ムウの残照 第一部 ~自然児ルシュウ~

塚越広治

第1話 ルシュウ

 見えるものは水平線ばかりの西の方角。月が空に細く弧を描いているが、その光は淡い霧に遮られるように弱々しい。一昨日の夜には、中天には無数の星々の輝きがあって、夜の海面の波の滴と区別がつかなかった。しかし、今夜はこれほどに薄い霧を吹き払う風もなく、見上げる空に数えることができる星の数は僅かである。

 その海面に、一漕の小型の帆船が潮の流れに浮かんでいた。船首が海を切り裂く白波や勇ましい音はなく、大洋の中を漂うような船の弦側をなぶる波の音が響いていた。

 見回りだろうか、一人の年老いた水夫が、船縁に沿って船首の方へ荒々しく歩いて来て、マストを見上げた。彼は角張った顎の大きな目を見開いて、天を睨みつけるように呟いた。

「風さえ、順調に吹いていれば」

 水夫が少年に約束したのは昨日のことだった。水夫は自分の経験を踏まえて、少年に教えたのである。

「夕方には見えるかもしれぬ」

 少年はその言葉に期待に胸膨らませて待った。その直後から、風の神の気まぐれのように凪いだ。水夫はしかめっ面で風の神に文句を言い、右の拳を白髪のかかった額の上で回して悪霊避けのまじないをした。

 帆は淡い霧に濡れてしっとり下がっているが、海面に目をやると船は夜光虫の尾を曵いて、確実に潮の流れに乗っている。水夫たち船乗りはこの西向きの潮流をバキライアと呼んでいた。遠く去った魂が故郷に戻るという伝承に由来する呼び名だった。船は気まぐれな風ではなく、それが必然であるかのように、潮に乗って目的地に近づきつつあった。

 突然に、水夫は一つの言葉を呟いた。

「ルシュウ」

 長年の日差しと潮風が、彼の顔に刻んだ皺が歪んだ。笑顔に不慣れな老水夫は微笑んでいるのである。そして、船首に向かって声をかけようかどうか迷ったそぶりを見せたが、思いついたように大きなあくびをして、身を翻して甲板の下に姿を消した。

その船首の甲板に、一人の少年が片膝を立て、弓を抱いて静かに座っている。よく眺めれば、少年の肩が呼吸に合わせて規則正しく上下動しているが、それ以外の動きがない。眠っているわけではない。少年の視線は遥か前方、水平線の彼方にある。

 月の光を反射するのか、瞬くように光る黒い瞳と、やや微笑みを浮かべるように結んだ口元は、じっと何かを信じるようで、迷いを感じさせない。首筋の所で一つにまとめた黒くて長い髪は闇に溶け込んでいるが、霧に濡れたのか時折細く光る細い筋が見え、細くしなやかな髪である。その光景にそんな微細な動きがなければ、静かな少年の姿は均整の取れた彫像のようである。体格から判断すると、年の頃は十四、五かもしれない。しかし、その目には好奇心や善意に溢れて、無垢な幼児のようでもある。

 やがて、星々の輝きが、東の空の赤味に薄れても、少年は身動きする様子が無い。この年若い狩人が、じっと何かを待つことに慣れている様子が見て取れた。

 やがて、少年の背後が賑やかになってきたのは、眠りから覚めた水夫たちが起きて姿を見せ始めたからである。少年は振り返りもしないが、そう知っているらしい。日の出にはまだ間があるのだが、東の水平線から光がこぼれ始めて甲板のものは本来の色に戻りつつある。

 少年の黒い髪が、夜の闇から切り放されて潮風になびき始めた。長く凪いでいた海に風が戻ってきたのである。少年の褐色の肌が弾むような弾力性をみせて背景から浮かび上がってきた。見渡せば、霧は吹き払われて視界が広がり、広い海面に浮かぶちっぽけな自分を認識させる。帆が膨らんだ。やや追い風気味の潮風だった。

「ルシュウ」

 再び、船首を通りかかった老水夫が、少年の肩を軽く叩いて名を呼び、朝の挨拶をした。少年は名前をルシュウと言うらしい。ルシュウと呼ばれた少年は、振り返って邪気の無い笑みを返したが、黙ったままだ。

 少年の真っ直ぐな黒髪や切れ長の目を水夫たちに比べると、少年が幼いことを差し引いても、水夫たちの顔立ちとは違う。少年が、水夫たちムウの人々が『ルサリ』と呼ぶ辺境の血を受け継いでいることは明白だった。

 顔立ちの違いにもかかわらず、少年の側を通りかかった水夫たちは、この少年の肩を叩いたり、節くれ立った指で髪をかき混ぜたりして挨拶をしてゆく。この無口な少年の体からあふれるような邪気の無い笑みには、気の荒い水夫達をも引きつけて愛される魅力があった。

