心理描写の『短編小説』

古びた町の本屋さん

紅い花 1/3

『紅い花』


 音もなく雪の降っていたその日、真っ赤なワンピースを着た女の子が僕に一輪の花を手渡した。


 紅い色をした一輪の花。この花の名前は何というのだろうか。


「この花の名前はなんていうの?」


その女の子は僕を真っ直ぐに見つめたまま、静かに答えた。


「この花に名前はないの。これは、あなたなの」


僕にはその女の子の言っている言葉の意味が理解できなかった。この花があなた?右手に持った花を見つめながら考えを巡らせていると、女の子はそそくさと駆けていってしまった。


 雪の降る道に取り残されたまま、僕はその紅い花を持って立ち尽くした。寒さが体中を支配して、吐く息は白い水蒸気となり、やがて外の冷たい空気と同化していった。女の子の走り去る後ろ姿は、その真っ白な雪の積もった世界の中では随分と目立っている。女の子が着ていた、赤色のワンピースのせいだろうか。




 家に着き、さっき貰ったばかりの紅い花を挿すために花瓶を探した。うちに花瓶なんてあるだろうかと、半ば半信半疑でいくつかの戸棚を探していると、一番奥の方から透明な一輪挿しの花瓶を見つけた。もうすっかり忘れ去られてしまった記憶の中で、いつか僕の大切な人がプレゼントしてくれた花瓶だった。あの時、なぜ彼女は僕に花瓶なんてプレゼントしたのだろう。花なんて興味を示した事はなかったはずなのに。それでも彼女は僕にその花瓶を贈ったのだ。


「花は心を落ち着かせてくれるから」


僕に手渡す時にそう言った彼女の言葉は、まだ花瓶の底に残っているかのように、僕の頭の中で鮮明に蘇った。


 僕と一緒で、すっかり凍えてしまったその紅い花を花瓶に挿した。とても奇麗な紅い色だ。彼女が言ったように、それはたった一輪の花なのに、部屋全体を明るく灯してくれているように感じられる。それまでほとんど何もない殺風景な部屋が紅い色に染まった。


 ”赤”ではなく”紅”だと、僕はこの花を一目見た時から直感的に感じていた。そして、さっき僕に花を手渡した女の子の赤色のワンピースが思い出される。


 あの女の子が着ていたワンピースも、この花の色に近い。”赤”ではなく”紅”であった事を思い出し、その子が言った「これは、あなたなの」という言葉が僕の頭の中で繰り返されている。


 あなた?


 不思議だった。この花が僕であるという事も、女の子が突然僕に花を差し出した事も。




 紅い花は、何日も僕の部屋を灯し続けてはくれなかった。たった数日で老いてしまった花は、色が掠れ、ぐったりとうなだれている。そして、僕を恨むような目つきで見ているような気もした。女の子に差し出された時の生き生きした風は既に感じることはできず、辛うじて息を繋いでいる老人のように見える。大切にしていたはずなのに、あっけなく生を終えてしまった。


 花の命は短い。


 僕の扱いが良くなかったせいなのかもしれないと反省の念に捕われたけれど、そんな事をしてみたところで、目の前の花が息を吹き返すなんて考えられもしなかった。


 僕は花瓶からその花を優しく持ち上げて、ゴミ箱の中に放った。




 それから数日が経ち、僕は花瓶を片付けていないことに気付いた。この部屋で毎日暮らしているにも関わらず、その花瓶が出しっぱなしになっている事に僕は全然気付いていなかったのだ。花の挿していないその透明な花瓶は、それ自体では酷く存在感の薄いものに感じられ、そしてなぜだか僕はとても悲しくなった。もう全て忘れてしまったはずなのに、僕の心が痛む事をどうにも隠す事ができない。


 紅い花が抜かれた、あの日のままそこに放置されていた花瓶は生きる糧を失くしてしまっているように見え、そして孤独にも見える。中に入ったままになっていた水はまだ透明のままなのに、それでは足りないみたいで、そしてその水もまた、自分の仕事を失ってしまった悲しみにくれているようだった。


 また別の花を買って、この花瓶に挿してあげよう。花瓶を見ていると、そう思わずにはいられない。そうすれば、この殺風景な部屋もまた少しは明るくなるような気がした。


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