そうとして、二人の様子をちらっとうかがった。それがいけなかった。
そのとき女は、大型サイズのカラーメガネに芸能人のような派手な服装と濃い化粧に、燃えるような真っ赤な髪をしていた。そして横にいた男は、硬派系のストリートファッションに身を包み、暗い雰囲気でこちらをにらんでいた。加えて、銀色に光るナイフを数本、見せびらかすように手に持っていた。
そのようなまさに登録名の通りの役柄になり切っていた二人に、なぜかしら幻惑され、ひょっとしてあの姿こそが本来の地の正体で、わざとそれらしい演技をして周りを欺いているのではないか。そんな有りもしない妄想が脳裏をよぎった。そのとき一瞬ぼんやりとしたことが影響して、ついうっかり祝辞の言葉を飛ばしていた。
「電子マネーでお願いしたいのですが。いかがですかな?」
当然ながら女は、余りに唐突な問い掛けに一瞬驚いたように口をぽかんと開けると、何のことか分からないと言った風な変な受け答えをしてきた。
「はあ?」
けれども芸術家風の男は少しも慌てず、一つ咳き払いをしただけで、「まあ聞いてください」とちゃっかり先を進めた。
「実は直接現金を手渡す方法や小切手も当然考えていたのですが、現金は八百万ドルくらいになりますとどうしても持ち運びに不便な上に、持ち返る途中で盗難の恐れもあるかと思いまして。また小切手はどうしても我々の身元が公になる恐れがあるということで止めさせてもらうことにしました。その点、電子マネーはどれもクリアーしていて、お互いに利点が多いと思っております」
そう言って、今度は同じミスを犯すまいとして、カードケースを取り出さずに有名どころのギフトカード、デビッドカード、キャッシュカード、ビットコインカード、ジュエリーカードを「こういうのはどうでしょう?」と一種類ずつ挙げた。五つの中から選ばせて簡単に済ます魂胆だった。
ところが女の方は、首を傾げて黙って聞いているのみで、これといった反応は何も示さなかった。それでも男は構わず、
「しかしなんというか、予選を勝ち抜かれて、ついにこのゲームまで勝ち残られるとは、その世界ではさぞかし名が通っていらっしゃる方だと存じます。が、私共も組織の名を明かさぬ上はそれ以上のことは詮索しません。
まあそのう、私共も当初の目的を達することができましたので、一先ずここで一言お礼を言っておきたいと思います」
などと心にもないことを最後に並べると、にっこり微笑み、相手の反応を見た。
すると、先の男のように考え込むように黙っていた女が、弱ったという表情で唐突に尋ねて来た。
「あのう、すみませんが、カードではなくて私が指定する口座に直接賞金を振り込むことはできませんか?」
「それは申し訳ございませんができません」
立ち込めたしつこい甘い香りを振り払うように、男がそつなく応じると、女は「あ、そうですか」とがっかりしたようなため息を漏らし、いきなり「それならランドマスターカードは?」と言って来た。
彼女が言及したランドマスターカードとは、裏社会の企業が非公式に営む銀行が発行し、表社会においても普通に流通するカードサービスの一種で、匿名で口座を作れること、取引手数料が一切かからないといった利点を持つ一方で、当座預金のように利息が一切つかないこと。一ケ月、二ヶ月といった指定期日間内に取引が一度もなされないと本人が死んだと見なされ、預金が全て銀行に没収されるという特色を持つカードだった。
だが男は素っ気なく応えた。「申し訳ありませんが今回は取り扱っておりません」
そう言われた女は恨めしそうな顔で、
「あなた達を信じていないわけではありませんが、何事に置いても念には念を入れた方が良いと思いましてね。もし間違って何も入っていないカードを渡されたら後で後悔するのは私共なので尋ねさせて頂いたのですが、どれもできない、無いのというのなら困りましたわね……」
そう言って来た女に芸術家風の男は、そういうことでしたか、と平然とした顔で応えると言った。
「それなら全く心配いりません」
「と言いますと」
「ここに私共が用意していますカード、例えばキャッシュカード。これなどは確か、パソコンかタブレット型携帯から銀行のオンラインATMにアクセスし暗証番号を入力するとカードの中身を見ることができるサービスが二十四時間利用できたはずです。それを見られて確認されてはどうですか? もう既に電波状況が元に戻っている頃ですから使える筈です」
