Daily Life
4年後。
12月6日。
「で、結局香乃は誰が好きなの?」
「ぶふっ!?」
突然の攻撃に私は唾を吹き出してしまった。
親友、君月千明が意地悪げな笑顔で質問を投げかけた。しかしそれはたった今、 青春の真っただ中を生きている私、森野木香乃にとってかなりのキツい質問だ。
「・・・いない」
「嘘だ、いるでしょ。顔赤いもん!」
微々たる私の抵抗も嬉しそうに笑う親友にはまるで通用しない。いないという方向で誤魔化すことは出来ないようだ。
「絶対いや、教えない」
「えー、いいじゃん教えて!」
私も曲がりなりにも高校生だ。当然、好きな人くらいいるに決まっている。
けど、もちろん教えない。教えるはずがない。なぜならここにいる私の親友は口が軽く、誰彼構わずに言いふらし、昨日教えたことが二日で学年全域に広がってい くスピードだ。そんな千明に言いふらすなどという自爆行為はごめんだ。
「なんで教えてくんないの、ひどいよ~!」
隣の親友もとい危険人物の千明は頬を膨らまし、小さな子供のように駄々をこねる。
「そんなの自分の胸に訊いてよ。思い当たる節がないはずないから」
私は少し怒ったようにつんと言い放った。すると彼女は本当に自分の胸に掌を置 いて「んー、わかんない」と、呑気に呟いた。
千明とは中学からの付き合いだが、天然でお馬鹿の千明は昔から少々浮き気味だ 。それでもムードメーカーな彼女はある意味学年でも人気があるので本人はまったく自覚がないし自省もない。天然もここまでくるとメーワクだ。
「あっ!自販機めっけ!ジュース買ってこーよ!香乃」
「うん、いいよ」
でも、千明の無邪気なところが私は好きだった。それでもって彼女の無尽蔵な行動力に憧れた。だからこそこうしていつも一緒にいるのかもしれない。そこのところは私自身よくわからなくてうまく言葉で表せないけど、とにかく千明といるととても楽しかった。
目の前で短い髪を北風で躍らせながら、財布から小銭を漁っている親友を眺める。 そしてなんとか10円玉のみで120円分を挿入し終えると、迷わず冷たい炭酸飲 料のボタンを押した。
ピッ、ガコンッ
乾いた音と一緒に350ミリリットルの缶ジュースが現れる。
「冬でもコーラってさすがに寒いでしょ?」
「いいんだよ、ウチはこれが一番好きだし」
すぐにプシュッと蓋を開けて口をつけた。
そういえば千明がコーラ以外を自販機で買っているところを見たことないな、そう思い返しながら私も小銭を自販機に挿し込んだ。
ピッ、ガコンッ
「ココアにするんだ、でもこの時期ってココアは暑くない?」
後ろで不思議そうに尋ねる声が聞こえる。
いや、温まるから買うんだよと思わずツッコミたくなるが、正直慣れてしまって 今のはなんなくスルーした。代謝が良すぎてどんなに食べても太らない千明はきっと年中夏のような感じなのだろう。そういえば中学のころに一度だけ冬に夏服で登校してきて注意されていたことがあったような………。
気がつけば私が缶の蓋を開ける前に千明がゴミ箱に空き缶を投げ入れていた。指先から離れた空き缶は狭い穴の中に綺麗に吸い込まれていく。よくそこまでうまいこと投げられるものだと感心してしまう。っていうか飲むの早過ぎ。
缶のプルタブをプシュッ、と開けて一口分を喉に流し込む。
「ふう」
ココアの温かさで身体の内側から癒される。この時期はこれだからココアを外すことは出来ないのだ。
カラスのカアッカアッという鳴き声がした。何気なしにそっと見上げてみる。
空は橙色の絵の具で綺麗に塗られている絵画のような幻想的で儚い光景が広がっていた。平和な午後のひと時もなかなかいいものだ。世間では事故や事件がいろいろあるが、なんだかんだでこういう平和が一番幸せなのだろう。
