第2話 幽霊のような女

 八王子署は今日もまた、連れ込まれた犯罪者たちで大いに賑わっている。

 次々と怒号が飛び交い、何人もの人間が自分は無実だと叫び、ヤニの煙で終始視界が濁っていた。

 そんな中、全くそぐわない自分がいるのだ。妙におかしな気分になって、佐伯は皮肉げに笑う。

 盗難係も同じように、スリやら引ったくりやらの犯人が事情聴取を受けているようだった。中には、そのまま取調室に連行される輩もいる。五年前と全く変わらない。

 そして五年前と同じように、そこに見慣れた姿があった。


「おい、日向」


 何か書類を書いていたらしく、少し遅れて柔和な顔がこちらを向いた。その顔を一瞬驚きに変え、慌ててこちらに駆け寄ってくる。


「佐伯さん! どうしてここに?」


 驚くのも無理はない。犯罪の常習者は普通、警察に近づくのを遠慮するものだ。しかし佐伯は臆することなく、ここに足を向けていた。理由は色々あったが、ひとつはあのノビ仕事の件だ。

 そんな事はおくびにも出さず、慣れた笑顔を浮かべる佐伯。


「いや、ちょっと挨拶によ。どうだ? 最近仕事は」

「忙しくてかないませんよ、年末だから特に。正直、佐伯さんの手だって借りたいくらいだ」

「よせやい、今度はこの署の金庫破りしちまうぞ」


 こちらの冗談に、「是非やって欲しいもんです」と彼は笑った。

 その笑顔を見る限り、何か隠しているようには思えない。既に藍原家に忍び込んで四日が経過していたが、あの女、馬鹿正直に通報はしなかったようだ。

 その事に安堵と、何か後ろめたい物を感じてしまう。顔には出さなかったが。

 「その様子じゃ、もう何日も帰ってないみてぇだな」と、佐伯は周囲を見回した。所轄の刑事は、年末年始が死にそうなくらい忙しいのを、彼は知っていた。逮捕された頃が、丁度その時期と重なっていたのである。


「はい。高橋なんて、奥さんに文句言われて苦労してるみたいですよ」

「ほう、あいつに女房なんていたのか。そいつぁ苦労するわけだ。女房がな」


 日向は苦笑し、そして──少し寂しげに、呟く。


「僕は結婚なんて、忙しくて考えられませんが……それでも、時々あいつが羨ましくなります。帰る時にただいまって言ってくれるだけで、嬉しいもんですよね」

「………日向」


 やがて佐伯は、言いにくそうにその言葉を切り出した。


「挨拶ついでにな、忙しい中悪いんだが、ちょいと調べて欲しい事があってよ」

「なんですか? 何か困っているなら、力になりますよ」

「この町に、ちょっと知り合いができてな。藍原沙希というんだが、三ヶ月前から夫と子供が行方不明らしい。何でもいい、何か分かったら教えて欲しいんだ」


 手短に名前と住所を言うと、日向はそれを手帳に書き記す。彼は顔を上げ、疑問顔でこちらを見た。


「いいですけど、なんでまた? まさか、何か事件に巻き込まれたんじゃ」

「違えよ、恩返しって奴だ。人間、持ちつ持たれつってな」

「はぁ」


 まだ納得できずに日向が首を傾げていたが、すぐ後ろから大声が飛んだ。


「あっ! こいつ、今度はここに来やがったか!」


 忘れるわけがない、新米刑事の高橋だ。慌てて佐伯は出口に駆けた。面倒は逃げるに限る。


「じゃあな、日向。よろしく頼んだぞ!」

「ちょ、ちょっと、佐伯さん!」


 一目散に逃げる背中の向こうで、戸惑う日向の声と高橋の罵声が聞こえる。

 しかし彼は止まらなかった。その目に、ひとつの決意を見せて。

  

  

