第11話

 天井のシャンデリア風の照明が点灯し、薄暗い室内が急に明るくなった。


「ようやく着いたようですね」


 低い穏やかな声が響いた。その声にパトリシアは、それまで興じていたゲームを中断すると、声がした方に振り返った。それまでシートに深く腰を沈めて目を閉じていた初老の男が、背筋を真っ直ぐに伸ばして腰掛ける姿が見てとれた。下りるような仕草から、どうやら車が目的地に到着したらしかった。

 パトリシアは丁寧に、「はあ、そうですか」と受け答えすると、確認のために、サイドドアのガラス窓をチラッと覗いた。すると外灯の灯りに照らされて、各種リムジンを始めとして赤や青やゴールドといった派手な色をしたピックアップトラックやお金持ちのステータスシンボルといわれている大型バスを改造したキャラバンカーが、何台も止め置かれてあるのが見えていた。

 どうやら駐車場に車は止まっているみたいね。そう思った瞬間、「さあ参りましょうか」と男がまたもや横から声を掛けて来ると、さらに続けて、


「ゲームはそのままにしておいて構いません。あとでうちのものに片付けさせますから」


 と、気を利かすように言ってきた。それから男は自動的に開いた反対側のドアから一足先に外へ出て行くと、既に下車した男達が待つ中へと歩いていった。

 いつの間にか残された形となったパトリシアは、その言葉に従いゲームをそのまま放置すると、眠っている青年を急きょ揺すって起こし、最小限の荷物だけを持って、パーカーのフードを頭から被って顔を隠した青年と共に少し遅れて外へ出ていた。

 車から下りると、少し離れた地点に、オフィスビルのような外観をした高層建築物が一棟そびえ建っているのが見えていた。男達は到着した先を知っているようで、脇目もふらずにその建物の方向へ歩いて行った。パトリシアは青年を連れ、少し距離をおいてその後を追った。

 それから三分もしない内に、総ブロンズガラス張りになった、玄関口と思しきところを通過して中へと入っていた。

 その内部は、何もない広い通路、シンプルな箱といった表現がぴったり当てはまりそうな簡素な造りとなっており、暖かい色の光で満ちていた。

 夜遅いこともあるのか、人は誰も見かけなかった。唯一、目に付いたものと言えば、両側の壁にそれぞれ二基のエレベーターと、百フィートほどいった先の奥の突き当たりに、木製のカウンター台らしきもの。そして台のその直ぐ上の壁に掛かっていたアナログ式のレトロな時計ぐらいなもので、ここはどこなのかを知るための手がかりは何もなかった。

 男達はひとかたまりとなったまま、まっすぐにカウンター台らしきところまで進むと、そこに立ち止まった。何をするのかを見ていると、その中の一人が前に進み出て、カウンター台の上に手を伸ばしたように見えた。するとまもなくして、横の壁のドアが不意に開いて、奥の方から二人の男が現れた。男達はやや太めの風貌や雰囲気などからどちらも三、四十代に思えた。そんな彼等は揃って、真っ白いシャツの上から派手な赤いベスト、紺系のネクタイを着けていた。またベストの胸には名札を付け、首から認証カードのようなものをぶら下げていた。そして、突然やって来た不審な格好をした来訪者へ、普通に「おはようございます」と丁寧なあいさつをした。その様子から見て、彼等はどうやらこの建物の係員か何かと思われた。

 前に出ていた男は、出て来た係員の内、髪の毛がほとんどない方とさっそく短い会話をすると、手にしていた一枚のカードのようなものを見せた。カードはもうひとりの係員へ引き継がれ、やがて元の男に戻されていた。それから男は、また係員と続きの会話をし始めた。その口振りからして、何か確認を取っているいるようで、今度は二人が対応していた。

 パトリシアと青年は、そのやり取りを少し離れたところから傍観していたが、話し合いは時間にして五分くらいで片が付いたらしく、彼等は何もなかったかのように振り返り二人の元へやって来ると、その中から例の初老の男が歩み寄って来て、落ち着いた口調でこう言って来た。


「お二人は暫くここでお待ち願いたい。我々が先に行って話をつけてきますので。その方がスムーズに事が運び、賞金も直ぐに貰えるかと思いますので」


 そのとき、逆に全員で押しかける方が早く済むとパトリシアは思ったが、ここは一先ず男の顔を立てておこうと決め大人しく従うことにした。にこやかにほほ笑むと、「はい、分かりましたわ」と応じていた。

 すると初老の男は更に、「尚、連絡係として二人をここに残します。話がつき次第連絡を入れますので」とも言ってきた。

 二人とは、青年と同じ年頃くらいの、ドライブ・インで食べ物を調達して来た例の若い者達だった。

 それには異を唱える理由が何もなかったので、パトリシアはもう一度ほほ笑んで頷くと、もう一度「はい分りましたわ」と応えて、受け入れていた。

 それを受けて、男はそれではと一言言い残すと、さっそうと残った者達を引き連れ、一台のエレベーターの方へ歩いて行き、自動的に扉が開いたエレベーターに一斉に乗り込んで、どこかの階へと行ってしまった。

 そのとき壁に掛かった時計の針は、夜の九時を指していた。


 それから時間が過ぎて、夜の九時三十分になっていた。にもかかわらず、若い男達の携帯に、何ら連絡は入らなかった。交渉が長引いていると考えられた。

 その間、出入りする者も、物音を立てる者もいなかった関係で、広い室内はシーンと静まり返っていた。

 その頃にはパトリシアと青年は、初老の男達が入っていったエレベーターから歩いて三十歩ほど行った、ちょうど反対側のエレベーターの壁際に移動して待つようになっていた。

 外から人が入ってきた場合、それまでいた中央付近では通行の邪魔になると気を利かせてのことだった。

 また、連絡役として居残った、一人前に立派なひげなどを生やし、黒のサングラスと黒服でさっそうときめているにもかかわらず、明らかに新米に見えた二人の若者は、初老の男達が入っていったエレベーターの直ぐ前でいた。

