第29話

 壮大な大きさがあった窪地の東西南北に、火の見やぐらに似た鉄塔が建っていた。その上部に取り付けられていたデジタル表示時計が、もうすぐ十四時十分を示そうとしていた。

 地上から百フィート(約30.5メートル)掘り下げた地面は、今日の未明から朝にかけて綺麗に整地されていた関係で、見渡す限り何もなく、がらんとしていた。見えるのは、ダムの壁のような急になった四方の壁だけだった

 陽はまだそれほど傾いていなかったせいで、気になるほどの影は差していなかった。従って、辺りは太陽の光に照らされて明るかった。それはあたかも、これから全てを白日の下に晒すように言っているかのようだった。


 そのような中、拳銃の決闘を想定したかのような、かなり距離を措いた間合いを取り、二つの人影が対峙する。

 少なくとも縦方向が四百五十、横方向が五百五十ヤードは十分にあった馬鹿広い長方形の空間は、彼等を取るに足らないものといった風に見なし、豆粒以下に見せていた。だが、この二人によって誘発された、ピンと張りつめた周りの空気が、それをほぼ帳消しにしているように見えていた。しんと静まり返った中に、二人の殺気がみなぎっていた。


 二人の人影の内、その一人は、ストレートな黒髪をクレオパトラ風的な髪型にした、目鼻立ちのはっきりした中肉中背の女で、黒くてゆったりとした足元まである長いローブを着用する。故意に内側に着込んだ衣装を隠すためか、または得物を隠すためなのか、そうしているようだった。

 そしてもう一人の方は、頭をスキンヘッドにした赤ら顔の男で、七フィート近くあると思われた長身の割に筋肉がそれ程付いていない身体を、普通では考えられない派手な赤い色のバトルスーツの上下で包んでいた。

 バトルスーツは、ゴムのように自在に伸び縮みして身体に密着する上に防水防寒防熱防弾にも優れた機能を有するもので、アサシン(暗殺者)や能力者。そして毛色が変わったところでは、怪物・魔物と云った人あらざる者が良く着用する特殊な品だった。

 

 登録名を女の方はキャロット、男の方はゴルチエと言った。女は、特徴的なヘアスタイルと小麦色の肌から見て、ダイス達が出遭った人物に相違なかった。

 二人は、対極の方角にあった隅の扉を通じて現れた。控えの部屋がその真上付近にあったものと思われた。

 そこからゆっくりと歩いてくると、四百、三百、二百、百ヤードと距離が徐々に縮まっていき、最後に今現在の距離となっていた。

 途中、何もないように見えていたが、その実、水面下では既に腹の探り合いが始まっていた。

 

「おい、ちょっと聞いて良いか?」


 男がぼそぼそとささやいてきた。一度聴けば忘れられない感じの特徴ある、年老いた酒飲みオヤジのガラガラ声に近いしわがれた低い声だった。


「ふ~ん、それで何を聞きたいのかしら?」


 女は冷静な声で応じた。とても冷たく感じる、これも低い声だった。

 そのとき、お互いの顔を見知っていたのか、余裕の表情だったのか、それは分からなかったが、ニヤリと互いに笑った。


 かなり離れた位置でいたにも係わらず、二人は普通に会話を交わしていた。それは、面と向かって話しているのと何ら変わりはなかった。なぜそのような現実離れしたことができたかというと、小手調べとして、どちらともなく特殊な能力(遠隔対話術。テレダイアログ、略してTD)を発動したからだった。その能力はテレパシーであったわけでもなければ読心術・口話術の類でもなかった。二人はただ、意識して存在感を高めた、若しくは気配を強めた、だけだった。

 その行為自体は、相手を精神的に威嚇する作用があり、相手の実力を図るのに普段から使われているかけ引きの一つだったが、度を越えたものは、ある副産物を生んでいた。それは直感覚を増幅させ、互いの距離感をなくするというもので。彼等はそれを使っていたのだった。


 男が舌なめずりすると口を開いた。「今日の得物は何だ、銃か?」


 すぐさま、手の内をさぐる気ね、と思った女は、皮肉な目を男に向けると、男の服装と装備に目を走らせた。そして何も持っていないのを確認すると、とぼけるように言い返した。


「さあ、何かしらねえ」


「まさか銃という訳はねえよな。二人で殺り合うんだったら一番効果的なんだが、俺もお前も昨日のことがあるからな。ま、そんな自殺行為をするとは思えないしよう」


 そう言って、言葉巧みに鎌をかけてきた男に、女は含み笑いをした。その通りよ、こちらもそこまで冒険する気はないわ。

 男は尚も続けた。


「ところでお前はロザリオという名を知ってるか?」


「それって、人の名前。それともあなたにとって大切なものとか」


「ふん、ロザリオはロザリオだ。人の名じゃない。六人組のいかれた野郎達だ、俺好みのな」


「……それで、そのロザリオに何の用があるの?」


「さあな。知らなければそれで良い。どんなにとぼけたって直に分かることだからな」


「あらっ、そう。じゃあ今度は私に質問させてくれるかしら?」


「ああ、何だ? 言ってみろ」


「なぜそんな目立つ派手な格好をしているのかよ。それはどうみても人を馬鹿にしているようにしか思えなくてね」


「ああ、これか。俺はな、目立つことが好きなんだ。赤はよ、周りから注目されるだろう。それがたまらないんだ。これで良いか?」


「じゃあ、そう、もう一つ訊いて良いかしら?」


「何だ」


「私ね、昨日のこと、見て知っているのよ。あなた、昨日凄く柔軟な身体をしていたわよね。首が百八十度曲がるなんて尋常じゃ考えられないわ。手首も異様に伸びていたしね。それに装甲車に引かれても平気だなんてまともじゃないわ。見たところ、ただ者じゃないみたいだけど。あなたは一体何者なの?」


「えへへ」男は見下した笑みを浮かべた。「あれが目で追えたとはお前もただ者じゃないな」


「やはり能力者ね!」女はさりげなく念を押した。「道理で、昨日の兵隊さん達の可哀想だったこと。みんな、あなたに手玉に取られてきりきり舞いして自爆していたもの。中々、やるじゃない」


「ふん、くだらねえ」陰湿な目つきで男は吐き捨てた。「あんな歯ごたえのない奴達には俺はちっとも興味が湧かないんだ。それに比べて、お前は俺を楽しませてくれるんだろうな。もし期待外れだったら、分かっているだろうな」


「それはたぶん大丈夫な筈よ」女は不敵な笑みを漏らすと言った。「それより逆に、直ぐに命乞いするのは嫌よ」


「えへへへ、言ってくれるねえ。それにしても芯の強そうな良い声をしてるじゃねえか。それに表情もきりっと引き締まっていてよ。えへへへ、後が楽しみだぜ」


 そう言って口から長い舌を出し、舌なめずりを繰り返した男に、

 

「何変態じみたことを言ってるのよ!」と女は一蹴した。が、直ぐに冷静な言葉使いに戻すと、皮肉を込めて言い添えた。


「私がそう簡単にやられる筈はなくてよ。返って酷い目に遭うのはあんたかもよ」


「えへへへ、それは楽しみだ」男は薄気味悪い笑いを浮かべると、からかうように言った。「まあ、やってみなって」


 もはやそれ以上の会話はなかった。後は時間を待つだけとなっていた。

 閑散としていた周囲には審判員も見学者もいなかった。付近に仕掛けられた無数の隠しカメラのレンズだけが彼等を冷たく見守っていた。

 ―――――と、そのとき。とうとうその時間が来たらしく、彼等からずっと離れた鉄塔に取り付けられた掲示板型の時計が14:10からタイマーの10:00へと表示が切り替わった。直ちに10:00と表示された端の秒数の数字が音も無く減少し始める。例えて言うなら、時限爆弾のタイマーが、何の前触れもなく動き出したようだった。