 宵闇の雨に傘をさし、ゆっくりと玄関に向かう。手には錠前破りの道具がひとつ。

 玄関の前に立つなり、手慣れた様子で錠前を開けた。そして、中に入る。

 中には電気が点いており、居間に彼女は座っていた。

 何をするでもなく、ただぼうっと。


「チクらなかったんだな、サツに」


 こちらの声に、彼女は音も無く、まるで機械仕掛けの人形のように、すうっと顔を向けてきた。最初の印象よりは普通の女に見えたが、それでも精気が見られない。

 幽霊のような女だと、彼は思う。

 沙希は弱々しく笑ったようだったが、自分には顔を引きつらせたようにしか見えなかった。


「泥棒さん、また来てくれたんですね」

「勘違いするなよ。礼を言いに来ただけだ」


 それでも、自分が笑顔を浮かべている事を否定できなかった。居間の中へと入り、テーブル近くの椅子に腰掛ける。


「なんで通報しなかった? 普通プロはな、カモだと思ったら何度でも入って来るんだぞ」

「だから今夜も来たんですか?」


 紅茶入れますね、と彼女が立ち上がる。その姿に苦笑しつつ、


「分からねぇな。なんだか知らねぇが、こっちに来ちまったんだよ。まあ、ここは雨も防げるし暖ったけぇから」


 彼女が自分の仲間のように思えたのかもしれない。薄々、そう感じていた。

 家族のいない男と女。彼らが話す時、この家は奇妙だが居心地の良い場所になりつつある。まるで家族のような、暖かい場所に。

 我ながら、馬鹿らしいと思う。こんな事がいつまでも続く訳が無い。なんと言っても、彼女にはきちんと本来の家族がいるのだ。ならず者の自分とは違う。

 しかし彼には、どうしても彼女を捨て置くことは出来なかった。自分と似ているからかもしれないし、妻に似ているからかもしれない。正直、自分でも明確な理由を計りかねている始末だ。

 それでも、彼女をしなければならない──そんなある種の使命感が、日向の言葉で芽生えたのは事実だった。

 家族という存在は、何よりにも変えがたい。それは佐伯が一番身に染みて分かっている。


「沙希さんよ、八王子署の奴に言っといたぞ。旦那と子供、調べとけって」


 正直、ノビになってから人に何かをするのは初めてだった。ましてや、今まで悪党としてしか生きられなかったのだ。その達成感に、自然と笑みが漏れる。台所に声を張り上げながら、佐伯は確かな充足感を感じ始めていた。


「俺にできるのはここまでだけどよ。これで少しは安心して眠れるだろ、なぁ」


 沙希さん、と言いかけて。彼女が、ぼうっとこちらに突っ立っているのを見、その言葉を飲み込む。


 顔が蒼白だった。


 両手に持っていた紅茶が落ちて、派手に砕けた。細い足に当たって、中に入っていた茶がじわじわと床に広がっていく。

 それすら気付かないのか、わななく唇が、震える声を絞り出した。


「そう……言ってくれたんですね……」

「大丈夫か? 沙希さ──」

「触らないで!」


 慌てて歩み寄りかける彼を、ぴしゃりと彼女は拒絶した。

 あまりにその声が頑なで、思わず立ち止まってしまう。

 沙希は悲しみを帯びた怒りの形相で、こちらを睨んでくる。


「なぜ。なぜ、言ってしまったんですか! 探すなんて──見つけるなんて! できるわけがないのに! 見つかるはずが無いのに!」


 そのまま、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 静かな部屋で、嗚咽だけが響いている。


「………」


 何もできなかった。何も理解できなかった。

 ただ彼は、呆然としたまま立ち尽くしていた。

 しばらくして沙希は、我に帰ったのだろう、はっとしたように顔を上げる。動揺を隠せないまま視線を彷徨わせ、ようやく口を開いた。椅子に座って、申し訳無さそうに頭を垂れる。