 彼等は、その硬い表情や身動き一つしない様子などから、明らかに緊張しているらしく、借りて来たネコのように大人しかった。

 そんな彼等に、パトリシアは目を伏せながら内心苦笑した。

 明らかに自分達に関する情報を知っているのか、兄貴分あたりから何らかの注意を受けているのか、または本能的に身体がそのような反応をしているのかのどちらかと思っていた。

 待って、さらに十五分が過ぎて、夜の九時四十五分になっていた。

 じっと待っているのにしびれをきらしたわけでなかったが、パトリシアはそれまで緩く閉じていた、メガネの奥のブルーの目をパッと見開くと、顔を上げた。すると偶然にも、二人の若い男と目が合った。だが彼等は一斉に目を逸らした。次にカウンター台の方に目を向けると、派手な服装をした二人の男がカウンター台の後ろで何をするでもなく立ち尽くしているのが見て取れた。

 パトリシアはある決断をすると、浮かない表情でつかつかと歩み出し、係員の元へ一切の迷いもなしに向かった。そしてカウンター台の前まで来ると、立っていた二人に声を掛けていた。


「あのう、お尋ねしたいのですが?」


 すぐさま、ブラウン系の髪を短く整えた男から返事があった。


「はい、いかがしましたか、お客様」


 男はパトリシアより背が高く、高い鼻にブラウン色の眼をしていた。そんな男にパトリシアは、実はかくかくしかじかとさり気なく事情を話した。すると男は丁寧に応じて来た。

 

「残念ながらここにはございません。地下一階か地上二階の階にエレベーターで行かれますと宜しいかと。エレベーターを出た直後の壁に構内の見取り図が見えるかと思いますのでそれを参考にして下さい」


「ありがとう」


 パトリシアはにこやかに礼を言うと、急いで元いた場所へ戻り青年を誘った。

 

「あなたも行く?」


 内容を直ぐに理解した青年はニコッと笑い、はいと従った。


 それから五、六分ほどして、すっきりした表情でパトリシアと青年がエレベーターから出て来たとき、広い室内はあいかわらず静かで、何も変わった様子はないようだった。

 ところが、反対側のエレベーターの横で立つ若い男達を、黒縁のメガネをかけたブルーの目で一べつしたパトリシアは、ははーんと頷いてニヤッと微笑んだ。

 遠目から見ても、肩の力が抜けたかのようにリラックスしているのが分かった彼等が、その瞬間ビクッと反応して、決まりが悪そうにさっと目を伏せたからだった。

 パトリシアは思わず呟いていた。私達より先に戻って来るなんて、よくやるわね。

 だがそのようなことよりと、パトリシアは再びカウンター台の方へつかつかと歩いて行くと、最初に訊いた人物に話し掛けた。


「ちょっとお伺いしたことがあるのですが、宜しいかしら」


「はい、どういったことでしょうか?」


 そのときも男は丁寧に応じて来た。パトリシアは首を傾げると尋ねた。


「つかぬことをお伺いしますが、一体、ここはどこなのでしょうか?」


 当初、連れて来られたこの場所が、依頼主のアジト若しくはそれに関連する施設だとパトリシアは信じて疑わなかった。ところがそれを否定するものを、先ほど向かった地上二階の部屋で見て来てから状況が変わっていた。そこには不思議にもクリニックとドラッグストアと大型スーパーマーケットらしき店舗がテナントとして出店していた。何分夜遅いこともあって、クリニックとドラッグストアはいずれも名称を記した看板が見えただけで、出入り口はシャッターが下りて完全に閉まっていた。従って何とも言えなかった。が、スーパーマーケットの店舗は、閉まった透明なガラスの扉の向こう側に食品が山積みされた陳列棚がずらりと並んでいる光景が見て取れたことからほぼ間違いないのない事実と考えられ。そのようなものは依頼主のアジトや関連先にあるはずはないと考えられたことから、是非ともここがどこなのか知りたいと思っていた。


 すると男は、落ち着き払った口振りで穏やかに応えて来た。


「はい、こちらはニベツ・シャトー国立公園のちょうど玄関口に建ちますシーザ・サウ・パーラメント・グランドホテルでございます。と言いましても見ての通り、普通のホテルでございません。私共のホテルはオーナーである正会員様、及びそのご紹介者である準会員様のみがご利用できる会員制リゾートホテルとなっております」


「なるほど……」


 パトリシアは立ち尽くしたまま頷いた。

 じゃあ、目の前のこの二人はホテルのフロントマンで、この広くて殺風景な場所はホテルのロビーということ?

 パトリシアは目からうろこが落ちたような気分だった。

 そう言われてみれば、ホテルの表示がどこにも見られなかったのは隠れ家的なホテルと考えれば理解できたし、リゾートホテルであるならクリニックやドラッグストアやスーパーマーケットが併設されていても何の違和感もないし、外の駐車場で高級車ばかり見られたのはこのホテルが高級会員制と見れば、見事につじつまが合っていた。

 それではとパトリシアは、


「でもこのホテルのロビーは余りにもシンプルな印象を受けますが。一見してロビーと分かるように、ラウンジやレストランを設けたり、彫像や絵画を置いたり、壁画とかで目立たせることはしていませんのね。それにロビーと言ってもソファもテーブルもイスも置いていないし……」


 他にも疑問に思っていたことを尋ねた。それに男は口元に笑みを浮かべながら「ああ、そのことですか」と直ぐに応じていた。


「一般のホテルに見られるようなラウンジやバーやレストラン、カジノルームやエステルームやスポーツジムをロビー内に設置していないのは、その方がすっきりして良いとお客様に喜ばれるからです。装飾品、調度品の類を一切置いていないのも、同様な事情からでして。全てはお客様の要望だからなのです」