私は大きく深呼吸をして冬の冷たい空気を吸い込んだ。
「けほっけほっ!?」
「何咽てんの、香乃」
「な、なんでもないよ」
ふと、後ろから足音が近づいてきた。反射的に缶を口元に運んでいた手を下げ、 振り返る。そこには見知った顔があったからさらに驚いた。
170cmは余裕で超える身長に凛々しくも飾り気のない無表情、何を読んでいるのかは知らないけど片手に紙のカバーをした文庫本を持って、落ち着いた足取りで歩いていてくる。同じクラスの雨宮湊だ。
「こ、こんにちわ、雨宮」
思い切って呼んでみるも、本人は「おうっ」とだけ生返事を返し、意識は手に持 った本に向いたままだった。そしてそのまま私を通り過ぎ、歩いていってしまった 。
「あれ、香乃と雨宮君って知り合いだったの?」
「いやいや、中学から同じでしょ、千明だって同じクラスじゃん」
「そだっけ?」
親友は首を傾げて考え込むような仕種をする。実のところ、彼とは小学校も同じ 、幼稚園も同じ、というよりも近所でいわば幼馴染みという関係だ。さっきは無視されたような感じだったが昔はとても温厚で優しい人だった。(それでも笑ったところをあまり見たことないが)小学校低学年までは雨宮のお姉さんも含め3人でよ く遊んだし、恥ずかしながら一緒にお風呂に入ったこともある。何より頼りがいが あって、引きこもり思案な私を何度も助けてくれた。
さらに話を最初に戻すと、私が恋しているのはまさにこの幼馴染みだったりする 。それも初恋で、しかも小学校からずっと引きずってきている恋だ。現在に至って は幼少期の私の勇姿はどこへやら、さっきみたいに恥ずかしいやら気まずいやらで 話しかけることですらままならない。
「ねぇ、香乃」
「………」
「おーい」
「…えっ、何?」
つい考え事に没頭してしまい、ぼんやりしていた私を千明が頭に「?」マークを 浮かべながら見つめている。でもまぁ、さすがに千明の頭じゃあ、私が誰について 考えていたかなんて気づかないだろう。
「もしかして香乃ってさ、雨宮が好きなの?」
「へっ!?」
そこまで感づかれた!?
それから近所の中学校の前で千明と別れ、それぞれ帰路に着いた。会話もなんだかんだでいつも通り盛り上がり、別れるのがほんの少しだけ寂しい気がした。
それもいつものことだ。ウサギは構ってくれないと死んでしまうと聞いたことがある。後からそれは迷信だと教えてもらったが、私は独りになったら本当に死んでしまうかもしれない。すでに友人関係に失敗して友達少なだから余計に心配だ。
昔から他人への耐性が皆無だった私、今は初対面の人でも少しはまともな会話ができるようになったが、中学一年くらいのころはもっと酷かった。自己紹介で「わ、 わ、わわたしぃは・・・えーと」という感じで噛みまくり、最後には頭が真っ白になって、自分の名前をド忘れてクラス中が大爆笑という恥態まで晒してしまった。
まぁ、結果としてそのお蔭で千明と友達になれたからいいもの。とにかくあれは 一生引きずる黒歴史になるだろう。
「はぁ」
そうして私は短くため息をついた。
どちらにしろ、雨宮に話しかける数は減ったと思う。いや、今年はメールのやりとりくらいで、実際に話しかけたのはあれが初めてかもしれない。メールでも明日の授業で何が必要だとか、宿題はなんだとかのものを私が聞いているだけで、別に楽しくやりとりしてるわけではない。正直、話しかけれない。彼のことを知っているから余計にだった。
目の前の空は暗い私を表したように向こうのほうが黒くなっていた。さっきまで綺麗なオレンジだったのに、今夜は雨だろうか?