 静かな開始の合図だった。


 ほぼ同時に二人は、反時計回りに周回し始めた。あたかも申し合わせていたと見間違えるほどだった。

 お互いに隙を突こうとしていたのである。

 その中、女、即ちキャロットは、こんな場所ではやりたくなかった。かつて組織に所属していた時代、どちらかと言えば、周囲に山や川や谷があるような変化に富む地形や、建物が建っていたりがれきが山積みになっていたりといった乱雑な場所での戦闘を得意としていた彼女は、このような何もない場所での戦いは、苦手の部類に入っていた。

 そもそも彼女の特殊能力の本質は、物体に心を通わせることで物体を自在に操ることができるという能力で、念動力に非常に似たものだった。具体的な例として、局地的に天候を操作したり、ポルターガイスト現象・ラップ現象のような超常現象を引き起こすのに長けていた。つまるところ、周囲の環境に大いに依存しているのが彼女の特殊能力の特性イコール弱点と言えたが、これまでも同様の不利な条件で戦ってきた経緯もあったことで、今回もそのときのようにやれば、幾ら相性の悪い環境下の戦いであっても結果は必ず付いてくるだろうと考え直すと、こうして隙を伺っていたのだった。

 そのとき、できれば霧や暗闇を生じさせ視界を利かなくして、相手の上空や背後から攻撃をしたかった。が、如何せん、自身の置かれた状況を考えると、中途半端になる危惧もあり、後の方でやろうかと考えていた。

 また、短い会話だけでは相手の全てが分かる筈もなかったが、話し振りからいうとこの男も、「殺しは生きる証だ」と何も考えずに言ってはばからない、いかれた野郎達の仲間だろうと見なしていた。よって、このような頭が空っぽな奴は生かす価値もないと、命を奪うことへの罪悪感はさらさらなく。迷いは一切なかった。

 そして彼女が長く務めていた切り込み隊長という役目は、見も知らぬところへ真っ先に飛び込んでいって新しい道を切り開くわけであるから、それ相当の実力に加えて勇気と自信が必要であり、また経験値が幅を利かせる世界だった。そのことが彼女をここに居させているといっても過言でなかった。

 

 その彼女が先に動いた。

 それまで羽織っていたローブを勢い良く空中へ投げ捨てたのだ。

 一瞬歩みを止めた男が、上体をやや猫背風に曲げた格好で、キャロットをぎょろりとにらんだ。まさに爬虫類のそれだった。

 そこへ現れたのは、漆黒のコスチュームに全身を包んだ彼女のりりしい姿だった。

 ヘルメットは被ってはいなかったものの、上着のスーツから下に履いたブーツに至るまで特殊部隊の隊員の服装そっくりで。しかもその上に、各種のプロテクターを装備する完全武装の姿だった。

 そのとき、一旦二人の視界から消えていた布地のローブが空中で舞いながら円盤状になったと思うと、唸りを上げる丸のこ刃のように猛回転しながら男へ襲い掛かった。相手に態勢を整えさせないで一気にきめてしまう魂胆だった。いわゆる奇襲というやつで、長年の間、切り込み隊長の任務をこなしていた経験が自然にそうさせていた。だが相手もさる者、それくらいでは惑わされなかった。次の瞬間、ニヤリとあざ笑った男は、たちまち両手を鉤爪へと変化させると、カッターナイフで紙を切り刻むように、ローブを真正面からバリバリと引き裂いた。

 あいさつ代わりの攻撃に手の内を晒してくれただけで収穫だと思ったキャロットは、自らが身に着けた装備をチラッと確認した。

 彼女のベルトには、ナイフと爆弾が一体となった、円筒型をしたオリジナルの手りゅう弾が装備されていた。また、左の腰には刃渡り一フィート(約30センチ)のダガーナイフが入るホルダーが、背中の方には刃渡り三フィート半(約107センチ)の剣を収納した鞘があった。

 その中から迷うことなく剣を選択した彼女は、直ちに背中に手を回して、黒光りする剣を鞘から引き抜いた。剣先が湾曲した片刃の剣で、日本刀に似ていたが柄の部分に付いたガードがちょうど手を保護する構造になっており、どちらかと言えばサーベルの類だろうと思われた。

 そうした上で、一目散に敵である男の元へ向かっていった。

 その瞬間、人っ子一人いない広い空間に一陣の風が吹いた。いよいよ真の戦いの幕開けだった。


 先ずはこれからよ。

 

 勢いそのままキャロットは男の正面まで来ると、片方の手で持った剣で、目が覚めるような鮮やかな剣さばきを見せた。相手の上背がかなりあったため、上段からの斬り下ろしは省略していたが、一瞬のうちに左右の横斬り、袈裟斬り、逆袈裟、刺突を二連打と、まさに剣の乱舞が男を襲った。

 それには相手は、一瞬ひるんで目が揺らいだように見えた。が、両手の鉤爪を盾にしながら持ち前の柔軟な身体で、その全てを受け流した。風を切る音が轟き、剣と鉤爪が交差する度ごとに色鮮やかな火花が散った。

 そして二人が、ほぼ同時に俊敏な動きで飛び退き、再び距離をとって身構えた。それは高速度カメラでもない限り追尾ができぬほどのあっという間の出来事だった。

 退いたのは、逃げたのではなく態勢を立て直すためだった。能力者間の対決で良くみられる攻防の一つで。要はどちらが先に大きなダメージを一瞬のうちに与えるかであった。

 そもそも能力者同士間の戦闘は、常人離れした戦闘力と爆発力を瞬時に引き出すことが可能なことから、短期決戦形式で行われるのが通例だった。だらだらと時間をかけて行う戦闘は、限りなく力が湧き出すわけでないから、合理的に考えてそぐわないという理由からである。

 

 暫くの間、かような短い間隔で一戦交えては退き、態勢を立て直しては再び戦いを互いに繰り広げるという行為を繰り返し、双方とも決定打がないまま一進一退の攻防が続いた。

 その間に、男は幾つもの奥の手を出した。

 顔かたちがトカゲのように変わり、尻の辺りには長い尾が発生。まさに爬虫類型人間といった風に姿を変えた。

 度を越えた跳躍力で、周辺をぴょんぴょんと跳び回り攪乱してきた。低い軌道で、一挙に三、四十ヤードも跳んで、しかもゴム人間のように身体をくねらせたり伸び縮みさせたりして攻撃の的を絞らせなかった。そのような変則的な動きに、銃やボーガンでも仕留めることは無理と思われた。もし殺れるとすれば、男がいる周辺を丸ごと吹き飛ばしてしまうことぐらいしかないように思えた

 口から唾液のようなものを多量に吐きかけてきた。ゼラチン質でねばねばしていて非常に気持ちの悪いものだった。それが顔を狙って吹き矢のように飛んできた。もちろん避けたが、その一部が腕の部分や戦闘服の至る所に付着した。どこにも溶けたり白い煙が上がっている箇所は見られなかった。そのことから目に入ったり皮膚に付いたときに害を及ぼす毒液と考えられた。

 時折、消えたように見えなくなった。死角に入るように背後に回ったか、迷彩偽装で姿を隠したか、それともいち早く危険を察して手の届かないところまで移動したかのどれかと思われた。

 