「ああ、そうでしたの」パトリシアは一応納得したように頷くと、少し間を措いて言った。


「ところで、これまで誰も人の出入りがないようですが、これはたまたまなので……」


「いいえ、そういう訳でありません」男はやんわり否定した。


「実はホテルがわざとそうなるように趣向を凝らしているからなのです。

 このロビーは第六番目のエントランスにあたります。つまり、ホテルにはエントランスが全部で六ヶ所ありまして。お客様同士がお互いにお顔を合わすことなく自室へ向かわれることができるようになっておるのです」


「へえ~、そうでしたの」


 そう言った風にパトリシアとフロントマンの男が話し込んでいる間に、いつの間にか青年が彼女のすぐ後ろに立ち、二人の会話をそれとなく聞いていた。

 また男の隣にいたもう一人の方は、真剣な表情で立ったまま、何かに目を落としていた。その場所がホテルの受付というからには、何らかのモニター類がカウンター台の裏側に設置してあり、それを見ているのだろうと思われた。

 そして例の黒服の若い男達は、あいかわらずエレベーター横の辺りで立ち、いかにも手持ちぶさたという風に携帯をいじっていた。


 そんなとき、唐突に「はいはい、分りました」と丁寧に応対する、若々しくて張りのある男の声がした。

 不意に小耳に挟んだ初めて聞く声に、パトリシアは一旦フロントマンの男との会話を中断すると、その声が聞こえた方向へ振り返った。

 にらんだ通り、エレベーター横の壁付近で立っていた二人の若い男のひとりが携帯を片手に喋り、もう一方がそれをじっとのぞき込んでいる光景があった。

 やっと話し合いが終わったらしかった。パトリシアは、ほっと安堵の吐息を漏らすと、フロントマンの男の方にもう一度振り向いて「ありがとう、参考になりましたわ」と丁寧に礼を述べた。

 その後、フロアの中央付近までとりあえず歩いて行き、この辺りならどのエレベーターから下りて来ても大丈夫と見て立ち止まった。掛け時計で時間を確認すると、既に十時を回っていた。

 パトリシアは全てのエレベーターを見渡すと、思った。ようやく戻って来たみたいね。ほんと、一体何を話していたのかしら。


 それからまた五分ほど経った頃。パトリシアと青年は、エレベーターから出てきた初老の男達と入れ替わりに、エレベーターに乗り込んでいた。

 パトリシアがフロントマンから聞いた話によると、このホテルは地下三階、地上五十三階の建物で、その内、三階から最上階までが会員のお客様の居住空間になっている。

 しかもお客様はワンフロア丸々一つを占有する仕組みになっている。つまりこのホテルは五十組のお客様しか受け入れない。さらには、このような建物が同じ敷地内に四棟建ち並んで一つのホテルを形成しているということだった。

 そのとき驚いたのは、常に八割以上が埋まっていると聞いたときだった。


 エレベーターの中は密室空間であることもあり、一種独特な雰囲気をはらんでいた。そのこともあって、パトリシアは何か喋らずにいられなくなり、すぐ横に立つ青年の顔を見上げて、「いよいよね」と声を掛けていた。すると彼は笑みを作って「そうですね」と応えてきた。

 そのような短いやり取りの間に、放っておいてもエレベーターは勝手に依頼主が待つ階で止まるようになっていますから安心してください、と初老の男に伝えられていた通り、あっという間にエレベーターは、地上三十三階まで昇ったところで停止していた。

 エレベーターの扉が音も無く自動的に開くと、高級ホテルらしく、目の前にタペストリー柄のじゅうたんが敷き詰められた広い通路が現れた。

 だがそこに待っている者は誰もいなかった。パトリシアは、何かの手違いがあったのかと疑い、ほんの暫くの間、二人で待つことにした。が、やはり誰もやって来る気配はなかった。それでこちらから出向いて依頼主の元に会いに行こうと決め、目の前に見えた通路を注意深く見渡した。

 すると、左右方向に真っ直ぐに伸びた通路の両横に、部屋の扉らしいものが点々と見えていた。

 だがどの扉にも、何の部屋なのか分かる目印は全く無く。付近には、内部の様子を記した見取り図も見当たらなかった関係で、予備知識も得られなかった。

 従って、どの部屋へ向かえば良いか分からなかった。と言って、片っ端から開けて見て回るのは、賞金を貰う立場として、どうしても引け目を感じざるを得なく。


 そのような場合、大抵途方に暮れるのが常と言えたが、そのときに限っては、不思議と足が自然と引き寄せられるように一方の方向へ向かって進んで行き、いつの間にかとある部屋の前まで来ていた。

 そこには、中世ヨーロッパの王侯貴族の館で良く見られる玄関扉のような、見るからに豪華で重厚な造りの両開きの扉があり。その前に一つの人影があった。この広い部屋にやって来て初めて見る人間だった。

 見れば、真っ白いシャツの上から黒っぽいベストを身に着け、首には蝶ネクタイをする、いかにも使用人という身なりの大男が一人、正面を向いて悠然と突っ立っていた。


 天を衝くと言う言葉がぴったり合いそうな七フィート以上ある身長。異常に広い肩幅。日焼けした面長の大きな顔、ふと眉毛、糸のように細い目。団子鼻。ツルツルに禿げ上がった頭。大きなリング状の耳飾りを付けた巨大な両耳。親指を除く全ての指に金のリングをはめた、大きくてごつごつした武道の達人のような両手。それ以外の特徴として、どうみても十六インチぐらいはありそうだった巨大な足をしていて、使用人というよりは寧ろ、ボディガードと言った方が正しい人物だった。

 男は、石壁のごとく身動きせずに立っていた。パトリシア達が用心をしながら近付いて行くと、何の前触れもなく男は薄気味悪く笑いかけて来るや、深々と頭を下げて、使用人が主人や客にするような大げさな礼をしてきた。