「はぁ、―――私ってホントダメだな」
「どうした、そんなに暗くなって」
「それがね、私ってば・・・」
ふと一瞬、疑問点が脳裏を過ぎった。
私は今、誰と話してるんだろうか?
そう思 って振り返るとそこには大きなカーキのコートに身を包んだ雨宮が立っていた。
「って、雨宮ぁ!?」
「うるさいな、そう騒ぐなよ」
急な展開で慌てる私に対して、彼はあくまで冷静に言い放った。
「うっ、ごめんなさい」
何か言い返すことが出来ず、しょぼんと謝る。
「…すまん、少し冷たかったな」と彼も謝る。
そこからしばしの沈黙が舞い降りた。彼は私を見たまま止まり、私も気まずくて 何も言えないままだった。とりあえず何か言おう、と言葉を探す。
「…こ、これからどこ行くの?」
「本屋」
「あ、新しい本買いに?」
「そうなるな」
「………」
そして、私は力尽きた。そりゃ、質問しても単発でしか返ってこないんだもん、 どう派生していけというんだ。
「何だ、どうした?さっきから黙ったままで」
そっちがちゃんと返してくれないからでしょ、とツッコミを入れそうになる。
「…ご、ごめん」
やはり、昔は言えたそんな親近感のある言葉も今は喉で止まってしまう。情けなくてため息が代わりに喉から飛び出しそうだ。
「・・・せっかくだからお前も来い」
「え?」
「何か言いたそうだけど言い難い、言い辛いって感じなんだろう?帰るまでにまと めておけ。俺はゆっくりと本探すから」
「う、うん」
意外な言葉に一瞬たじろいでしまった。
きっと私はわかりやすいほど暗い表情しているのだろう。そう言う彼はいつも通 り無表情だ。いや、表情のバリエーションなど彼にはない。そう、4年前からずっ と――ー彼は色のない空ろな瞳で眉一つ動かさない、そんな機械みたいなニンゲンになってしまった。(顔立ちのせいか、何故か凛々しい感じで渋いと興味を寄せる 女生徒が若干名いるらしいけど)
実際、クラスでも浮いた存在になっている雨宮。私も友達とかの横の関係は苦手だが、彼はすでにそれに興味すら持たないようであった。幼馴染みという私にだっ て、昔は名前で呼び合っていたのに気がつけばお互いを他人のように苗字で呼び合 っている。
雨宮は私にとって好きな人だ。だがそれ以前に彼は気まずい存在になってしまっていたのだった。
早く行くぞと雨宮が私がさっきまで歩いていた道を機械的に足を進める。そして 私は彼の言われるがまま彼の後ろについて歩くのだった。
さらに日が沈み、雲の隙間から見える空の色が少しのオレンジ色と藍色を混ぜたような不思議な模様をしていた。彼と向かったのはデパートのすぐ向かい側にある少し大きめの本屋、 その後ろ側にひっそりと店を構える古本屋だった。そのわりには、こんな時間だというのに駐輪場に中学生と思われる飾り気のないシルバーの自転車が何台もところ狭しと置いてあった。後から帰りにせまいなと不機嫌そうに愚痴る中学生が目に浮 かぶ。
本屋の前に着くと少し立ち止まった私。
彼も急に止まった私に気づいて振り返った。
「どうした?」
見ればわかるでしょと思わず言いたくなった。だが、はぁはぁと肩で呼吸する私にはそんな余裕なかった。
ここに着くまでの雨宮の歩く速さは尋常じゃないくらい速かった。まず脚が私と違って長く、歩幅の時点で完全に遅れる。しかも彼は私がいることを忘れているの かと疑うくらいの速足で次々と進んでいく。だからこっちは走らないと付いていけないのだ。ついさっきの信号で何とか追いつき、息を整えることができたのが幸いであった。それを見て彼は歩く速さ下げようかと提案してくれるのだが、残念なことに気づくのが遅すぎ。
