第4話 ガルムとルト3

 数時間後、二人はその森の中にいた。野営の準備どころか、食料や水も持たないまま、あの露天が立ち並ぶ街道の端から関所を超え、森深くへと突入していたのである。ルトは何度言ったかわからない文句をつぶやいた。

「この深い森で、一匹の精霊を探し出すなんて、容易なこっちゃ無い」

「馬鹿者め。文句ばかりたれてないで、よく探さぬか」

 二人は勢い込んで森に踏み込んだものの、視界を遮る植物と地形で目指すものを見つけられずにいる。しかし、二人はその相手に見つけられて、物陰に潜んだ彼から注意深く観察を続けているのに気づいてもいない。

 風が無く、動き回って流した汗が乾きもせずに肌を伝って、あごや指先から地面にしたたり落ちていた。

「ルトよ。疲れただろう。少し休ませてやる」

 ガルムがそう言ったのは、森がやや開けた川の畔だった。もちろん、弟子に休憩を取らせるというのは言い訳である。弟子よりもガルムの方がずっと吐く息が荒い。ガルムは岸から河面に頭を突っ込むほどの勢いで、ごぶりごぶりと音をさせる勢いで水を飲んだ。

 ルトは汗をぬぐっていた布を川辺で洗って固く絞り、汗まみれのガルムに渡した。この時である。密に茂った植物をかき分けて、一人の少年がいた。しかし、ほとんど物音も立てずに、元からずっとそこにいたかのように自然な姿だった。その不思議さは、確かに森の精霊を思わせた。背丈から判断すると年齢は十四、五か。髪はゆったりと波打つ黒髪で、肌の色はガルムやルトに比べると淡い褐色である。ルトは森の奥地に住む蛮族の少年が迷い出てきたのかと考えた。ガルムはルトの気配から何かが居ることに気づいて振り返り、少年の姿を見つけた瞬間、既に剣の束に手をかけていた。あれが探していた精霊だろう。ガルムの考えを裏付けるように、少年は噂で聞いた通りの言葉を発した。

「あなた、サクサ・マルカ、知る」

 文法はおかしいが、明瞭なムウの言葉の発音である。ガルムは腰を低くし剣の束に手をかけたまま、少年にゆっくりと歩み寄りながら言った。

「その通り。儂はお前を成敗して、サクサ・マルカに行くのだ」

 少年がガルムの言葉の意味を正しく理解したかどうかは分からない。ただ、ガルムが発した言葉の中から、サクサ・マルカという言葉を聞き取った少年の目が嬉しそうに輝いた。ガルムはそれを精霊の油断と見た。突然に剣を抜き少年に襲いかかったのである。


 ガルムとルトは、日暮れまで追いかけ回し続けたが、少年を捕らえることも傷つけることもできない。

「ルト。疲れただろう。今夜はここで過ごそう」

 疲れたと言うなら、今のガルムの方が疲れているだろう。何しろ少年を追うだけのルトと違って、ガルムは一日中、剣を振り回し続けていたのである。ガルムが首を傾げるのは、あの悪霊を成敗するために振り下ろす刃や、突き刺す切っ先のことごとくが、悪霊の体を素通りするようで効果がなかったからである。少年がガルムの太刀さばきや剣の長さを読み切って、ガルムの攻撃圏内のほんの僅か外側を動いているとは気づかせないほど自然な身のこなし方だった。ガルム自身が手応えがあったと感じても、切っ先はその背後の樹木を捕らえるのみで、少年は傷一つ負ってはいない。その不可解さにガルムは首をかしげて言った。

「悪霊避けだ。火は絶やすなよ」

 ガルムはルトにそう命じた。あの精霊が夜中のうちに二人を襲いに来るかも知れないというのである。

「心配は要らないよ」

 ルトは笑ってそう言った。猛獣避けに火を絶やさないようにする必要はあるだろうが、あの少年はガルムやルトを害する様子はなかった。あの少年が夜中に仕返しに来ることはないだろう。ただ、不思議な気がするのは、あの少年が剣を振り回すガルムから逃げることなく、つかず離れずの距離を保っていることである。何か、二人に興味を持っているのかも知れない。ただ、考えると言うことが苦手なたちで、ルトは感情に身を任せて言葉を吐いた。

「でも、疲れたなぁ。喉もからからだ。」

 ルトは不満を吐き出すようにそう言った。親方はさっさと仕事を終わらせるつもりで、二人は食料を準備をしていない。そして、駆け回りながら川からも離れてしまって、飲み水を得る当てもないのである。

「くだらない不満を言うものではない」

 そう言ったガルムの声が擦れた。喉が渇ききっているのである。しかし、空腹や喉の乾きより、地面に横たわった瞬間に、全身を覆った疲れや虚脱感が上回って、二人はいつしか深い眠りについていた。