 もはや人とは思われぬほどの常軌を逸した男の容姿とその攻守に、キャロットは持ち得る全ての武器を使いそれらに応じた。

 二股に分かれた相手の鉤爪の手は二本ある上に自在に伸び縮みするものだから、ラガーナイフと剣との二刀流で対抗した。相手に奔放自在にやらせないために、ここぞという時に手りゅう弾を使い、足止めを図った。気が付けば、腰のベルトと上腕に装備していた全てを使い切っていた。

 その間どちら側にも譲る気配がなく、片方が一方的に押し込まれるということはなかったが、彼女の方が力的には明らかに押され気味だったことは否めなかった。


 そうして三十秒ほど経過した頃。常人が十分以上連続して戦ったのに匹敵する頃には、どちらも全く無傷とはいかなかった。どちらも着ていた衣服は所々引き裂かれていた。男の方はどうなっていたか不明だったが、キャロットの戦闘服の下の皮膚は腫れ上がっているか創傷ができていた。


 もうそのときには、さすがのキャロットも息が弾んでいた。

 押されていることは自身でも気が付いていた。それでも、「これも計算の内よ」と気力はまだまだ衰えてはいなかった。

 そんな彼女の目が鋭く輝いた。

 

「仕方ないわね。取っておきたかったんだけど」


 そう吐き捨てると、それまでの倍ほど遠目に退き、剣を中段に構えたまま少し間を措くように立ち止まった。

 展開の流れが男に向いていたため、それまでの一本調子な激しいせめぎ合いから脱却して自分の方に流れを引き寄せようとしたのと、これからやろうとする下準備のためだった。

 普通ならこの状況を見て、かさにかかって攻撃してきそうなものであったが、相手はかなり用心深いと見えて、のって来なかった。男は爬虫類特有の黄色く淀んだ目をギラギラさせて佇んでいた。

 それをいいことに、できることなら使わずに最後まで取っておきたかった必殺の技を、ここで負けたらお終いだからとキャロットは出そうとしていた。相手が強いと素直に認めたからこそだった。

 彼女は相手の隙を伺うようにして、剣のガードの留め金を外した。直後に「カチンッ」と心地いい金属音が響くと、ガードはバネの力で勢い良く剣先の方向へはね上がり、剣の刀身を中心として彼女の身体がほんの一瞬だけほんのり青白く輝いた。一匹の蛍が人の姿を照らしたような微かな明るさだった。それと共に、片手用だった握りが両手でも使えるようになった。

 彼女が手にしていたサーベル状の剣は、手を保護するガードを自在に取り外せ、片手でも両手でも使えるという特殊な品だった。更に、無名だったが中々の業物で。しかも不思議な力を宿すことから魔剣と呼ばれているものだった。

 彼女は、それとほぼ同時に「古の知恵と何ものも恐れぬ勇気と強い意志を今ここに」と、呪言の言葉をできるだけ早口で紡いだ。すると、唱えるうちからもうその効果が現れ始めていた。外見上は全く変化がなかったが、さわやかな高揚感に包まれ、以前より視界が広がった。手足に力がみなぎり、剣を持っているという感じがしなくなった。疲労感や喉の渇きが消え、不安や後悔といったマイナス思考も消えていた。

 

 それらをひしひしと感じながら、相手の気持ちが変わらぬうちにと、八相の構えから足が半分地面に付いていないような軽やかな足取りで、瞬く間に距離を詰めるや否や、余力を残しつつ、試しの一打を放った。

 線状の光が真っ直ぐに走った。

 これまでと同様に男が鉤爪できっちり受け止めた筈だった。だが、グサッという音と共に剣の刀身が素通りしていた。あっと叫ぶ間もないほどの出来事だった。続いて、返しの斬撃が弧を描いた。もう一本の鉤爪の腕も宙に飛んでいた。流れるように再度、剣が折り返した。これで男の首を斬り落とせば全てが終わる筈だった。一瞬朗らかに笑ったキャロットとは対照的に、男の表情が醜く歪んだ。

 だが、男は柔軟な身体をこれでもかというほど後方の地面へ倒し間一髪で難を逃れていた。そしてそのままの姿勢でくるりと百八十度身体を捻り、突然背を向けた。そこから逃げようとしたのだ。

 通常ならそのまま背中に斬り付ければ良いだけで、この上ないチャンスの筈だった。ところがそうは問屋が卸さないというところだった。男は焦ってそうした訳でなかった。男の長い尾が地面をはうようにして襲ってきた。明らかに足元を狙った所業と言えた。中々、侮りがたい男だった。

 それを避けるように、彼女が後方遥かに飛び退いたときには、男は一目散にかなりな距離を措いていた。


 敵もさる者、切り替えが早かった。斬り落とされたが血が一滴も流れなかった腕から別の鉤爪が生えていたが、それまでの鉤爪による防御を取り止めて、鋭い鉤爪を伸ばして槍のように突き刺す戦法に切り替えて対応してきた。更に慎重になって自分から仕掛けて来る気配はなかった。

 そのような男を尻目に、キャロットは自らに酔っているような満足な笑みを浮かべると、まるで楽しむように軽く剣を振り抜いた。振りの力強さと鋭さは、腕っぷしが相当に強い二十代の若者のそれだった。

 物の怪か精霊に憑りつかれているような軽やかな跳躍をしながら間合いを詰めると、立て続けに色々な角度から斬撃を放った。空中で舞い踊った剣を、男は避けるのに精一杯で、反撃など二の次という風に見えていた。

 敵がかろうじてしてきた反撃を、蝶が舞うように軽く受け流した。長い経験を積まないと身につかない老かいさの何ものでもなかった。

 「ちぇっ、どうなっていやがるんだ」という驚きの言葉が男から聞こえてきそうだった。それほど、彼女に形勢が傾いていた。


 ところで、これだけの圧倒的な力があるのなら、出し惜しみせずにもっと早い段階から使えば簡単に片が付いたのにと誰もが考えそうであったが、そうはいかないやむにやまれぬ深い事情が彼女にあった。

 不思議な力を宿す素材・製品には、大きく分けて、何もしないでもその場で効果を発するものと、ある条件が満たされて初めて効果を発するものの二通りが知られていた。無論効果の威力は、後者の方がずば抜けて優れており、彼女の剣も例外なく後者であったのである。


 ところがである。そのような傾向であったとはいえ、そうやすやすと決着がつきそうな気配はなかった。男が最後の手段に出たからだった。男は、形勢が悪い中でも明らかに良くないと見たときは、その場から逃走を繰り返していたのである。

 実際、男自体の能力は逃げることに秀でているのか、追いかけっこでは男の方が常に一枚上だった。その逃げ足は呆れるばかりだった。

 普通なら勢いで行き過ぎてしまうところでも急ブレーキをかけて曲がることができたし、その向きの方が前進することより速いのではと思えるぐらいの素早さで、後ろ向きで遠ざかることができた。

 逃げる間際に、スカンクのすかしっ屁のごとく、毒液を置き土産として吐きかけてきたり。更に、一瞬のうちに気配を消して周囲に溶け込んでしまうカムフラージュ偽装までやってくるものだからことさらやっかいだった。始まってまだ二分も経っていなかったが、四方の壁まで旨く利用して四百ヤード×五百ヤードくらいあろうかと思われた広い空間を縦横無尽に駆け回る男をこのまま追い続けていたなら、終了時間になってしまうのではと思われるほどだった。