扉は自動ドアでゆっくりと開く。ほんの1秒程度の待ち時間だが、彼と久しぶりに共に放課後を過ごすと考えると楽しみで、不安で、その小さな時間でさえももどかしくてたまらなかった。
店に入るなりすぐに彼は文庫本のコーナーで本を物色し始めた。たまにこれは面白そうだなとか、これはないなとか、彼の声がこぼれている。よく観ると彼の手の甲には本の情報なのかメモ書きでぎっしりしていて何か不気味なオカルト系の魔法陣かと思うほどであった。でも、人間らしい彼の一面を久しぶりに見れたような気がして少しだけホッとした。というかメモくらいメモ帳とかケータイのメモアプリとかにでもすればいいのに。
真剣に本の背表紙を眺める彼の横顔をそっと覗いてみた。彼の無表情はもちろん変わらない。でも、とても凛々しい綺麗な顔立ちなのは間違いない。やはり残念な ものだと思う。私はまるで夜のゴミ捨て場を堂々と闊歩する純白の白猫を見ているような 感覚になってきた。
「…どうかしたか?」
「へっ!?」
気がつけば怪訝そうな彼がこっちを見ていた。気がつかないうちに長いこと見入っていたらしい。
「え、えっと、その本面白そうだね」
咄嗟に目の前にあった本を指差した。タイトルは漢字とカタカナのなんだか映画にありそうなものだった。というか、咄嗟とはいえ、思ってもないことを言ってしまった。大丈夫だろうか。
「それか…。それは俺から言わせてもらうとあまり面白くなかったな。展開も台詞もクライマックスもベタで内容も薄めだった。王道で勝負するなら面白さが足らない」
なんとか見つめていたことは誤魔化せたようだ。それよりきちんと返答してくれたことに驚いた。正直な気持ちとしてさっきの質問はスルーされるものだとばかり思っていた。また少しだけ温かい気持ちになる。
「…なんなら、俺のオススメ貸してやろうか?」
いきなりいつもと変わらない表情でそう言い出だした。あくまで私の主観だが、彼の表情に変化があるような気がしてならなかった。きっときのせいだろう。そう 心に言い聞かせて、なるべく表情に出ないようにして私は口を開いた。
「ううん、今は遠慮しておくよ、また今度貸してほしいな」
「…おう、用意しとく」
やはり変化はあるきがする。これはきっと感情と呼べるものだろう。周りから彼には感情がないという言葉を聞いた事があるが、雨宮にはまだ感情はある。その表し方を忘れただけなんだ。
彼はそれからも黙々と文庫本を漁っていた。仕方なく私は本屋をブラブラ歩いて みることにしたものの、当然本屋は不気味なほど静かで、本に興味があまりない人にとってはこれは長居したくないところである。悠長に説明する私も本はあまり得意ではない、急いで漫画コーナーに逃げ込んで彼の用事が終わるまで時間を潰した 。
「おい」
横からいつもの無感情な低い声が聞こえた。振り返ると5冊ぐらいの文庫本をビニール袋に押し込んで、それを左手からぶら下げている雨宮がいた。
「もう終わったの?」
彼はコクリと頷いた。少し漫画の続きが気になるが、雨宮に用がある形でここにいるわけだからここに残る必要などない。私は何も言わず、背を向けて出口へと向 かう雨宮の後ろについて歩いた。
それから、私たちはずっと黙ったままだった。駐車場を横切るときも、歩道を歩く彼を走って追うときも、信号で青い光を待っているときも、民家の間を進むとき も、口を開かなかった。その沈黙が不安と安堵を同時に胸に運んで貯めていくから 私はなんだか窮屈な気分になっていた。
