第36話 ウルニ救出
未だ、ガルムたちが蛇道を彷徨している頃、ルシュウは視察司の少女を引きずるように駆けて、山の中腹の水場にいた。少女と女官が二人が、蛇道がやや広くなった水場にしゃがみ込んで動かない。その傍らには二人の近衛兵がいる。ルシュウとバンカの正体を尋ねたくても尋ねられないほど喘ぎながら、自分たちを救った二人を眺めていた。
その水場でネアが待っていた。彼女にとって意外な展開だった。バンカとルシュウはまず、ネアを救った大男たちを連れてくるはずだ。それが何やら妙な女性客たちを連れてきたのである。一人の女官がルシュウを突き飛ばして、ルシュウが握った少女の手を振りほどいた。
「この蛮人が、ウルニ様を、どうするつもりじゃ」
ルシュウは尻餅をついて地面に座り、分からないとでも言うように首を傾げた。この女官の行為が理解できないのだろう。
命を救われたことを知っているのかどうか、女官のルシュウやバンカを見る目が、薄汚い物を見る目つきで、感謝の念がない。息を切らせて苦しそうだが、その苦しさのみ、ルシュウらのせいなのである。
(馬鹿馬鹿しい)
バンカはそう考えた。この連中が殺される混乱に乗じて、チムガを殺すことも出来たはずだ。バンカは女官を無視し、ルシュウに手を貸して引き起こした。
「ルシュウさん。まだ、あんたは剣を取り戻していない」
その通りだと言うようにルシュウが頷いた。その瞳が、取り戻す手段はあるのか、とも訊ねているように見える。
「道はない。しかし、尾根を伝っていけば、兵士に見つからずに戻れる」
ルシュウが首を傾げた。バンカは説明を補足した。
「チムガの兵士は道の上に長く散らばっている。チムガを護衛する兵士はいないはずだ。今ならルシュウさんと俺だけでやれる」
バンカはそう言う意味のことを繰り返し言った。ルシュウに異存はなかった。しかし、バンカの眼が殺気をはらんでぎらぎら光っている。剣を取り戻すという目的ではない、まだ、チムガの殺害の意志を捨てたわけではない。
「バンカ、生き延びるのよ」
ネアが言ったのは、バンカのその目に意図を読みとったからである。バンカは怒鳴った。
「みんな、喉笛を切り裂かれて、焼かれたぞ。あの光景を忘れるもんか」
「バンカ」
ネアは声をかけたのだが、バンカの目が殺気のみ放ってネアの言葉を受け付けない。
「ネア。お前はここで待って、これから来るルシュウさんの仲間を案内しろ」
バンカはそう言い置いて道を逸れた。チムガ一人を襲うために、やがてたどり着くガルムとルトを背後を追ってくるチムガの兵士を大きく迂回して、チムガ、その人物のその側面に出るのである。バンカは振り返って声をかけた。
「ルシュウさん」
そんな呼びかけより先に、バンカの意図を察したルシュウが、元来た蛇道を逸れて斜面を登り始めていた。その行く手に道はない。蛇道が見える位置を辿りながら身を隠して戻るのである。
「急ぐ、良い」
バンカに早く行こうと誘った。ただ、少女と女官の存在に気づいたように、彼女たちに言い残した。
「恐がる、いらない。ルトいる。ガルムいる」
自分たちが居なくなっても、直ぐに味方が駆けつけると励ましているらしい。バンカは斜面を登っていくつも重なる樹木の中に姿を消した。ルシュウがその後を追い、ネアが取り残された。
彼女は自分の体が弱っており、バンカの後を追えば、彼らの足手まといになるという自覚があった。また、ここでルシュウの仲間を待って、安全な位置に誘導するという仕事も、正当なもののように思われた。しかし、この女たちの高慢さを見る限り、嫌な役目を背負わされたという嫌悪感もぬぐえない。
「早くあの視察司に追いつかねば」
蛇道を駆けつつ登るガルムは、再びそう呟いた。犯罪者になるかどうかはあの少女にかかっていた。見失うわけにはいかないのである。しかし、その心配は皮肉な形で解消された。
獣道を進むと小さなせせらぎがあった。湧き水が岩の窪みを舐めるように流れているのである。そこに少女がしゃがみ込んで泣き喚いていた。
「もう一歩も歩けぬ」
少女の言葉に女官が二人、傍らでかがみ込んでいるのだが、少女をなだめるどころかこちらの方が死んでしまいそうに大きく目を開き、口から舌を出して喘いでいる。
近衛兵が一人、またガルムらに背を向けて走った。その意図がルトにも知れた。
「まただ、まただ」
ルトは呟き、その後の言葉を心の中に吐いた。
(どうして、そんなに簡単に死んでしまえるんだよ)
