真夏の首

庵字

第1章 猛暑に立つ探偵

 ……暑い。

 炎天下の駐車場に停めっぱなしの車に乗り込むのに、大変な精神的苦労を要した。

 今はその車は窓を全開にして市道を疾走している。すぐにエアコンは付けない。外気温よりも遙かに高い車内の空気をいきなり冷房で冷やすなど効率が悪すぎる。しばらくこうして車内の空気を入れ換えてからエアコンのお世話になるのだ。


「もういいよね」


 運転席の安堂理真あんどうりまがウインドウ開閉ボタンを押すと、電動音と共に車窓のガラスがせり上がっていく。私はエアコンのダイヤルに手を伸ばしておき、窓が完全に閉まったことを確認した直後、ダイヤルを捻った。

 車内に響く音は、窓ガラスをせり上げていた電動音からエアコンの駆動音に取って代わった。私は送風口に手をかざす。まずダクト内に残っていた熱い空気が押し出されるが、そのあとを追ってきた冷たい風がすぐに私の手の平を叩いた。

 運転席の理真もハンドルを片手で取り、空いたほうの手を送風口にかざしている。まるでクーラーという御神体を崇める信者だ。人は皆、夏になるとクーラー教の信者となるのだ。冬にはもちろん、ヒーター教に宗旨替えをする。


 車内の空気を入れ換えてからクーラーを入れるのは、この車が軽自動車であり、バッテリー保護という目的もある。理真の愛車スバルR1は数ある軽自動車の中でも小さく狭いが悪いことばかりではない。狭い車内がゆえ、すぐに隅々まで冷房の空気が行き渡る。

 送風口からの冷たい風がTシャツの裾から入って皮膚に付着した汗を冷やし、思わず体を震わせてしまった。私は御神体を崇めるのをやめてシートに背中を預けた。


「ふー、やっと人心地ついた」


 ちょっと誇大な表現だが、それほど外の、そして乗り込んだ直後の車内の暑さは尋常ではなかったということだ。


「大げさだな由宇ゆうは」


 運転席の理真にも指摘されてしまった。

 そうは言うが、Tシャツにキュロットスカート姿の私に比べ、ノースリーブのワンピースという格好の理真のほうが肌の露出が多くその分涼しいだろう。長い髪の毛も今日は三つ編みにしている。スカートの丈も私がほぼ膝上に対して、理真のそれはさらに十センチは行っている。もちろん上のほうへだ。白と青のストライプ柄も涼しさに拍車をかけている。足下もヒールの低いグラディエータ―サンダルを素足に履いており、ソックスにスニーカーの私とは、ここでも露出に差が付いている。

 にも関わらず、理真は運転席と助手席の間にある二つの送風口のどちらをも自分の方に向くよう操作するという暴挙に出た。私は即座に自分側の送風口の狙いを助手席側に向け直した。


 猛暑の中ずっと部屋にいたら、一日中クーラー付けっぱなしで電気代が大変なことになるから、喫茶店か大型スーパーマーケットにでも行って涼もう。と、これから起こす行動を決めたのが今から約一時間前。

 本来であれば身支度を調えて車に乗り込むまで、十五分もあれば足りるのだが、いざクーラーを止めて部屋から外に出て、照り焼きにされた車の中に乗り込む決意を固めるまでにそれだけの時間を要した。平日の昼間であれば喫茶店もスーパーも空いているだろうという目論見だ。


「もうお昼ご飯の時間だね。喫茶店でちゃんとしたご飯食べようとすると高いから、お昼は牛丼屋とかで済ませてから喫茶店に入る?」


 理真が提案してきた。私は、その格好で牛丼屋かよ、と思いつつも、


「面倒くさいから、喫茶店でいいじゃん」

「ほうほう、喫茶店の、量が少ないわりにばか高い食事に惜しげもなくお金を落とせるなんて、さすが安定収入のある人は違いますね」

「何だその言い方。言っておくけど、アパートの管理人なんて、安定収入じゃないからね。店子がいなくなったら途端に路頭に迷うんだよ。その点作家はいいよね。今まで書いた作品に重版が掛かれば何もしなくてもお金が入ってくるんだもんね。無労収入じゃん」

