水曜日
14.伊織、面接に行く
翌日の放課後、相原伊織は
手にした通学カバンの中には、教科書や筆記具と一緒に、履歴書と、一枚の広告が入っている。
前日の帰宅後、何件かアルバイト応募の電話を掛けたが、結果はそれまでと変わらなかった。高校生可となってはいても、入学したてで勤務スケジュールなどの予定の立てにくい伊織では、もう少し経ってからとやんわり断られることも多く。
諦めて宿題でもやろうと机に向かって、机上に置いてあったこの広告が目に入った。ドアポストに入れられていた、アルバイトの募集広告だ。
募集内容は「事務員」。高校生可、経験不問。勤務日数も時間帯も都合に合わせてくれるとある。時給も悪くない。
難を言えば、バスと電車を乗り継がなければならない勤務地は当初の想定よりも遠いが、それ以外はまさに求めているのにぴったりの条件だ。
ただ、「事務員」という仕事には、いまいち具体的なイメージが湧かないが。
(話だけでも聞いてみようかな……)
そう思ったのも、少々焦りがあるからである。
すぐに始めようと思っていたアルバイトなのに、勤め先さえ決まらないうちにもう入学から十日。「食うにも困る」というような状況ではないが、収入の見込みが立つまでは安心できない。
今日になって、休み時間を利用して電話を掛けた。いくつかの条件を手短に確認するとどれもあっさり肯定され、すぐにでも面接に来てください、という対応だった。
そういうわけで、伊織はバスを待っている。
「相原くん!」
呼びかけられて慌てて振り向いたのは、それが可愛らしい女子高生の声だったから……ではないと思いたいが、これが男の声ならもう少し反応が遅かったかもしれない。
振り向けば、カバンを提げた衣川あおいが、まぶしいくらいの笑顔ですぐ後ろに立っていた。
「あ、どうも……」
曖昧な笑顔で答える伊織を特に気にする様子もなく、衣川あおいは隣に並んだ。
「相原くん、いま帰り? バスで帰るの?」
「あ、うん……今日はちょっと……」
「あたしも。一緒に帰ろ」
「え、えええっ? はい……!」
伊織は慌てたが、断る理由もなく、いやむしろ大歓迎であおいと肩を並べた。
大歓迎ではあるが――。こんな場面を知り合いに見られたら……いや、伊織の知り合いだけじゃない。衣川あおいは有名人だ。彼女が伊織のような冴えない男と歩いていたなんて噂になったら……。
(き、気にしすぎだよな……?)
内心であたふたと、自分の発想を否定する。
クラスメイトと一緒に帰るなんて、特別なことじゃない。伊織にはだいぶ特別なことだが、気さくな性格のあおいにしてみたら、同じバスに乗り合わせるクラスメイトに声を掛けないほうが不自然かもしれない。
伊織と一緒にバスに乗るなど、バスを降りたら忘れてしまうくらいの瑣末なことだろう。
五分と待たずにバスがやってきた。
放課直後のバスは空いていて、どの席にも余裕で座れる状態だったが、あおいは迷わず伊織の隣に腰掛ける。ふわりといい香りが鼻をくすぐり、体の近さに緊張する。
「あ、ちょっと待ってね」
と、あおいは携帯を取り出し、誰かにメールを打ち始めた。内容を見てはいけない、と思い、伊織は目を逸らす。
短い用件で済ませたらしく、メールはすぐに終わる。
「ごめんね。それで、相原くんのおうちはこっちなの? このバス
「うん……今日はちょっと、アルバイトの面接に行くんだ」
「そうなんだ。いよいよいいところが見つかったのね。あ、待って」
メールの返事が来たのだろうか。着信音が鳴って、あおいは携帯を取り出した。すぐさま返事を打つ。伊織がまた目を逸らしているうちに、二度目の着信音が鳴って返事がすぐに来たことを知らせる。あおいは確認だけして、携帯をしまった。
「ごめんね、もう大丈夫」
「ううん。彼氏?」
「え――」
特に考えもせずに軽い調子で聞いたのだが、あおいは微笑みを浮かべたまま、少し時が止まったように伊織の顔を見つめ返した。
「ああ! ごめん、そんな立ち入ったことを聞いたつもりでは……!」
しまった、よく知りもしない人に、しかも女の子にそんな不躾な質問を……! 俺はなんて空気の読めないヤツなんだ! 自分を殴りたい気持ちになったが、殴りだす前にあおいが反応した。
「やだ、そんなんじゃないわ。気にしないで」
(……あれ?)
