There's no...

雨宮吾子

01

 夢を見ていた。

 それは、憧れの人と近所の銀杏並木を歩く夢だ。私たちは黄金色の絨毯の上を木漏れ日を浴びながら歩いていく。その先に待つのは丘の上の小さなチャペルで、お父さんとお母さんと妹、それに沢山の友達が私たちを祝福してくれている。私たちは手を取り合って天国への階段をゆっくりと昇っていく。歩を進めるごとに私の心を満たしていくのは無上の快楽だった。この人と一緒ならきっとどこでだって生きていける、そんな確信が私の胸いっぱいに広がっていくのだった……。

 ぼんやりと目覚めた私は、無自覚の少女趣味に恥じ入った。大きく無機質な勉強机が三分の一を占めるこの部屋からは、ありきたりな少女漫画のような志向を決して感じ取ることはできないだろう。それでも心の奥深くに、愛する人と結ばれたいという想い、世界中から祝福を受けたいという想いが存在することは疑いようもなかった。それはきっと、昨日の晩にお父さんから聞かされたあることが原因なのだろう。

 あの人が来る!

 あの人とは、もちろん私の憧れの人だ。彼は私の五つ上――私は今年で十七歳になった――の従兄弟で、とても優しくたくましい人だ。それは体格がたくましいというわけではなくて、困難に遭遇しても逃げずに立ち向かえるし、自分の意志を貫くことができる、そういうたくましさを持った人だ。見た目は平凡かもしれないけれど、私にとっては立派なお兄さんだ。学校を出てからは地元の工場に務めていて、今度から遠方に出稼ぎに行くということだった。きっと中央に出て行くのだろう。あの人ならどこへ行っても通用する、私は勝手にそんなふうなことを考えていた。

 ただ、それは長いお別れを意味していた。今までですらあまり頻繁に会うことはなかったのが、今度からは距離が遠くなってもっと会えなくなってしまう。それが悲しいのだ。それに自分自身の無力さも悲しかった。もしもあと三つも年を取っていたなら、せめて高校を卒業していたなら、そのときには私はすっかり大人びていて彼も私のことを認めてくれていたかもしれない。でも、五つも下の子供なんか相手にしてくれないだろう。私は年の割に大人びていると言われるけれど、今はそのことが腹立たしかった。

 アラームが鳴った。もう起きなければならない。

 私はベッドを出ると着替えなどを済ませて食卓についた。先に起きていたお父さんと朝の挨拶をし、その後にサラダを運んできたお母さんにも挨拶をした。妹はまだ起きてこない。いつも通りの朝だった。


「智子、今日は正隆が来る日だ。学校が終わったら迎えに行ってあげなさい」

「分かりました」


 私はいつものように素直に返事をしたのだけれど、私の彼への――お父さんのように正隆くんと呼ぶのは気恥ずかしい――気持ちに勘付いているお母さんは、私に微笑みを向けてきた。私は少し恥ずかしくなって、テレビを見るふりをして視線を逸らした。今朝のニュースでは最近明らかになった「九月擾乱」の話題が取り上げられていた。数カ月前の九月のこと、火星である暴動が起こったというのだ。火星の情報が統制されているのは珍しいことではなかったし、擾乱の規模自体が小さく、また既に鎮圧されたものだったから、重大な問題として取り扱われなかった。

 しかし、私のお父さんは例外だった。問題が明らかになったとき、私は擾乱という言葉の意味を知らなかったのでお父さんに尋ねたことがある。お父さんはその意味を簡単に教えてくれて、それで私は満足した。けれど、お父さんは言葉を継いでこの事件の問題性を語り始めた。情報が錯綜していると言い張って問題を数ヶ月間も隠していた政府を批判し、正確な情報を流すべきメディアの政府への追従を批判し、社会問題に関心を持たない人々を批判した。いつになく白熱する様子を見ながら私は驚いた。それは、私の知らないお父さんのある一面だった。

 今朝も九月擾乱の話題が出ていたから、私は逸らしたはずの視線をお父さんに向けざるを得なかった。お父さんはいつもの穏やかな表情でサラダを食べていた。私は少し、ほっとした。そこへ妹が起きてきたので、私はその気持ちをバネにして声をかけた。