「この卑怯者!」思わずキャロットが叫んでいた。「ねえ、正々堂々と勝負したらどうなの?」


「ふん、その手にのらねえ」


 男は全く聞く耳を持たないばかりか、逆に挑発してきた。


「どうせ時間切れになるのを恐れてのことだろうが。それなら俺の条件を飲むことだ。それなら考えてやっても良いぜ」


「ふん、馬鹿にしないで」逃げながら痛いところを付いてきた男に、キャロットは即座に拒絶した。


「そうかな。お前にだって有利になることなんだぜ。俺はただお膳立てをしたいだけだ」


「どういうこと?」


「簡単なことよ。お前の言う通り正々堂々と勝負をしてやるといってるんだ。但しそれには条件がある。休憩する時間が少し欲しい。二、三十秒で良いんだ。その後は逃げも隠れもしない。それでどうだ!?」


「……」


「おい、どうするんだ!」応えなかった彼女に、乱暴な口調で男がせかして来た。


「俺の提案にのるのか、のらないのか、早く返事を頼むぜ。えへへへ。でないと俺の体力がそこまで持つか分からないんでな」


 穏やかなキャロットの表情から自然と笑みがこぼれた。少し時間をくれというのは、裏があるのは明白だった。そのことから相手が一か八かの賭けに出てきたと読んでいた。

 おそらく向こうは更なる奥の手を出して来るに違いない。けど、こちらもまだ見せていない能力で対応すれば何とかなる。そうと決まれば……。


「面白そうね。分かったわ。受けて立って上げるわ」


「よし、決まりだな。一発勝負のだましっこ無しの恨みっこ無しでやろうぜ」


 男は嬉しそうに笑った。その笑い声を、悪意のある笑いとキャロットは捉えていた。


 その後、二人は互いに申し合わせた三十秒間が過ぎるのを今か今かと待っていた。立ち止ったまま動く気配はなかった。

 二人の距離は、最初に向かい合ったときの約三倍の二百ヤードばかりあった。男が指定してきたものだった。そのことは、絶対何かあるとみて間違いなかった。

 キャロットは男の言いなりになったのがかなりしゃくだったが、鞘に納めた剣の柄に軽く手を掛け油断なく身構えながら、与えられた時間を利用して男がどんな手段を使ってくるのかを冷徹な目で見極めようとしていた。しかし、別段変わったところはないようだった。男は鋭く尖った鉤爪をぶらりと下したまま自然な態度で佇んでいただけだった。

 またその間、――確かに男の言うことも一理ある。元々、ここへやって来たのは賞金目当てだし、このまま勝負がつかずに引き分けとなって、最後は確率二分の一のくじ引きで決めるということにでもなれば、今のこの優位な態勢は目も当てられないことになる。ここはやはり男の言う通り、何としても決着をつけなくてはならない。ここで一気に決めてしまわなくては……。

 更には――それにしてもこいつは食えぬ男だ。これだけやっても息が上がっていないし。疲れなど知らないという風だ。それが、どこぞに体力に不安があるというのか。そんな冗談を堂々と言えるのは、まだまだ余裕がある証拠だ。――のようなことも彼女は思っていた。

 

 その一方、男は平然と構えていた。いや、振りをしていたというのが正解だった。

 実際のところ、急に雰囲気が変わったキャロットに何が起こったのか分からず。戸惑っていたのだった。

 

「冗談じゃねえぜ、もう……」


 そのとき、悔しそうに吐き捨てた男の呟きがそれを物語っていた。それまでは予定通り順調にいっていたのにとの思いから、つい出たものだった。

 それというのも、最初からわざと調子を合わせて措いて様子見をしていた。何も取柄もないように伏線を張っておいて、相手が油断したところを一気に殺ってしまおうという魂胆だった。

 無論最初から全力で行くほど愚かではなかった。ここまで残るような者達には諦めが早い奴などいない。みんなしつこいに決まっている。そんな相手に本気を出し過ぎると、相手が自暴自棄になって自爆攻撃を仕掛けてくるとも限らないと踏んだからだった。つまり、ここで勝ち上がったとしても次もあることだし、自爆攻撃に無理やり付き合わされて怪我をしてもつまらないという考えだった。

 ところがキャロットの雰囲気が一変してから予定が一挙に狂ってしまった。

 一旦遠くまで退き不穏な動きを見せたキャロットへ深追いをしなかったのは、長年生死の境目で生きてきたうちに自然と身に付けた一種の勘のようなものだった。あのときかさにかかって攻撃しようと思えばできたがそうしなかった。舐めて突っ込んで、逆にワナに落ちてはつまらないと思ったからだった。

 それが正解だったか失敗だったか知らないが、今の状況を見るとやや失敗だった。だがしかし、あのときキャロットに起こった異変の状況からではやむを得なかったと思っていた。


 あれは、単に本気を出したとするには不自然過ぎる。おそらく、能力者が更なる能力のスイッチを入れたのか、魔力・妖力・法力の類が発動されたかのどちらかだ。でないと、いきなり強くなった理由は説明できないからな。


 キャロットの周囲に青白い光が一瞬だけ微かに輝いて消え去ったことを見逃さなかった男が、常人の域を超えた武人・超人が出す闘気・覇気、聖人・人にあらざる者から漂う霊気・オーラ・妖気ではないことは明らかだと考えて導き出した答えだった。

 そこまでは絞り込んでいた男だったが、その後のこと、彼女がいきなり超人化した要因については、数え切れないやり方、例えば――

 

 薬や暗示を使い精神や体力を一時的に強化する方法、潜在意識に働きかける方法、死霊や精霊や魔物を呼び寄せ身体に宿す方法、自然界や異世界から活力源を得る方法、人外生物や魔法アイテムの力を借りる方法、巨大な力を擁するものの宿主になっている、元々人間ではない、等が知られていたのではっきり言って何なのか分からなかった。

 実は、これほどまで距離を取ったのは、わざと相手に不信を抱かせ、慎重な行動を取らせるように仕向けるためだった。提示した三十秒という休憩時間は、単に口から出まかせを言ったのではなく。できるだけ効率よく楽をして勝つには相手の力を知ることだ。能力者だったらその能力を、魔法を使えるならその魔法の属性を予めに知っていることが必要だと言ってはばからない男が、それを突き止めるために仕組んだはかりごとだった。


 相手の力が具体的に何であるか分からないうちは手の打ちようがないからな。

 

 男はその間、凄まじい殺気と共にぶつぶつと独り言を呟いていた。


「ストレートのさらっとした漆黒色の髪。モデルのような独特な髪型。りりしい顔つき。メリハリの利いた身体。澄んだ声。気性がかなり強そうだな。さっぱりしているように見えて色気もある。おそらく鳴き声も最高だろうな。

 直ぐに殺るにはもったいない女だ。一層のこと、俺好みに肉体改造して俺の慰みドールのコレクションに加えてやって、一、二年飼っていたぶってやるか。

 えへへへ、どんな風にしてやろうかな、先が楽しみだぜ」


 身の毛もよだつそのささやきがキャロットの耳に入らぬ筈はなかった。だが彼女は、「相当趣味が悪い野郎ね! そう言った変質者だったのね!」と冷静に受け止めて聞き流していた。全くといって動揺する気配が見られなかった。

 それだけ自身の勝利を微塵も疑っていなかった。そして、悪趣味ともとれた男の戯れの言葉に、恐るべき企みが隠されていようとは夢にも思っていなかった。

 

 休憩時間が欲しいと男が要求したのは、実はこのためだった。

 何も考え付かないときは相手から訊くほうが手っ取り早いが、「てめえがいきなり強くなったのはどうしてだ?」と直接問い質したところで、演劇中の登場人物でもあるまいし、自慢げに応えてくれないのは分かりきったことだ。それなら相手の潜在意識に訊いた方が早いと、相手が知らず知らずのうちに心を読まれてしまうというかなり手の込んだはかりごとを試みていたのだった。