「ごめんなさい、取り乱してしまって」

「いや……」


 突然当り散らされた怒りよりも、全く理解できない戸惑いが強く残っていた。

 それを感じ取ったのだろう、沙希は無理矢理手の甲で涙を拭く。


「怖い。帰ってきて欲しいのに、怖いんです。こんなに連絡が来ないから……もしかしたら、死んでるんじゃないかって。きっと、調べたら、分かってしまうって……」


 頭を抱えて、苦痛に喘ぐ。その最後の言葉は、彼の心に深く突き刺さった。


「もう、いや……」


 なんて浅はかだったんだろう──

 自分への怒りに目が眩む。

 親切をしているんだと自己満足して、その挙句に彼女を傷つけたのだ。一瞬でも抱いた自分の奢り昂ぶりに、吐き気すら覚える。


「さよなら、沙希さん」


 ただそれだけを何とか言い終えて、彼は歩き出した。彼女の泣き声を背後に聞きながら、玄関を抜け、雨の町を宛もなく彷徨う。

 もう、この家に来る事は無いだろう。そのような資格は、この老いぼれに最初から無かったのだから。


 彼女を救う、そんな大それた資格など。


「くそ」


 精一杯の罵声を吐き出して、彼は夜の町へと消えていく。

 その後にはただ、冷たい雨だけが白く煙っていた。





 一週間も続いた雨は、ようやく小雨になってきていた。気温も少しずつ上がっている。

 駅前の広場から外を覗き込みながら、佐伯はワンカップの焼酎を一気に呷った。久々に酔いが回り始めていたが、構わない。

 昼の広場は雨のせいか、人々でごった返している。彼らは自分や仲間のホームレスを遠巻きに見、また目を逸らし、淡々と歩いていた。いつもの光景だ。見慣れたいつもの、下らない世の中。

 ぼんやりと眺めていると、仲間の一人が持っていた焼酎をぐいと掴んできた。


「総ちゃん! そんなに酒呑んで、身体壊すよ。もう若くないんだから」

「うるせぇ。呑みたい時に呑んで、何が悪いってんだ」

「仕事してた時はあんまり呑まなかったじゃない。知らないからね」


 肩を怒らせて彼が帰っていく。これで五人目だ。仲間が自分の事を心配してくれているのは知っていたが、事の経緯などまだ誰にも明かしてはいない。明かすつもりも無いが。

 思い出すのは止めていた。家族の事も、あの幽霊のような女の事も──全部だ。ついでに、仕事の事も。全てが嫌になる時、酒というものは実に好都合だった。頭の中をドロドロに溶かして、何も考えられない状態にしてくれる。

 既に世界が揺らぎ始めていたが、構わず焼酎に口をつける。

 そして今度こそ、そのカップは奪い取られた。


「なにしやがるこの野郎!」


 食って掛かろうとして、優男の顔に拳を──


「佐伯さん。なにやってんですか、こんな所で」


 めり込ます直前で、はたと我に返る。その伊達眼鏡は見覚えがあった。


「日向か。邪魔すんじゃねぇぞ……俺だってなぁ、呑んで潰れたい時もあるんだ」


 よこせ、とカップを奪おうとして、するりと逃げる日向。


「嫌です。まったく、佐伯さん僕よりもお酒強いですけど、こんなに呑んだ事無かったじゃないですか。……何かあったんですか?」

「うるせぇったらうるせぇんだよ! もう俺の事は放っとけ!」

「そうはいきません」


 と、彼は背を向けた自分の前に回りこみ、告げる。


「伝えなきゃならない事があるんです」

「なんだ」

「前に頼まれた、藍原達也とその子供、藍原哲也の消息です」


 大きく息を吐いて、佐伯は渋面を作る。


「もうその事はいいんだよ。もう終ったんだ……」

「そうじゃないんです! 聞いて下さい──」

「もう終ったって言ってんだろ!」


 耐え切れず、乱暴に胸元を掴んで吼える。

 が、珍しく日向は食いついてきた。


「違うんです、聞いて下さい! 藍原達也と哲也君は──」


 厳しい顔から、徐々に力が抜けていき──

 やがて、彼の優しげな眼には哀しみの色だけが残った。

 こちらを見据えて、噛み締めるように告げる。


「藍原達也と哲也君は、三ヶ月前、既に死んでいます」

 

 目の前が一瞬、白くなった──

 

 全てが消えたような沈黙。

 さわさわと降る小雨の音が、自分の言葉を奪い取っているような錯覚すら覚える。

 