「頼子、遅いわよ」






 学校が終わり、最寄り駅から自宅までの道を歩いているときに、私は彼方に追いやっていた今朝の夢のことを思い出した。駅の正面から住宅街へ向かう道が、あの夢に出てきた銀杏並木だった。夢の中とは違って今は冬だから風景としては寂しいものがあるけれど、それでもこの道を歩く人々はどこか誇らしげな表情をしていた。駅の周辺はどこも明るく清潔な街並みでそこを通行する人も同じような調子だ。それが中心部から郊外へ向かって行くと様子が変わってきて、古い民家や寂れた商店などが目立つようになり、やがて放棄された地区にたどり着く。この国はどこでも同じような構造になっているのだ。

 今、世界は過剰な人口を支えきれなくなってきている。以前に先進国と呼ばれた国々では、移民政策が破綻して他所から来た人々が実権を持つようになったり、あるいは移民政策を破棄して沈みゆく船にしがみつくようにしていて、いずれにしても見る影もない状況だ。この国は遅れていて、他国の移民政策の失敗を知っているから、最初から移民政策を採らなかった。それでいて有効な少子高齢化対策もできなかったから、この国では労働人口が減少していっている。そのために私たちの生活圏も縮小していって、今のような構造が生まれたのだ。

 ……これはお父さんが私に教えてくれたことだ。正直に言えば、私にはまだその仕組みを理解するのは難しい。でも、実際にその構造の中で生活しているから分かることもある。中心市街には富裕層が集まっていて、郊外には移住のできない貧困層が暮らしている。そして放棄された土地には危険が潜んでいる。危険、危険とは何だろう? それもお父さんが教えてくれたことだったけれど、構造の外にあるものをまだ子供の私が理解できるわけがなかった。

 私の憧れの彼は、郊外に暮らしている。だけど貧乏というわけではなくて、実家が農業をやっているのだ。今の時代に農業をやっているなんて言うと馬鹿にする人もいるけれど、私たちの暮らしを支えているのは彼らなのだからそれはおかしい。でも、私がそのことに気付くことができたのは彼のおかげなのかもしれない。彼がいなかったら、私は、何も知らない羊たちの中の一頭になっていたかもしれない。

 それで、彼の実家は農業をやっているのだけれど、出稼ぎに行くということからも分かるように、彼は長男ではない。長男じゃないから、というのも考えてみれば不思議な理屈だけど、古い時代から受け継いできた価値観なのから、とこれもお父さんの受け売りだけどそう思った。その彼は、公営バスに乗って市街へやって来る。彼の叔父である私のお父さんに別れを告げに来るのだ。そして、私はそれを迎えに行くのだ。






 バスを降りてきた彼は私の姿を見るやいなや、


「大きくなったなあ」


 と言った。でも、私はまだまだ子供なのだ。胸の膨らみが足りないからそう感じるのかもしれないけれど、実際に私はまだ十七歳なのだ。そういう複雑な感情と緊張のせいで、私は曖昧な表情で会釈することしかできなかった。

 彼はそんな私の気持ちに気付いていないのか、それとも気付いていながら気にしなかったのか、もしくは気付いていたけど私の心中を察してくれたのか、とにかく私と並んで銀杏並木の方に向かって歩き始めた。


「久しぶりだ。何もかもみな懐かしい、ってやつだな」


 彼は自分で言って自分で笑った。きっと何かの冗談のつもりでそう言ったのだろう。


「この道に何か思い出があったりするんですか?」

「うん、色々とね」

「たとえば?」

「初めての彼女と並んで歩いた覚えがある」


 それを聞いて私は少し後悔した。でも、すぐに思い直した。思い出はこれから塗り替えていけば良いのだから。


「智子ちゃんも何かそういう思い出があるんだろう?」

「どうだろう……、あんまり身近すぎるから思い出らしい思い出がないんです」

「なかなか大人びたことを言うね。でも、いつかこの道が懐かしく思える日が来ると思うよ。時間か距離か、そのどちらかは分からないけれど、今、この場所から遠く離れたところへ行ってしまったときに、きっと日常に染みこんだ思い出が蘇ってくるよ」