 男がそのとき使ったのは、視感と聴感と直感の三感を使い、相手の心の中を透視する三感回帰法という法術で。視感と聴感を連携させて相手の印象や思いを呟き、それに反応した相手から返って来た呟きや表情から自身の潜在意識である直感を働かせ、手に入れたい情報だけを相手の心の中から読み取っていくというかなり高度な読心術だった。

 

 よもや自身の記憶が男に透視されようとしていたとは知らずに、


「何を言っても無駄よ。待ってなさい、もう直ぐ決着を付けて上げるから」


 と、キャロットが更に言い返したときだった。何を思ったのか男は、「女はやはり花だよな。花は咲くんだよな。どうせ咲くなら一輪が良い。一輪は満月か。満月は明るく輝くな。どうせ輝くなら戦場が良い。戦場は、命の終わりを象徴するんだっけな。そして実法、その心は……」と付け足してニヤッと笑った。

 瞬間、男から漏れた連想言葉遊びのような意味不明の呟きに、ようやく更なる奥の手を出す気になったようね、とキャロットは男の動静を食い入るように凝視した。

 だがその辺りは、男にはとっくにお見通しだった。警戒されていることなど全く気にしない悠然たる態度で、脳裏に次々と浮かんでは消える映像や短い活字体の文章を読み解いていた。

 

 名はレイミー・ブラント。歳は三十三歳。九ヶ月前まではマタビネザ・デア・ビネール、通称、ヴァイカルに所属していた。その前はアルタミラの宝石にいて、そこで長く切り込み隊長の任務を任されていた。

 な~んだ、はずれか。こいつは別の組織の人間か。ロザリオのメンバーじゃないんだな。嗚呼、興ざめだ。中に剣士がいるらしいと聞いていたんだが……。

 剣は、教えを受けた師匠と呼べる人物から無償で譲り受けた。刀身が黒いことから、暗殺用に造られた剣らしい。銘はないが剣そのものの性能度階位(剣の評価値のこと。斬鉄剣の性能度を標準指標と見立て七と位置付け、その前後に七段階の数値を置いて、標準値より数値が上に行くほど剣の性能が優れるとした)は十四階位中の第十位(ビショップクラスに該当)に相当する。それ故、大木だろうが岩石だろうが鉄の塊であろうが、自然界にある大抵のものは難なく切断することができる。

 なるほどな、中々な業物じゃないか。こりゃ、売るとなれば高い値で売れるな。

 それとは別に、剣には魔力が吹き込まれた核が内蔵されている。その核内には、獣人並みのパワーと八つの流派と十二名の剣の名手と言われた強者の剣技の軌跡が記憶されており、自動的に一部を補助したり、或いは全てを補ったりする役目を担う。

 道理でな。いきなり雰囲気が変わったのはこのせいだったってわけか。まあ、それよりも弱点だ! 攻略法だ。それを知らないとな。

 剣の力を無効にするには、剣を所有者から奪い取り魔力の発動元のスイッチを切ること。

 至極まっとうな答えだぜ。そうはいってもな。幾らまがいものと言ったって、剣の達人から剣を取り上げろと言うんだろう。それは無茶というもんだぜ。するってぇと、まともにやったんじゃ防ぐのは難しいということか。……でもまあ、何とかなるか。


 四方の鉄塔の上部に設置された掲示板型のタイマーが、7:30秒に達したときが、戦闘再開の合図だった。その秒数字が34、33、32と減少していた。

 キャロットは、チラッと仰ぎ見てそれを確認すると、手に持った鞘から剣を引き抜いた。黒い刀身から冷たい余韻が漏れた。

 キャロットが身構えたのを見た男は、徐々に立ち位置を横に移動させながら相手の動向をうかがおうとした。

 それ以外、男に変わった様子がなかった。

 仕切り直しの戦いの始まりだった。


 その直後。

 彼等が立っていた、のどかな陽の光に照らされた空間につむじ風が突然吹くと、土煙が地上付近の高さまで大きく舞い上がった。

 相手に異変を察知させ早く切り札を出させようと、キャロットが目論んだものだった。だが男は動じる気配はなかった。

 キャロットは男を一にらみすると、いよいよ決着をつけにかかった。

 

 剣を片手にキャロットは低い姿勢を取ったまま、人の人智の枠を越えた素早さで男が立つ地点へ真っ直ぐに走り込んでいった。男も負けじと、風を切るような勢いで地面を跳び跳ねて向かってきた。

 両者は、ほぼ中間地点で激突した。

 次の瞬間、槍のように尖った男の二本の鉤爪の先がサッと伸びると、キャロットの剣が男を襲うより早く彼女の目の前に出現した。離れたところからぶつかり合う戦いでは剣より槍の方が勝るとして、刺突攻撃を仕掛けてきたのだった。

 交互に位置を変え突き出されてきた鉤爪を彼女は、勢いそのまま身は斜めの方向へ飛び上がり、間一髪で相手の攻撃をかわしつつ、剣を持った手を目一杯伸ばして横なぎの一打を放った。無論、男の頭部を狙ったものだった。だが男も相変わらず手強かった。地面に付くところまで肉厚がそれほどない身体を折り曲げてギリギリかわすと、そのまま行き過ぎた彼女の背中に向けて、男の細くて長い尻尾が息つく間もなく足首を狙って襲い掛かった。巻き付いて引き倒してしまおうとしたものだった。その瞬間、キャロットはそのままの状態から剣の握りを変えると、後ろに目がついているような鮮やかな手さばきで、空中をはうようにやってきた尻尾をなぎ払っていた。そうして返す刀で……と、これまでと何も変わらなかった。ずっとこうだった。どうしても一気に勝負がつかなかった。

 だが、そこから十数手先に行くと、ようやくキャロットの優勢が見えてくるのだった。魔剣の力を借りてもこうなのだから、男は相当な手練れと思われた。

 

 一連の速い攻防があっという間に終ると、二人は間合いを取って対峙していた。

 今度はどちらも左右に動くことはあっても、余り酷く下がっていなかった。これまでとは違う展開だった。


「エヘヘヘ、やるじゃねえか」


「……」


 用心深そうに横へすり足で動きながら話し掛けて来た男に、キャロットは立ち止まったまま何も答えなかった。片方の手に持った剣を下段に構えたまま、無言を貫いていた。それは表向き、時間稼ぎの男の戯言に貸す耳がないという風に見えていた。

 だが現実はそうではなかった。下準備は整ったとして、幻惑殺法という技をこれから出そうと無の境地で集中力を高めていたのだ。彼女に両腕を斬り落とされて以来、鉤爪を剣のように振り回すことは自粛して、距離を措きながら槍のように突くことでそつなく対抗していた男に、対処するためだった。

 先ほどのせめぎ合いで出さなかったのは、勝負を付けようと男が言ったのは全くの嘘で、戦いの最中にまた逃げ出すのではないかと疑っていてのことだった。

 この技は、鈍感な者より勘が鋭い者、視覚より聴覚・気配を良く行使する者、常人より能力者に特に有効で、この男には最適と思われた。だが、逃げられると効果が薄い戦法だった。従って、男が勝負に出てきているときにこそ出せる必殺技で、先ほどのは、様子見を兼ねてその確認を取ったまでだった。

 いよいよ決めに行こうと思ったそのとき、またわざわざ時間を取った男の企みが何であったのだろうかの疑問がほんの一瞬だけ頭をよぎった。だがしかし、そのような疑問も意識を集中するにつれて忘れ去ってしまっていた。