そう言うあおいは少しばかり照れているように感じられないでもない。が、それ以上立ち入ったことを聞くのはためらわれて、伊織は別の言葉を探した。
何を言ったらいいのか分からない伊織に対し、あおいの方が会話をリードしてくれた。そろそろ一週間を迎える一人暮らしのこと。ちょっと恥ずかしいが、これまで惨敗しているアルバイト就職活動について。これから面接に行くアルバイト先のこと。
何を答えても、あおいは感じの良い反応を返し、積極的に次の言葉を促してくれる。大仰に目を見張ったり、感心したり、大きく頷いたり、誉めたり笑ったり……伊織は自分が少しだけ話上手になったような気持ちになって、慌てて心の中でそれを打ち消した。
こんな俺とも楽しそうにおしゃべりしてくれる。美人で気さくな上に、性格もいいんだなあ……。
感動するのと同時に、「こんな女の子に、あんな照れたような表情をさせるヤツって、一体どんなヤツなんだろう」とふと考えて、でもすぐに忘れた。
部屋の主であるところの副理事長・楠見林太郎は、会議だとかで不在である。キョウは一人、ここへ来る途中で診療所に寄って牧田からもらったクッキーを食べ、コーヒーを飲みつつ、作業を進めている。
と、地図を表示させていたスマートフォンに、メール着信の文字が浮かぶ。
(……『お嬢』か)
クッキーをひとつ口に入れて、取り上げメール画面を表示させた。
『
余計な部分を――もしかしたら必要な部分もかもしれないが――省き、一言だけ簡潔に伝えるメール。
(……調布?)
意外な地名に首を傾げる。いや、それほど意外でもないだろうか。日常生活に必要なものは学校周辺でだいたい賄えるが、特別な買い物や用事があれば電車に乗って都心に出ることだって珍しくはない。深くは考えずに、
『了解
そのまま頼む』
こちらも手短に返して、画面を地図に戻す。
またひとつ、テーブル上の地図に印をつけたところで、またもやメール着信。
『アルバイトの面接に行くみたい』
キョウはもう一度、首を傾げた。そう言えば、最初に会った日、これからアルバイトの面接に行くと言っていた。
(まだ決まってなかったのか?)
『目的地が分かったら知らせろ』
返信して、スマートフォンを手にしたまましばし宙を見つめる。スクールバスに乗って、アルバイトの面接? アルバイト先ならそこらへんにいくらでもありそうなのにな。
考えても仕方がないので、スマートフォンの表示を地図に戻してマーカーを持ち直したところで、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞー」
自分の部屋のように答える。
ドアが開いて、無表情――というよりも怒ったような顔をした、小柄な美少女が姿を現した。
「あー琴子。お疲れー」
「なに?」
これまた極端に短い言葉で怒ったように言う少女の反応に、特に怯むこともなく、立ち上がって楠見の執務机の上に置いてある書類を取り上げ手渡す。
「電話で言ってた江戸川と新宿のパイロ放火事件の資料。手伝ってもらうかもしれないから。あとクッキー食っていいよ」
琴子は無表情に資料を受け取り、キョウと向かい合う位置の一人がけのソファに腰を下ろした。
それきり無言の時間が続く。キョウがマーカーで地図に書き込む音と、琴子が資料のページをめくる音だけが、理事長室に響く。
しばらくして、琴子が資料から目を上げた。
「で。どうするの?」
「とりあえずな……江戸川の件は今もハルが行ってっけど、犯人が分かんねえんだ。なんか怪しい人間はいるけど、船津さん教えてもらえないらしい」
「聞きにいけばいいじゃない」
「教えるわけねえだろ」
「読むんだから、関係ないもの」
「あそっか。ん? でも不審に思われんだろ、それじゃ」
「不審に思われて警察署の中に入れてもらえれば、もっとちょうどいいじゃない」
