あの街にある塔
冬春夏秋(とはるなつき)
1【八番目の日常】
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「はっ、……はっ! はっ……はぁ…ッ!」
息を切らせて歩道を走っている。時刻は三時ちょっと過ぎ? 下校になった時に時計をチラ見したのが最後だから厳密なところはちょっと。
自転車、ローラーブレード、車、電車――全ての有効な移動手段をガン無視して自分の脚による全力疾走に賭けた。
空が飛べるような靴とかボードとかさ、あればお願いしたいんだけど。そんなファンタジーは残念ながらちょっと現実世界では材料が足りない。
つまり携帯電話の小型化よりもハデなスケールの科学力とか、それで証明できない魔法とかその辺。
車輪は人類最高の発明な一つらしい。でもその最高発明だって今は分が悪いんです。
「――っし! はぁ、はぁ、よいしょぉ……っ!」
手すりに捕まって方向転換。遠心力で肩にかけたカバンが回る。
目の前にはちょっとシャレになってねえですよねこの量マジパネェ階段。
自転車もローラーブレードも逆効果。螺旋を描くように車道はあるんだけど残念ながらまだ運転免許持てません。校則とか社会のルール的な意味で。
あと車も持ってません。
電車が菫台の住宅街に突入してくれてば話は早いのだけど。
毎度毎度の文句が頭の中に浮かんでは消えて、階段を上りきる。住宅と住宅を切り離す長くなだらかな昇り坂の車道。あー……帰り道自転車なら楽々なんだろうけど、行きの坂道を自転車で上るのは辛いのだ。そもそも、目的地に辿り着けないかもしれない。
住宅と住宅の隙間に、私道? 公道? 分類的にきわどい道がある。徒歩限定、しかもすれ違う時ちょっと苦労しそうな狭さ。カーナビやネット地図に載るかどうか不安である。
側面は一貫してどっかの家の壁。ねずみ色のブロック塀とか、茶色のレンガとか。その家の個性が……モデルルーム多めでそう気合入ったオリジナリティの家はないんだけど、まぁうん。
L字になったところで普通は曲がる。というか道は続いてないのだが。
「……ふぅっ!」
深呼吸一回。時代に置いて行かれたような、古い小道が実はあるのだ。
アスファルトではなく、土と階段代わりのブロックでできた、人よりは猫とかの通路になってそうな、さっきよりも更に狭い道を気合で登る。
――本当、今度問い詰めよう。何の嫌がらせかと。
目の前には、野薔薇のアーチがある。手入れも随分とされていて、今はちらほらと花が咲いていた。
呼吸を整えるように、調子を緩めて歩く。木漏れ日が差し込む緑の
向かって左は菜園である。トマトとか見える。
向かって右には、小さな四角い池。ある噂話によると、中には水中都市が広がっているのだとか――今日は割愛。正面を向く。
緑に囲われたガラス造りの建物。ドアもガラス製で、中には植物園が広がっているように見えるが、間違いである。
ドアの前には【OPEN】の看板。
ガラスというか鏡の類? 開くとお馴染みのカウベルがちりんちりんと鳴った。
「おかえりなさい」
ルールその1。ころころ変わるその挨拶に、合ったもので返答すること。
「……ただいま」
ドアを開くと、中はそう――喫茶店になっているのだ。
騙し絵をそのまま現実にしちゃったような、外から見ると植物園ぽいガラスの喫茶店。
床もガラス製で、下には花が敷き詰められていたり、土だったり、何の冗談か小さな川を流していたり魚――は居ないや。
店のつくりもおかしい。客席を分断する踏み切りのように、カウンターが仕切りになっていて、自分が入った入り口からだとどうしてももう片方に入れない。いや、キッチンカウンターから行けるんだけどこっちは客だから通れない、というか。
暫定的に自分が入って来る方をAホール、未踏の方をBホールと呼んでいる。
外の風景もおかしい。ここは菫台の住宅街ド真ん中なのに、中に入ると外は森になっているのだ。
人間の認識とは結構曖昧で、見える窓の外に木を数本植えてしまえば、そこは森の中だと錯覚してしまう。実際窓を抜けて、植えられた木の向こう側に出ればなんともない……あ、いや結構好きかもしれない、街並を一望できるだろう。
天井も総ガラスか鏡である。でもどんな角度で設計してあるのか、やわらかい日の光が刺し込むだけで、太陽が見えないのだ。
このAホールにはカウンターテーブルしかない。そして椅子はたった一つのすっごく長い椅子だったりする。まさかの鏡製。
反射の限界に挑戦したかのような製作コンセプトの元、なんと自分は空に座ることになるのである!
鏡面が映しているのは雲を孕んだ蒼と橙のせめぎ合う空である。まるで空の一部分を切り取ったかのようだ。
テーブルにはサイフォン式コーヒーメーカーがA・Bホール両面に四つずつ。邪魔にならないようにコーヒー豆と紅茶の入った瓶も置いてある。
「今日も学校お疲れ様。何にする?」
水とおしぼりを置きながら若いマスターが聞いてくる。
年齢不詳にも程がある。二十代? 三十代? どう返って来ても納得の、納得いかない顔。長く伸ばした後ろ髪を茶色のヘアゴムで纏めている彼に、自分は急いで来たのだと思い出させられ――
「喉渇いたからアイスコーヒー! ……を、ケーキセットで!」
と、元気よく注文するのだった。
BGMはBホールに置いてあるピアノ。今日もいるんだなぁ、あの人。
初めてこの店に来た時から、一度たりともピアニスト不在の日はない。
そしてAホールからでは、彼の手元がどうやっても見えない。
噂話そのニ。彼には両の手首から先が無いのだとか。じゃあどうやって弾いてるのか。
というかピアノの傍にある小さなテーブルに、飲みかけのグラスが置いてあるのでそんなのやっぱり噂です。
「お待たせしました。アイスコーヒーと、今日はトマトのタルトです」
カウンター越しにこちらに置かれたケーキ皿。
「む。トマトとな?」
ハードカバーを置きながら顔を顰める。うん、店のインパクトにも随分慣れたが、これはこれで衝撃です。
「大丈夫大丈夫。ちょっとした自信作だから。ヤマイにも好評だったし」
「む」
ヤマイさんにも好評……ならば恐れることはあるまい。
ちなみにヤマイさんというのは此処の常連さんで、ちょくちょく顔を合わせる。今日は来ていないみたいだけど……よく考えてみればもう少し遅い時間に会っている気がした。
意を決してフォークでサクっとタルトを割って……トマトの果肉が朱色なソレを口に運ぶ。
「それで、今日のお話は?」
マスターが微笑んだ。
口に広がる独特の酸味と。砂糖由来ではなく、え、これどうやって出したの的、トマトが持つ甘味最大限発揮タルト。
「……ん、美味しい。不覚にも美味しい。くそう。あ、話?」
ハードカバーの本を開く、が。
「もう少しだけ、待ってくれない? えー、頁を捲る指はフォークを持つのに忙しく、物語を贈る口はトマトのタルトを味わいたいのです」
えっへん、と胸を張る。
お話はまだ始まらない。
今はこの不思議な喫茶店と、不思議に美味しいトマト味のタルトだけで足りるだろう?
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