第29話 チムガの虐殺1
「領主の館で、何か不穏な動きがある」
長老がそんな連絡を受けたのは、夜も更けて深夜に及ぼうとしている時である。長老は寝床から起き出してきて、その連絡に声を潜め、しかし、しっかりと指示をした。
「皆には、油断するなと伝えよ」
長老の傍らで、彼の妻と孫娘スクルが不安そうな面もちでいる。
(いつもとは違う)
そう感じるからだろう。この不穏な空気は、あの鏡に何か関係が有るのかも知れない。そして、未だ帰って来ないバンカとルシュウとの関わりも心配されるのである。
長老宅に第二報を伝えたのはチビのバンカだった。長老からもらったルシュウの弓を大切に抱えて、息を弾ませて駆けてきたのである。兵士の一隊がネッタの北の方、川から船着き場に上陸したというのである。
やがて、一人、また一人と長老宅に告げに来る者がある。このネッタの東、南、西の方にも兵士の姿が見えるという。この区画はぐるりと兵士に囲まれた形である。街は平静を装いながらも、個々の家では若者や、女や、夫婦が緊張の籠もった顔を見合わせていた。長老宅では、スクルがチビのバンカを手元に引き寄せて、固く手を握っていた。まだ、幼い子供のバンカが心配なせいもあり、彼女自身の不安を紛らわす為もある。チビのバンカは健気にスクルを守ろうとするように弓を握りしめていた。
長老がスクルを呼び寄せた。
「今までの嫌がらせ程度ではあるまい。死人が出るやもしれぬ。スクル。皆を連れて兵の囲みを抜けよ」
「おじいちゃんは?」
「儂はここで見届けねばならぬ」
長老の元へ死者が出たという知らせが来た。兵隊の囲みを抜けようとした仲間が、町の西で斬られたという。東が何やら叫びが入り交じって騒がしい。耳を澄ませて判別するに、火事だと騒いでいるらしい。確かに、東から流れてきた風がキナ臭く、やがてその煙は咳き込むほどの強さになった。
「何事か」
入り口のムシロを跳ね上げて戸口に出ると、東の空が明るく火の粉が舞っていた。西の方から逃げてくる人々の姿も見えた。兵に追われたと言う。間もなく東からも火の手が上がった。既に街は混乱の極致にある。乳飲み子を抱えた女が駆けていた。混乱の中で家族を見失った幼児が母や姉の名を叫んでいた。家族の名を呼んで炎が上がる住居に飛び込む男がいた。南に逃げた人々のうち生き残った人々が戻って来た。南も火の手が上がったという。火の周りが異様に早い。ネッタの区画は川辺の方向を残して三方を火に包まれていた。既にここも炎が風を伴って音を立て、火の粉が舞った。
「川へ」
そう叫ぶ者がおり、生き残った者が、その声に続いた。
煙がスクルの目や喉を刺し、炎が頬を焦がした。弱い者から倒れて炎に飲み込まれたが、誰も救う事は出来なかった。スクルもその中に祖父と祖母の姿を見失った。周りは火の壁と、何かが燃え落ちる音の乱舞で、人々は方向さえ見失った。しかし、スクルらは炎の中に、僅かに川への道筋を拾うように辿った。
川辺には人々の背後の勢いの良い炎に照らされて、兵士達が彼らを待っていた。人々は兵士に救いを求めたが、兵士達は弓を構えて、矢を放った。
「ネッタに火をかけて、皆殺しにせよ」
そういう残忍な命令を受け、それを実行したのである。最初の矢で生き残った人々は、そんな兵士達の意図を読みとった。
「バンカ。一斉に川に飛び込むのよ」
兵士達の隙間をぬって川に飛び込めば生きるチャンスがあった。スクルがチビのバンカの手を曵いて駆け出した。駆け出す人々を見た兵士たちが、一斉に次の矢を射た。チビのバンカの目の前でスクルが股と胸元に矢を受けてのけぞるように倒れた。幼いバンカが倒れたスクルを抱えると、彼女は驚いたような表情で目を見開いていたが、既に息がなかった。