 そのときパトリシアは、男の異様な雰囲気に呑まれ、何が起こったのか分からず、呆然と立ち尽くした。

 だが青年はそういう訳にはいかなかった。直ぐ後ろを歩いていて、パトリシアの異変に気付いた彼は、それまで頭に被っていたフードが脱げるほどの勢いで、彼女をかばうように前面に出て来ると身構えていた。その後ろ手に回した方の手には、いつでも一戦交えることができるように、数本のナイフを握って。 

 当然のことながらその瞬間、その場の空気が青年の行動によって一気に凍り付き、まさに一触即発の様相となった。

 だがそれも束の間の事で。直ぐに危険に気付いた大男が、身の証しを立てるように両手を広げると、「勘違いなさらないで下さい。何もしません。私は主人の命で、この前で待っていただけです。危害を加えるなんて滅相もない」と良く響く低音の声で訴え掛けてきたことや、その事態に気付いたパトリシアが凛として彼に言い放った「待って」の一言で、ようよう青年が出した武器を引っ込めて臨戦態勢を解くと、何とか危機的状況が回避されていた。

 そのときの青年の心境は、「相手は人殺しをゲームと同じに見ている奴らよ。だから、いつ何時でも油断しちゃあダメよ」と、ここまで歩いて来るすがら、パトリシアから釘を刺されていたので、素直にそれに従ったまでのことで。よって、パトリシア本人から中止を言い渡されては異議を挟むことはできず、素直に矛を収めていた。

 その後、何事もなくその場が治まったことに、何とか誤解が解けたと見て一安心したのか大男はほっとした顔付きで身構えていた幅広の肩の力を抜くと、安堵の吐息を吐いた。それから、結果として誤解を招くこととなった振る舞いについて紛らわしいことをしたと詫びると、自ら進んで「私の名はジーザスパッドと申します。我が主人、サンジェイ・ハーメルに雇われているしがない下僕です」と自己紹介してきた。

 パトリシアが、そうでしたかと、さらりと応じると、男は「この先の部屋で我が主人が是非お会いしたいと首を長くしてお待ちです」


 そう簡潔に伝え、直ぐ目の前に見えた両開きの扉の一方の取っ手を左手で軽く引いて開けると、「どうぞ、こちらへ」と丁重に声を掛け、広い背中を二人に向けて、先に歩いて行った。二人はその後ろ姿を追うように付いて行った。


 入った扉の向こう側はまた通路になっていた。但しそれまでの通路と違うところは、幅が倍くらい広くて、その片側に何台もの自動販売機が並んで置かれていることだった。

 そこでは、飲料水、アルコール類、タバコ、インスタント食品、衛生雑貨などが販売されていた。

 それを見たとき、どの部屋にもこれと同じものが設置されていると見て、何でも至れり尽くせりね、とパトリシアは感心した。

 ちなみにフロントマンからついでに訊いていたところでは、生活に必要な物品の購買やサービスは地上二階と三階、並びに地下一階と二階で受けることができるようになっているということで。そこではスーパーマーケット、ヘアサロン、ドラッグストア、各種クリニック、フラワーショップ、各種レンタルショップ、クリーニング店、リフォーム会社、運送会社。他にも色々な技能士の個人事務所が入居しているということだった。

 だがそこには、ある一つの疑問が浮かんでいた。たった五十組の会員のためにそれだけの業者が入居していて、果たして業者の経営が成り立つものなのかということである。

 だが、それをホテル側に訊いたとしても、本当のことを応えてくれないのは明白だった。そのためパトリシアは独自に思考を巡らせ、それらしい答えを出していた。

 即ち、このホテルに泊まりに来る会員は個人だけで来るのではなくて、その家族、友人と友人の家族、親類、仲間、部下・使用人など大所帯で来るに違いない。それらの人々が購買力となって、下の階の業者を潤わせている。あくまで想像の域を出なかったが、たぶんそういうことだろうと思っていた。


 不思議なことに、ここまで来ても誰一人として見掛けなかった。もう考えられることは、主人と下僕のたった二人だけで滞在しているのか、残りの人員は奥の方で引っ込んでいるかのどちらと考えられた。

 歩きながらパトリシアがそんな風に感じ取っていると、見る間に大男は通路を突き当たりまで進み、そこを右に折れた。二人が後に続くと、ここですと大男が背中越しに言ってきた。ふと見れば、辿り着いた先は、通路から続きになった仕切りのない部屋で。どうやらそこは建物の窓側に面しているらしく、真っ暗な闇に染まった大きな窓枠が、入り小口から見えていた。

 その前で男はピタッと立ち止まると、急に二人の方へ振り返り、


「直ぐにお呼びしますので、それまでの間ここでお待ち下さい」


 と、良く響く低音の声で言い残し、不思議と静まり返っていた奥の方へ向かって歩いて行った。

 やがて、男の姿が見えなくなってから三十秒ほど経ったくらい。パトリシアと青年が、期待と不安が入り混じる面持ちで、いよいよね、いよいよですねと互いに顔を見合わせ、気をもんでいたとき、いかにも年季が入ったという感がある渋い声が、比較的落ちつき払った口調で部屋の奥の方から届いた。


「どうぞ、お入り下さい」


 その呼び掛けに、パトリシアは「それでは失礼します」と間を置かずに丁寧に応えると、青年と共に中へと足を踏み入れていた。

 部屋の内部は、やや細長い形状をしており、灯りは間接照明が主に使われていた影響で、通路側に比べて少し暗かった。しかし、案外落ち着く雰囲気を醸していた。

 また窓の反対側の壁には、六号から百号くらいまでの、何が描かれているのかさっぱり不明のコンテンポラリーアート(現代芸術)の絵画が、まるでギャラリーにいるかのように幾つも掛かっていた。他にも、子供の背丈ぐらいに伸びた色とりどりの観葉植物の鉢があちらこちらに置かれていた。