 彼の唐突な発言に、佐伯は呆然としていた。

 やっとの思いで絞り出す声も、低く、皺がれる。


「なんだって……?」


 未だ小雨の音が聞こえる中、その言葉だけはやけに寒々しく響いた。


「彼女の家族は、三ヶ月前に交通事故で亡くなってるんです」

  


  

 真っ昼間の中、佐伯は藍原家の玄関に佇んでいた。

 道具は錠前破りと足跡を消すシャワーキャップのみ。既に沙希は外出している。

 

「これは空き巣のやる事だ。俺は今日、奴らと同じクズに成り下がる」


 自分に言い聞かせるように、彼は言った。

 しっとりと雨を吸い取った服を纏わりつかせ、ゆっくりとピッキングを開始する。いつもと違い、昼間の仕事である事に少々の緊張は覚えたが、迷いは無かった。


 「だが──」


 カチャリ、という感触を掴んだ瞬間、彼は呟く。


 「これは、やんなきゃなんねぇ仕事だ」


 一気に玄関のドアを開いた。同じ素早さで、迅速かつ静かに扉を閉める。

 いつものようにシャワーキャップを足に嵌めたが、向かうのは台所でも居間でもなかった。二階である。

 本来、内部犯行を行う盗人ならば、二階に侵入する事はまず無いと言っていい。最近は変わりつつあるが、多くは二階が居住区である事が多いためである。特に自分のようなノビの場合、二階で仕事をするなど禁じ手も甚だしい。しかし、沙希の全てをこの目で見る為には、こうするしか手段が無かったのだ。


 階段を登る最中、彼は今までの彼女の行動を脳内に映していた。


 幽霊とも思える程の異様な脱力。

 精神の不安定な兆候。

 寂しげな横顔。

 カレンダーに赤いペンを殴り書きする沙希。

 月に照らされ、泣いているその横顔。


 家族が失踪したと言うのならば話は別だったが、これで全てが説明できる。彼女は三ヶ月前、家族の死を知った。しかし、余りに突然すぎて受け入れる事を身体と感情が拒否していた。

 人間とは脆い生き物だ。現実に耐え切れなくなった時、そっと自分にとって都合の良い記憶に摩り替えてしまう事がある。例えば、家族は本当は死んだのではなく、失踪しただけなのだというように。それは、彼女の切なる願いだったのだろう。


 こうして今まで、沙希は死を受け入れられないまま過ごしていた。恐らく、どこかから夫が振り込んでいると誤認したまま、夫の死んだ保険金を糧として生活していたのである。

 帰らない──帰ることも無い──夫と子供の帰りを、ただひたすら待っていたのだ。


 二階に到着し、廊下を見回した。二つの部屋がある。沙希と夫の部屋、それから哲也の部屋だろう。

 どちらか判別できなかったが、彼は近い方の扉のノブをゆっくりと回す。ノブは抵抗無く回り、その部屋の全てを露わにした。


 どうやら、子供──哲也の部屋のようだ。だが、その様相は全く生活感の無い下の居間や台所とは、大きく異なっていた。

 ややずれたカーペットに、放り投げられた玩具が転がっている。小さなベッドには、おそらく哲也のお気に入りの品だったのだろう、絵本とロボットの玩具。どこかから、オルゴールが聞こえてきそうな光景だった──散乱してはいたが、そこには確かに、誰かが「住んでいた」のだ。

 とても長い間留守していたようには見えない、暖かい生活感が溢れている。


 どういう思いでこの三ヶ月間、沙希はこの部屋を保存していたのだろう。毎日掃除をしても、玩具や本の位置は絶対に動かさなかったに違いない。隣の夫との部屋も、恐らくは同じく、しっかりと保存していたのだ。まるで、つい最近まで生きていて、部屋を使っていたかのように。

