第10話

 この日ほど目まぐるしく感情が反転した日を、パトリシアは知らなかった。

 そのときパトリシアは、高層建築物をぐるっと厳重に取り囲んでいる塀に面した道路のちょうど反対側。そこの路肩に植え付けられていた人の背丈の三倍ぐらいはありそうな生垣に、ほぼ背を向けた状態で立っていた。手入れを全くしていない為なのかその大きさまで育ったらしく、黄緑色の葉をつけた枝葉が無駄に伸び放題になっており、道幅が五十フィートぐらいあった道路側に相当はみだしていた。生垣の隙間からは、同じくらいの高さのフェンスが直ぐ間近に設けられているのがはっきり分かり、その奥の方はコンクリート製の擁壁が見えていた。そしてその先は、周りの建物と調和するように、同じく黄色に色付けされた長細い平屋の建物が、道路とほぼ並行に延びていた。


 パトリシアが立つその場所は青年が入って行った門が良く見える位置だった。だが、やや斜めに寄っていたため、門までの距離は百フィート近くあった。

 青年が門の中へ入ったのを確かめてから、周りの男達からの誘いやその他諸々のやっかいごとに巻き込まれるのが嫌で、誰もいなかった道路の端っこまで真っ直に下がり、見た目を考えて、徐々にこの地点まで移動して来ていた。

 その間、どこの組織からも声を掛けて来る者はいなかった。

 その理由について、パトリシアは全く訳が分からなかったが別に気にも留めていなかった。私には近付き難いオーラでも出ているのかしら、と思っていた。 

 しかし正直なところ、どこの組織もパトリシアに声を掛けて来なかった本当の理由は、彼女が大勢のマフィアの組員を前にしても非常に落ち着いていたことやひとりになってもおびえるどころか無視する態度を平気で取ることなどから、恐らくあれも能力者かその片割れだろうとどの組織の幹部も疑っていて、「あんなのにかかわると必ず面倒なことになる。絶対に余計な手出しはするな」と配下の取り巻き連中に指示を出していたというのが真相だった。

 そのようなこととは露知らず、その場所でパトリシアは、タブレットPCをショルダーバッグから取り出すと、メールを書いたり医学専門雑誌の記事を斜め読みしたりして時間潰しをしながら、青年の帰りを待っていた。


 空は雲天のまま変わる気配はなかった。しかも無風だった。遠くの方で大型の車両がクラクションを鳴らす音がしていた。

 もうその頃には門の前に並べていた長方形の簡易テーブルもイスも既に片付けられてしまっていて、例の立派なあごひげを蓄えた異国の男達もいなくなっていた。あれほど混み合っていた人垣もクモの子を散らすように自分達の組織が集う場所へ戻ってしまっていて、誰一人としてそこにはいなくなっていた。

 パトリシアはタブレットPCに目を落としながら、時折、ふっと思い出したようにその方向にチラッと目をやった。が、その度ごとに目に映るのは、その隣の方で自分達のテリトリーに陣取り、再びティーブレークやら酒宴を始めた組織の幹部とそれの応対をする黒服姿の男達ばかりだった。どこの組織も少し前みたいな、よその腹を探るような落ち着かない雰囲気と違い、どちらかといえば会議をしているような物静かな雰囲気だった。が、男達のどの目にも依然として対抗心がありありと見えていた。

 そして幹部に限っていえば、誰もが自分のところが既に勝った気でいるのか、その顔は自信にあふれていた。


(好い気なものだわ)


 そんなとき、偶然何かの拍子でこちらを見つめている男と目が合ったりすると、向こうは一瞬ビクッとして視線を逸らせるのだった。それがどうしても理解できないパトリシアだったが、まあ良いわと、口を尖らせ気にしない振りをしていた。


 何度かそのようなことを繰り返した後、門の前に立つ二人連れの若い男がふと目にとまった。だが彼等は単に様子を見て来いと言われただけなのか、直ぐに引き返して行った。

 男達を見送った後、パトリシアは再びタブレットPCに目を戻すと、「まだのようね」と小声で呟いた。どうやら、まだそれ程時間が経っていないようだった。

 その後、パトリシアはネットサーフィンに夢中になっていた。知識を得るのに貪欲というべきか一つのことにこだわらない彼女らしく、ウェブサイトから検索をかけると、ファッションの話から料理のレシピ、今売れている書籍のランキング、科学ニュース、政治経済のニュース、娯楽ニュース、新しく発売された電化製品のニュース、と広範囲にそれは渡っていた。

 その間、香りが全くしなかった生垣に毛虫がついているのかも知れなかったので、余り近付かないようにしていた。遥か遠くから、入れたてのコーヒーの独特な香りが漂ってきた。それとはまた別のものもあった。肉の焼ける臭いと香辛料のような甘ったるい香りだった。バーベキューでもやっているのかしら、とパトリシアは思っていた。


 それからどれくらい時間が経ったのだろうか、周りのただならぬ気配を感じて、直ちにその方向へ無意識に目を凝らしたパトリシアは、一瞬きょとんとして理解した。ああそうだったの、と思った。見れば、門の周辺に集まった男達が、煙草の紫煙をくぐらせていたり、時折手元を気にしながら何かを言い合っているようだった。

 ふと腕時計を見ると午後の五時五十分を既に回っていた。ジョニー・ペンソンが話してくれた開始時間、午後四時三十分から考えて、予定を四十分以上オーバーしていた。だが、全員が異常なくらい整然と居並んでいて暴れているような者は誰一人として見掛けなかった。

 普通ならイライラして騒いでもおかしくない局面だったのに、彼等がなぜおとなしかったのかについて、どうなったのか既に結果が出ているがその後の現場検証とかその他の諸事情などでいつもこれくらい時間が掛かっているからなのね、と直ぐに納得し、パトリシアは別に気にも留めていなかった。だがその代わり、急に青年のことが心配になり、直ちにタブレットPCをバッグにしまうと、笑みのない真顔を真っ直に向けて、周りに引き寄せられるように門の方へ歩み始めようとしていた。


 ちょうどそのようなときだった。重そうな門の扉が横にスライドして半開きになった。途端にその場にいた全員が一勢に息を吸い込んだようなただならぬ雰囲気が漂った。皆、生存者が出てくるのかと思ったのだ。だがお目当ての人物は現れず、代わりに黒いひげを生やした黄色人種系の男が四人。何れも黒メガネに黒スーツ姿でぞろぞろと出てきた。内、二人は先ほど受付に座っていた人物で、他の二人は初めて見る顔だった。

 一瞬の静寂があって、やはり今回もダメだったかと、門の周りがため息に染まった。元気のなさそうな男達の後ろ姿は落胆しているのがありありだった。

 そのときパトリシアも、もしやと足取りが無意識に止まり、急に息苦しさを覚えていた。


 そのことを知ってか知らでか、四人の中で一番恰幅があり、丸鼻にふくよかな頬をした初老の男がさっそうと進み出てくると、掛けたサングラスの奥から彼等を呑んで掛かるような視線を投げ掛けた。その場に四、五十人いた無頼な人間を前にして、平気でそのような態度が取れるというのは、組織内でかなりの実力者であるに違いなく。それゆえなのか、全員が押し黙ったまま大人しくしていた。

 

 そんな男が、低音の良く響く声で、慎重に言葉を選びながら語り始めた。


「我々がこの役を担うことになって、はや一ヶ月。その間、役を淡々とこなす我々を単なる雇われ団体とみなして、血も涙もない奴だと思っていたかも知れませんが、実はそうではありません。我々も色々と辛い思いをしてきたのです。

 かような凄惨な殺人現場が見られようとは夢にも思っていませんでしたので、最初は凄い驚きでした。しかし来る日も来る日も、肉片と化した死体の処理に追われると、正気ではいられなくなってくるものです。

 毎日繰り返される地獄の日々に、我々のメンバーが多数、眠れなくなり精神的に不安定になりました。その度に薬の力を借りねばなりませんでした。

 それで我々も悩みました、この役を降りようかと。しかし一旦請けた以上は組織の対面もあり、それは叶わず、こうして続けるほかありませんでした。そうして続ける度に、依頼人の目に叶う人物はもはや現れないないだろうと思っておりました」


 男の話を誰もが息を呑んで聞いていた。その間、誰も口を挟まなかった。これはもしやと思ったのだ。

 果たして、それは的を射ていた。初老の男は抑揚のない物言いで、こう続けた。


「しかし、今日、奇跡が起こりました。かような非人道的な行為とも、とうとう終わりを告げるときがやって参りました。その対象者は……トラサルディーファミリーから出ました!」


 そう話すと、「どなたかトラサルディーファミリーの関係者はおられますか。賞金のことでお話したいことがありますので、私と一緒に来て貰いたいのですが」と立て続けに呼び掛けた。


 次の瞬間、ざわついたような喧騒が門の周辺に沸き起こった。

 お互いに顔を見合せ、やられたなのポーズを小さく取る者やうつむく者、口をヘの字に結ぶ者、舌打ちする者、吸っていた煙草を地面に投げ捨て黒光りする靴で乱暴にもみ消す者、携帯でどこかへ連絡する者、眉をひそめる者、ため息をつく者、険しい表情をする者、含み笑いする者、無表情を装う者など、人様々の反応が見られた。