「そりゃあ、まあ……ん? そんなんでいいのか?」
無表情なので冗談なのか本気なのか分からない琴子の言葉に首を傾げつつ、キョウはテーブルの上の地図に目を戻し別の色のマーカーを手にとって続ける。
「そんで。新宿のほうは犯人だいたい分かってて、船津さんの合図待ち。見つかったら、いろいろ調べんの付き合ってもらうかも」
「犯人に会って、読めばいいのね」
「ああ。武蔵野ん時は警察の言う通り待ち伏せて何日も空振りしたからな。相原伊織の件も江戸川の件もあってヒマじゃねえし、一発で決めたいんだよな」
そう言ったきり、また無言が落ちる。琴子はキョウのマーカーの動きを無表情に眺めていたが、少ししてぽつりと言った。
「相原伊織は、あんたやハルや楠見さんのことが気に入ったみたいね」
「……んー?」
マーカーを動かしながら、キョウは軽い返事を返す。
「おしゃべり、楽しかったみたいね」
キョウはマーカーを持つ手をピタリと止めた。それからおもむろにマーカーのキャップをはめて、琴子に目を上げる。
「……読んだのか?」
「読んだけど?」
マーカーを置き、前髪をかき上げるようにして頭を抱え深くため息をつく。
「お前なあ……そうやって……」
「なに」
「だから……いつも言ってるようになあ……」
琴子の行動をどこからどう咎めようかと言葉を探していると、スマートフォンが今度は電話の着信を告げる。
画面を見て掛けてきた相手を確認し、通話ボタンを押した。
「お嬢、どうした?」
『キョウ……調布で京王線に乗り換えて府中で降りたんだけどね、ちょっと様子がおかしいの』
キョウは顔をしかめる。
「おかしいって何が」
『アルバイトの面接って言ってるんだけど、チェーン店のコンビニとかそういうところじゃなくて……ポストに広告が入ってた会社らしくて……で、今そこの前に来てるんだけどね、相原くんは中に入っていっちゃったんだけど、なんだかちょっと不安で……』
「不安って、何が」
『ビルの一室みたいなんだけど、看板も案内も出てないし……相原くんの話では、何の会社なのかも分からないみたいで……どうも、嫌な感じがするのよね……』
「なんだそれ……?」
言っていることは要領を得ないが、なにか良ろしくない状況なのだということは分かった。「お嬢」の嫌な予感は、よく当たるのだ。
「お嬢、とりあえず行く。そのまま見張ってくれ。何かあったら電話しろ」
『分かった。待ってる』
通話を切って、素早くテーブル上に散らばったマーカーをまとめる。
「なんで、んな怪しいとこに面接に行くんだ? あいつ狙われてる自覚あんのかな!」
マーカーを箱にぶち込み地図を雑に畳みながら口走ると、琴子が答えた。
「最初に面接に行ったところはダメだった。いろいろ電話したけど、どこもダメ。で、昨日、帰ってポストに入っていた広告の会社に、電話を掛けるかどうするか迷ってた。ちょっと怪しいって思いはしたけど、条件も時給も悪くないし」
「はあっ? お前……それも読んだのかよ!」
「読んだけど?」
「なんでそれっ……早く言わねえ……」
テーブルの上に置いてあった一式を楠見の執務机の上に放り出すようにしながら、琴子に抗議の視線を向けると、琴子は相変わらずの無表情でほとんど睨み返すようにキョウを見つめてきた。
「読んだって言ったらキョウ、怒るじゃない」
「おま……っ、それ……時と場合と内容を考えろよ」
「どういう情報が必要か知らないもの」
しれっとして肩を竦める琴子に、キョウは言葉を失う。
「あのな……ああもういいや、琴子、いま出られるか?」
「いいけど?」
「じゃあ付き合え」
二人は理事長室を出て、校外へ向け走り出した。
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