 彼女はそれを、ただ淡々とこなし──精神を病み始めた為だろう、逆に生活の中心となるはずの居間や台所に、自分が「生きた跡」を付けられなくなった。

 脱力感だけの日々が続き、精魂尽き果てた沙希に対して、近所の者たちが好意的に関わるとも思えない。張り込んだ時に住民たちが避けて通っていたのは、決して防犯意識が低い訳ではなく、彼女の薄気味悪さに避けていたのだ。


 佐伯は、最悪の現実に対し、ただ眼を閉じた。この事が夢であってくれと切に願った。それでも眼を開ければ、これが紛れも無く現実なのだと認めざるを得なかった。誰に言うわけでもなく、独りごちる。


「因果な商売だよ、ノビってもんはな」


 過去何度となく忍び込んで、彼はそのたびに実感していた。

 ノビだけでなく内部窃盗を専門とする者ならば、誰でも必ず経験する。どんな他人よりも人間の生活に近付き侵入するのだから、当然、その人生を垣間見る事も多いのだ。そのうち何人かは、自分のしている業の深さに気付き、仕事を諦める者もいた。

 自分は、決してそんな挫折など無いと思っていた。何より、自分自身が数奇な人生を既に背負わされている。恐れるものなどあるわけが無いのだ。それなのに──


 ふと、彼は踏んだ絨毯に違和感がある事に気付いた。

 ベッドの近くだけ、音が違うのである。

 僅かな違いだったが、軽い何かが擦り合うような音だった。


 疑問に感じて、ベッドの下を確認する。すると、そこにはふたつの小さな缶が置いてあった。そのひとつを掴んで引き出すと、カラカラと音が鳴った。小銭にしては軽く、量がある。


 緊張した手で、そっと缶の蓋を開けた。

 中の物を手で摘もうとするが、その手が汗で滑った。

 フローリングの床に落ちる。

 カラン、と乾いた音を立てて床を滑っていくのは──

 軽くて、固くて、白いのに、どこか乳白色をしている──

 

 

 小さな、人骨だった。

 

 

 眩暈がした。

 無言のまま、缶を落とす。

 あっけなく中身がばら撒かれて、床の一部が真っ白になった。

 そして──


「来てしまったんですね、ここに」


 背後の声が、自分の喉を鷲掴みにしたような感覚。

 数日前の凍るような空気が蘇る。

 拒否する身体をなんとか背後に向け、佐伯は藍原沙希を、じっと見つめた。

 彼女は、つい先ほど帰ってきたのだろう、スーパーのビニール袋を下げたまま微笑んでいた。


 「本当は分かっていたんです。でも、信じられなくて。達也が、哲也が死んだなんて。お墓も作る気になれなかった……ずっとずっと、帰ってくるんだって自分に言い聞かせて、この三ヶ月──過ごしてきました」


 笑顔のまま、彼女の黒い眼が大きく揺れた。ドサリ、とビニール袋が床に落ちて潰れる。そのまま、崩れるように座り込む沙希の身体。

 一筋、透明な雫が彼女の白い頬の上を走る。

 場違いだと思いつつも、佐伯はそれを──心底美しいと、思った。


「俺は……お前と同じように。家族を失った人間だってのは、話したな」


 黙って頷く沙希。

 その顔を睨みつけて、彼は低く呟いた。怒りで声が響かない。


「……なぜ黙ってた。俺しか分からなかっただろう、あんたの気持ちは」

「怖かったんです。本当の事を話したら、きっと私の前から消えてしまう。せっかく、やっと、この家で話せるたった一人の人に出会えたと思ったのに……これ以上苦しむのは──もう」


 床を這いずり、彼女は散らばった小さな骨をかき集めた。

 小さな骨たちを、そっと抱いて。


「……達也と哲也をここに置いて、『帰り』を待つのは──限界でした。だから、これで良かったんです……きっと」

「──沙希」

「ありがとうございました、佐伯さん」


 礼の言葉を発したその笑顔は。


「やっと──前に進めます」


 どんなものよりも眩しく、暖かくて。


 その中でただ一人、佐伯は。

 神妙な面持ちのまま、小さく震えるその体をただ、じっと見つめる。

 しとしとと屋根に落ちる雨粒の音だけが、部屋に響いていた──

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