 その中にいて、握りこぶしを小さく掲げたポーズをして喜んでいたジョニー・ペンソンと二人の兄貴分と、同じ頃、当の組織が陣取るテーブル席にいて、周りに気を使ってなのか大げさなリアクションはしなかったものの口元は確かに笑っていた二人の人間もどき。そして、青年の顔を浮かべて自然と表情が緩んだパトリシアを除いては、どの顔も納得していない表情だった。信用していない目だった。


「期待していたのに、残念だ。どうしてなんだ」「嗚呼、やられちまったのかよ。信じられないな」「今度こそやれると思ったのになあ……」そんな声が聞こえてきそうな雰囲気だった。


 そのような中、前持っていつものことと察していたのか、残る三人の男達が、矢継ぎ早に集団の輪の中に入っていくと、取り囲んだ男達の前で、事態の詳細を身振りや手振りを交えながら、沈んだ声で説明し始めた。そのとき、その証拠というのか、建屋の中の様子を携帯カメラで撮影してきたと思われる写真や映像を見せていた。

 しかし、中々納得できないのか、そこで初めて不満を言う者が出てきた。大人しく聞いている者でも、その白けた顔や仏頂面の内面は明らかに尋常ではないことは明らかで。

 そのような諦め切れない男達に向かって、組織の面子がかかっているから事情は分かるけど、と思ったパトリシアだったが、その後、男達はどうなったのか分からなかった。

 結果を聞くや否や,直ちに周りから嫉妬と羨望を背中に浴びながら慌てて呼びに来た男、ジョニー・ペンソンの興奮したような催促、「何、ぼんやりしてるんだ。行こうぜ。お前が連れて来た若いもんが生き残ったんだ」に従って、半開きになっていた扉の向こうへ、足早に付いて行っていたのだから。


 中が覗けないように門の真正面に置かれたコンクリートブロック製の遮へい構造物を左に避けて進むと、同じくコンクリート製の構造物が現れた。その構造物は長さが六ヤードぐらいのトンネル状をしており、入り口と出口の二ヶ所でシャッターが下りる仕組みになっていた。

 その中を通り抜けると、あたり一面が赤いアスファルトで舗装されたグラウンドが現れ、そこを三十ヤード程真っ直に行ったところに,黄色い出入り口も窓も一切見当たらない例の建物が堂々とそびえ立っていた。

 そのとき、建物の遥か上空を、V字型に隊列を組んだ鳥の群れが飛んで行くのが見えた。気が付くと、もうすぐ日が陰るのか灰色の空は鉛色に変わっていた。

 高い塀を隔てて見た限りでは建物はそれほど巨大に見えなかったのだが、改めて近くで見てみると、それはすこぶる巨大だった。途方もなく馬鹿でかいが故に、パトリシアすらも思わず見とれた。大型旅客機が何機も格納できるのではないかと思った程だった。


 とは言え彼女は途中、青年のことが気がかりで頭から離れず、他のことなど考える余裕がなかった。その証拠に、そこまで辿り着く間に何度か、「きっと大丈夫よね」と直ぐ前を歩くジョニー・ペンソンに心配そうに話し掛けていた。青年の生存が確認できたとはいえ、怪我をしていないとも限らなかったからだった。もし動けないくらいの重症だったらどうやって謝れば良いのと考えていた。その度に彼の男は、例のガラガラ声で、「さあな」と邪魔臭そうに返して来た。


 刹那。

 案内して来た初老の男の、「着きました」の一言に、立ち止まった四人が建物から赤いアスファルトの方へ視線を持って行くと、男の言わんとしたことが分かったような気がした。

 建物の一角に、スモールライトを灯した黒塗りの大型車両が複数停まっているのを発見したからだった。そこには全部で三台の車両が縦に並んで停まっていた。

 内、右側の二台は長さ二十フィート程のセダンでごく普通の大きさだった。が、最後の一台は、四十フィートはありそうな長い車両で。タイヤの数も通常の倍あり、ワンボックスリムジン、若しくはカスタマイズリムジンといった方が似合う車両だった。

 あの車に分乗して目的の場所まで行くのだと、すぐさま全員が理解した。

 ほかにもあった。三台の車の向こう側、ちょうど縁石が見える付近に七、八人の人影が立っていた。そのほとんどは黒服姿の男だったが、少し離れて裸の男がひとり立っていた。

 その裸の男を一目見て、パトリシアは青年だと確証した。他にそんな格好をしている者は考えられなかったからだった。

 なるほどそういうことかと、ゆっくりと歩み出した他の男達と対照的に、あれはもしや彼なのとパトリシアひとりが一足先に慌てて近寄って行った。すると、紛れもなく青年だった。全裸と思ったが彼は腰に白いタオルを巻いていた。しかしそれだけだった。足には何も履いていなかったし、ショートの茶色の髪は濡れていた。

 その彼が微笑みかけてきた。多少やつれているように見えたが、思ったより元気そうだった。

 普通、そのような場面では、名作映画の一こまのように、人目もはばからずに抱きつきキスの雨を降らせるのが当然の成り行きのように思えたが、そうする代わりにパトリシアは、開口一番、「大丈夫だった!」と、にこやかに笑って呼び掛けた。すると青年も笑って応えた。「はい、もちろんです」

 傍から見れば、二人の行為は、変わっているとも映る極めて素っ気ないやりとりだった。だがしかし、彼等のこの振る舞いは至極正当な行為だった。

 というのも、普段ならそういうことにならないのだが、能力者が能力を使った直後は、精神も体力も異常な状態のままであることが多いことなどから、その身体に少しでも触れようものなら、大きな事故が起こる可能性が高かったからである。

 それは、牙をむいた野生動物に、無用心にも直接触れにいく行為とほとんど変わらないくらい極めて危険なことだった。

 パトリシアも青年も、そのことを良く心得ていて、冷静に対応したのだった。


 同じ頃、青年の隣で待つように立っていた男達は三台の車にそれぞれ分乗して乗り込み、いつでも出発できる態勢を整えていた。

 一方、三人の男達というと、彼等は車の付近で立ち止まったまま初老の男と何かを話し続けていた。

 だがしかし、パトリシアは、彼等のことは目に入らないという風に、「良かったわ。ほんとうに良かったわ」と繰り返しながら、青年が嫌がるのも構わずに青年の身体を、医者の目で事細やかに見て回った。


(手も足も付いているようだし、指も五本揃ってるわ。口も目も耳もしっかり付いているようだし)


 そうしながら、深刻なことになっていなくて良かったわ。後この裸同然の格好を何とかしなくては、と思っていた。

 なぜそのような姿になったかについて、そのとき青年が話してくれた理由は、喉が渇いているから水をくれと言ったら、天井に配管が一杯通っていてそこら中に大きなタンクが並んだボイラー室のようなところに連れていかれた。そこにあった水道で喉を潤したところ、案内してくれた人から身体中が泥だらけだからついでに洗ったらどうかと言われた。それでその通りにしたら着ていた衣服も一緒に濡れてしまい、そのせいでこの格好でいることになった、というものだった。

 建物内での戦闘がいかに過酷であったかが分かるとして、そのことで迷惑を掛けたくないと青年が半分でっちあげた嘘に、なるほどと素直に信じたパトリシアは内心ほっとした。

 あと最後に残った問題は、青年の格好だった。異国の男達が乗り込んだ車を横目でにらんだパトリシアは、これだけ急ぐところを見ると、途中で替えの服を買いたいからと最寄りの雑貨店へ立ち寄ってくれと頼んでも、おそらく応じてくれないだろう。かといって裸同然で賞金を貰いに行くことは、彼が恥をかくことになる。そう考え、どうするべきか頭を痛めていた。


(ああ、そうだったわ)


 そんなとき、ある良案が閃いて、パトリシアは直ぐ目の前に停止していた一番ゴージャスな車に近付くと、運転席のドアガラスを軽く叩いた。すると即、反応があった。運転席に腰掛け前方の車の方を見ていた短髪の男が、何だと不思議そうに顔を向けると、ドアガラスが自動的に下へスライドした。黒いサングラスをはずしていた男は色黒で眉が太かった。

 すぐさまパトリシアは訊いた。


「あのう、これに乗るんですよねえ」


「はい、そうです。我々がお送りします。どうぞ、お乗り下さい」


 運転席の男から丁寧な言葉が返ってきた。


「あのう、少し聞いても良いですか?」


「はい、何でしょう」


「一体どこまで行くので?」


「それは私にも分かりません」


 不思議な答えだった。だが、行き場所が分からないというのは別の車両の運転手が知っているという意味なんだわ。こういうことはヤクザの世界で良くあることよ、とパトリシアはすぐ直感すると、更に訊いた。


「そこまでどれくらいかかります?」


「あ、それも分かりません」


「あ、そう。それじゃあ……」


 そういった短いやりとりを繰り返す間に、男は何かを察したのか、こう応えてきた。


「あ、ご心配なさらないで下さい。用事が済み次第ふたたびここに戻って来るようになっていますので」


「あ、そう。それじゃあね、手荷物を二つ持って行きたいんですけれど、よろしいかしら」


「あ、はい。それは何ですか?」


「着替えとか、ちょっとした身の回りの品が入っているんです」


「それはどこにあるので?」


「向こうの駐車場に置いてきた車のトランクルームの中にあるんです。ちょっと行って取ってきてよろしいかしら」


「それでしたら我々が代わりに取って来ましょう。車のキーをお貸し下さい。あ、それと、大体の駐車場所と車の特徴、ナンバーを教えて下さい。手の空いている者を向かわせますから」