 それは分かるようでいてどこか実感のない話だった。私がその感覚を現実に引きずり込もうと躍起になっていると、いつの間にか彼は近くにあったベンチに座って私を隣に誘っていた。私は近すぎず遠すぎない位置に座った。


「この先に何が待っているか分からないけど、今が僕と智子ちゃんの共有できる最後の時間かもしれない。そう考えれば、君とこうしてここに座って、銀杏並木を眺めているのはとても幸せなことだと思う」

「そんな……、そんな、恐ろしいことを言わないで下さい」

「もしも、の話だよ。でも悪かった。怖がらせてしまったね」


 私はちらりと彼の横顔を見た。その澄んだ瞳に、私は何か言葉にできないものを感じ取った。私の心に巣食っていた恐怖がいち早く食指を伸ばして、その微妙な感覚に破滅を色付けた。私は即座に目を瞑ってそのイメージを遮断しようとしたけれど、却って瞼の裏に色々なイメージが閉じ込められて、その奔流が波となって私の心を乱れさせた。 

 それで今度は瞼を力の限りこじ開けて、銀杏並木と彼方の太陽、視界いっぱいに広がる青空を見上げた。すると破滅のイメージが炸裂して、不思議な感覚が私の心を満たした。今、この場所にいるという強い実感を。

 そんな調子で一人で怖がっていたから、私は左手の温もりにまるで気付かなかった。彼が、私の手を握っていた。


「大丈夫。僕は、僕たちは、ちゃんとここにいる」


 私は今度こそ笑顔を向けることができた。






 その夜の食卓はいつもよりも賑やかな雰囲気になった。彼は饒舌な人ではないから、どちらかというと喋っていたのはお父さんの方だったけれど、結果的にいつもよりもたくさんの会話が飛び交う食卓になった。ただ、普段はよく喋る妹が少し大人しいのは気になった。一方の私も妹の心中を推察する余裕はなかった。彼と共有できる時間はどんどん短くなっている。

 普段は私の前でお酒を飲まないお父さんも、彼とビールで乾杯した。小さなグラスではあったけれど、それを一息に飲んだ彼にお父さんとお母さんは驚いていた。彼が両親に好まれることは、私としてもすごく嬉しかった。食事が済んでお母さんが食器を洗い始めたので私もそれを手伝い、それも済んでしまうとソファに座って、相変わらず談笑している彼とお父さんの様子を眺めた。妹はいつの間にか自分の部屋に戻っていた。二人が話しているのを見ていると私は言いようのない安堵感に包まれて、いつしか眠りの海に着底していた。

 ……遠くから静かな、それでいて鋭い話し声が聞こえてきた。私はいつの間にか眠っていて、きっとお母さんが用意してくれたのだろう毛布に身を包まれていた。私はソファの背もたれの方に身を向けていて、ちょうど食卓からは私の顔が見えない形で横になっていた。どれくらい時間が経ったのかは分からない。相変わらず話は続いていたようだけれど、どこかその調子が変わっていることには寝ぼけた頭でもすぐに気付いた。


「いいか、正隆くん。私は君のお父さんに説得を頼まれたんだ。君がやろうとしていることは自殺行為だ、そうじゃないか?」


 ささやきのように小さな、それでいて鋭いお父さんの声。


「中央に行けば仕事なんていくらでもある、こんな時代だからな。中央なら定期的に帰って来ることができるし、命の危険もない。それなのにどうしてあんな所まで行かなければならないんだ?」

「あそこと中央とでは賃金が桁違いです。あそこに行けば、今までの出来損ないの自分とはまるで違う、新しい自分になれる気がするんです」

「たしかに金はいくらあっても困らないが、しかしそうじゃないだろう。賃金で自分の価値を計るのは間違いだよ。それは古い時代の考え方だ。君が自分自身のことをどう考えているのかは分からないが、君は今でも充分に立派な人間だ。それは私が保証する」

「こうして中心部に住んでいる叔父さんには分からないかもしれませんが、僕らは半ば見捨てられているんです。郊外に残された農家の次男というだけで、人並みの扱いはされないんです。僕はそんな状況に我慢ができないんです」

「それが火星に行く理由か?」


 火星!