気がつくと冬空はすでに夜で、さっきまで空を覆っていた雲はどこへやら、空は濃い藍色で染まっている。それどころかキラキラと星がとても煌びやかに輝いてはいる始末だ、でもよく見ればそれ以外のところは雲に覆われていた。結局まだ晴れ ていなかったようだ。きっとじきに真っ暗になってしまうことだろう。それを見て自分が何を感じたのかは自分でもわからないけど、何故か私はそれから顔をそらし た。
二人で口を開くことなく歩いていくと見慣れた川原にさしかかった。彼はいきなり立ち止まり、遅れて走ってくる私が追いついてから目を細めて言った。
「そういえば、何が言いたかったのか整理ついたのか?」
その問いに私は曖昧に微笑んだ。暗くてむこうにはそれが見えていないかもしれないけれどそうするしかできなかった。
正直、言いたいことなんて山ほどある。具体的に手紙に書き出すと富士山を軽く超えるほどの山にできる自信さえある。しかし私には、言えなかった。今までずっ と、もちろん今日も言えないだろう。すると彼のほうから急に思いがけないことを 口にした。
「…ここの川原、覚えているか?」
「えっ?」
予想外の言葉に、そして触れたくなかったことに胸がきゅうと締め付けられる。
「俺らが昔さ、よく遊んでいたとこだ」
そんなこと、もちろん覚えている。忘れるはずがない。
「…うん」
しかしまた曖昧な返事しか吐き出せなかった。
「……姉貴とも」
その瞬間、私の思考は完全にフリーズし、胸にさらなる激痛を覚えた。
「なんだか……懐かしいな」
暗がりの中、彼は遠くを見据えるように目を細めた。今の彼は一体何を見ているんだろうか?
昔のことを、あの日を見ているのだろうか?
雨宮琴、彼女は雨宮湊の実姉であり、昔の私の友人である。優しくて、お節介焼きで、ちょっとドジで、ときに強くて、変に几帳面な、そんな頼れるお姉さんだっ た。彼にとってもそうだろう。実際に歳は4つほど離れていたため、自然と大人っ ぽく見えただけかもしれないが。私たちの家は徒歩5分もかからないほどの距離にあり、幼いころから遊んでいた。いわば彼女とも幼馴染みだ。私と湊が中学校に中学したとき、とても楽しそうに中学のことを教えてくれたのを今でも覚えている。
「部活は大変だけど楽しいよ」
「毎日勉強しないとテストで酷い点数になっちゃうよ」
「あの先生がとても面白いんだよ」
「授業中居眠りしてると本当にチョーク飛 んでくるんだよ」
その一つ一つに湊が屁理屈言って反論したのも覚えている。そのときはよく3人で笑っていた。
気がつけば私たちは冷たい川原の草の上に腰を下ろし、並んでどこか遠くを見つめていた。横からなんとなく覗く彼の瞳は暗闇に何かを探すように忙しなく、それ でいて疲れているように動いていた。彼は今もきっと認めたくないのだろう。
湊の表情のないの理由。
琴さんが死んだこと。
事故だった。
いきなり歩道に飛び出したコントロールを失った暴走車が湊に目掛けて突進して きた。
ーーー危ない!!
彼女の最後の言葉だった。
当時、私もその現場にいた。けれど気がついたら目の前は鉄の塊で視界が奪われ 、何が起こったかまるでわからなかった。
鉄の塊が視界から消えたときに飛び込んできた現実は目を逸らしたくなるような惨状だった。ただ3人で仲良く、気ままに買い物に行っただけなのに、たまたま帰 りに新しくできた橋を通って行こうということになったばかりに。トラックはその まま橋から琴と共に転落し沈んでいった。
ーーー姉貴ぃぃぃ!!!