「あ、そうですか。どうも」


「いいえ」


「それじゃあお願いします」


「あ、はい」


 ニヤッと口元を緩めた運転席の男へ同じように微笑んで見せたパトリシアはさっそく、今所持しているメインキーは個人データが入っているので渡せないが予備のキーなら車の車体に隠してある。車を駐車したおおよその位置はこれこれしかじかで、目印として近くに木が生えている。車は白の小型のセダンで。但しレンタカーなのでナンバーは憶えていない、と聞かれたことを男に伝えた。

 すると男は直ちに正面を向くと、ダッシュボードから携帯を出し、どこかへ連絡を取った。直後に、先頭で駐車していた車両が右にウインカーを点滅させると、急発進して行った。そしてものの一分もしないうちに車が戻って来たかと思うと、口ひげを生やした若い男が、五日間程度の外泊ができそうな満タンに膨らんだ赤いボストンバッグと黒い衣装カバンを同じ手に持ち運転席から下りてきた。

 男はその二つをパトリシアに手渡すと、何も言わずにまた元の車に戻っていった。

 受け取ったパトリシアは、そのふたつの内、ボストンバッグの方を青年に開けてみせた。中には500ml入りのミネラルウォーターのボトルが六本とブドウ糖粉末。タオル三枚。芯なしのトイレットペーパー四個。男女の下着が各三セット。ユニセックスの衣服並びに履物が六セット。各種ビタミン、医薬品。アーミーナイフ一個。洗剤。ビニルシートが入っていた。

 それらは、万が一何かがあった場合に備えて彼女が普段から準備しておいた非常用の荷物だった。そういう訳で、良く見るとバッグの持ち手の部分は、リュックのように肩へ担ぐことができるようになっていた。

 パトリシアはその中から男性用の下着とユニセックスのパーカーとパンツのセットとサンダルを取り出すと、その場で青年に着用させた。後は運転手に言われたように車に乗り込むだけだった。

 ところでパトリシアの良案とは、幾ら自分の頭で考えても良い考えが浮かばないときには他人から良案につながるヒントを得るというものだった。そのときの良案のヒントは、運転手の男が言った、「ふたたび戻ってくる」だった。そこから乗ってきた車を連想し、すぐさまトランクルームに入れておいた荷物へ行き着き、それから中身に確かユニセックスの衣類が入っているのを思い出したのだった。ただ少し予想外といえば、男物の下着が入っていたことだった。というのも、中身を取り揃えたのは五年以上も前のことで、全ての詳細をはっきり憶えていなかったからだった。でも嬉しい誤算だった。


 着替えを済ませた青年とパトリシアは、さっそく頃合いを見て、運転席・中座席・後部座席と三列の座席が並んだ定員十一人乗りのセダンの中座席部分へと乗り込んだ。

 その室内は、さすがにリムジンだけあって、これまで見たことがないこしらえだった。

 例えば、中の収納能力がそうだった。通常の車両の二倍以上の空間を取ってあり、平均的な大人が五人、楽に横になることができるスペースがあった。また天井は普通に立てるぐらいの高さを持っていた。

 豪華さもだった。天井部には細かい細工が見事なシャンデリア風の照明が付いていたし、足元に敷かれたモスグリーン色のカーペットは重厚感たっぷりだった。またガラス面を除く全ての箇所に、飽きのこない洒落た花柄模様の壁紙が貼られていた。更には左右のサイドドアや前座席との間切り部のガラス部分は最先端のプライバシーガラスを採用してあった。

 利便性も優れていた。座席のシート部分はやや硬めで長時間乗っても疲れ難い材質のものが使われていたし、そのシートに連結したフットレストが持ち上がる構造になっており、ゆったりとくつろげるようになっていた。

 もちろん、その他にも長時間の乗車が苦にならないように付属の設備も充実していた。例えば、システムデスク、ノート型テレビ、ゲームソフトと映画ソフトが多数入った端末機、ゲームコントローラーなどが備え付けてあった。ただ、冷蔵庫やアルコール類は装備されていないのが唯一もの足りないことだったが……。

 だが、それを抜きにしても至れり尽くせりの環境と設備が整う室内だった。


 二人が座席に着いてから一分もしない内に、黒服姿の二人の男が急ぐように乗り込んで来た。黒いサングラスを掛けた初老の男と縁無しメガネを掛け顔に派手な刃傷痕がある男、ジョニーだった。ジョニーは、それまでしていた白い手袋をしていなかった。

 そのときパトリシアは、残りの二人は別の車に乗り込んだのね、と思ったが、どうも事情が違っているようだった。他の二台に乗り込んで出発の準備を終えていた男達も一緒に移ってきたからだった。

 意外な事態に、さっぱり意味が分からないわ、とパトリシアは呆然とした。だが車は、彼女の気持ちなどお構いなしに、総勢十人を乗せると直ちに発進した。そのまま建物の周囲を周回すると、途中で地下道のようなところを通り、いつの間にか敷地を出ていた。どうやら一台だけで行くことになったらしく、後に続いて来る車はなかった。

 時刻は、午後の六時半を少し回った頃。夕闇が徐々に迫っていた。


◆◆


「……ほんと。一体、どこまで行くのかしら」


 パトリシアは思わず呟いた。

 建物前を出てから、既に二時間余り経っていた。

 車は、灯りらしいものがほとんど見当らない山路へと入っていた。気が遠くなるぐらい長いトンネルに入り、つい今しがたそこから出てきたところだった。対向車に出会うこともなく、ただガードレールと道路標識が時折、車のライトに照らされ過ぎ去っていくのみで、どこまで行っても暗い闇が広がっていた。目的地まで随分と時間がかかっているようだった。

 薄暗い車内は静かだった。

 そのような中、彼女は、目の前にでんと据え置かれた100V型大型スクリーンの画面をじっと覗き込みながら、コンピューターを相手に頭脳系ゲームである囲碁をしていた。

 それらは何れもこの車両に標準装備されていた備品で。大型スクリーンは、普段は天井部にロール状に巻かれた状態で収納されており、ボタン操作一つで天井部から下りてくる仕組みになっていた。またゲーム器機自体もコンソールボックスにあったものだった。

 もうかれこれ四十分近くやっているのであったが、慣れない手付きでコントローラーを操作していたことや、余りやらないこともあって考えるのに時間がかかり、初歩レベルに設定してあったにもかかわらず中々手が進んでいなかった。

 そのとき局面は大模様に入っていた。パトリシアは手を止めて考え込んでいるところだった。

 右隣の青年はパーカーのフードを頭にすっぽりと被ったまま爆睡していた。相当疲れていたのか、薄目を開けたまま頭を窓際に向けてシートへ腰掛け、生きているのか死んでいるのか分からないぐらいぐっすり眠っていた。

 車に乗り込むまでは気丈に振舞っていたのだが、シートに座った途端にこんな風になってしまっていた。

 一方、人二人分ほど離れた運転席側の窓際の方では、ゆったりとシートへもたれかけた初老の男が、寝息をたてているところを見ると眠っているようだった。だがそれだけでは本当に眠っているのか、相手は車に乗り込む総勢七人の男達の中で一番地位の高い人物だけに、はっきりと信用はできなかった。

 ところで、ジョニー・ペンソンはというと、彼は既にいなかった。正しくいえば、ここまでやってくる途中でひと悶着あって、途中で下車していったというのが真相だった。


 事の起こりは、遡ること一時間余り前の、出発して十四、五分経ったとき。そのころ車は国道一号線へ既に入っていた。

 片道四車線の幹線道路は、土曜日の夕方とあって、信号がそれほどないにもかかわらず、行き交う車で混んでいた。

 車窓から円筒形の建物を一度も見かけなかったことと、目前に青黒い色をしたなだらかな山々の輪郭が延々と続いているのが見えていたので、車はどうやら国立公園の入り口方面へ向かっていることはほぼ間違いのないようだった。

 そのような中。車中では頬に派手な刃物傷がある男、ジョニーが、恰幅がある初老の男相手に、「いつこちらへ来られたので」とか「総勢何人ぐらいで来られたわけで」とか「ご家族は」といった風な、できるだけあたり障りのないような話題を選んで機嫌よく話し掛けていた。

 だがよく見ると、組織の実力者の貫禄というべきか堂々とベンチシートへ腰を下ろす初老の男を、所属する組織が違えども明らかに格上と見なしているのか、話を盛り上げようとしたり、遠慮がちにへりくだった言葉使いをしたりして一生懸命に愛敬を振りまき、相当気を使っているようだった。

 そうしながら、時折、これから向かう場所に興味津々といった風にきょろきょろと車窓から周りをうかがい、どこか落ち着きがなかった。

 それに対し、初老の男は大物の余裕なのかふくよかな頬を黒いサングラスの下から緩めると、ざっくばらんに受け答えしているように見えて、適当に受け流しているようにも見えていた。

 ところでパトリシアといえば、ちょうどそのとき隣の席でいた彼女は、素知らぬ顔で窓の外をぼんやりと眺めながら、自然と入ってくる二人の会話に耳を傾けていた。それでいて、ほぼ一方通行的に喋り続ける男に、どのようにして話し掛けようかと機会をうかがっていた。