 それと共に、フロアの中ほど辺りから、L字状をした豪華な業務用ソファとテーブルのセットが二揃い、向かい合わせになるように並べて置かれていた。続いてその奥の、ちょうど部屋の隅にあたるところに、これまたおしゃれなデザインソファとテーブルのセットが一揃い、並べて置かれてあるのが見えていた。


 そのような中を、二人が辺りに目を配りながらゆっくりと歩いていたとき、また声がした。


「どうぞ、こちらへ」


 直ぐにパトリシアは声がした方向に視線を向けると、声の主だと思われる人物の白髪の頭を確認した。その人物は、肘掛が付いた一人用のソファに、ちょうど後ろ向きに腰掛けていた。

 パトリシアと青年は、周りを慎重にうかがいながら、その方向へ歩いて行った。するとその人物は、首だけを回すようにして後ろを振り返ると、片方の手でこちらへと手招きし、更には向かい側の、いかにも高級そうな三人掛けのソファの席へ、テーブルを挟んで腰掛けるように促してきた。

 だが二人には首を横に振る理由はどこにも無く。結局、パトリシアはしおらしくソファに腰を下ろすと、それまで片方の肩に下げて持ってきた黒いショルダーバッグを膝の上へ置き、それからメガネのフレームへ軽く触れて、位置を少し調整した。一方青年は、彼女のすぐ横のソファへ浅めに腰を下ろすと、何かあった場合に備えて周辺へ目を光らせた。


 その様子を膝に手を置いてじっと見守っていたその人物は、やがて笑顔を作ると、さっそく話し掛けて来た。


「あなた方にお会いできてうれしく思います」


「はい、それはどうも」


「私、サンジェイ・ハーメルというものです」


「私は」


「パテシア・ジュモーさんとソランノ・ジュモー君でしたね。 確か、お二人は姉弟にあたるとか。既にお聞きしております」


「はあ、それはどうも」


「申し遅れましたが、私共の企画に応募されて無事に合格されたことを、心からお祝いさせて頂きます」


「はあ、どうも」


 その人物のお決まりなあいさつに、交渉役を担っていたパトリシアも軽く会釈するとお決まりのフレーズで応えた。


 一べつしたところ、その人物は、高級感のある真新しいダブルのスーツに身を包んだいかにも品の良さそうな老紳士で、少なめになった白髪を短く切り揃えた細おもての白い顔。知的に見える切れ長な目と高い鼻。艶のある両頬には二本のほうれい線がくっきりと刻まれている、といった特徴を持っていた。

 淡々と応じながらパトリシアは、人は見掛けによらないというけれど、この落ち着いた雰囲気の老紳士が親玉だったなんて、と半ばあきれていた。

 またそれと共に、名指しされた名前から、どうやらジョニーあたりの情報源を元にして話しているみたいね、と思っていた。

 日頃パトリシアは、生活する上での名前はパトリシア・メルキースで通していた。しかし裏社会の人間と会うときには、この名前は世を忍ぶ仮の名で、本名はパテシア・ジュモーだとそれとなく明かしていたからだった。

 だがその一方で、あっけらかんとしていた。何も分かっていないようね、と笑っていた。

 実際のところ、メルキースは偽名だったが、パトリシアというファーストネームは偽名でもなんでもなく本名だった。

 彼女のフルネームはパトリシア・ミスティーク。パトリシア・ミスティークが正式の本名だった。ミスティークというラストネームが非常に珍しいことなどから、そこから訳ありの自身の身元がばれないように細工を施していたのだった。

 ちなみに、青年と遠縁であるとは初耳だった。だが、門の前で誓約書にサインをしたとき、適当にラストネームを揃えたことが原因だろうと予想できた。彼と姉弟であると言った憶えはないし、あそこでの出来事以外しか出所は考えられなかったからだった。


 一通りのあいさつがやがて終わると、老紳士がにこやかに笑いかけてきた。ところがパトリシアは即座に視線を彷徨わせると、辺りをきょろきょろと見渡していた。あれほど目立っていた大男が見当たらないようだったので、どこへ行ったのか探していたのだった。


「使用人のジーザスパッドのことですか?」


 急に挙動不審の行動をしたパトリシアが気になったのか、直ぐに老紳士があてずっぽうで尋ねて来た。


「あ、はい」パトリシアはそうですと頷くと、逆に訊いていた。「どこかにいかれたので?」


「ええ。あれなら別室で作業をしています。私が言いつけました。何しろ、あれと私とでここに滞在しているものですから、色々とやって貰わないと」


「ああ、なるほど」


 それらしい理由を付けて説明してきた老紳士にパトリシアは納得したように頷いた。


「そういうことでしたか」


 すると、やはり二人だけで……。これで疑惑の一つが晴れた気がした。

 だが更にもう一つの疑惑が、いやがおうにも目が届くところにあった。

 老紳士とパトリシア達の間には、長方形の天板が透明なガラス製で、脚が一本脚の洒落たテーブルが置かれており。その上に、とても気になって仕方のないものが載っていた。

 それは綺麗に揃えられた札束だった。札束が載っていた。

 老紳士に席に就くように言われたときには既に見つけていたが、へたに物欲しげにじろじろ眺めると、金に意地汚い人間と見られそうな気がして、わざと無視していた。

 ところが、実際直ぐ近くにあるのが分かっていると、やはり自然と目がいってしまうもので。ざっと見たところでは、百ドル紙幣百枚を一束にして帯封をしたものが積み重ねられて、約四インチほどの高さとなっていた。しかもそれが合計で三つあることなどから、合わせると三十万ドルあるようだった。

 貰うべき総額、十五万五千ドルをできるだけ早く貰って帰るつもりでいたパトリシアにとって、これには一瞬目を疑わざるを得なかった。なぜ三十万ドルがあるわけ!?