そのときの彼の叫びは今も私の脳裏にしっかりと焼きついている。
死者1名、あの暴走車の運転士は奇跡的に助かり、そして琴さん1人が犠牲になった。
そのあと、琴さんの葬式に彼は来なかった。あの日から彼から「表情」というも のが消え失せ、彼を慕う友人も彼から離れていった。やがて、彼を見ているのは私だけになった。
「…なあ」
小さい、嗄れた声で雨宮は話しかけた。
「あの日、覚えているだろ?」
それはおそらく事故のときの事なんだろうとすぐに覚った。
「…うん」
「お前はさ、あれは何がいけなかったんだと思う?」
「…」
琴さんの葬式の日。結局来なかった湊を心配して私は急いで彼の家に走った。そのとき、同じ質問をされたことがある。今みたく、空ろな瞳で何がいけなかったんだと。
私はーーー
「ーーーわからないよ」
そのときも答えることができなかった。
「…買い物に行こうって言ったの俺だし、姉貴誘ったのも俺だ、あの橋見に行こうとか言ったのも俺、姉貴が庇ったのも、俺なんだよ」
彼は俯きながら私でない何かに語りかけるように言った。その言葉もまた、同じ 答えだった。
あのときと…。
「違う!雨宮はーーー」
「じゃあ、誰が悪いんだよ」
落ち着いていて、かつ冷静で憎悪に溢れる声音だった。暗がりで見る雨宮の眼は 獰猛で無感情な黒い目をしていた。誰に向けられたわけでもない眼光、それだけで身の毛のよだつ恐怖心にとり憑かれた。
彼の、今も4年前も変わらないところだった。自分自身を嫌っていて、罪悪感で今 にも潰れそうな男の子。
彼が一体何をしたというのだろう。
大事な姉を目の前で失い、そのせいで彼自身の青春も失いかけている。誰かの陰謀だ。悪い奴がいてそいつが企んだんだ。そうであれば、憤りの的があればまだよ かったのだろう。しかし、現実は違う。もしかしたら初めから自分が悪いんだと考えていたのかもしれない。
でも、私は罪悪感で潰れていく雨宮を見たくはない。
「…雨宮」
しかし、私は声に出してそう言うことが出来なかった。代わりに目が熱くなって 、痛くなってわからなくなった。今日ほど自分自身を本気で嫌になった日はないだろう、自分の臆病な性格を呪いたくなるくらいだ。
「すまない、少し熱くなり過ぎた」
そう言って彼はすぐに腰を上げた。そのまま長い脚で、追いつけない速度でどんどん先へと遠ざかっていこうとする。
私は咄嗟に手を伸ばした。声を出そうと口を開けた。
「…また明日な」
だが、去り際に振り返ってそう言った彼のあの悲しそうな無表情に私は何も出来 なかった。
そっと私の頬が濡れる。いつの間にか降り出した雨なのか、それとも私自身の涙だったのか、そのまま私は濡れた草土の上に崩れ落ちた。
その夜、私はとにかく泣いた。泣くこと自体が相当久しぶりかもしれない。止めようと、泣き止もうと思えば思うほど涙はますます流れ出る。まるで外で降る雨の勢いがどんどん強くなっていくように。やがて頬から流れた雫はポタポタと落ち、 枕に涙の湖を作るのだった。
私は怖かった。
彼がこのまま閉ざしてしまうのが怖かった。こんなにして自分を追い詰めようとする湊が怖かった。そしてそんな彼に何も出来ない自分自身が怖かった。
思いの丈ならあの運転手にでもぶつければよかったんだ。だって湊は何も悪いこ となんてしていないのだから。どんなにいい人で反省していても琴さんを殺したの はその人なんだ。一発でも殴ってやれば良いのに。でも彼はそうはしなかった。湊は優しすぎるんだ。彼はただ琴さんといっしょにいたかっただけなのに大事な人を奪われ、その責任を自分に押し付けて、潰れかけて苦しんでいる。
怖いと同時に辛かった。
「・・・今日は厄日なのかな」
そっと呟いてみた。
私の消えそうな声は雨音で掻き消えるだけ。
そんな想いはこれで何回目だろうか?