 正直なところ、彼女には目的地に着くまでにどうしても確かめておきたいことがあった。

 それは本来支払われるべき賞金のことで。青年が寝込む前に話してくれたのには、三十万ドルが偽りのない額ということだったが、彼女が彼の男、ジョニーから聞いた話では十五万になっていたからだった。

 もし仮にでも、本来三十万ドルの賞金を十五万ドルと男が誤魔化し、残りを懐の入れようとしたのなら、これは絶対に許せない酷い話と言わざるを得なかったが、男も兄貴分から事実を聞かされていなかったとすれば、男も被害者であって悪くないことになる。

 ここは慎重にいって納得できる答えを男から引き出し、それからどうすべきか判断しようと考えていた。


 パトリシア達やジョニー達がいた中座席は運転座席側並びに後部座席側に仕切りの壁が設けられ、一種の個室のようなものになっていた。仕切りの壁は後部座席側では完全な壁だったが、運転席側の方の一部はガラス面となっており、そこを通して前方の景色や運転席を見渡すことができるようになっていた。

 折りしも、初老の男に媚を売りつつ、他所のマフィアの噂話やら動向などを旨く聞き出したところだった男は満足げに微笑みながら、今どこへ車が向かっているのかを確かめるため、視線を正面へと向けた。

 すると車は、水量がほとんどなかったがかなり川幅があった河川に掛かる橋をちょうど渡り終えると、そこから枝分かれしていた二つの路線の内、交通量が少ない方に進路を取っていた。


「シャブリ川を渡り迂回をせずに山手へ向かっているところを見ると、ニベツ・シャトー国立公園へと向かっているようですね」


 そう話し掛けながら、男が車両の遥か遠方に見えていた白いモヤのようなものがかった山々の峰と、その直前の見渡す限り岩だらけの原野を機嫌よく眺めて、視線をさらに間近に移したときだった。目を疑う光景が運転席で起こっているのに気が付いたのだった。

 思わず男は本来の自分に戻って、運転席へ向け叫んでいた。


「おい、運転手さんよ! ちゃんと前を向いて運転しろよな。危ないじゃないか!」


 運転席側には三人の男達が乗り込んでいた。内、二人は後から来た者達で、先の建物の前に放置してきた二台の車両の運転手だった。二人はこの車両の運転手と比べると明らかに若く見え、共に黒いサングラスを掛けていた。

 運転席のすぐ横のボードには12V型カーテレビが標準で据え付けられており、有料チャンネルらしき番組がやっていた。

 映像は彼等の母国の放送らしく言葉は理解不能だったが、二フィート近い高さの白い帽子を頭に乗せたコックが一般家庭では目にしないような高級な肉や無菌野菜や珍味をふんだんに使った料理を、品の良いアシスタントの女性を相手に作っていたところを見ると何かの料理番組だと思われた。

 彼等は揃ってフロントガラスへと投影されたその立体映像に釘付けになっているようだった。そこまでは別に問題がないことだった。だが要は運転手の方だった。 後ろ姿から判断して車の運転をしていた男もどうやら一緒に覗き込んで見ているようだったのだ。しかも男はそうしながら、片方の手にハイブリッドパイプ(パイプの形状をした一種のフィルターで、通常の紙巻タバコを装着して吸う喫煙具)らしきものを持ち優雅にタバコをふかしていた。

 それを見る限り、運転手の男がハンドルから手を離しているのは火を見るより明らかに思えた。

 そのとき呼び掛けられた方は、バックミラーを通して後部座席側の異変に気が付いたのか、それとも声でそれとなく分かったのかそれは定かでなかったが一旦ちらっと振り返る姿勢を見せた。だが何を言われているのか理解できていないというか、なぜか平然としていた。そのまま何食わぬ顔で隣の席の若い男二人と母国語で一言二言呟くや、男の呼び掛けを無視してフッとタバコをふかしたかと思うと、再びフロントガラスに映るテレビ画面を見始めたのだった。


「おい、聞いているのか!」 


 間違いなく運転手がハンドルから手を離してよそ見をしているとそのとき確認した男は、運転手の極めて危険なその行為に、つい我を忘れてきつく叫んでいた。

 だが運転手はその声を無視したようにテレビの方へ目をやっていた。


「おい! 運転手」


 いてもたってもいられなくなった男が、「この野郎、死にてえのか。馬鹿!」と即座にシートから立ち上がり掛けたそのときだった。

 

「黙ってお座り下さい!」


 なだめるより寧ろ命令口調のドスの効いた低い声が男の傍らから突然響いた。初老の男からだった。瞬間、どういう意味なのかさっぱり分からず、思わずたじろいだ男に、初老の男は落ち着き払った声色で尚も続けた。


「驚かれたのも無理ありませんが、あれは心配いらないのです」


「え、どういうことです」一瞬きょとんとした男は初老の男の方をうかがった。


「実はこの車両には最新鋭のナビシステムが付いていましてね、オートにしておけば運転手はただアクセルで速度を調整するだけで良いのです。後は、ナビシステムに組み込まれたコンピューターが人の代わりをして自動的に目的地まで運んでくれるという次第です。そういうことですから運転手はあのように気楽にしていられるのです」


 そう説明した初老の男に、「ほう」と男は感心したように頷いた。


「そうすると、目的地までどれくらいかかるということも……」


「ええ、我々にはさっぱり見当がつきませんな」


「えへへ。そうですか……」


 予想した答えが返ってきたことに、やはりなと愛想笑いを浮かべた男は、そのまま自問した。すると、俺はかごの鳥という訳か。

 全くもっていまだに目的が分からないこんな馬鹿げた殺人ゲームをわざわざ企画し、そのアシスタントとして異国の者達を雇い、しかもそいつ等に居場所さえ教えていない用心深い黒幕。秘密主義もここまで徹底していると相当ヤバいことに違いない。

 おまけに、あそこにあんな大がかりな施設があったのを、兄貴達を始め、組織の誰もが見たことも聞いたこともないという話だし。それどころか警察さえつかんでいなかったと情報通のダチも言ってたからな。やはりあの噂は本当かも知れないな。それなら全て理屈が通るんだが。でもまさかだぜ。

 ……政府系の秘密機関か!? そこがもし関与しているとしたら、やばいというもんじゃないぜ。

 もし噂があたっているとすれば、この催しは政府系の秘密機関が有用な人材を確保するためにやったことで。その理由は、時間をかけて人材を育成するより、外部から有用な人間を募る方が金も掛からない上に手っ取り早いから。或いは、何かの事情で秘密機関に欠員が出て、余程緊急に補充しなければならない必要ができて、それでこんな荒っぽい手段に打って出た……。

 そう考えると結局、向こうが必要としているのは生き残ったあの男だけで、賞金目当ての俺のような用のない人間は、このまま連れて行かれた先で秘密を守るために……。あそこならやりかねないからな。

 嗚呼。俺が賞金の半分をせしめようと持ちかけたとき、二人共喜んで賛同してくれたのによ。いざとなったらこれだ。

 あのとき、兄貴達が、「あなた方の依頼人は一体誰なんだい」「もう喋ってくれても良いだろう?」と尋ねたところ、初老の男が、「さあ」とそのときでもまだとぼけたのは、何も知らされていないからそう答えて誤魔化したということか。あれはうかつだった。

 何もかも全て俺が段取りをしてやって、一緒に行こうとせっかく誘ってやったというのに、急に兄貴達が、やぶ用ができたといって行くのを辞退して俺だけを行かせたのは、そのことを予見して危ない橋は渡りたくないと気が変わったという訳か。兄貴達も人が悪過ぎだぜ。

 

 男の頭の中に嫌な予感が巡っていたときだった。それまで男に付き合うように無言だった初老の男が、急に思い出したように口を開いた。


「ですが、我々は操り人形ではありません。契約に盛り込んであるのでそうしているのであって、その点は勘違いなさらずに頂きたい。我々もある程度の自由が効くのです。そうでなければ、我々もやってられないし、請けることもなかったと思います。

 ところで、あれらが熱心に料理番組を見ていたのはなぜだかお分かりかな。実は指示してああやらせているのです。

 この時間帯頃になると、いつも全員で手分けをして死体の処理にあたっているので、みんな乗り物酔いしたみたいにその後食欲が無くなるのです。ですからそうならないようにと、暇を見つけてはコメディなどの気分転換に良い番組を選んで見るように伝えてあるのです」


「ああ、なるほど。そうだった訳ですか」


 分かった振りをして、そう応えた男だったが、初老の男の話などほとんど耳に入っていなかった。

 建前はパトリシア達の後見人として意気揚々と車に乗り込んだものの、このまま行けば十中八九生きて帰れないかも知れないという危惧に、金も大事だが命も大事だと、どのようにすれば面子を保ったままここから上手く逃げ出せるかを考えるのに精一杯であったからだった。


 それ以後二人はお互いに話し掛けることもなく、車内は少しの間ひっそりとしていた。パトリシアが待ちに待った瞬間だった。

 ふいにパトリシアは振り返ると、うつむく男の横顔を覗き込んだ。すると、普段なら横柄に足を組んでいそうな男だったが、このときばかりは隣の初老の男に遠慮したのか行儀よく足を揃えて腰掛けていた。