 私は聞き間違いじゃないかと思った。でも、二人の会話の流れからして、彼が中央ではなく火星に出稼ぎに行こうとしていることは明白だった。


「正隆くん、世界の人口増加に歯止めがかかっているのは知っているね? 内紛や飢餓や流行病、そういったものが原因になっていることは君にもよく分かると思う。でも、それだけじゃないんだ。増えすぎた人間がどこに消えているか、分かるかね?」

「……」

「答えは宇宙だ。彼らは宇宙開発のための奴隷になっているんだ。二十世紀に二つの大国の競争の場となった宇宙は、人々に多大な希望を与えた宇宙は、今や棄民政策の道具に過ぎない。宇宙での労働賃金が高いのも、福祉政策の対象者を減らせるからこそだ。上手く回っているよ、この世界は」


 しばらくの間、沈黙が続いた。私は物音を立てないように寝たふりを続けることしかできなかった。


「叔父さん、僕は必ず無事に帰って来ます。そしてそのお金で、僕の家族を一つ上の段階に引き上げます」

「無事に帰って来れる保証はないだろう。それに君の言っていることは、自分自身の願望を正当化するために家族を利用しているようにしか聞こえない」

「いずれ、僕は家族を幸せにしてみせます。今は僕の自分勝手かもしれませんが、実現したときにはきっとみんなが喜んでくれるはずです」

「火星に何があるというんだ? あんな所に夢や希望があると思っているのだとすれば、それは勘違いだよ」

「何もないからこそ行くんです。僕が、僕たちが未来を築くのに相応しい場所です」

「どうしても折れるつもりはないんだね?」

「はい」


 お父さんが深いため息を吐いた。私は静かに唾を飲み込んだ。


「出発はいつだ?」

「明後日の朝です」

「……その間にもう一度考え直してみてくれ。智子の気持ちも、一緒にな」


 そう言うとお父さんは席を立った。

 私の気持ち。その言葉がしばらく頭から離れなかった。






 翌日は雨だった。昨夜はどうしても気持ちが落ち着かずによく眠れなかった。いつもより三十分早く目が覚めて、ベッドの中であれこれと考えが巡るのに任せていたら、部屋のドアをノックする音が聞こえた。お母さんだった。


「智子、今日は学校に行かなくて良いから、もう少し寝てなさい」

「……うん」


 ああ、お別れなんだな。彼の出発まで丸一日あるけれど、私の気持ちは時間を飛び越えて先に行ってしまって、別れのときにはきっと何も感じないだろうと思えるくらいに涙が出てきた。最後に泣いたのはいつだろう? 思い出せない。でも、こんなにたくさんの涙が出てくるのは初めてだった。

 結局、私は九時になるまで部屋にこもっていた。泣き顔を見られたくないという気持ちと、時間が先に進んでほしくないという気持ちがあったのだ。部屋にこもっていれば世界で一人きりのような気分になれる。お父さんもお母さんも妹もいない、彼もいない、たった一人の世界。もしもそんな世界が存在するとすれば、今の私なら迷わずそちらに行くだろう。だって、最初から一人きりなら別れなんて起こり得ないのだから。

 でも、いつまでもそうやって現実逃避をしてはいられなかった。こうして妄想の世界に入り込めば入り込むだけ彼と過ごせる時間は減っていく。私は気持ちを切り替えて、部屋を出た。