 そんなキャロットの中で、突然何かが弾けた。時が来たと思った彼女は、自身に秘められた能力を使って仕掛けた。

 次の瞬間、白昼にもかかわらず、四つの赤い火の玉が男の周辺に音も無く出現した。人の頭部ぐらいあるかなり巨大なもので、一つは男のちょうど真上。また一つは男の足元付近。そして残りの二つは男の左右と、まさに男を囲むように浮かんで見えていた。しかも其々の表面には、苦痛に歪んだ人の顔のようなものが見え、強い殺気が宿っていた。

 無論、その異変に男が気付かないわけはなかった。すぐさま、腐った魚のような目といつの間にか汗で光っていたスキンヘッドの頭をきょろきょろと四方へ動かし身構えた。そのとき、目の前のキャロットへの注意が散漫になった。その瞬間を彼女は見逃さなかった。地面を力強く蹴ると、矢のようにとび出した。

 それまでの人生経験を振り返って、こんな奴は生かしておいてもろくなことはないと、最初の方針通りに、八つ裂きにしてしまう腹積もりだった。


 それは一瞬の出来事だった。キャロットの突進に気付いて数完歩後ろへ男が跳び退いたのと、彼女のストレートの黒髪が横にさらっとなびいたのとはほぼ同時だった。

 その間に七フィート近い長身男の胸元付近まで入り込んだ彼女は、両手で持った剣で男の足元を狙い澄ましたように払っていた。剣の切っ先に手ごたえがあった。苦痛の表情でぴょんぴょんと男が後方へ跳び退いた。

 それを追って第二の斬撃を放った。とっさに男が前に出して防御にあてた鉤爪の両腕が、再び宙に舞い飛んだ。続けて逆方向へ剣を繰り出すと、念のために男の腕の根本あたりに斬りつけた。予備の鉤爪が生えてこないとも限らないと考えたからだった。たちまち男の両腕がミロのヴィーナスと同じような欠落の仕方になった。

 そうして止めとばかりに男の胸の中央部へ剣の先を向けようとしたときだった。いきなり直ぐ近くで、パーンとガスボンベが破裂したようなかん高い音が轟いた。耳をつんざくような破裂音だった。そのとき一緒にかなりの水しぶきが飛び散り、それをまともに浴びた。全く突然のことで何が起こったのか直ぐに事情が呑み込めなかった。これにはさすがのキャロットも驚き、追い詰めるのを思い留まり、引き下がっていた。

 

 水しぶきと思ったのは、洗剤の泡にそっくりな細かい水泡だった。

 キャロットは、対峙した男を一べつした。同じように男も泡まみれで、片足に深手を負っているのか足を引きずっているのが見て取れた。しかも両腕を根本から失い、もはや完全無防備状態といって良かった。どう考えても絶好のチャンスだと思えた。

 男はそのような身体で、なぜか薄笑いを平然と浮かべていた。眉のない顔、ギラギラとした眼、大き目の口が作用し合って、本当に不気味だった。

 そのとき初めて自分が置かれた立場が分かったような気がした。男の腕の部分に含水爆薬が仕込んであって、それを斬ったことで爆発してこうなった。つまり一杯食わされたのだということを。それしか思い浮かばなかった。


 馬鹿にして!


 そう言った思いで続きをしようと行きかけたそのとき、何かがおかしかった。次の瞬間、キャロットは息を呑んだ。いつの間にか片方の目と真一文字に結んだ唇が閉じたまま開かなくなっていた。それに加えて身体のあらゆる部分が自身の意志で動かせなくなっていた。そこで初めて男の本来の目的が分かった気がした。


 ワナにはめたのね。


 剣を低く下げて身構えた姿で動くことができないまま、キャロットは即座に男をにらんだ。男も同じように泡を被った筈だと思ったからだった。しかし男は、彼女をあざ笑うかのように平気な様子だった。まるで泡が直接の原因ではないといった風だった。彼女は訳が分からなかった。

 キャロットが見ている前で、男は何もなかったかのように皮膚だけでつながりぶらぶらとしていた片足をつなぎ合わせて元通りに戻すと、ゆっくりと付近を歩いて行き、切断された両腕も尻尾を使い器用に回収して、同じように修復した。

 それ自体の行為は、もし動けるならやって来いと、わざわざ隙を見せて誘っているようで。逆に言えば、相手が本当に動けないのかの確認を取っている行動とも取れた。何とも抜け目のない男だった。


 そうしてキャロットの目前まで近寄ってきた男に、キャロットは残った目で男をにらみつけるほか為すすべがなかった。そんな彼女の表情を男はかなり気に入っているのか、顔がほころんでいた。

 男は勝ち誇ったようにキャロットの正面へ立つと、蒼白な顔の彼女を一べつした。そして真っ先に、ナイフと剣を、尻尾を伸ばして取り上げた。

 キャロットはそのとき、深く息を吸ってゆっくりと吐いた。そして、私の負けだ。殺すなら殺せ、と静かに目をつむって唇をかんだ。涙が自然と頬を伝ってきた。潔い覚悟の現れだった。

 彼女のその兆候を見た上で男は薄笑いを浮かべると、何を思ったのか、彼女の顔や身体に毒の唾を乱暴に吐きかけた。

 屈辱以外の何ものでもなかった。毒の効果なのか、一瞬にして全身がだるく感じ、全てを投げ出したい気分になっていた。

 それに留まらず、男はキャロットから奪い取った剣を一方の鉤爪を普通の五本指の手に戻した手で弄びながら、「こうすると、効果が消えるんだったな」とキャロットの記憶から得た知識で魔剣のスイッチを切ると、何を考えているのか分からない表情でじろじろと周辺を見ながら彼女の周りを一周した。そしてある一点でピタッと立ち止まると、剣を構えるのも程々にいきなり振り抜いた。

 次の瞬間、男の場合と違い、今度は本物の鮮血が飛び散った。それと共に、切り倒された立木のように、呆気なくキャロットは仰向けに倒れていた。

 

 けれどもキャロットは死んでいなかった。男の手に渡った剣は、男がそれほど力を込めたように思えなかったにもかかわらず、スムーズな動きで彼女の両手、両足を切り離していた。それも肘から先、太ももから下と、中途半端な位置から。さすがに名刀の範ちゅうに入る剣らしく、戦闘服と生身の肉を斬ったぐらいではほとんど音がせず、傷口もきれいだった。

 そうはいっても、両手両足が切断されたことによる強烈な痛みと苦痛で、彼女は思わず喘ぎ叫んでいた。口が開かなかったので、その叫び声は獣が低い唸り声を出しているとほとんど変わらなかった。

 男は、倒れた状態で苦悶の表情を浮かべたキャロットを頭上から覗き込むと、満足そうに頷き、ようやく口を開いた。


「エヘヘヘ、血止めをしてやるぜ。なーに、直ぐに終わる。俺は女には優しいんだ」


 わざとらしい柔らかな物腰でそう伝えると、尻尾を出血が止まらない彼女の両手両足の傷口へ持っていき、その先端から白い泡を傷口に向かって噴出させた。少し前に二人が破裂音と共に頭から被った泡そっくりのものだった。

 それからすると、男は両腕のみならず尻尾にも同様の泡状の液を仕込んでいたことになり。もしキャロットが男の腕を斬り落としていなければ、その尻尾を使い同じことをしたに違いないと思われた。何とも侮りがたい男だった。

 