「ねえ、ジョニー。訊いてもいい」


 彼女は遠慮がちに話し掛けた。

 すぐさま、「何だ」と邪魔臭そうな男の声が返ってきた。さっそくパトリシアはメガネを掛けた目を少し瞬かせると、「賞金のことだけど」と、下を向いたままの男に言った。


「確かなところから私が聞いた話なんだけど、元の賞金は三十万ドルだったというじゃない。確か、あなたはあのとき、半分の十五万ドルと言ったわよね?」


「うっ」


 瞬間、喉に痰が詰まったような唸りを上げた男は、放心状態から覚めたようにパトリシアの方をじろっと振り返った。人が重要な考え事をしているこんなときに何を言ってくると思ったらそんなことか。


「あー、それがどうした」


「あー、それがどうしたってことはないでしょう」パトリシアは憮然とした。少し語気を強めて言った。


「それは本当のことなの?」


「ああ、本当のことだ」面倒臭いという風に男が言い返した「それがどうした」


 男の平然とした態度にパトリシアは苛立つ感情を抑えると穏やかに言った。


「どうしてそんな嘘を言った訳?」


「嘘じゃない。お前の取り分が十五万だと言っただけだ。おい、文句があるか!」


 初老の男に対しての言葉使いとは比べものにならないぞんざいな口調だった。これこそいつものこいつよ、とパトリシアは呆れた。


「でもね、余りにもあくどいんじゃない。賞金の半分を持って行くなんてどういう条件よ。どう見ても常識からずれているんじゃなくて」


「ああ、そうかな? 俺はちっともそうは思わねえが」


「あなたの常識はどうなっている訳?」


「常識? それを言うならお前こそ良く考えてみろ。あのとき、お前もそれで納得した筈だろうが。しかも契約はそこで終わってる。お前が今更騒ぐこと自体がお門違いじゃないのか」


「何ですって!?」


「お前だって債権を安く買いつけて儲けているそうじゃないか。そんなお前が既に契約が完了している問題に今更ケチをつけてくるなんてよ。お前らしくないぜ」


 男が言及したのは、副業として彼女が裏社会でやっていた経済活動のことだった。彼女は年に一から二度、債権回収の仕事をしていた。

 それとよく似た裏の職種に賞金稼ぎというものがあった。賞金稼ぎは懸賞金を掛けられた人物を探し出し、捕獲したり殺して賞金を依頼者若しくはその代理人から得るものであった。それに対して債権回収とは、当事者、つまり債務者(金銭の借り手側)から金銭などの取立てを直接行うもので、場合にもよるがどちらかと言えば、相手を殺してはいけない分、賞金稼ぎより危険で難しい面もある職種だった。だがその反面、見返りもそれ相応に良いものとなっていた。

 ちなみに、裏の債権回収には大きく分けて、債権者(金銭の貸し手側)若しくはその代理人たる債権回収業者が回収困難と判断した業務を代わって請け負い成功報酬を得る場合と、債権を回収困難と見た債権者若しくは債権回収業者がそういった債権を売買できる専門の市場に安く売ったのを直接買い取り、額面に見合う額を債権の債務者から回収し、買ったそのときの額を差し引いた差額分を利益として得るという場合の二つがあった。彼女が携わる債権回収とは後者であった。

 その中でも彼女が扱う債権は、債権が一まとめ幾らという具合にセット販売されているムジーク債権と呼ばれる債権の類に属し、全て回収不能という大きなリスクもあるがその中の一つか二つが回収できれば十分利益が見込めるというハイリスクハイリターンをうたう商品だった。

 それもそのはず、その回収する相手というか債務者が特殊で。

 武力や法や組織力を背景にふんぞり返り、返す能力があるのに全く返そうとしない裏社会の業界人。  

 そう言った彼等とつながりのある悪徳金融業者、悪徳法律家、悪徳資産家、悪徳公務員。

 話し合いがまず通じない精神異常者、殺し屋、犯罪者、不良外国人。 

 居所が不明か定まっていない上に理屈が通じず。力ずくでなければ回収不可能な住所不定の無頼者、詐欺集団、各種工作員(テロリスト)などで占められていたからである。

 また彼女が年に一度か二度しか債権回収の業務を行わない理由は、ムジーク債権の特殊性にあった。


 年に一度から二度ぐらい、大手の債権者や債権回収業者が、連携と親交を深めるためと称して一同に集結し、二、三日間の短い期間であったが手持ちの債権を多数持ち寄り、交換会のような催しを例年開催していたのであるが、これと併せて不良化した債権の見本市のような催しも同時に行い廉価販売の一掃セールを実施していた。

 そこでは、元の債権価値の一割から三割という相場で債権を買い付けることができるというので、全国から債権を取り扱う関係者が集まり、お祭り騒ぎのように賑わいをみせていた。

 そのときの時期だけに他の債権と併せて出品されるのが、取立て期限が一週間から一ヶ月と短く、期限が過ぎればただの紙屑になってしまう債権ばかりを一まとめにしたムジーク債権だったのである。

 その意味で、ムジーク債権は、業者の間では一か八かの勝負手の債権であった。

 ところがパトリシアは違った。一昨年頃からやり始めて以来、彼女の年収の約八割がこの仕事の報酬で占められるようになっていたのだから。

 つまり、買い叩いたような安い価格で買った債権でぼろ儲けしている彼女を知っていたのか、男は、自分は半分をピンハネしたが、お前はその上を行く七割から九割方儲けているじゃないかとやゆしたのである。


 見下す視線でそう言ってきた男にパトリシアも負けてはいなかった。


「それとこれとは話は別じゃない。話をすり替えないでくれる。先に言っておくけどね、私はあなたが思っているような あくどいまねはしていないつもりよ。あなたみたいに善良な市民に強盗や殺人をやらせたり、自殺に追い込んだりしたことはないわ。

 ただ私のは相手が相手だけに、あなたが扱ってる安易でリスクの少ない債権と違って非常に根気と体力がいるのは間違いのないことだけどね。

 私が取り立てる顧客の多くはね、出せるのに出す気が全くない奴だとか逃げ回っている奴。身から出た錆というか追い込まれるような浪費をした奴とか、もう生きていてもこの世に役立たないろくでなしの人間。あとは警察関係者よ。

 何れもろくなもんじゃないわ。みんな、世間を舐め切ってるというか本質的にお金を持つ資格がない奴ばっかり。放っておいたらお金が可哀そうと思ってね。

 ……ま、言ってみれば、そいつ等に世間の常識を少し教えて上げているといったら良いのかしら」


「ふん。良く言ってくれるじゃねえか」


「私がつかんでいる情報じゃ、借金のかたに薬の密売や密輸の片棒を担がせることはいうに及ばず、人身売買にまで手を広げているらしいわね」


「どこで仕入れた情報か知らねえが、俺はそこまでやっちゃあいねえよ」


 内心穏やかでないというのか、男の横長の目と薄い唇が更に細くなり線のようになった。今にも暴力を振いそうな様相だった。そんな男をパトリシアはにらみつけると更に問い詰めた。


「嘘言いなさい。ちゃんと顔に書いてあるじゃない」


「何を!」


 そう言うなり、脅すようなボディアクションを突然見せかけた男に、パトリシアの顔色がすっと変わった。「ふん。声が大きいわよ」と居直るとすぐさま畳み掛けた。


「いつものように暴力を振う気? あなたって直ぐに手を挙げるそうね、例え女、子供であっても容赦なくね。

 ああ、良いわよ。振えるものならやってごらんなさい。そんなことをしたら私の用心棒が起きちゃうわよ。そうなったら黙ってないわ。幾らあなたでもどうなるか……」


「ちっ」


 青年のことをちらつかせたパトリシアに、思わず舌打ちした男は、「くそったれー」と捨て台詞を呟くや、下にずれたメガネの位置を少し上向きに修正すると黙って横を向いた。余程いらいらしていたらしく目は吊り上ったままで。 

 その様子を見たパトリシアは、相当効いたようねと、内心苦笑した。そして、すました顔で言った。


「それにしても随分とあくどいんじゃなくて。私がここで言いたいのは、悪党なら悪党なりに礼儀というものがあるでしょうということよ」


「ふん。がらにもないことを言うじゃないか」目を逸らしたまま、男は不満そうに応じた。


 それを、相変わらず口の悪い男だわね、とパトリシアは眉をひそめた。


「とにかくね、そういう事情が分かった以上、契約は白紙にして貰わないとね」


「そりゃだめだな。もう決まったことだ」


「なぜだめなのよ。行くべき先約が既にあるっていうこと?」


 問い詰めたパトリシアに、男は邪魔くさそうに呟いた。


「いいや、そういうことじゃない。こっちも色々と金が掛かっているのさ。

 えーと、言ってなかったか、人集めに金が掛かることを。その費用は当然、全部自前だ。俺と兄貴達で工面しなきゃならない。上は命令はするがそれに掛かる費用はこれっぽちも出すとか言って来ない。従ってこっちが全部持つしかないのさ。分かるか、この意味が。

 半分の十五万は、俺と兄貴達が人材を探すにあたって事前に相談して決めた、紹介料や通信費や成功報酬を含めた費用だ。多いように見えるが俺達だって損ばかりしてられないのでな。儲けるときは儲けさせて貰わないとな」