「おはよう」

「おはよう」


 お母さんの挨拶に私は気のない返事をして、朝の食卓についた。いつもよりずっと時間が遅いから、仕事のあるお父さんはいない。妹の姿もなかった。


「頼子は?」

「あの子にも家にいて良いからと言ったんだけど、学校に行ってしまったわ。学校嫌いのあの子にしては珍しいわね」


 妹は学校に行ったのだ。どうしてだろう。でもとにかく、お父さんや妹のいない朝の食卓というのは新鮮というか、不思議な感じがした。


「遅かったね、智子ちゃん」


 そんなことをぼうっと考えていると、いつの間にか後ろに立っていた彼が声をかけてきた。私は顔を合わせるのが何となく怖くて、黙ってこくりと頷いた。


「正隆くんね、ずっと智子を待ってたのよ。ごめんなさいね、こんなに遅くなるとは思わなかったから」

「いや、良いんです。食事は気心の知れた相手と一緒に食べる方が美味しいですから」

「私はもう食べちゃったわ。二人でゆっくり食べなさい」


 向い合って座った私たちの前に食事が運ばれてきた。今朝は焼き魚だったので、私は悪戦苦闘するふりをして食事に集中している雰囲気を装った。彼は小骨など意に介さず魚を口に運んでいて、正直に言えば、それは私の思い描いていた彼の姿とは少し違っていた。でも、それは当たり前のことなのだ。人には個性があって、同じような性格をしていてもどこかで必ず違いが出て来る。こういう性格だからこうでなければならないというような考えは、空想の世界の中に没入して目の前にいる現実存在を無視することになる。私が向き合うべきなのは、現実の彼だ。

 でも、彼が火星に行ってしまって、この世界から一時的にいなくなってしまった後、私はどうやって生きていけば良いのだろう? 彼のいないこの世界に、どれだけの価値があるだろう? 私は彼を引き止めるべきなのだろうか?


「智子ちゃん」

「……えっ、はい」


 急に声をかけられて私は驚いた。そしてそんな私を前にして、彼はどこか戸惑っているように見えた。


「付き合ってくれないか」

「えっ?」

「付き合ってくれないか、散歩に」


 朝食を済ませた私たちは、あの銀杏並木まで足を運んでみることにした。家の近所の他愛無いもの、例えばブロック塀の上に寝ている猫や、きっちりと間を詰めて縦列駐車している車、丁字路のカーブミラーに映る私たちの姿などを見るたびに、彼はとても楽しそうな表情を浮かべた。それは本当にごく日常的な風景だったけれど、彼にとっては、火星に行ってしまう彼にとっては、とても大事な日常の一部だった。


「どうして火星、なんですか」


 そう言った後で、私が知らないはずの情報を口にしてしまったことを後悔した。彼もそのことに少し驚いていたようだけれど、すぐに思い直してこう言った。


「大切な話は、大切な場所でしたい。もう少し歩こう」









 銀杏並木のベンチに辿り着いた私たちは、しばらく黙って過ぎゆく人々と風の流れと雲の動きを眺め続けた。その間、彼が心の中で何を考えていたのかは分からない。私はお父さんとお母さんのことを思い浮かべていた。長年寄り添い、沈黙を快く共有することができるようになったあの二人のことを。私は――今の状況は特殊だと言えるけれど――、今の私は押し黙って彼の隣に座っていることが苦痛だった。もっと欲しいのだ、決定的な何かが。

 そんなことを考えながら俯いていた私がふと彼の横顔を見ると、すぐに彼は反応して私の目を見つめ返してきた。一瞬、決定的な何かを得られた気がした。手と手を繋ぐイメージ。でも次の瞬間には、二人の手は天に在す星々の煌めきに引き離されてしまった。


「僕がどうして火星に行かなければならないのか、だったね」


 彼は私から視線を外しながらそう言った。


「僕はもうここではやっていけないんだ、この複雑に歪んでいく社会の中では。僕ら家族は中心に向かう流れから置き去りにされて、いずれ世間からは全く無視されてしまうだろう。そしていつの日か、人のいなくなってしまった土地は一部の上流階級の庭になり、彼らによって現代に新たな奴隷制が現出する。僕にはそう思えてならないんだ。


 お父さんが私に語るのとは違って、彼の語る話は漠然としていた。それは彼の中で考えがまとまっていないのか、一人の人間の力だけで未来を推し量ることが難しくなってきているのか、それは分からなかった。もしかすると私を煙に巻こうとしていたのかもしれない。けれど、彼が将来を憂えていることは一分の濁りもない真実だと思えた。


「今の僕には家族を救う力がない、君のお父さんのような才覚もないんだ。だから僕は僕にできる精一杯のことをやるつもりだ」

「だとしても、火星に行く必要なんてないでしょう。この前の九月擾乱もそうだけど、誰も本当は火星で何が起こっているのか分からない、知ろうともしない。私たちにはどんな場所なのかまるで分からない。そんな危険な場所に行くのは、お父さんの言っていたように自殺行為でしょう?」

「でも、自殺をするよりはずっと良いはずだ」


 私にはどうして彼がそこまで火星にこだわるのかが分からなかった。その答えを問いただして、そして、そして……?