「・・・みなとぉ」
そうして私は涙に溺れ、まどろんでいくのだった。
朝、登校時に私は背中に嫌な汗をかいていた。ベタッとした気持ちの悪い汗。昨日あれだけ雨が降ったんだ、湿度のせいかな、と違うとわかって言い訳を考える。
あんなことがあって気まずくないはずがない。どうせ同じクラスで後で会ってしまうのに、私は湊に会わないようにと祈りながら速足で学校に急いだ。
しかし神様というのは相当意地悪らしい。
どんっ
「ご、ごめんなさい」
下を向いて歩いたせいか、前を歩く人に気付かなかった。それが誰なのかも気付かないでぶつかってしまった。
「・・・森野木」
雨宮だった。速足がかえってこの事態を招いてしまった。
「おはよう」
こんなにも緊張していたのに彼は何事もなかったかのように、いつもの素気ない挨拶を送ってきた。でも、いつも彼を見ている人にはわかる。
今日の彼はやけに哀しそうで暗い。
「うん・・・おはよ」
しかし、私は弱いのだった。哀しんでいる、苦しんでいる幼馴染みの変化にも気付かないフリをするのだった。
私は唇を強く噛みながら、さっきよりも速く彼を通り過ぎて逃げるように校門ま ですすむのだった。
「おっはよ!香乃」
「うん、おはよう」
教室に着くなり私の親友が新幹線のごとく私の席へと急行して見せた。
「どうしたの、元気ないじゃん」
彼女はいつもの明るさで前の席を拝借した。どうせまだ席の主は来ていないわけだし、別にいいだろうけど。それよりも今は千明のテンションに合わせる気分じゃなかったから「別に」と突き放すように言った。
「なにぃー、もしかしてフラれたとか?」
「違うし!」
「じゃあフった?」
「私が落ち込む理由になってないし!」
そんなこと考えながら結局千明のペースに呑みこまれるのだった。
「でも、本当にどうしたの?」
一通りボケとツッコミのやりとりをしてから千明が心配そうに首を傾げた。彼女 の童顔が目の前に迫ると少しだけドキッとする。
「別になんでもないって」
さすがに親友と言えどもこれは話せない。
「だって、顔に書いてあるよ?香乃顔に出るもん」
「えっ、嘘?」
耳まで熱を覚える。
「ほら、赤くなった。図星だな?」
にやりと千明が笑う。その無邪気な笑顔には彼女なりの優しさがあった気がした 。あくまで気がしただけだ、だって私は千明の表情を読むことだ出来ない。私が鈍感なだけかな?
ガラガラガラ―ー―ッ
不意に教室の扉が開かれる。誰もそんなこと気にも留めていないだろうが、私1 人が不安と焦燥に肩が重くなった。私はそっと目を合わせないように、彼が入って くるのをこの目で認めた。
悠然と彼は教室に足を踏み入れた。そして何食わぬ顔をして私の前の席に移動する。
「おっと、雨宮君ごめんね」
急いで千明が退く。
「ああ、気にするな」
そして彼は私の前に座った。ここが彼の席であることを今日ほど呪うこともないだろうと俯いた。
「・・・・・」
湊は昨日の出来事を気にしていないのだろうか?そう思えるくらい彼の態度は普通に見えた 。でも、彼の表情は登校時と変わっていない。むしろ余計に強くなったかもしれない。
そこまで分かってしても私は声が出なかった。喉の奥に何かがつっかえて声音として私の口から発せられなかった。
なんだろう、何で私にはこんなことを言うだけの勇気すらないのだろうか?