「その重版が掛かるっていうのが、どれほど凄いことか分かってる? そもそも出版不況の昨今、初版だって相当絞られるんだからね。と言うか、由宇の収入の一部は私の払った家賃じゃん。よし、今日のお昼とコーヒー代は由宇の奢りだな」

「それとこれとは別問題だろ」


 今の会話から察せられるように、私、江嶋えじま由宇はアパートの管理人。隣でハンドルを握っている安堂理真は作家で、私のアパートの一室に居を構えている。


 ここ新潟県新潟市で高校の同級生だった私たちは、卒業後進路を別にしたのだが、ひょんなことから再会。管理人と店子という間柄になったのだ。

 女同士気の置けない関係で、私は管理人室にいるよりも理真の部屋にいることのほうが多いかもしれない。エアコン代も一部屋分で済み経済的だが、最近のこの猛暑に対抗すべく、何日も何時間も連続運転を続けるエアコンにさすがに恐怖を憶え、外へ出る決意をしたのだ。


「大体、この熱いのによくがっつり牛丼を食べる気になるね」

「夏こそ食べなきゃ。夏バテ対策だよ」


 いや、理真は年がら年中食べまくっている。確かに理真が夏バテらしきものに襲われているのを見たことはないが。


「いいよ、牛丼くらい奢ってあげるよ」

「この時、江嶋由宇は、安堂理真が特盛り、卵、豚汁、サラダフルセットを頼むとは想像だにしていなかったのであった……まあ、それくらいしてもらってもいいよね。由宇はいつも私の部屋のエアコンで涼んでるんだし」


 それを言ってきたか。反撃させてもらおう。


「私だっていつもご飯作ってあげてるじゃん。材料もこっち持ちで」

「ぐぬぬ」

「……やめよう、不毛な争いは」

「そうだね、暑さでどうかなってたかも……そうだ、一番安定収入がしっかりしている人に、お昼をおごってもらおう」


 理真はコンビニの駐車場に車を入れ、鞄から携帯電話を取りだしてダイヤルする。誰に電話を掛けるつもりなのか分かった。


「もしもし、丸姉まるねえ


 理真が携帯電話にそう話しかける。やはり、相手は新潟県警捜査一課の紅一点、丸柴栞まるしばしおり刑事だったか。

 刑事とて公務員。この世で一番安定している職種だ。駐車場に掲げてある、アイドリングストップを促す看板が目に入ってしまった。しかし、ここでエアコンを切るのは自殺行為だ。一分と掛からず車内で蒸し焼きになってしまう。私は飲み物でも買ってこようかと、責任逃れをするように車外に出ようとしたが、


「……え、事件なの?」


 理真のその言葉を聞き、開けかけたドアを閉めた。理真は携帯電話をスピーカーモードにして耳から離した。


「ちょっと待って理真……」


 丸柴刑事の声が私にも聞こえるようになる。

 携帯電話のスピーカーから何やら話し声が聞こえる。


「理真、今から来られる?」

「いいよ、場所は?」


 言うと同時に理真が私に向けた視線の意味を了解し、私は鞄からメモ帳とシャープペンシルを取り出して筆記の用意をする。


「新潟県東蒲原郡ひがしかんばらぐん阿賀町あがまち……」


 私はスピーカーから流れる丸柴刑事の声をメモに取り、


「高速道路を使えば一時間くらいだね」

「由宇ちゃんも一緒ね。いつも悪いわね」


 携帯電話のマイクが拾った私の声が向こうに聞こえたためだろう、丸柴刑事はそう続けた。


「いえ、助手ですから」

「じゃあ丸姉、すぐ行くから――」

「ちょっと待って理真」


 理真はその声に、携帯電話の通話終了ボタンに伸ばし掛けた指を止めた。


「理真くん、由宇くん、悪いないつも」


 スピーカーからの声が男性のものに変わった。新潟県警捜査一課の城島淳一じょうしまじゅんいち警部が電話を変わったようだ。


大方おおかた、丸柴をランチにでも誘おうとしてたんだろうが、すまんな」


 城島警部、お見通しだったか。公務員にたかって奢らせようとしていたとまでは思うまい。


「いいんです。またの機会にします。それよりも、どんな事件なんです?」

「首切りだ。阿賀町の国道で切断された生首が見つかった」


 安堂理真は作家の他にもうひとつの顔を持っている。

 警察に協力して不可能犯罪の謎を解く、素人探偵というのがそのもうひとつの顔だ。その時は私もアパートの管理人から理真の助手、要はワトソン役となる。理真のホームグラウンドは在住しているここ新潟県が主だ。