「そのカードってもちろん匿名ですわよね」
「はい」
「なるほど。では見てみます」
「それでは」
芸術家風の男は先の男の場合と同じように前に進み出ると、女の傍らに座る男の動向を黒いサングラスの中から警戒しながら、一枚のカードを、トランプを配るような鮮やかな手並みで、目前のテーブル上に滑らせた。
女はカードをさっそく受け取ると、直ちにタブレット型携帯を取り出し、カードに記された銀行のウェブサイトにアクセス。ATMを画面に出すと、カードに別途貼り付けられた暗証番号を入力。携帯を覗き込みながら、カードの中身を確かめにかかった。
その間、良くできたもので、隣に腰掛けた若い男が、警戒する眼で四方ににらみを利かせ、いつでも投げつけられるという風にナイフをちらつかせていた。
数分後、中を確認し終わった女は、何事も無かったように顔を上げた。すかさず芸術家風の男は訊いた。
「納得して頂けましたかな」
「ええ」
「それではよろしいかな」
穏やかな表情でさらっと言った男に、女は黙って小さく頷いた。
「それでは次がありますので」
そう伝えると、芸術家風の男はさっそく後ろを振り返った。すると後ろの四人は、男に背を向けてさっさと扉の方向へ歩き始めていた。やれやれ好い気なものだと、そのとき一旦冷めた視線を四人に送った男だった。が、あれだけ目の前の男にナイフをちらつかされては、一刻も早くその場から逃げ出したくなる気持ちも分かると、直ぐに理解して苦笑いすると、自らもその後を追うようにして部屋を出た。
その際、腕時計で時間を確認した。もうあと十分で午後の十一時になろうとしていた。今度は我ながらうまくいったようだった。
これ以上の長居は無用として、彼等が足早に立ち去って行ってから数分後。
一団を見送った女は、少し間を措いて、拍子抜けしたような顔で、ほっと安堵のため息を漏らした。それから隣の若い男の方へ向かってささやいた。
「もう良いわよ。ありがとうトリガちゃん」
「これくらい何の造作もないことだ、パトリシア」
静まり返った周辺に、抑揚のない低い声が響いた。
「ほんと、何も無くて良かったわ」
少しでも隙を見せるとやられると思い、気丈に振る舞っていたパトリシアから、思わず本音が零れた。その口元には笑みが浮かんでいた。
どうせ目的を達成したということで、もはや用済みとばかりに消しにかかってくるものとてっきり信じていたので生きた心地がしなかったのを、どうした弾みか、何も無かった上に賞金まで手にできたのだから、うれしくない筈はなく。良い感じの脱力感があり、一気に肩の荷が下りた気分だった。
とは言え、これほど緊張したのは久しぶりのことで、気が付くと喉がカラカラだった。隣に頼りになる魔物がいてくれているとはいえ、心細い思いの一言で。二匹が一匹に減ったことが、どうやら心理的に影響したらしかった。
実は今、隣に腰掛ける若い男、ソランことテオドールは替え玉だった。
本物は、ぼろぼろの服装でパトリシアが待機する部屋に着くなり、急にバタンと倒れて動かなくなっていた。
驚いたパトリシアは急いで駆け寄ると、ぐったりとなった若者の安否を遠巻きに確認した。すると、心肺停止といった危機的症状ではなく、はっきりと息があった。身体中にあざや細かい裂傷が多数見られたが、どれも比較的浅く、心配するほどではなかった。以上のことからどうやら気を失っているらしかった。
だが安心したわけではなかった。更に症状を観察した。結果、下した診断は重い意識障害、つまり昏睡状態に陥っているということだった。
そこではっと思い出した。能力者が能力を限界まで使い切ったときや瞬間的に限界を超えてしまったときに陥る症状そっくりだと。ここまでやって来てから急に倒れたところから見ると、恐らく前者だろうと。
そうと分かると、パトリシアは弱ったわと頭を抱えて途方に暮れた。
適切な処置さえ行えば別段命に問題無しといって良かったが、この症状に一旦陥ると、目覚めるまでに、早い場合でも一、二時間。長くなると一週間近くに及ぶことがあることを知っていたからだった。
目覚めるまでこのまま放っておくわけにはいかないし。といって、どうすれば良いのかさっぱり分からないわ。