 私にはその答えを聞いてどうするつもりなのだろう。彼の内面に根ざすものを掘り返して、それからどうするのだろう。彼の火星行きを止めたとして、そのうえで私は何ができるのだろう。私が彼にできることなんて、何もないのではないだろうか? 私の沈黙の色はそうやって描かれたのだけれど、彼はその沈黙を別の形に受け止めたらしかった。


「君は立派だ。その年にしてはよく物事を知っている。でも、まだ分かってはいないんだ。知っているのと分かっているのとではまるで違う。今は他のことは分からなくていい、でも僕のことだけは分かってくれ」

「そんなの嫌です。だって私……」


 その先の言葉が出なかった。地獄の業火が喉の奥に渦巻いているような感覚がして、それを一気に吐き出してしまいたかった。でも、どうしても言葉が出なかった。

 言葉の代わりに涙が溢れてきた。彼は持っていたハンカチで私の目を拭ってくれたけれど、それでも溢れ出す涙を抑えることはできなかった。

 私は本当にまだ子供なんだ。そのことを痛いほどに思い知らされた。私には彼を引き止める言葉がないのだ。引き止めた末にできることもないのだ。自分自身の無力さがどうしようもなく憎かった。こんなとき、妹の頼子ならどうするだろう? 私はどうして妹のことが頭に過ぎったのか、頭では理解できなかった。でも、どこかで腑に落ちるものがあった。きっと、あの子も彼のことが好きなのだ。

 彼は私だけのものじゃない。そう思い至った瞬間、潮が引くように私の悲しみはどこかへ消え去ってしまった。私の心理を一言で表すとしたなら、それは諦めだった。


「ごめんなさい、急に泣いてしまって」


 十分ほどしてから、私は小さな声でそう言った。その十分の間に、私の心は大きく変化していた。


「もう少し歩きませんか。駅の裏側に小高い丘があるんです。何もない所だけど、ずっと遠くまで海を見渡すことができるんです」


 私たちはそれから丘に向かった。私の心の構造が大きく変わってしまってから、今までよりもずっと近く彼に寄り添うことができた。私は彼の体温を、そして心の温かさを感じることができた。

 丘の上の公園は閑散としていた。人の姿はあまり見られず、その分だけ風が冷たく感じられた。海を見渡せば、沖合を進む貨物船の航跡が海面に煌めく太陽の光を切り裂いていた。冬の陽光は弱々しくも素肌に感じられて、私は清々しい気分になっていた。


「良い所だね」


 彼は静かにそう言った。私は頷いて、天辺までゆっくりと昇って行く太陽の姿を見つめた。

 昇って行け、太陽。昇って行け、私の恋心。そして、天辺で弾けて恵みの雨を降らせてしまえ。

 私の初恋は、こうして終わった。






 翌朝、私たちは家族総出で正隆くんを見送ることになった。正隆くんは様々な手続きを済ませるために中央を経由することになる。そのためにはあの銀杏並木を通って駅に向かわなければならない。私はみんなで銀杏並木を歩けることが嬉しかった。朝から妹が泣きわめいて、それを宥めるために正隆くんがずっと妹に寄り添っていたけれど、今の私は微笑ましくそれを眺めることができた。

 お父さんが家族写真用に買ったカメラを取り出してきて、どこかで写真を撮ろうと言った。私と正隆くんは、揃って銀杏並木で撮ろうと言った。それで私たちは通行人を呼び止めて、五人で写真に収まることにした。みんなが笑顔というわけにはいかなかったけど、とても良い写真だった。それから、私たちは駅のホームで正隆くんを見送った。妹は列車が見えなくなるまで手を振り続けた。昨日の朝に考えていたのとは大分状況が違うけれど、予想していたように私は涙を流さずに正隆くんを見送ることができた。正隆くんが無事に帰って来ることができるか不安ではあったけれど、少なくとも悲しくはなかった。正隆くんなら、きっと上手くやれる、きっと。






 帰り道、銀杏並木で妹がこんなことを訊いてきた。私は、それにどう答えれば良かったのだろう?


「ねえ、火星に生物はいるのかな?」

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