 パトリシアはわざとさりげなく札束の方に目を落とすと、直ぐに顔を上げ、懐疑の目で訊いていた。


「あのう、これは?」


 すぐさま、待っていましたとばかりに老紳士がニヤニヤすると、淀みなく滑らかな口調で、言って来た。


「聞いております。運が悪かったようで。たちの悪い仲介人に酷い目に遭われたそうで。ご同情致します。でもご安心下さい。ここにご約束通り三十万ドルを用意させて頂きました」


 パトリシアはまさかの展開に目を瞬かせると、疑うように「するとこれは」と、問い返していた。

 すると老紳士は、してやったりの顔で応えて来た。


「はい、そうです。ちょうど三十万ドルあります。どうぞ受け取って頂きたい」


 そう聞いたとき、パトリシアは一瞬、目の端で隣を見た。青年がいささか驚いた風に、ずっと紙幣の山を見つめていた。直ぐに視線を戻すと、老紳士がにこやかにほほ笑みかけていた。

 パトリシアはかけ引き的に一先ず老紳士に合わせると、嬉しそうな微笑を浮かべて、「すみません。それでは遠慮なく頂いておきます」と応えていた。これには必ず裏があるに違いない、しかしそれを避けては何も始まらないと思いながら。


 すると案の定、老紳士はにんまりすると突然話題を変えてきた。


「ところで、それには条件があります」


「はあ」


 やはりねと、パトリシアは心の中でため息をついた。老紳士は穏やかに続けた。


「それにつきましては、ある相談に乗って頂きたいのです」


「と言いますと」


「実は、たってのお願いなのですが、クリアされた企画と良く似たもう一つの企画へ出場して頂きたいのです。でも、そういきなり言っても、直ぐに御了解を得られないと思いますからお話しするわけなのですが」


 そう述べると、老紳士は、自身の身の上話や、そうなったいきさつを急ぎ気味に語って行った。

 それによると、数年前まで老紳士は、さる投資ファンドのCEOを務めていたが、今は引退して悠々自適の気ままな暮らしを送っている。

 ところが三ヶ月前のこと、古くからの付き合いだった某クライアントのCEOからたっての願いということで相談がきた。その相談とは、人員も場所も工程管理も費用も準備もこちらが持つから、その企画を統括する代行役をやって貰えないかという不可思議な内容のもので。それで、なぜそのような相談をしてきたのかと尋ねると、先方はこう答えて来た。

 とある人物から個人的に頼まれ事をした。かなりやばい内容で、そのことが公になれば企業イメージが損なわれるばかりか企業が立ち行かぬ場合も起こり得るので、できれば断りたかったが、事情があってどうしても引き受けなければならなくなった。

 それで色々考えた揚げ句、代わって引き受けてくれそうな人物をあたろうとなった。だがその条件が、秘密が守れて、信頼が置けて、それより何よりも、こちらとはかかわりが見えない人物でなければならず。結局のところ、君しか最高の適任者は見つからなかった。そういうことで是非お願いしたいのだが、と……。

 そのような話がきたとき、当然ながら、自分は引退した身であると言って丁重に断りを入れた。だがその後もしつこく何度となく頼んでくる上に、そのCEOとは現役時代に助けたり助け合ったりのじっこんの間柄で、加えて彼の父親には昔、大変なお世話になったことがあったので、とうとう折れる形で引き受けることになって、今に至っている。


 そのような話を老紳士は、さすが企業のトップであったというだけあって、パトリシアが口を挟む余地がないと感心するほど、その話術はまるで詐欺師の口上を聞いているかのような、じょう舌で確かで。その上、用心深いというか、抜かりがないと言うか、具体的な内容や固有名詞とか言った肝心な部分は曖昧にして覆い隠しながら、見る間に話し切ると、いよいよ本題へと入って行った。


「この企画の目的につきましては関係者の者から少しは聞いて居られると思いますが、今ここで詳しくお話させて頂きます。尚、聞いて損は絶対にさせません。計画通り行けば八百万ドルがあなた方の手に入るのです。どうです、聞いて頂けますか?」


「あ、はい」


 老紳士の話術に押し切られる形で、うっかり同意したパトリシアに、老紳士がうれしそうな笑みを浮かべると、


「ありがとう、感謝します。これで私の役目もほぼ終わったのと同様です。ほっと肩の荷が下りた気分です」


 そう言って、企画のあらましと目的を、気分良く語ってきた。


「私が伝えるように言いつかっているのは、その企画自体は、今日あなた方が経験したような過酷なものではなくて、もっと緩いものだということです。あなた方は、たった一人だけが勝ち残るサバイバル戦に勝利した訳でですが、今度のは三人が勝者となる仕組みになっております。

 場所もそうです。檻のような四方を壁に囲まれた窮屈なところで行うのではなくて、周辺に自然が広がる果てしない大地で行うことになっております。

 また行うことは基本的にそう代わり映えしません。違いがあるとすれば、今度は二時間と長丁場であることと、人を相手にすることと、人が相手だけに怪我をさせてはいけないという制約があることぐらいです。

 そして目的の件ですが、人を捜すためだということです」


「ふ~ん、そうですか」


 パトリシアは少し考えるように間を措くと、よくわからないという風に小首を傾げてぽつりと呟いた。

 

「それのどこが人捜しにあたるのでしょうか?」


 すると老紳士は、「はい、それはですね」と、こともなげに応えた。


「捜す相手というのが、何でも一筋縄ではいかないからという理由によるらしいのです。私が聞いているのは、相手についての情報が極めて乏しい。分かっていることは、男女混成の六人組であることと、彼等の組織名がロザリオという名であること。あとは、これまでに何十万人という人間を殺めている極悪人であることだけでして……」


「ふ~ん」


 冷めた目で、パトリシアはさらりと受け流した。

 それを受けた老紳士は、


「そういう訳で、私が受けた役割とは、私の友人へ話を持ち掛けた人物が設けたステージへあなた方を招待することなのです」と続けると、考え込むように難しい顔をしたパトリシアの前で、「聞くより見る方が早いと申しますから。実は見て貰いたいものがありまして」と柔らかい物越しで言って、不意に彼女から視線を外してしまった。