「そう言われてもね。私は理不尽なことをこれっぽちも言っていないつもりよ。それはあなただって分かるでしょう」


「ああ。だがな、俺だけの一存でそう勝手に変更できないんだ。それを分かってくれ」


「でもね、あなたからその理由を言ってくれれば良いのよ。そしたら向こうも、渋々であっても納得してくれるんじゃなくて」


「嗚呼、ダメなものはだめだ。どう言おうがな」男は悪びれることもなくはねつけた。


「なぜよ?」


 そう疑問を不満そうに投げ掛けるとパトリシアは尚も自論を展開した。それから暫くの間、いつもの強硬な態度から少しトーンを下げ気味に話すようになっていた男と妥協のないやりとりが続いたのだった。

 二人が熱心に話している間、初老の男は窓側の方を向いて聞いていない振りを続けていた。だが自然と耳に入ってくるものはどうしようもなく。話の筋からいって、二人は仕事仲間で、賞金の分け前を巡っての話し合いのようだな、と思っていた。また、お互いにもめているような様子から、実に醜い争いだとも内心感じていた。

 そうしている間に、やったことといえば、かかってきた携帯のメールに返事を書いたことぐらいのものだった。そのメールは前の席の運転手からだった。

 メールは、――もう直ぐ行くとドライブ・インがある。それ以後は暫くの間ない模様。このまま行くと目的地まであとどれだけ時間が掛かるのは分からないから、途中で車をドライブ・インに乗り入れてトイレ休憩を兼ねファストフードでも購入しては? といった内容だった。彼はすぐさまゴーサインを出していた。

 その後初老の男は、二人の会話をあずかり知らぬこととして知らんぷりをずっと決め込んでいた。だが、急に思わぬところからそうもいっていられない事情ができ、二人の争いの渦中へと巻き込まれることとなった。

 それは隣の席の男、ジョニー・ペンソンの一言、「こうなったら俺も組織の人間だ!」からだった。そのとき彼は、パトリシアの口数と、彼女流の理詰め論法と、彼女の使用人ズードと眠っている青年をだしに使った心理的な脅迫にほとほと手を焼いていた。

 パトリシアにやり込められ言葉に詰まるごとに話題を替えてどうにかこうにかその場を切り抜けていたが、とうとうこらえ切れなくなって目を泳がせると初老の男の方へ助けを求めてきたのだ。

 そのときの男は、苦虫を噛み潰したような気難しい顔でベンチシートから身を乗り出し腕組みをしていた。一度、足も組もうとしたのだが、直後に隣の初老の男のことを思い出し、そうできずにいた。


「このままじゃあ埒があかねえから、横に居られる方に、どっちの言い分が正しいか、第三者として白黒をつけて貰おうじゃねえか」


 捨て鉢に言い放った男の文言に、パトリシアも勢いがてら後に引けぬと従った。


「ああ、良いわよ。望むところよ」


 それを聞いたとき、初老の男は迷惑な話だと思った。が、「すみませんがどちらの言い分が正しいかおっしゃって下さい」と二人が声を揃えて言ってくるものだから、仕方ないかと黙って頷くと、ありのまま感じたことを、低音の良く響く声で伝えた。

 実際に行為を行った者が総額の半分しか受け取れないというのはおかしいじゃないかとするパトリシアの申し立てについての初老の男の見解はこうだった。


 同業者間での取り引きについて、お互いに同じ業界で身を立てる以上は、著しく配慮に欠ける行為をできるだけ慎まなければならない。というのも、配慮を欠いた行為をした方は、業界の通例に従い、直ちに信用を失い、いずれどこからも相手をして貰えなくなるからだ。そうなると、その最後に待っているのは、身を滅ぼすという哀れな末路だけだ。

 これは個人の場合にもあてはまる。もしそのようなことが普通にまかり通るようになれば雇用者側と雇用側の信頼関係が薄れ、もはや主従の関係すら無くなってしまう。

 拠って、欲に任せてお互いの信頼を損ねることを働いた方は大いに反省すべき点があるだろう。

 とは言え、今回に限っていえば、契約の手続きの証拠が携帯の記録に残っている以上、全額の返還要求は無理なように思われる。ここは、過失の割合によって按分して金額を決めていく方式がどちらの側にとっても公平な判断だと思われる。


 そうして初老の男の仲裁によりジョニーから取り戻した金額は、パトリシアの不満が大いに残るものとなった。何しろたったの五千ドルしか取り戻せなかったからである。残りの十四万五千ドルは、残念ながら男の主張がほぼ認められた形になって戻って来なかった。

 パトリシアは直ちに目を疑った。


「十五万と言ったのは、あれは間違いだった。本当は三十万だ。すまなかったな」と、てっきり謝りを入れてくるものだと思っていた。それなら許して上げて、一割の三万ドルぐらいまでなら紹介料・仲介料として妥協しても良いと思っていた。それなのに男の発した言葉はとても許せないものだった。それで初老の男に仲裁を頼んだのに、出た裁定はとんだ見込み違いになった。こんなはずじゃなかったのにと納得いかなかった。男同士で申し合わせたのかと逆恨みした。

 初老の男に指摘されたように、あのとき十五万ドルという中途半端な金額に疑いを持たなかった自身の粗忽さに呆れた。

 命懸けの仕事に、幾らなんでも十五万ドルはあり得ないだろうと皮肉った男の発言にも一理あると反省した。

 しかし、騙しにやってくる奴も悪いと思った。騙して良いことと悪いことがあるのよ。二人はその分別がついていないのよと、いつまでも合点がいかなかった。


 ではなぜパトリシアが賞金の全額三十万ドルにそこまでこだわっていたのか。その訳は自身へのやりきれなさだった。青年から聞いた話では、本人は運よく生き残ったけれど、同じように参加した他の七人は全員死んだということだった。それだけ命の危険があったとは夢にも思わず青年を行かせた行為を凄く反省した。その償いをできるのはお金でしかない。だがこのままでは本賞金の半分が男に渡ってしまうことになってしまう。それを取り戻すことが自分の使命だと思っていた。取り戻して、「全てあなたのものよ」と青年に渡すつもりでいた。それがせめてもの償いと思っていたのだった。


 そのような思いがあったパトリシアには、不服の判定が下ったあとも諦める気はさらさらなかった。

 隣でニヤッとする男を横目に、即座に寄りかかっていたシートから身を起こして、初老の男へ何かを言い掛けようとした。

 だが先に初老の男の丁寧な説明がそれを遮っていた。


「これからの予定ですが、一旦ドライブ・インに立ち寄り、トイレ休憩を行おうかと思っています。滞在時間は、そう十分ぐらいの予定です。ついでにそこでファストフードか何かを購入して車内で食事をして貰おうかと考えています。

 まことに恐縮ですがそれで我慢願いたい。我々の雇い主を待たせるわけにいかないのです」


 と、突然話題を替えたのだ。彼の落ち着いた説得力のある話し振りに、パトリシアは一瞬戸惑った。その間隙を突くように横から男が初老の男へ、「はい、分かりました」とにこやかに微笑んだ。

 すると車は、図ったように急にスピードを緩めた。ふと視線を前方に転じると、運転手がハンドルを握り運転していた。もうその頃には、辺りは暗くなっており、車はヘッドライトを点けて走っていた。それから間もなく、信号もないのに右に曲がった。どうやらドライブ・インへ入る道筋に進路を取ったらしかった。腕時計を見るともう直ぐ午後の八時になろうとしていた。言い掛けたことをパトリシアはぐっと飲み込まざるを得なかった。やれやれと安堵していると思われた男に向けて、「このペテン師野郎め。憶えていらっしゃい。あんたはどうやら人生の選択を誤ったようね。もうそれほど人生は長くなくてよ」と心の中で毒突くのと引き換えに。


 二階建ての白い店舗は全面ガラス貼りになっていた。軒下のサインボードや外壁に掛かった看板は星やハートの形をしたイルミネーションで飾られていた。その店内は、明るいオレンジかかった黄色に包まれていた。

 店舗の前面は広いアスファルトの駐車場になっており、ドライブ・インであることを示す白い立て看板が駐車場の外れと道路の路肩側に見えていた。当日は週末の夜であったこともあり、駐車場は乗用車やスポーツトラックや二輪車であふれていた。 

 店舗と駐車場の付近だけが明るく、その以外は意外と暗くて何も見えなかった。しかし車のヘッドライトに照らされてちらちらと深緑色の樹木が見えることなどから、周りには木々が植えられてあるようだった。

 そのような中、車はほぼ満杯と思われた駐車場を通り過ぎるとトラックやバスなどの大型車両が専用に駐車する一番端のスペースへと向かい、高速バスが一台駐車していたちょうど横に止まった。

 すぐさま、まだ眠ったままだった青年を除く全員が下車すると、用を済ましに掛かった。パトリシアもジョニーも初老の男も一旦下りていた。

 トイレの施設は店舗のほぼ真横にあった。レンガ積みのサイロのような外観をした円筒形の建物で、使用料は無料だった。

 その間、 全員が黒服にメガネといった出で立ちだったが誰にも出会わず、何も起こらなかった。そして、ものの二、三分で、共に二十歳前後に見えた二人の若い男だけを残し、残りの者は速やかに車へ戻っていた。

