悪役令嬢の憂鬱な溜息

木の実

第1話 そして、彼女は転生する

 20XX年4月1日。エイプリルフール。年に一度だけ嘘を吐いても良い日だ。

 佐藤 文(さとう あや)、24歳、独身、OL、彼氏いない歴=年齢の彼女も今、目の前で起こっている出来事を嘘にしたかった――


 思えば今日は朝から運が悪かった。

 出勤途中の近所にある大家さんの家で飼われているゴールデンレトリバーにわんわん吠えられ、満員電車で足を思いっきり踏まれたり、会社では慣れている筈の業務でミスを連発し、上司にくどくどと説教され、飲み会では恥ずかしい話を暴露され、文は自棄酒をあおりすぎて千鳥足な現在。それが悪かったのだろう。

 赤信号の交差点で不意に目眩を覚え、千鳥足のまま道路に出てしまったのだ。丁度通りかかった車が突っ込んで来るのを見ながら、文は終わった、と思った。

 ――お母さん、お父さん

 最初に思い浮かんだのは両親、そして、祖父母、友人、知人の顔が浮かんでは消えていく。次に浮かんだのは小さい頃によく遊びに行った神社や公園。小学校の頃、走り回ったグラウンドと春は桜に包まれる校舎。中学校の頃に初めて書いた小説と漫画、高校では漫画研究部に入り、漫画と小説の世界にどっぷり浸かった事。大学に上がって、課題に追われたり、就活で挫折を味わった事。会社に入って、仕事に追われるようになり、やっと慣れてきたこの頃――折角、慣れてきたのになぁ、と文は溜息を吐きながら思った。

 死に際に走馬燈が走るのは本当の事だった様だ、と。

 キキイィ、という甲高いブレーキ音が周囲に響いた。激しい衝撃と激痛の後に、文は完全に意識を失った。


 彼女は微睡みの中にいた。

 あたたかい何かに包まれている感覚とどこか懐かしい匂い、微かに聞こえる歌。どれもこれも優しく彼女を守ってくれる。彼女は微笑みを浮かべた。

 ――なんて、あたたかいのだろう……

 うっすらと眼を開くと、其処には金髪碧眼の美女が穏やかな笑みを浮かべて、彼女を見ていた。

 彼女は驚いて目を見開いた。

「あら、起きてしまったの、アリシア」

 金髪碧眼の美女が鈴を転がすような美しい声で彼女に語りかけた。

 ――なんで、私はこんな美女に抱かれてるの!?

「あぅ、だぁー」

 心底、驚いた彼女が発したのは言葉にならない声だった。彼女は吃驚して自分の口に手をやった。その手の大きさも可笑しかった。あまりにも小さい紅葉のような手だった。

 ――私の手って、こんなに小さかったっけ

 彼女は混乱した。混乱したまま言葉を紡ごうとしても意味を成さない擬音ばかりが口から出ていくだけだった。

「よしよし、良い子ねー」

 金髪碧眼の美女が彼女をあやすように揺さぶる。

 思い出す最後の記憶は車だった事、今の彼女はどうやら小さくなってしまっている事を思い、彼女は観念した。

 ――どうやら私は赤ん坊に転生してしまったようだ

 と、冷静に現状を理解したのだった。

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