 パトリシアが、一体何かあるのかと彼が向いた先を目で追うと、何の変哲もない白い壁がおよそ十フィート先に見え。そこには、何とかこじつければ印象派の風景画だと、見ることができなくもない六十号くらいの大きさの現代絵画が一枚普通に掛かっていた。

 これが見て貰いたいもの? とパトリシアがぼんやりと絵画を凝視したときだった。

 一瞬にして、絵画が青いモニター画面へと変わっていた。


「これは?」


「見ての通りディスプレイです。この絵だけ、アートディスプレイシステムになっておりましてね」


 老紳士の説明にパトリシアはなるほどと頷いた。

 アートディスプレイシステムとは、立派な装飾品としての機能を有するだけでなく、テレビ機能、通信機能、各種コントローラの機能などをマルチに備えた電子機器の呼称であった。


「これを見て下さい。私の友人へ依頼して来た人物が出した広告です」


 老紳士の落ち着いた声とほぼ同時に、モニター画面に文字が現れると、それを見たパトリシアは呆気にとられた顔で、何度も目を瞬かせ、一体これは? と呟いていた。そこにはこう記されていた。


 “命の保障なし。2時間の間、銃弾の中を逃げ延びた方に成功報酬$8Millionを差し上げます;参加料$1,000;見物料$10,000~”


 そのとき画面内で、開催場所が某陸軍基地となっているのをあざとく見つけたパトリシアは、目を白黒させると、思いがけず叫んでいた。


「嘘でしょう!?」


「いいや本当です」


「……」


 老紳士のきまじめな一言にパトリシアは一瞬言葉が続かなかった。何と馬鹿げたことを思い付いたものだと思った。

 なるほど陸軍基地なら、気が遠くなるほどの馬鹿でかい土地を確かに所有している。

 二時間の間、雨のように絶え間なく銃撃することができる人員が有り余るくらい揃っている。


「この記事をそのまま事実と受け取って宜しいものでしょうか?」


 内容をそのまま受け取ると、二時間の間砲弾を集中的に浴びる中を逃げるということと解釈できたパトリシアは思わず訊いていた。


「はい、たぶん」


「そうですか」


 パトリシアは大きくため息をつくと隣をちらりと見た。青年がむっすりした顔で画面をじっと眺めていた。

 そのとき、老紳士がパトリシアの顔色を伺うように言って来た。


「もうお分かりだと思いますが、彼に出て貰って六人の振りをして頂きたいのです。 そうすれば、必ずや当人が、物見がてらにやってくると見ておるのです」

 

「つまり、私の弟にその六人の誰かの役をやれと。つまり囮になれということですの?」


「はい。ご察しの通りです」


「そうですか……」


 パトリシアは沈んだ表情になると黙り込んだ。そこへ「別に難しい話ではないと思うのですが」と老紳士がささやいて来た。


「でも、そう言われましてもね」


「囮といっても彼等をおびき出すだけで、一戦交える必要はなくて。もし出会ったなら逃げ出して構わないので安心するようにと伝えられています。その上に、上手く事が運べば、八百万ドルが付いて来ると言う特典付きです」


「……」


 ついその気にさせる男の口上に、パトリシアは口を閉ざした。正直言って迷っていた。

 明らかに話がうま過ぎたが、もし募集広告のことが本当であるならば、八百万ドルという賞金は、もの凄く魅力的だった。生まれてこのかた、まだ見たことのない大金だった。

 八百万ドルあれば、立派な一軒屋に住める。加えて別荘も持てる。家事をしてくれたり話し相手になってくれる家政婦を雇える。犬猫などの愛玩動物を飼うこともできる。田舎の広大な土地を買って自給自足の生活を送ることも可能。

 度を超したぜい沢をしなければ、仕事をしなくても世間並み以上の安楽な暮らしが一生できる金額でもあった。

 と言って、もし青年に万が一のことがあったならと思うと、彼にとって不可能でないことと分かっていても、余り乗り気になれなかった。

 パトリシアは何度考えても決断を出せなかった。とうとう、迷いついでにふと思い浮かんだ素朴な疑問が、返事の代わりに口からぽつりと出ていた。


「あのようなものに参加して来る人達って、果たしているものでしょうか?」


「さあ、それです。一般の良識ある人間でしたら、幾ら賞金に魅力があろうと命が欲しいですからたぶんエントリーして来ないと思います。しかし世の中には良識のない人間もいるもので。捜している者達ならきっとエントリーしてくるだろうと先方は踏んでいるようなのです」


 パトリシアは眉間にしわを寄せてテーブルに目を落とすと、それから数分間黙り込んだ。

 しばらくの間、広い室内がひっそりと静まり返った。


 その内、引き受けるかどうかに、かなり暇がかかっていることに、どうするんですかという目で、隣に腰掛けた青年がおもむろにぞき込んで来た。

 その気配に気付いたパトリシアは、まだ頭の整理がついていないという風に小首を傾げる仕草をして、にっこり微笑んでみせた。 

 すると青年は彼女のその様子を見て、分かったと頷くと、急に老紳士を正視して、はっきりとした口調で切り出した。


「分かりました。出させて頂きます」 


 それを聞くや否や、老紳士は「はい、そうですか、分りました」と青年に微笑みかけると、満足そうに優しく念を押した。「ありがとう。よろしくお願いしますよ」


 一方、パトリシアは突然のことで何の事やら分からず、目を上げてあたふたすると、すぐさま二人に向かって、早口でまくしたてた。


「え、ちょっと、待ってよ。それで良いの?」「弟はそう言っていますが、私はまだ承知していません」


 すると二人から、


「もう決めたことですから」「ここは弟さん本人のご意志を尊重なされてはいかがでしょうか!」


 そんな応えが口々に返って来た。

 パトリシアは先に隣を向くと、青年に向って、本当にそれで良いの、と言いかけようとした。が、口を開く前に「大丈夫。心配いりません」と青年からしっかりとした返事が返って来た。そのときの彼の表情は、眠気がすっかり覚めたのか、どこかすっきりして晴れ晴れとしていた。そのため何も言えず。その代りとして、良く分かったと無言で頷くと、しょうがないわねえと渋々了承した表情をわざと作っていた。