 居残った二人が向かった先は店舗の中だった。選ばれて食料買い付け係に指名されたのだ。


 中に入ると、その直後の右手側に二階へ上がる階段があり、右奥の方にカウンター席。その手前と左側に丸テーブルが十四、五脚置かれていた。

 このドライブ・インの建物には、合計で五つのファストフードの店が同居して営業していた。一階はポップコーン、ドーナツ、ホットドッグなどの菓子類と各種ドリンクを店頭販売する店と多国籍料理の店とタコスの専門店の三店。二階はラーメン店とマントウ(蒸しパン)を売り物にする中華料理店が入っていた。いわゆる、同一の施設に同業種が複数入る複合化という形態である。客は注文した料理を持ち帰っても良いし、店内でイスに腰掛け食べても良いというシステムだった。

 屋内は、車の運転手や営業マン達より寧ろ、若い家族連れや老若男女のカップル、若者のグループで賑わいを見せていた。そのような中、二人は向かって左側の隅で営業をしていた店の方へ進んだ。タコスの専門店だった。

 黒服に黒いメガネ、浅黒い顔に口ひげやあごひげを生やした二人の姿は、往年のギャングそっくりで、明らかに回りから浮いていた。が、彼等はいずれもほっそりしていて背が高く、凛々しい顔付きから若く見えたことが幸いした。

 二人は、実は海外留学生で、賭けか何かの罰ゲームでこんな馬鹿げた仮装を夜中にさせられているのだろうと、そこにいた誰もがそう思い込み、一人として驚くことも疑いの目を向けることもなかったのである。

 そのような訳で二人は平然と店頭に並ぶと、携帯のメールで車の方と交信しながら、魚のフライ、ジャガイモとウインナー、アボガドとひき肉、アボガドとエビ、チキン、野菜とチーズと手際よく注文をこなしていった。


 同じ頃。車の中では、男とパトリシアの間で、ちわげんかが再び勃発していた。その発端は、男がパトリシアの目の前で吐いた暴言、「ビジネスとはそういうもんだ」「だまされる奴が悪いんだ」「のこのこと請ける奴が悪いんだ」からで。それに彼女も乗ったかたちになり、言い争いに発展していたのだった。 

 だがその内容は、いつの間にか男が意図した通り、向こうへ着いたときの応対の仕方に移っていっていた。

 そのときの男の主張は、向こうでは全て俺に任せておけ。お前(パトリシア)は一言も喋るなというものだった。

 その理由とは、――こちらはあくまで受け取る側だ。いうなれば強く出られない立場だ。その場合、無条件で貰えるならそれでこしたことがないが、そうでない場合だってある。ときとして、無理な条件を出してきたときだ。そんなとき、お前のように気が強く、思ったことをずけずけ言うタイプでは相手に不快感を与える。相手がへそを曲げて、貰えるものも十分貰えなくなる恐れだって多々ある。その点、俺は行き届いた気配りでもっともらしい理由をつけて百パーセント相手から金を引き出す自信がある。 それにはな、おべんちゃらも大いに必要なんだ。とにかく物事はどんなことをしても、いかにスムーズに運ぶかが肝心なんだ。交渉術とはそういうものだ。――というものだった。

 これに対しパトリシアは、そんなことを容認したのでは、向こうで私が正当性を主張して賞金を分割することへの異議を唱えるのを防止されると共に、先ほど男から勝ち取った五千ドルも再び奪われてしまうわと直観で感じ取り、「それは無理な相談よ」と声を張り上げて拒否していたのだった。

 その間、初老の男は無表情で通していた。二人の状況を、この者達を依頼主のところまで無事に送り届ければ任務は無事完了することができる。それまでのことだと、隣の席で黙って聞き流していたのだった。

 そうした態度を取りながら、使いにやった男達が戻ってくれば直ぐにでも出発するつもりでいた。


「一応俺はお前達の後見人ということになっているんだ」


 陰湿な目で薄笑いを浮かべた男は余裕しゃくしゃくで言った。それに比べて、そのときのパトリシアの表情は冴えなかった。

 自分の主張が受け容れらず、男の主張がその場でどうやら既成事実化しているような雰囲気であったことが要因だった。車を一旦下りたとき、他の男の何人かが男の方を支持すると話しているのを小耳に挟んでいたことも、更にそれに拍車をかけていた。


「そんなの知らないわ」彼女は不満そうに口を歪めた。「それがどうしたっていうのよ」


「どうもこうもないだろうが」ぞんざいな言い草をしたパトリシアに一瞬語気を強めた男だったが直ぐにゆっくりした口調で言い添えた。「とにかくだ、絶対俺の命令に従って貰うからな」


「じゃあ、嫌だと言ったら?」


「いや、それはない。絶対お前は嫌だと逆らえない」


「え、どうしてよ?」


 パトリシアは首を捻った。この男に弱みを握られた覚えはないしと、言っている意味が分からなかった。それを見た男は顔を斜めに傾け、下から見上げるようにパトリシアを覗き込むと、馬鹿にしたような口調で言った。


「まだ分らねえのか」


「ええ、分からないわ」男の言わんとすることが呑み込めていなかったパトリシアは訊いた。「何よ」


「お前達二人はうちの組織にスカウトされたんだ。さっきの働きが認められてな」


「スカウトって?」


「早い話がお前達二人はファミリーの一員になることが決まったってことよ」


「え? 私は知らないわよ。そんな話、聞いてないわ」


「当たり前だ。お前が入るのを決めるんじゃなくて組織が決めることなんだからな」


「え、何よ、それ。本人に確かめもせずに決めるなんて頭おかしいんじゃないの?」


「別におかしくないさ。組織はときには理不尽なことも平気でやるのさ。これも裏社会で組織が生き抜くための知恵なんだがな。お前達はさっきの活躍で他の組織に目を付けられたんだ。つまりよ、十分に戦力になると認められたってことよ。それを感付いたうちの組織が先手を打って、他の組織が手を出さないように囲ってしまおうと決めたんだ」


「えっ。そう」


 平気な顔でそう応えたパトリシアは無意識にウエーブのかかったブロンドの髪を指先でいじる仕草をしながら、なるほどと思った。

 当然、そうなるわね。ま、どこの組織へ入ろうがやらされることは、ボディガードか殺し屋が相場なんだろうけれどね。


「でも私は認めたわけじゃないわ。それに、そんなことになったら後で後悔するかもよ」


「妙なことを言うじゃないか」


 パトリシアの言動が少し気になったのか、突然男がドスの効いた声で訊いてきた。彼女は苦笑した。


「いや何でもないわ。ちょっとね」


 そう言って誤魔化したパトリシアだったが、思ってもいない展開に、その胸中は複雑だった。

 マフィアの一員にしてくれるといったって、どうせボスかそれに近い連中付きの下働きだろうしと、本当に迷惑な話だった。けれどもどう答えて良いかの良案は直ぐに思い浮かばなかったので、ここは一旦様子をみることにした。


「それで私にどうしろというの。あなたが仕切るのを黙って見ていろと?」


「ああ、そうなるな 。不服か、俺が仕切るのが」男は少し間をおくと、ニヤッと笑って言った。


「そう思ってな、一つ条件がある。それを呑んでくれたら、お前の自由にさせてやっても良いと俺は思っているんだがな」


「それって何よ?」


「実はな、この横に居られる方に全てを俺に代わってお任せしようと思ってるんだ。先ほどの調停を見ていて、この方なら安心して任せられると思ってな。どうだ、呑めるか?」


「……」


 パトリシアは初老の男をちらっと横目で覗き込むと、直ぐに視線を元に戻し含み笑いした。そのとき、さも苦り切ったような初老の男の横顔が見て取れたからだった。

 パトリシアは内心ニヤニヤしながら考えた。あのいかにもはた迷惑といった表情から察するに、二人は組んでいないということね。

 直ぐにそう導き出した彼女は、「ええ、分かったわ。そうしてくれる」と低い声でぼそぼそと呟いた。


 その返事を聞くや否や、すぐに男は横の初老の男の方へ顔を向けると、「あのう、すみませんが」とパトリシアと話していたときと打って変わって丁重な言葉使いで声を掛けた。

 そのとき腕をゆったりと組んでシートに深く腰を下ろし、無表情で我関せずといった風にしていた初老の男も、これには否が応でも反応せざるを得なかった。少し頭をシートから持ち上げ、黒メガネの奥から何かといった素振りをした。

 その期を男は逃さず言い添えた。


「そういうことで、お手数を掛けてすみませんが私に代わってお引き受けして頂けないものでしょうかね?」


「でもしかし……」初老の男は歯切れの悪い物言いをした。だが、


「あのとき、着き次第事情を説明してみましょう。たぶん大丈夫だと思いますからと言ってくれた筈では?」


 すかさず男にそう告げられると、初老の男は困ったように重い口を開いた。

 

「ええ、確かに言いましたが」


 横で聞いていたパトリシアにとっては何のことやらちんぷんかんぷんであったが、その話題こそ男と彼の兄貴分と初老の男の四人が、路上で長らく話し合いをしていた内容だった。

 そのとき四人は、「是非、車に乗って下さい」「いや乗らない」でもめていた。男の兄貴分二人が突然心変わりして、遠慮させて貰うと、行くのを辞退したからだった。

 初老の男が、「それは困ります。もう既に五人で行くと先方へ伝えてしまいました。今更変更はできません」と繰り返すも、二人は頑として譲らず、「いや。こちらも手が離せない用事ができましてね」「行けないものは行けない」云々と言うばかりで、延々と押し問答を繰り返していたのだった。