 だがやはり思った通り、男の言葉はでたらめだった。

 泡が直接傷口にかかった途端、その拷問のような想像を絶する激痛に、悪魔め、とキャロットは思わず心の底から叫んでいた。

 ものの十秒も経たぬうちにキャロットは耐えかねて、断末魔のような唸り声を上げて悶絶した。悶絶する直前、心が動揺して周りが見えなくなり、こんな男に負けを認めて首を差し出したのは浅はかであったと悔やんだ。また時を同じくして、これからどうされるのかを考えると背筋が寒くなった。考えられたその一つは、一気に殺らないで、生き地獄を味あわせながらじんわりと殺していく残酷な公開処刑をされることで。後もう一つは、先に男が話していた通りなら、死ぬまで男の慰み奴隷にされ生き地獄を見ることだった。両手両足を中途で切断するのは、嗜虐趣味のある変態性欲の持ち主が、逃げ出す気を奴隷に起こさせないようにするために良く用いる薬漬けと双璧の処置であったことから合点がいくものだった。

 そこには、勝者になるのと敗者になるのとでは天国と地獄ぐらいの大きな差がある。勝者は敗者に対して何をしても許されるという非情の論理があった。

 

 それを見ていた男は、そのような彼女の嘆きなどどこ吹く風と、ニタニタ笑いながら楽しそうに言い添えた。


「失血死されても困るのでな。別の毒で血止めをさせて貰った。毒に含まれる増粘剤が止血の代わりをしてくれるんだ。一時間ぐらいは死にやしない。大丈夫だ」


 しかしキャロットには、その声はもはや届いていなかった。並大抵でない痛みで失神したまま、死んだように動かなかった。

 だがそのような幸せと思えるひと時を、天は許しても冷酷な男が許す筈はなかった。このまま眠りながら死ねたらどんなに良いだろうとの一るの希望も、この男の前でははかない夢だった。

 

 腹部を太い針で深く刺されたような、ナイフで五インチほど切られたような、或いは生きながら解剖されているかのような、そんな鋭い痛みから思わず出たうめき声と共に、彼女は呆気なく蘇生していた。たちの悪い男が、彼女の自由にはさせないと嫌がらせにしたことだった。


 そのとき男は、彼女の頭上から、「しゃらくせい、てめえ。俺を舐めるんじゃねえぞ! そんなに楽して死ねると思うなよな」

 

 などとドスの利いた荒々しい声で叫んでいた。ちょうど男はキャロットの傍に立ち、横たわった彼女の身体を見下ろしながら様子を伺っているところだった。

 

 その怒声に、キャロットはまだ自由が利く目を弱々しく開けた。すると、自身の黒の戦闘着並びに同色の下着が切り刻まれて身体の両端に寄せられ、上半身のほぼ全てと下半身の一部が露出していた。良く見ると、下半身部は、万が一の用心の為に装着していた金属製の貞操帯で守られ唯一彼女の威厳を保っていた。だがベルトの一部が切断され載っているという感じだった。見る限りその光景は、まさに強姦される直前のようだった。

 また、露出した両胸の谷間から腹部のへそにかけての十インチ以上の長さに渡って、わき水が湧き出るように鮮血がドクドクと流れ出ていた。どうやら手を使って服を脱がすのが面倒と感じたのか、剣と鉤爪を使いそのような行為をしたらしかった。蘇生したのもそこの痛みが原因らしく。生きながら解剖されていると感じたのはまんざら錯覚でなかったということだった。

 それを見知った途端、恐れていたことが起こったとキャロットの心臓の鼓動が一挙にはね上がった。自由にならない身体を呪った。ぶざまな自分の姿を呪った。裸で晒し者になった自身へ男が行おうとしていた卑劣な行いを憎悪した。最後には、これ以上の生き恥は晒したくないと思っていた。

 そのせいなのか分からなかったが、身体に負っていた全ての傷がズキンズキンと突然痛み出し、息苦しい状態になった彼女は、眉間にしわを寄せて喘ぎながら自然と肩で息をしていた。


 そのような彼女の苦しみ悶える様子を、男はうっとりしながら眺めていた。それからしてこの男は、正真正銘の鬼畜嗜好の持ち主らしかった。

 キャロットを無理やり起こした男は、血の気が失せた彼女の頭上から、戦いの検討解析やら、自分がどのような作戦をたてたのか、なぜ二人が毒液を被ったのに自分だけが何もなかったのか、勝因が何であったのかの理由を、何を思ったのか突然語り始めた。早く決着がつき過ぎ時間を持て余した男が、内情をばらすことなど本当は論外と思ったが、終了までの時間がまだたっぷりあったことで、時間つぶしの余興としてつい喋ったものだった。また、半死の状態にあったキャロットをほぼ裸にむいたのも同じ理由からだった。単なる時間つぶしにやったものだった。

 ところが、彼女の衣服を剥いだことが仇となっていた。衣服を剥ぎ取ったときに彼女の健康的な柔肌から流れ出た赤くて綺麗な血を見た瞬間、余りに思い通りにいったこともあり、男がそれまで抑えていた欲望を我慢できなくなっていたのだった。

 男の当初の目論見は、先に呟いた通り、キャロットを持ち帰って慰み物にすることだった。彼女の四肢を中途で切断したのもそのためにやったことだった。ところがである。息も絶え絶えの苦しそうな息遣いをするキャロットの様子や、彼女の若くて張りのある乳房や、引き締まった筋肉質の体型や、胸から腹にかけて少量ずつ湧くように出た血液がへこんだへその辺りで溜まり、血の海と化しているのを見たことが男の考えを狂わせた。先に取っておくより、今ここで欲望を満たしたくなったのだった。

 男は決断が早かった。直ぐに思い迷うことなく最初の方針を変更して本能に従っていた。

 そのときの男には二つのプランがあった。一つは、目の前に裸の女が無防備で横たわっているのだから、当然のごとく性欲を満たすことであった。後一つは食欲を満たすことだった。つまり、愛おしく思うものを自分のものにするという意味合いで、彼女を生きたまま食すことだった。これら二つから男は時間内でできるものとして食欲を満たそうとしていた。だがそのことが彼女に反撃の機会を与えるとは夢にも思っていなかった。

 目的を果たすため、男は彼女から奪った剣を傍らの地面に突き刺すと、もう一方の鉤爪の手も普通の五本指の手に戻した。残されていたのは鞭のような尻尾だけだった。そのようなほぼ無警戒状態になった男を見るに及んで、もうダメと思われた絶望の淵から一矢報いるチャンスが突然訪れたことをキャロットはそれまで学んだ経験から感じ取った。

 彼女は、武器になるものは何かないかと、もうろうとした頭で考えた。能力は毒の影響なのか使えそうになかった。口も両手も両足も使えないので大概の武器は使用できなかった。そして最後に出て来たのは、いざというときに備えて所持していた毒薬だった。

 毒液を自分から吐くぐらいだから毒への耐性はもちろんあるに違いないとして、そんな輩に対して果たして毒は利くのかは、はっきりいって分からなかった。けれども、場所によっては効果があるのではないかとの微かな希望を彼女は抱いて決断した、毒薬を使って自ら死を選ぶより相手に一泡吹かす方が最善だろうと。

 他のところは知らなかったが、彼女が以前いた組織では、女性は危機管理として、通常装備以外に小型の銃・ナイフの類や手りゅう弾や複数の毒薬を隠し持つことが常識とされていた。それらは緊急時、護身用や自決用に使えるからだった。

 よって彼女は、そのときからの習慣で三種類の毒薬を用意していた。それぞれが粉末、結晶、液体と別れていて、効果も体中が麻痺し運動能力が奪われ死に至るもの、眠った状態のままやがて心肺停止となるもの、酩酊状態になりやがて呼吸が停止するもの、とさまざまだった。そして何れも用法を間違わない限りは即効で死に至る毒薬だった。

 それらを額当ての装飾品の中に入れていた。しかも、万が一の場合に備えて、手を使わなくても出し入れができるようにしていた。


 悪魔の表情で、男はハアハアと熱い吐息を吐きながら舌なめずりした。開けた口からよだれのようなものが糸を引いて地面に垂れた。その口の中には幾本もの鋭利に尖った歯が不気味にのぞいていた。