嫌だな。
「香乃?」
ポタポタという音が聞こえる頃には私の全身は小刻みに震えていた。
「・・・行こ」
すると突然、千明は私の手を無理やり引っ張ったのだ。一瞬身体の態勢が崩れて転びそうになる。
「ちょっと、千明?」
「いいから来てよ」
千明は有無を言わせずにグイグイと手を引いていく。一方の私は涙を流しているのを見られたら格好悪いと焦って拭いながら、ただ千明に引かれていくのだった。
親友に引っ張られて辿り着いたのは施錠された屋上の扉の前だった。掃除も行き滞っておらず、少々埃っぽい。よく街の裏路地とかトンネルとかにありそうなスプ レーの落書きまでされている始末だ。もう荒れ放題である。
「ちょっと待ってね」
千明はポケットからドライバーを取り出した。なんでそんな物を所持しているのかという疑問は後で本人に聞いてみるとして、彼女は屋上への扉のすぐ隣にある窓に飛びついた。
「千明、何してるの?」
「もうちょっとだけ待ってよ」
千明が慣れた手つきで指でドライバーを操り、埃のかぶった窓から螺子を抜き取った。もう玄人の窃盗犯みたいに数秒で開錠してしまったのだ、なっちゃいけないプロの領域だろうに。
「ちょっと狭いけど、出れるから。私の後について来て」
そういうと彼女は小柄な身体を窓にすり込ませ、軽々と屋上へ出て行った。それと前めりに入り込んだから、こっちからは縞模様のパンツが丸見えだ。アクティブな娘ってこういうのは気にならないんだろうか。
続いて私もパンツが見えないように用心しながら窓に身を乗り出した。
同時に、頬をそよ風が撫でて行った。
「・・・」
無意識的に言葉を失う。
冬の風なのに思ったよりも寒くはない。昨日の豪雨が嘘のように晴れ渡った空から流れる風は、むしろ心地よいほどだ。ふわりと風が髪を持ち上げ、私の身体と心を少しだけ昂ぶらせた。
「えへへっ、大人しい香乃お嬢様は屋上なんて来たことないでしょ?」
一番近くの金網に凭れ掛かった親友が得意げに微笑んだ。千明の言うとおり、確かに私は屋上なんて一度も目の当たりにした事がない。そこは認めざる得ない。
「お嬢様とか皮肉はいらないよ」
窓を通り抜ける時についた埃を払いながら、私も意地悪な気持ちでそう返した。
「あれ、皮肉いらないの?私さ、香乃ってドMって思ったいたんだけど」
「勝手に変態にしないでよ!」
チョップと共に思わずツッコミを入れてしまった。千明と友達になってからいつもこんな調子だ。彼女のキャラだとそうなってしまうのも仕方がないことだろ う。
「痛いな~!」
頬をフグみたいにプックリと膨らませたと思えば、私の懐に潜り込み、両の手で脇の下をガッシリと掴んだ。
「ひゃ!」
あまりの刺激に変な声を出してしまう。
「こちょこちょこちょ!」
千明の指はさらに蠢いて刺激を次々に押し付けた。
「ふぁ、ふぁぁぁぁぁぁっ!!や、やめれぇぇ!」
「にゃははははっ!やめるわけないだろぉ!」
こちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょ・・・・・。
キーンコーンカーンコーン!
「えっ?」
気がつけば始業のチャイムが私たちの意識を現実へと駆り立てた。
「ええええっ!?」
「あちゃー、少し遊びすぎたかな」
能天気にも目の前の親友は小さく舌を口から覗かせて「てへっ」などとふざけている。でもそれどころじゃない。
「もう、本当に何やってるの!」
少しだけキツく言うと片手を前に持ってきてごめんなさいとジェスチャーし始める千明。逆に何をふざけているんだとチョップしたくなる。うちの親友も大概なものだ。
「・・・それで、もうすっきりしたの香乃?」
突然の言葉に私は目を点にした。
「まったく、いい歳して泣くなんて恥かしくないのー?」
悪戯に笑みを浮かべながらぐいっと私の顔を覗き見る。
…気遣ってくれてたんだ。
今初めて気付いた。千明は千明なりに私に元気を戻そうと動いていたんだ。そう気付いてしまった途端に胸の奥が温かいものに包まれるのを感じた。
「それじゃあ、授業始まってるし行こっか」
「・・・千明」
「んー?」
「…ありがとね」
親友の頬が赤く染まった。珍しいその表情に私は少しだけ笑うことが出来た。
後ろから冬の風だけでない何かががそっと背中を押してくれた。特に理由なんてない。私はそんなふうに感じた。
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