紅い花 3/3
『まだら模様』
もしあの時、ベルが僕を呼ばなかったら。
僕の頭の中には、あいつが押して鳴ったそのベルの音が繰り返し鳴り響いていた。
あいつ……。友人であるその人が僕を訪ねて押した家のベルに過ぎないのに、なぜこう何度も頭の中で鳴り響いているんだ。訪ねてきたあいつを僕は家の中に招き入れた。それは大した事じゃない。いつも当たり前のように行われる事だし、あいつが僕の家を訪ねてくる事も、なんら不思議な事ではないのだ。
じゃあ、なぜ僕の息は今こんなにも荒くなっているのだ。右手に強く握られている花瓶、辺りに散らばった水、床に落ちた花、そして頭から血を流して倒れているあいつ以外には、僕の部屋に異常などない。
僕の持っている花瓶に付着したあいつの血が溢れて床に落ちた。僕はあいつをこの花瓶で殴り殺してしまった……?まだ息はあるのか……?僕の脳は物事を最初から整理して、ようやく僕が、今床に倒れているこの人間の事を殴ったのだと確信した。
しかしそれに気付いたのは、十分に遅過ぎた。床に倒れている人はもう倒れたままで、これ以上僕にはどうする事もできなかった。
僕が悪いのだろうか?……いや、それは違う。あいつが、この部屋になかった匂いを蘇らせようとしてしまった事がいけないのだ。僕はただ、この部屋を占拠している殺風景な風貌を守ろうとしていただけで、この部屋には花瓶に添えられた花の色以外は何一つあってはいけないんだ。
それなのに、あいつは言ったんだ。
「最近、みゆきと付き合い始めたんだよ」
あいつはただそう言っただけだ。でも、それはとてもいけない事なのだ。”みゆき”という人間の匂いをこの空間に落としてはいけない。二年間、この部屋に匂いだけを残して突然姿を眩ましてしまったあの日以降、ここにはみゆきを存在させてはいけないんだ。だから僕は、それまでに使っていた全ての家具を捨てた。少しでも匂いのついているものは全て捨てた。部屋中に消毒を撒き、持っていた洋服も全て燃やした。
それなのに……。それなのにあいつは意図も簡単にこの部屋に”みゆき”の存在を落とした。それは、本当にいけない事なのだ。
「みゆきな、言ってたよ。今はお前に謝りたいって、でもどういう顔をして会いに行ったらいいのか分からないって」
あいつの言葉を聞きながら、僕の血が急速に体中を巡る感覚を抑える事ができなかった。熱はどんどんと上がっていって、頭はすぐにでも内部から破裂してしまうのではないかと思う程の痛みを感じていた。
「あの時は、本当に我慢ができなくて、息が詰まりそうだったけど、今では本当に悪い事をしたって……。みゆき、今外に」
あいつがそう言いかけたいるその時に、僕は右手に持ったその花瓶であいつの頭を思いっきり強打した。脆い音と共にあいつは床に倒れこみ、花瓶から溢れた水で僕の腕が濡れた。頭を抑えながら、低い声を出しているあいつを更に叩く。あいつの鈍い動きが完全になくなってしまうまで、何度も殴り続けた。
部屋は驚く程に静かで、この世界から音がなくなってしまったのではないかと錯覚してしまう。あいつはもうピクリとも動かない。
音のない世界は、異常なまでに僕の心を不安に晒した。
”どうしたらいい”
ベルの音がなくなったと思えた頃、今度はそんな声が頭の中で繰り返された。
”どうしたらいい”
その声を聞く度に、僕の息はみるみる上がっていった。息の吸い方と吐き方を忘れてしまい、それらのコントロールができなくなる。呼吸の動作は壊れた体が、壊れた速度で勝手に繰り返した。頭がぼーっとして、目眩が続く。
僕はフラフラする体のまま外に出た。何の理由があった訳でもないが、ただこの場所にはいたくなかった。今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。
朦朧とする意識の中、道に出る。真っ暗闇の広がる空に、冷たい風が吹いていた。息は荒いままで、視界もはっきりとしないままだった。
ふと顔を上げると、そこには一輪の花を持った女の子がいた。何度も僕に花をくれたその女の子だった。辺りが暗いせいか、それとも僕の視界が曖昧なせいか、女の子が着ているワンピースの色がうまく判別できない。それなのに、その子が持っている花の色はとてもよく見える。……どこかで見たような花だった。それはたしかに僕の記憶の中のどこかにしまわれている花なのだ。紅でもなければ、白でもない。紅い斑の花。
……そうだ。さっきだ。僕は今さっきその花を見た。あいつが倒れているその床に落ちた真っ白な花に、あいつの血が飛び散った。そしてそれは奇麗な紅い斑の花だったのだ。なんで女の子がそんな花を持ってる?それよりも、なんで女の子がここにいるんだ?……君は、誰なんだ?
女の子は僕を見て、ニヤニヤと笑っていた。体の真ん中で紅い斑の花を一輪持ったまま。
「これはあなた」
女の子は僕を指差している。突然息が荒くなり、熱が異常な程に上がっていくのを感じる。女の子の先にみゆきの姿を見た。二年前とほとんど変わっていないその姿は随分と懐かしさを感じさせたけど、僕は今何よりも、ただ紅い花を求めているんだ。もう一度見たい。僕はもう一度紅い花を見たい。斑でもない、白でもない、真っ赤に染まった紅い花。
僕は朦朧とする意識の中女の子に近づいていき、斑模様の紅い花をその手からむしり取った。そして、右手に持った花瓶を強く握り閉め、みゆきへと歩を進めた。
ただ、この花が紅く染まるようにと。
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