 しばらくして、眠りこけている二人に近づく足音があった。気配を消そうという素振りはない。足音を立てながら、二人が本当に眠っているのか、探っているようでもある。現れたのは、二人が追いかけ回していた少年である。少年はたき火に照らされるガルムとルトを眺め回していたが、何かを察したように小さく頷いた。現れたときと別人のように足音も立てず、少年は暗闇とジャングルに溶けるように姿を消した。


 明くる朝、ルトは甘い香りに誘われて目を覚まし、目の前のほどよく熟した果実を見て夢の続きかとも思った。

「冷たい」

 夢の延長であるかのように、ぼんやりと目の前の果物をつかんだルトは、その感触に目を覚ました。そして、信じられないというように、恐る恐るかぶりついてみると、甘く瑞々しい果汁が、ひりひりするほど渇いた喉から胃の中へ広がって、生き返ったような心地さえした。

「旨めぇ」

 生き返った心地でそう叫んだルトの声で、ガルムも目覚めた。

「親方も食ってみろ。旨めぇから」

「なるほど、旨い。ルト、この果実はどうした?」

 ガルムにそう尋ねられて、ルトは返答に困った。起きたときに目の前にあった。皿代わりの大きな葉の上に乗せられていたのである。誰かがガルムとルトのために取ってきてくれた物に違いないが、ルトにはその心当たりが一人しかいなかった。ガルムもあの少年を思い浮かべて眉を顰めて言った。

「毒が入っているのではあるまいな」

 そう文句を言いながら、喉の渇きに絶えかねて半分以上を食べてしまっている。喉の渇きが収まると、焚き火の側から空腹感を刺激する旨そうな香りが漂ってきた。眺めてみると大きな葉で幾重にもくるまれた物から湯気が立っていて、葉の包みを解いてみると、これも、ルトとガルムに一匹づつと言わんばかりに、焚き火の熱と葉の水分で、旨そうに蒸し上がった二匹の川魚が出てきた。ガルムは空腹で鳴る腹を押さえて。疑わしそうな目をして言った。

「大丈夫だろうな」

「食ってみりゃ、分かるって」

 そんな言葉を発する間もなく、ルトは蒸し上がった川魚を口にした。それを見たガルムもまた、熱々の湯気の立つ魚を、葉に乗せてつかんで齧り付き、骨についた肉のかけらまで舐め取るように綺麗に食べた。少年が二人の前に姿を見せたのはこんな時である。

「あなた、サクサ・マルカ、知る」

 その少年の口調があまりにのんびりしていて警戒感がなかったため、ガルムの勘に障った。

「食い物で、儂をてなづけたと思いおるか」

 ルトが止める間もなく、カルムは傍らの剣を握って、少年に斬りかかった。もちろん、昨日同様に少年は軽く身をかわして姿を消し、ガルムは剣を振り回しつつその跡を追った。ルトも、親方の後を追わざるを得ない。


 そんな徒労の日々が、四日ばかり繰り返された日の夜のこと。

「親方。もう、やめにしないか」

 この男としては珍しく、長く考えていたルトは、焚き火を枝でかき混ぜながらそう言った。火の粉が星のように輝いて舞い上がった。

「何を言う。今日はあと一太刀の所で取り逃がした。明日こそ」

 ガルムはそう言ったものの続く言葉が出ない。今夜の二人は、昨日、一昨日、一昨昨日と同じ川辺の空き地で夜を過ごす予定である。一日中、あの少年を追ってジャングルを駆け回っているのだが、夜更け近くになると必ず、野営に適したこの場所に出る。事実、いまルトが火を焚いているのは、昨日の焚き火の跡である。ガルムとルトは、あの少年を追いかけ回しているつもりだが、実は、あの少年の思うがままに誘導されているに違いない。やや開けて見通しがよく、危険な獣の襲撃を防ぐことができるほか、川の畔で飲み水に不自由しない、この地形に導かれているのは、彼らが追いかけ回している少年の善意の現れに違いなかった。そして、明日の朝には、いつものように朝食が準備されているだろう。

「親方。何か、ばかばかしくならないか」

 ルトの言葉にガルムは考え込んで返事をしなかった。ルトがそう言ったのは、捕らえる見込みのない者を追いかけ回していることなのか、自分たちが殺そうとしている相手に食料を与えてもらっていることなのかどちらだろう。自分の行為が苦笑いしたくなるほど愚かに見える。ただ、その愚かな自分たちの相手を務めている少年の行為はどうだろう。最初は、二人をからかって遊んでいるのかと思ったが、少年が時折二人を振り返ってみせる切実で生真面目な表情は、少年の別の意図を表しているのではないかとも思えるのである。

「サクサ・マルカか?」

 ルトが親方と供に目指すムウ帝国の都の名だが、その地があの少年にも関わりがあるのではないかと思ったのである。

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