 だが、まさか生存者が出るとは思っていなかったところに出たもので酷く慌ててしまい、いつもながら終了した頃を見図って、「どうなった?」と、どこからともなく一方通行的にメールで聞いてきた依頼主に対して、何人行くのか確認も取らずに五人と連絡してしまったミスが念頭にあった初老の男には、それ以上は強く出られず。

 そして最後は、「分かりました。着き次第、先方へ話して見ます。たぶん理解して貰えると思います」と折れて男達の要請を請け入れた形で決着がついていたのだった。


「ですが……」


「だったら私も途中で抜けたって問題はない筈ですよね」


「ええ、それはそのう。そうですが」初老の男は押し黙った。確かに正論といえば正論だった。


「では、先方へはそう連絡願います。あ、それと、 あともう一つご迷惑とも思いますが、実は私の代理でこいつが手にした賞金の半分、いや十四万五千ドルを貰って我々のところへ届けて頂きたいのです。どうです、お願いできますでしょうかね? ええ、さっきの建物の前で待っているように兄貴分に伝えておきます」


「そうですか」


 初老の男はあっさりと引き下がった。またまた迷惑は話だと苦々しく思ったが、人数が二人減った事の次第も報告する必要があったため、それが三人になろうが同じ事だ。賞金の分割に関してはそのついでに話せば良いと考えたからだった。


「分かりました」初老の男はゆっくりと頷いた。男は、その言葉を待っていたかのように時を移さず言った。


「ありがとうございます」


 そう言うなり、初老の男に向かって心にもなく深く一礼した。


「私は大変ついています。あなた様のような頼りになる方がいたことで、こうして何もかもお願いできるのですから」


 その様子を、パトリシアはぼんやりと眺めていた。何を話しているのかさっぱり分からなかった。ただなんとなく、初老の男が、弱みを男に握られているような感じを受けていた。

 そこへ振り向いた男から、例のガラガラ声でお世辞ともほめ言葉ともつかぬ言葉が飛んだ。


「このお方はな、普段、俺もお前も会えるようなお人じゃないんだぜ。そのお方にお引き受けして貰ったんだ。俺も安心して消えることができるっていうものよ」


 とっさに聞き入ったパトリシアに、気持ちの悪い笑みを漏らした男は続けた。


「どうだ、これならお前も納得できるだろう!」


「ええ」


 パトリシアは戸惑い気味に応えた。不本意であったが、人を使うことにかけては非常に巧みだと思った。


「それじゃあな」


 男はそう乱暴に言うと、初老の男へもう一度向き直り丁寧に一礼した。


「ではこれで失礼させて頂きます」


 またもや気持ちの悪いへりくだった物言いを男がした。パトリシアは呆れた。そのあからさまなひょう変ぶりに、相変わらず人によって対応の差が違うなんて最低よ、と眉をひそめた。

 そんなパトリシアの思いなどどこ吹く風と、男は上機嫌でベンチシートから腰を上げると初老の男の方に足を踏み出した。そして、閉まっていたサイドドアに付いたタッチボタンを押し、スライド式のドアを音もなく開けると車から外に出た。それからまたもや初老の男の方へ振り向き、礼儀正しく一礼すると、がに股歩きをしながら意気揚々と駐車場を歩いて行った。


 歩きながら男は直ぐに懐から携帯を取り出すと、どこかに連絡を入れていた。その雰囲気はしてやったりだった。そのついでという訳でもないだろうが、カッと勢いよく道端に痰を吐いていた。

 車に搭載されたコンピューターのプログラム通りに目的地まで直行するのだとばかり思っていたのに一時休憩のために車が途中で停車したことを一隅のチャンスが訪れたと思い、これを逃せば後がないと、このような事態になるように仕組んだのだった。

 実のところ、車中でパトリシアに説明した、二人はファミリーの一員になったという話は虚言だった。目的地まで行きたくないばかりに思い付いた嘘だった。

 真実は少し違っていた。兄貴分から、「上からの命令だ。この件に関して、あの二人にはかかわるな」と指示を受けていたのだった。

 そのとき余り好い気分ではなかったけれど、それでもピラミッド型の階層構造をとる組織のことゆえ、「はい」と素直に従うほかなかった。

 だがそのことが目的地まで行くのをためらわせるきっかけとなっていたのだった。

 先ず有り得ないと思ったが、もしもパトリシアがへそを曲げて逆らって来た場合は、ファミリーの構成員の人数、二万余りを上げて、数の力で脅すつもりでいた。まだそれでも嫌だと言うのなら、次は組織力を背景にして四六時中二人を監視していることを強調して、社会生活がまともにできなくなるぜ、と言ってやろうと思っていた。そして最後の手段としては、二人の内、非力なパトリシアの方へ的を絞ることをちらつかせて、事あることに色々な嫌がらせが待っているぜ、と言うつもりだった。

 だが、脅迫する前に意外とあっさり引き下がってくれたのを、その場で同業の関係者にでも連絡されたなら即嘘がばれてしまい面倒なことになると思っていただけに、正直いってほっとしていた。

 そして、明日にでもパトリシアが無事でいるかを確かめるために、「どうだ。うまく受け取ったか」のメッセージを、彼女の携帯に送り付けてやるつもりだった。


 男の姿が闇に消えて行ったのとちょうど入れ違いに、食料調達に行った二人の若い男がファストフードと飲み物が別々に入る半透明のナイロン袋を両手に持ち、戻って来た。

 パトリシアはアボガドと牛肉が入ったタコスと野菜とチーズ入りのタコスの二品とビールが入る小コップを、自分のとぐっすり眠る青年のとで二人分受け取った。そのときでも青年は眠ったままだった。だが、まだ起こすのは早いかもと考え、そのままにしておいた。

 ファストフードと飲み物を各自に配り終わると、ものの数秒も経たぬ内にリムジンはドライブ・インの駐車場を出た。食事は走行中にしろということだった。

 パトリシアはちょうどそのとき空腹だったこともあり、食べ物に何かが入れられていないか疑うことも忘れて、配られた食べ物にむさぼりついた。パリパリ感のあったタコスは彼女の口の中へ一気に消え、ビールは勢いよく喉の奥へと吸い込まれていった。

 果たして食べ終えた頃、どこへ連れて行かれるのか分からないのに警戒を怠ったことを彼女は後悔し、肝を冷やした。が、身体のどこにも異変が起こらなかったことなどから一安心した。 

 一方、初老の男は自分の割り当て分を食べ終わると、さっさとシートに深く腰掛け、数分も経たぬ内に息を深くゆったりとし始め、自分の殻に閉じこもってしまった。

 パトリシアもまた然りだった。普段は良く喋る方だったが、このときばかりは無駄に話し掛けることはしなかった。というのも、必要な情報はジョニーが聞き出したのが頭の中に入っていたし、マフィアの社会に興味がなかったことで男の素性にちっとも興味が湧かなかったからだった。


 再び出発してから十四、五分も走った頃には片側四車線だった道路がその半分の二車線となり、それまで所々に見えていた街灯や人家の明かりがいつの間にか途絶え、辺りには見渡す限り闇が広がっていた。またそれと共にすれ違う車もめっきり減り、終いには信号が全くない真っ直な一本道を走っていた。

 もうその頃になると、明かりと言えば、数百ヤードごとにぽつんぽつんと道路の両脇に現れる、白色をした照明灯の明かりだけとなっていた。

 車内は程よい狭さで薄暗かったこと。温調がやや暖かめに設定されていたこと。個室のようになった空間は静かで、しかも外からの音を遮断していたこと。幾分硬目のシートが座り心地を良くしていたこと。そういった因子が、ともすればパトリシアの意識を幾度も喪失しようとした。けれども彼女は訳あって、じっとしているわけにいかなかった。携帯を取り出し、四時間以上前に送ったメールの返信を読んで確認した。眠気覚ましにミント味のトローチをなめた。座ったままできるストレッチ体操をした。そうして遂には何もすることがなくなったのでこのようなゲームに興じていたのだった。


「嗚~呼」


 パトリシアは片方の手の平で軽く口元を押えるとあくびをした。もうそのときの彼女は、眠気でまぶたが直ぐにでも閉じてしまいそうだった。

 頭を使えば目が冴えると思って始めたことだったが、集中すれば集中するほどどうすれば良いか分からなくなって、黄色の碁盤上の白と黒の碁石をぼんやりと眺めていると、いつしか睡魔の世界へ誘われそうになっていた。

 パトリシアは一旦画面から目を離すと、度の入っていない黒縁のメガネを外した。これではいけない、気分転換しなければ、と思ってのことだった。

 それから彼女は傍のショルダーバッグから常備薬である目薬を取り出した。そして天井の方へ顔を向けると、長いまつげに触れないように気をつけながら点眼した。そのようにして何とか気を引き締めた彼女は、再びゲームに集中しようとしていた。

 そのときの彼女は、自分の役目ぐらいは十分承知しているつもりだった。眠っている青年を今守ってやれるのは自分だけなのだからと自覚していたのだ。その為にも、眠ることも傍を離れることも拒否していた。

 その後、一時低下していた思考力が戻ったパトリシアは、再びテレビの盤面へ目を戻していた。手は十手ほど進んでいた。そのとき、ふいに車は上がりこう配になったカーブを曲がったような気がした。

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