 突然に、少年は呼吸を止め、獲物を狙う目付きをした。そして、立ち上がり、マストを支えるロープに手を掛けて、遠くを見つめる目付きで大きく背伸びをした。

「おーい。レン・レングだ」

 見張り番の水夫の声がして、甲板のみならず、船室の中もその知らせにわき上がった。レン・レング。「親父の狼煙」と、親しみのある名で呼ばれている現象は、ン・ハム山と呼ばれるムウ大陸東岸の火山の噴煙である。その噴煙は古来巨大な狼煙として、船乗りの航路の目印となっているのである。最近はその狼煙も勢いを増し、時に轟音とともに火の石を降らせることがある。

 ルシュウがいち早く見つけたのは、その噴煙だった。そして、それはムウの大地が近づいた証拠に違いなかった。

 どすん。

 どすん。

 力強よくはあるが、ずいぶん間延びした足音で、その人物の性格を推し量ることができた。少年は言葉の訛りを交えて、その人物の名を呼びながら振り返った。

「ルトォ」

 足音で人を判別したらしい。船倉の降り口に、童顔の大男が身を屈めるようにして顔を覗かせている。ルトと呼ばれた男は挨拶もせず、船縁に駆け寄って胃液を吐く素振りをした。しかし、胃液も出ない、ルトはただ胃液ともよだれともつかない酸っぱい液でぬるりと湿った口元を手の甲で拭った。ルトは船旅を始めた日から続く、ひどい船酔に苦しんでいるのである。ルトはわめくように言った。

「畜生。やっと、船から降りられるのか?」

「大地か?」

 ルトに続いて出てきた男が言った。顎に髭で隠しきれない刀傷があり、右の膝から下を少し引きずるように歩いている。腰に下げた剣が鳴った。剣士を自称するこの男は、狭い船内でも剣を放したことが無い。今も船員の声に目覚めたあと、着剣して甲板に上がってきたものらしい。眼光が野心を秘めて鋭い。しかし、夜明直前の柔らかな光の中に、男の髪や髭に白髪が目だって白い筋を引いていた。男は、名をガルムという。

「ン・ハム山か。変わらぬ」

 ガルムは昔を懐かしむ目付きをし、短く言った。気取った言い回しだが、その口調の中に辺境生活に疲れた本音が篭っている。ただ、彼が逃げるように去った二十年前に比べれば、その山が吐き出す噴煙は、黒く高く勢いを増して、運命に新たな転機を迎えた予感がした。やがて、船首に立つ三人の背後から光が走り、視界に入る海の隅々まで照らし出した。夜明けである。


 噴煙の下の方、大地が浮かび上がるように照らし出された。それは、蜃気楼の様に揺らめいており、未だ遠方の大地は、海面に薄く貼り着いて漂うように儚げに見えた。彼らの野心を秘めたムウの大地だった。

「サクサ・マルカ」

 少年はそう小さく呟いた。サクサ・マルカ。ムウ帝国の都の名である。それが少年が憧れをこめて呟く旅の目的地らしい。

「畜生」

 ルトはうめいた。通りかかった水夫から、この船が港に着くまで、尚も丸一日を要すると聞いたのである。

 ガルムも眉をひそめた。実のところ、彼らの出発は遅れすぎた、都に着いたときに武術大会が終わっているようでは、彼らの旅の目的は失われてしまうのである。

 ガルムは焦りに目を細めてルシュウの居た場所に視線を移して呟いた。

「あと一月も早ければ」

 あと一月も早く、この少年と会っていればと、運命を悔いたのである。しかし、その視線の先にルシュウは居なかった。少年は足音も立てずに姿を消していた。ガルムは別に驚きもしない、あの少年の気まぐれはいつものことだ。

 再び、甲板に姿を見せた少年は、細長い背負い袋を担いでいる。それは一振りの剣だった。剣は少年にはやや大きすぎるようにも見えたが、少年は意外にも軽々と扱って袋から取り出し、半ば鞘から抜いた刀身を、水平に頭上高くかざした。

 美しさと無縁の無骨な色だが、鋼本来の色には曇りがなく、刀身は朝日を反射して輝いた。少年は何か小さく呟いたが、それはムウの言葉ではない。しかし、その音調は柔らかで、呪文の詠唱のような神秘性はない。何か親しい人に語りかけるような親しみを感じさせた。

 ガルムは少年が剣に何か話しかけたに違いないと考えたが、それ以上の詮索はしなかった。この野生動物のような少年を理解するのは至難の技に違いなかったし、第一、理解しても一文の得にもならないと考えたのである。

 一文の得にもならない、それこそガルムが最も嫌う行為なのである。ガルムは腰の剣を撫でるように叩いて、自分に言い聞かせるように呟いた。

「儂はガヤン・ガルムである」

 傍らのルトはそんな呟きを聞いて、故郷のことやルシュウと出合った時のことを思い出した。

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