 そんな男の頭の中では、キャロットの処遇が既に決まっていた。

 いつもしてきたように、キャロットの恐怖に歪んだ顔を見てから実行に移すつもりだった。

 一番先に目の前の血をぺろぺろ舐めてから、一気に牙を立てて食いつくつもりだった。これくらいの肉塊なら、時間にしてものの二分もあれば骨の部分だけを残して大部分を食い尽せると計算していた。

 

「エヘヘヘ。ここまでくるともう我慢できねえ」


 キャロットが横たわる地面は、彼女の傷から流れ出た血と男の毒液とでかなりぬかるんでいた。それにもかかわらず、男は気にも留めずにそこへ両膝を突きしゃがみ込むと、彼女の両肩を長い両手でがっしりと押さえて動けなくして覆いかぶさっていった。

 その光景は、空腹な狼が、子ウサギをその両前足で捕えた様子にそっくりだった。瞬間、男の大きな身体にキャロットの姿が完全に隠れて見えなくなった。

 だがその姿勢では、下腹部に照準を合わせるのに無理があると感じたのか、押さえ込んでいた両肩からその下の突き出た小高い部分へと両手を移動して、それらをわしづかみにした。敏感なところをきつくつかまれたことによる痛みを我慢するくぐもった深い吐息がキャロットから漏れた。男の死んだ魚のような濁った黄色の眼が異様にギラギラ光った。


「エヘヘヘ、こうでなくちゃあな」


 さてこれで準備ができたから行為に移れると、キャロットのワナが待ち構えているとも露知らず、最初の方針通り男が満足そうにニタニタと笑いながら彼女を覗き込んだそのときだった。キャロットの前髪が乱れて舞い上がったかと思うと、焼き栗がいきなり弾けたような音が二人の目前で鳴った。

 彼女が額に付けた金属製の額当てから毒のカプセルが飛び出し、男の顔面にまともに当たって弾けた音だった。

 たちどころに男の無防備な顔の辺りに白い粉煙と煙が舞った。顔の表面から血ではない透明な液体が飛び散って瞬く間に霧となって消えた。


「こらッ、何をしやがる!」


 彼女による不意を突いた攻撃に、反射的にそう叫んだ男は顔面を片手で押さえながら、彼女の上から素早く跳び退いた。さらなる反撃があるかと身の危険を感じてのことだった。


「マジで憶えてろよな。タダじゃおかないからな」


 と、男はそら恐ろしい怒声で捨て台詞を吐きながら、あっという間に距離を取っていた。性的虐待を受けそうになった場合に備えて体内に自害用の爆薬を隠していることが男に比べて女の方に多いことを見知っていた男が、これはもしや自爆でもするのかと思ったのである。


 忘れていたぜ。女はどこに危ないものを仕込んでいるか分からないんだったっけ。


 彼女と十分な距離をたちどころに措いた男は、背中を向けた状態でじっと動かなくなった。

 男が背中を向けるのは、それまでにも男が油断をしたようにわざと見せかけて誘ってきたやり方だった。かさにかかって攻勢に出ると、あり得ないところから鉤爪の手が出現したり、尻尾の逆襲が待っていた。

 ところがその時ばかりは少し状況が違っていた。片膝を突いた男は、一匹の老猿がじっと佇んでいるかのように、巨体を丸めて動く気配はなかった。男から黄色い色を帯びた玉のような汗が体中からあふれ出て赤いバトルスーツを濡らしていた。それらが水蒸気と化して、むかつくような臭気を放っていた。

 実は、この男。毒抜きをしていたのだった。他にも同じ理由から、両目から涙、鼻から鼻水。口からも胃液のような臭う液体を吐いていた。

 そうしながら、


「それにしてもうかつだったぜ、(相手を道連れにする用意はしてきているか、を)最初に訊き出しておくんだった」と悔しそうにぼやいていた。


 それでも、自信に溢れた表情だった。そこには、勝負は既に決している。この状況をひっくり返されることはもはや絶対無いに等しい、との確信があったからだった。

 男は、そんなことより我が身が一番大事と、キャロットにはもはや見向きもしなかった。次もあることだからと彼女に浴びた毒の治療に専念していた。


 一方、キャロットはというと、彼女も自身が放った毒の影響からやはり逃れることはできなかった。毒の一部を吸い込んだのか露出した身体に付着したらしく、端正な容姿を歪ませていた。

 けれども毒で以って毒を制するという例えもあるように、動くことはできなかったが、全身の苦痛と痛みが麻痺して、幾らか状態は落ち着いていた。

 だが死の影は、自らの毒薬の影響でさらに近付いたといってよかった。そのせいなのか、有りもしない幻覚が見えていた。

 そのような中、幻覚のある場面でキャロットは自虐的な笑みを漏らした。それは死んだ後の映像だった。

 そこでは、死んで醜い姿と変わり果てた彼女は、丸裸の状態で生成色をした袋に入れられ、同じような袋と一緒に軽トラックの荷台に乗っていた。車は人気のない道を通り、廃墟になった建物が建ち並ぶ場所を通過したかと思うと、あっという間に何もない原っぱのようなところに到着していた。そこには古い時代の井戸かと思われる遺構がぽつんとあるだけだった。井戸は、石垣が人の腰の辺りの高さまで穴の周りに積まれているだけのシンプルなもので、その中へ彼女が入る袋は他の袋と共に荷物を扱うように適当に放り込まれたのだった。何れもドサッと音が鳴ったことから、明らかに水枯れした空井戸と思われた。そしてそれが済むと、車は何もなかったかのように元の道を戻っていった。

 その光景を見ながら、表社会から決別した日からこの日が来るのを覚悟していたからと、ほくそ笑んだのであった。

 彼女自身の思いの中では、このまま死ねば亡骸はどうせゴミ同然に適当な場所に埋められてお終いになるのだろうと考えていた。従ってそのような土も被せられない状態でそのまま放っておかれる結果はちょっぴり不満だった。が、そうはいっても惨めな格好で道端に捨てられじろじろ他人に見られるわけでもないし、どちらにしても最後は人知れずに土に返るのだからということで落ち着いていた。


 ちょうどそのとき、急に息苦しく感じた彼女は、ずるずると鼻をすすった。鼻水が鼻血と共に口の中へ流れ込んできた。彼女はそれらを一気にごくりと飲み込んだ。余り気持ちの良いものではなかったが、鼻の通りが良くなって大分呼吸が楽になった。

 鼻血は、彼の男が逃げ去るとき、そのどさくさ紛れに男の大きな手が彼女の無防備な顔面へと当たり、やや高めの端正な鼻が捻じ曲がったときに出たものだった。

 ほっとした次の瞬間、キャロットの意識が遠のき始めていた。彼女は薄笑いを浮かべると、もうじき死ぬのかと思っていた。

 悪魔へ納得できるほどの鉄槌を食らわすことができなかったのは心残りであったが、やれるべきことは全てやったのだからとの満足感は確かに感じていた。

 正義が悪に通じなかったのは、奇しくも世界は理不尽が無慈悲に支配するものと頭の中で理解していたから諦めはついていた。

 だがどうしても諦めがつかないこともあった。女として、かような裸同然の恥かしい格好で逝くことだった。

 その無念さからなのかそれは分からなかったが、なけなしの涙がキャロットのまだふさがっていなかった方の目元に一滴浮かんで光った。だが結局、どう嘆いたところでどうにもならないことは明らかだった。

 彼女は、悟った顔で刻々と近付いてくる死を潔く受け入れようとしていた。

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