幼いバンカの中に無性にやりきれない怒りや悲しみがこみ上げて、バンカは矢をつがえ前方の兵士に向けた。兵士達は弓を捨て、剣を抜いていた。生き残った人々が剣に追われ逃げまどった。幼いバンカは弓を射たが、当たったかどうか見届けるまで生きている事が出来なかった。夜が明ける前に、この街の人々の命はことごとく絶えた。
ネアと分かれて川面に船を進めていたバンカは、川面を松明の火で照らしながら下ってくる兵士の船に気付いて、船を岸に寄せ、彼の船を闇と川に張り出した木の枝の陰に隠して、兵士達をやり過ごした。
「殿も思いきった事をなさる」
兵士のチムガを語る声が聞こえ、兵士たちはバンカに気付かないまま川を下った。
バンカが船着き場に着くと、この当たりまで火の粉が飛び交うほどの火の海で、その中から逃れてきたらしい人々の死体がいくつも転がっていた。もちろん、バンカ自身がよく知っている顔ぶれである。船着き場に転がっている全ての死体が、のど笛を切られて止めを刺されているという念の入った殺され方で、チムガの兵士の仕業に違いなかった。死体の中にスクルとチビのバンカの姿もあった。バンカは惚けたようにその光景を眺めた。
「たった、鏡一枚のことじゃねぇか」
炎が音を立てて燃え盛っているが、人の声は絶えている。そんな中にバンカの叫びが響いた。
バンカは悲しみと怒りをこめてもう一度、怒鳴った。
「たった鏡1枚のことじゃねぇかよ」
バンカの心の中に、チムガに対する復讐心がわき上がって、その体からあふれ出した。
ガルムが彼の手兵を率いて到着したとき、既に事はあらかた終わっており、ガルムらは呆然と炎の壁を見ているしかなかった。
「グーロン殿」
儂の出る幕がないと言いかけたのである。ルトが戸惑いつつガルムに声をかけた。
「親方」
「師匠と呼べ」
「あれは?」
ルトが指さしたのは兵士達の足元に転がっている多数の油壷である。この一画を焼き尽くすために使った油が入っていたに違いない。
「ひでえ」
声を上げたのはガルムの部下の一人、岩囓りだが、他の者も同じ思いに違いない。炎の向こうからは炎に巻かれた人々の凄絶な悲鳴が聞こえるのである。
「ガルム殿、せっかく出ばって頂いたが、あらかた片付いている様子。このまま、兵士らに任せて引き上げましょうぞ」
ガルムは炎の壁を前にして黙りこくっている。この場所にいても、燃え上がる炎に頬が熱い。
「今ごろは領主チムガも館に戻っておりましょう。明後日にガルム殿の御助力を願いたい事があるということでございます」
「そうか」
ガルムはそう言っただけだ。思いきった事をすると恐ろしくもある。グーロンはガルムに館に帰るよう再び促した。そんなグーロンは、狡さと同時に柔和な笑みを浮かべていて、犠牲者の悲鳴と炎に照らされたグーロンの表情が凄惨な色に彩られていた。
領主の館に戻ったグーロンは、既に日常の様子と変わりがない。風向きによってこの辺りまで焼き払われた一角の臭いが漂うことにも気にせぬ様子である。グーロンはガルムが別邸に戻るのを確認した後、チムガのの館に足を運んだ。
「首尾はどうであった?」
チムガはグーロンにそう尋ね、グーロンは当然のことであるかのように答えた。
「全て灰になったものと」
「そうか」
チムガは館から西の空を見ている。既に夜は明けているのだが、何やらキナ臭い臭いが漂ってくるようでもある。チムガは布で口元を抑えて続く命令を与えた。
「明後日の手配りも抜かりがないようにせよ」
「その点はぬかりなく」
「あの辺境者はどうか?」
「館に戻りましてございます」
グーロンの言葉にチムガは短く指示をした。
「今日、会う」
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