あの兵士も敵を足止めし、この少女を逃がす時間稼ぎのために命を捨てるのである。残された者は、少女と女官が二人、護衛の兵1名とガルムたちのみになった。ガルムが見渡したところ、少女をここまで導いたはずのルシュウとバンカの姿がない。
「逃げおったか」
ガルムはそう呟いたが、今のガルムにとってルシュウに用はない。あとは少女を連れて逃げ延びるのみである。唯一残った護衛兵が、やや戸惑うようにガルムに相対した。ガルムが敵ではないことは分かるらしい。
「儂は陛下のもとで一隊を預かるマレドである。貴殿のご助力には感謝つかまつる。しかし……」
マレドは口ごもった。目の前のこの二人は何故に命を懸けてまで、自分たちを助けてくれるのかと言うのであろう。
「義である」
ガルムはそう断言した。そして自分の身分を明かすように続けた。
「我らは剣でもって陛下にお仕えすべく、武術大会にはせ参じるところでござった」
「うむ、そうか」
「途中、貴殿らをお見受けし、寡兵なれど、看過するに忍びず戦いに参じた次第でござる」
「さようか。しかして、この後の算段は」
マレドの問いにガルムに答える言葉がない。
その時である。
「馬鹿ねえ。何をしているの」
声をかける者があった。ガルムらがチムガの屋敷から救い出した少女だった。少年のように引き締まった顔立ちに、未だ疲労の色が見られる。しかし、意図したものか、それを感ずかせない軽やかな足どりで、薮をかき分けて現れたのである。
「ルシュウさんにあんたらの案内を頼まれているわ。この水の流れを辿って、この斜面を上りなさい」
女官の一人が斜面を見上げ、首を振って助けを求めるように、残った兵士に視線を投げた。このまま獣道を進む方法があり、斜面を下るという方法もある。護衛の兵士が追手を蹴散らすという方法もある。生き延びるためのそのどの方法も、彼女自身が密度の濃い樹木とツタに覆われた斜面を登るより、ずっとたやすい気がするのだろう。
「いったい、どうするつもりじゃ」
しゃがんでいた年輩の女官が、表情を歪めて、叫ぶようにマレドに詰め寄った。
(何か違う)
ルトはそう思うのだ。このままでは皆、殺される。生き延びたければ逃げるだけだ。どうするつもりかと訊ねても意味はない。
「今はここを登るしかないものと思われまする」
マレドは、真剣に受け答えをした。女官はこの険しい斜面を登るという判断に腹を立てて彼を激しくなじった。
「全く、何のための護衛ぞ。一人生き延びておめおめ恥を晒すつもりかや」
マレドは黙ったままである。その様子に女官は悪態を続けた。
「全く見せかけだけかや。腕に覚えがあろうと思うたに、ここまで腰抜けばかりであっとは驚きじゃ」
マレドは殺気に似た怒りを一瞬浮かべたが、忍耐力でそれを消し去った。
「早く登りなさい。追手がくるわ」
ネアの言うとおりであった。追っ手の足止めに向かった先ほどの兵士の命も尽きている頃だあろう。まもなくチムガの兵が押し寄せてくる。
「今は、ウルニ様のお命をお守りすることだ。お連れ申せ」
マレドは女官に言い、ルトに向き直って頼むように言った。
「我が忠誠の証である」
短剣をルトに託した。価値は良く分からない、小さくてたいした実用にはならないが、皇家を象徴する赤いルビーが埋め込まれてきらびやかで、何かの折りに、都の貴人からでも賜ったものだろう。
「ウルニ様を頼む」
あの少女は、名をウルニと言うらしい。最後に残った兵のマレドが腰の剣を抜き、やがてやってくるチムガの兵に向かって駆け去った。ばかばかしい議論で時間を費やした。ガルムは何やら腹立たしく、怒鳴った。
「ルト、背負え」
ルトは少女を背負った。華奢だが子供のふくよかさもない、その少女が細い指を丸めた拳でルトの背を打ち、泣きわめいた。
「いやよ。ここで休む」
(背負いにくい)
この大男はそう思い、脅すように低い声でささやいた。
「いいか? 領主が狙っているのはあんたの命だ。兵がすぐそこまで、あんたの首を切りに来ているぞ」
ウルニはびっくりしたように泣き止んで、ルトの逞しい背にしがみついた。
「早く」
ガルムは短く言った。見上げる斜面に密に茂る木々や蔦の葉におおわれて空が無く、行く先が何処かは分からない。二人の女官たちまで背負って登る事はできず、彼女たちの命は彼女たち自身の判断に委ねるしかなかった。女官たちは体力が尽きたと言わんばかりに座り込んで動こうとはしなかった。
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