 先ほど電話で話した丸柴刑事、城島警部をはじめ、新潟県警の警察官の皆さんは概ね理真の事件への介入を歓迎、とまではいかないかもしれないが、許容してくれている。もちろん例外はあるが。

 これというのも、過去に幾多のレジェンド探偵の先輩方、そして今現在現役で活躍している探偵たちが、民間人でありながら事件捜査に協力、解決という実績を重ねてきている恩恵、それに与っていることは言うまでもない。


 県警としても、何から何まで理真を引っ張り出そうとは当然考えてはいない。

 通常の捜査では解決に到達することは難しいと思われる、いわゆる不可能犯罪。そんな事件が発生したときのみ理真に出馬要請がもたらされるのだ。

 理真に出馬要請を出す決定権は、多くの場合城島警部が出すことになっている。先ほど丸柴刑事が電話口から離れたときに城島警部に相談したのだろう。

 城島警部も丸柴刑事も、理真が素人探偵として活躍を始める前からの知り合いだ。特に丸柴刑事は、理真の彼女に対する呼び方を聞いても、親しい関係であることが分かろう。事件が起こるに関わらず、私も含めた三人で食事やお茶をすることも多い。ついさっきまでランチを奢らせようとしていたのだから。


 事件現場となった住所を目的地としてカーナビに入れてみたが、やはりここから一時間程度で到着できる。

 理真はアクセルを踏みハンドルを切ってコンビニの駐車場から車を出し、カーナビの案内に従って高速道路へのインターチェンジに進路を取った。


「お昼食べ損なったね」

「途中のサービスエリアで食べてもいいけど」


 高速道路に入ってから、理真の声に私が答えると、


「軽くそばでもすすっておく? 現場付いてからじゃ何も食べられないかもよ」

「捜査で忙しいからね」

「うん、それもあるけど。想像してみてよ。この真夏日に生首だよ。切断されてから何日くらい経ってるのかな。一体どんな状態なのか……」


 余計なこと言うなよ。あーあ、一気に食欲がなくなった。

 それを伝えると、理真も「私も」と言い、結局お昼は取らずに直接現場へ向かうことになった。

 そうは言ったが、理真はどんな凄惨な死体を見てもいつもけろっとしている。私と違って腐乱した生首を想像しただけで食欲が失せるとは思えない。出馬要請を受けたからには、一刻も早く現場への到着を優先させているのだろう。普段は大食らいだが、理真は我慢するべきときには我慢できる子なのだ。



 カーナビに表示された目的地への到着時間、残り距離の数字が小さくなるごとに、憂鬱さが胸を締め付け始めた。

 生首を見るのが恐ろしいのではない。(いや、それもなくはないが)完全に冷房の冷たい空気が隅々まで行き渡った、この車内から降りなければならないという現実に押しつぶされそうになるのだ。今日のような炎天下では、一度エンジンを止めたら一分と掛からずに車内は再び焦熱地獄と化してしまうだろう。何だか今日の私、不真面目かな?


 理真の操る真っ赤なR1は磐越ばんえつ自動車道を降りて国道49号線に入る。

 しばらくは左右に店舗や社屋などの建物が並んでいたが、すぐに林立する木々に取って代わった。

 さらに少し走ると、路肩に数台のパトカーが停まっているのが見えた。覆面パトもある。その脇には数名の制服警官と見慣れた女性の姿が。丸柴刑事だ。

 よく見るとパトカーのすぐ横には、国道にほぼ九十度の角度で接続された脇道があることも分かった。

 理真はR1を縦列駐車されたパトカーの後ろに停める。路肩が広いため車の通行に支障はない。もっとも、元々頻繁に車が通行するほど交通量は多くないのだが。

 さあ、いよいよだ。理真はキーを回してエンジンを切ると、一瞬のためらいもなくドアを開けて外に出た。私も助手席ドアを開け、焼けたアスファルトに降り立った。


「理真、お疲れ。由宇ちゃんも」


 私たちを迎えた丸柴刑事は、薄いグレーのパンツスーツ姿。手には手袋をはめているため、首から上、そしてわずかな胸元しか素肌を露出させていない。さすがに理真にも負けない長い髪は、短くまとめて結わえてあるが、それでもこの暑い中大変だ。制服警官でも半袖の夏制服なのに。