ほとほと困り果ててしまっていた。
だがともかく、思い出したようにパトリシアは、傷の部分を消毒して人工皮膚シートを貼ったり、あざの治りを促進する特殊な泡を患部へ吹き付けたり、肉体酷使による疲労が溜まっていては回復が遅れるとしてブドウ糖に総合ビタミンを添加した点滴をしたりと、初めて医者らしいことをした。
そんなときだった。若者を治療するところを覗き込むように見ている二匹の魔物に気付いたのは。これらの魔物は、自らのボディガード用にとロウシュから一時的に借り受けたものだった。
その瞬間、そうだわ、その手があったわと、パトリシアははたと思い当たった。すぐさま二匹に話し掛け、こうこうこういうことでと事情を話して納得して貰うと、一匹には自身の部屋の鍵を預けて、自宅まで寝たきりの若者を運んで貰い、残る一匹には賞金を手に入れるには若者が元気でいる姿を見せる必要があるとして、その身代わりとなって貰っていたのだった。
「それにしても案外太っ腹なのね」
パトリシアは元々そういう場面を想定していなかったので、笑顔でそう呟くと、手に持ったカードを大事そうに眺めた。
「あとは向こう次第ね」
向こうとは共闘を結ぶゾーレ達のことで。今頃は、ここでの話し合いの内容が魔物を通じてリアルタイムで届いている筈だった。
実際のところ、パトリシアと彼等とは話が既にできていて、どちらか一方が不穏な空気を察した時点で双方が動き出す手はずになっていた。
その話のおおむねの内容とは、一方が人気のない基地のあちこちに放火、いわゆる陽動を行い、それに紛れてもう一方が、賞金替わりに金目になりそうな品物を、正当な権利としてかっさらい、後で闇市場において金に換えるというもので。パトリシア自身もゾーレもそれ以外の者達も、賞金はたぶん見せ金で、手に入らないだろうという理由でひねり出した案だった。
そして今回の狙いは、武装ヘリ・装甲車あたりが良いだろうということになっていた。高額であることはもちろん、常に需要があり、直ぐに取引が成立する品ということで決まったものだった。
変に構えていたから喉が渇いたわ、とパトリシアは後ろを振り返った。真紅の髪が小さく左右に揺れ、視線は奥の壁際に向けられていた。そこには荷物が固めて置いてあって、その中の一つにミネラルウォーターのボトルが入っている筈だった。
直ぐに立ち上がって取りに行こうとした。そのとき、偶然にも隣へ目がいった。するとそこにはもはや若者の姿はなく、可愛らしい小犬がちょこんと腰掛けていた。
まあ、良いでしょう、と苦笑いを浮かべてパトリシアは立ち上がろうと上体を曲げた。だが、はっきりとした脱力感と共に下半身、特に足腰がどうしたことか腰が抜けたときのように言うことを利かなかった。
パトリシアは、突然の出来事に戸惑い、思わず目を白黒させた。
「これって?」
首はスムーズに回ったのに、と彼女はソファに腰掛けたまま一瞬考えた。そうして下した診断は、強いストレスが続いた後、急にそれらから解放されたとき起こるといわれる突発性の自律神経症。診断が正しければ、症状はそれほど気にする程でなく、安静にしていれば治るまでにそう長くかからないだろうからと、しばらく待つことにした。
その間にパトリシアは思い出したように周囲を見回し、非常用食品・保存食が入る手さげバッグが直ぐそばにあるのを目ざとく見つけると、バッグに手を伸ばし、中からビタミンゼリーのアルミパックを一つ取り出した。
それまでバッグは、魔物が化けた若者の身体の構成部分となっていた関係で、一旦見えなくなっていたのだった。
さっそく彼女は封を切ったパックを口元に持っていき、中身を吸い出しながら、一息ついた。やれやれ、これで何とかひもじい思いをせずに済んだと安堵した。
そのようにして、彼女はようやく喉の渇きをいやした後、今度は隣の小犬に向かって、少し不安そうに呼び掛けた。
「トリガちゃん、向こうから連絡はあった?」
「いや、まだだ」
「そう」
パトリシアは伊達メガネを取ると、テーブル上に静かに置いた。息づかいが無意識に荒くなっていた。さあて、これからよ。ほんと、どうなるのかしら。
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