 そのようにして青年の方が一段落すると、次にパトリシアは老紳士の方へ向き直り、にっこりほほ笑んで言った。


「承知しましたわ。弟の決心が固いようなので私も弟に従うことにしました。でも、一つだけ条件があります」


「それはどういうことで?」


「弟はお金の事にはどうも無頓着で、どこでどう回っているのか一切知りません。私が全部面倒を見ています。

 それでちょっとお恥ずかしいことなのですが、せっかく頂いた賞金も、実はある事情があって、既に行先が決まっていまして、私共のところへはほとんどと言って良いほど残らないのです。

 そこで、ものは相談なのですが、絶対に出るとお約束しますので、当面の生活費や出場するにあたっての衣装代、交通費を少しばかり工面して頂きたいと……。 どうでしょう、だめでしょうか?」


 パトリシアはそう要望すると、「はあ」と口をあんぐりさせた老紳士へ、更に念を押した。


「誠に厚かましいとは存じておりますが、どうにかならないものでしょうか? このままではまた引っ越しをしなくてはならなくて。そうなれば連絡が……」


 すると老紳士は、一瞬だけ怪訝な表情を見せたが、直ぐに余裕のにこやかな笑みを浮かべると、穏やかに尋ねて来た。


「一体どれほどお入り用で?」


「そうですね、五千もあれば。開催日までまだ日があるようなので」


「はい、分かりました。直ぐに工面しましょう」


 老紳士は意外とあっさり承諾すると、どこかしら苦り切った顔をモニター画面の方へ向けた。直後に、画面に出ていた文字が消え、中央部にダイヤルとトグルスイッチ、両側にはスピ―カーらしきものが付いた通信機のような器械の黒い画像が現れた。

 次の瞬間、老紳士は、張りのある声で、誰かに呼び掛けた。


「わしだ。五千ドルばかり足りなくなった。直ぐにこちらへ届けてくれぬか」


 すぐさまモニターから男の低い声がした。


『はい、かしこまりました。ただ今そちらへ参ります』


 たったそれだけの簡単なやり取りだったが、それから程なくして、幽霊のように、どこに行ったのかしばらくわからなくなっていた例の大男が、パトリシア達がやって来た方向から歩いてやって来た。

 男は三人の席の傍までやって来ると直立不動になり、丁寧な言葉使いで「お持ち致しました」と言って、三人の目の前のテーブル上へ、所持してきた札束を丁寧に置いた。その直ぐ横に見えた三つの山と比べると、何となく五千ドル分の厚みがありそうだった。

 

「これでいかがかな?」と、老紳士がすぐさま確認を取って来た。


「はい、十分です。ありがとうございます」


 パトリシアはにこやかに返事を返すと、「それでは遠慮なく頂いておきます」と礼を言って札束の山へ手を伸ばした。

 そのとき、何か入れる物をご用意しましょうかと老紳士が親切に言って来た。が、パトリシアは、大丈夫です、これの方がしっくりいきますの、と断わりを入れ、三人の男達が呆気に取られる中、テーブル上に並んで置かれていた四つの札束の山の内、大きな二山を膝の上に置いていたショルダーバッグへ押し込むように詰め、残りの入り切らなかった分は、少し行儀が悪かったが、黒いジャケットの両ポケットに、二つに分けて一生懸命ねじ込んだ。

 その結果、小ぶりなショルダーバッグがおかしな格好に膨れ、両ポケットは紙幣の束が入り切らなくて大半が外に出ていた。

 しかしパトリシアにとっては、そんなことはどうでも良いことだった。気にする様子も無く、青年と共にソファから立ち上がり、


「もうそろそろ、これくらいで帰らせて頂きますが宜しいでしょうか。先に上がって来た人達を待たせてありますので」


 そう言い訳した。

 すると老紳士は、さらりと「分かりました。ではそのときになったら連絡しますのでよろしく」と述べたきり、別に引き留めはしなかった。あっさり受け入れていた。

 話すことが無くなったのか、夜遅いこともあってのことだろうと思われた。事実、時刻は既に夜の十一時を回っていた。 


「ではこれで失礼します」とパトリシアは言い残すと、青年を連れて堂々と歩いて部屋から出た。通路まで来ると、エレベーターのところまで、慌てて小走りで駆けた。

 エレベーターを使って下の階まで下り、誰ひとりとして見掛けなかったロビーから玄関口までは、一応高級ホテルということもあって、駆けるわけにいかず、スピーディに歩いた。

 途中、不思議そうな顔で青年が、


「パティーさん、なぜ嘘までついてあんながめついことをしたのです。あれはちょっとやり過ぎでは?」と、案の上訊いて来た。

 しかしパトリシアは、訳あり気な含み笑いを浮かべただけで何も答えなかった。


 程なくしてホテルの玄関ホールを出て外の玄関口へと二人が到着すると、辺りはしんと静まり返り、夜風がかすかに吹いていた。

 そのような中、玄関前に車をまわして待っていますと、初老の男から伝えられていた通り、スモールライトを灯したワンボックスリムジンの黒塗りの車体が横付けされているのがはっきりと見えていた。

 二人が近付くと、計ったように中央のドアが開き、彼等が乗り込むとドアが閉まった。

 そのようにして出発の準備を終えると、車は、ヘッドライトを点灯して静かに動き出した、その先に見えていた夜のとばりに向かって。



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