 その制服警官とも挨拶を交わし、私と理真はアスファルト上にテープで小さく囲まれた場所を見下ろした。路面上にわずかだが血痕の付着が見られる。そこは路肩のかなり山よりで、パトカーの影になって道路を行く車からは見えないようになっている。


「丸柴刑事、ここが?」

「そう、首の発見現場」


 丸柴刑事に対する理真の呼び方が変わっている。フランクな呼び方はプライベートか、城島警部ら、ごく親しい警察官のみでいるときだけだ。


「国道を走っていた車のドライバーから通報があったわ。路肩に人の頭部らしきものが落ちてるって。通報時刻は午前八時四十五分。通報してきたのは近所の土木建設会社の社員。国道の先にある現場へ向かう途中で発見したそうよ」


 丸柴刑事は生首発見の経緯を教えてくれた。


「で、その首は今どこに?」

「ここじゃ人目に触れるから、この脇道の」丸柴刑事は脇道の奥を示して、「奥のほうに移動させた。今、捜査員が周辺の捜索をしてるわ。首が出たってことは……」

「胴体もどこかにあるはずだからね」

「そういうこと。早速行く?」


 理真は、もちろん、と答えた。


「じゃあ、ここお願いするわね」


 丸柴刑事は制服警官にそう告げて脇道を歩き出した。理真は車の鍵を制服警官に渡す。邪魔になったらどかしてもらうためだ。私たちを見送って、制服警官は脇道入口に非常線を張る作業を始めた。


「車で行ってもいいんだけど、ご覧の通りの道幅で、何かあって立ち往生するといけないからね」


 丸柴刑事の言うとおり、脇道は車一台がやっと通行できる程度の道幅しかない。


「でも、わだちがあるね」


 歩くすがら理真は地面に目を落とす。確かに、脇道の地面は舗装されておらず土が剥きだしでまばらに草が生えている状態だが、ちょうど乗用車のタイヤ幅に轍がうっすらと確認できる。


「そう。所轄署の人に聞いたら、昔はこの先の河川工事現場へ行く道として使ってたらしいわ。今はもう誰も使う人はいないんじゃないかって。実際、道の先は行き止まりみたいだからね」


 丸柴刑事はハンカチで額の汗を拭った。私もメガネを外してハンカチを目元に当てる。帽子を持ってきたほうがよかったかも。キンキンに冷やされていたR1の車内も、もうすでに焦熱地獄と化しているだろう。

 私たちは左右に広がる木々が作る影の中を選んで歩こうと、できるだけ道の端を歩いているが、折悪くお昼時で太陽は真上に来ている。作り出される影の面積は最小になってしまう時間帯だった。


 しばらく歩くと、少し道幅が広くなっている場所に出た。見張りのように制服警官がひとり立っており、道の脇にはブルーシートを被せた何かが置いてある。その大きさ、形状からして、その下に何があるのかは明白だ。

 丸柴刑事は警官と挨拶を交わし、私と理真を紹介した。

 警官は見知った顔ではない。所轄署の警官なのだろう。私たちが来ることは城島警部から聞かされているはずで、ここでも軽い挨拶を交わした。


「じゃあ、見る?」


 丸柴刑事がブルーシートを指さした。理真は頷く。


「ハンカチを鼻に当ててたほうがいいわよ」


 丸柴刑事の忠告に大人しく従う。ここに来た時から、もう少しだけそんな臭いが鼻孔を刺激していた。私は自分の汗を吸い込ませたハンカチを鼻に当ててスタンバイする。道中はハンカチを使わなかった理真も、鞄からハンカチを取り出し鼻に当てた。それを確認した丸柴刑事は屈み込んでブルーシートをめくる。

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