第14話 ある教団跡の記録
空には赤い卵黄、滴り落ちる闇、あれから僕は街の中心部である教団施設跡地に向かっていた。圧倒的存在感を放つ赤い月、その輪郭を何もかもを吸い込んでしまいそうな黒が囲っている。薄い赤に照らし出された世界は絵画の中のようだった。
足元までだった黒い霧が少しずつ嵩を増していた。街の中央に向かうにつれ量が増えているらしい。遠くを照らす炎の光り、棚引く煙の尾、渦巻く霧の中に幾つもの筋が流れ、細かなしぶきが空中を舞っている。色彩は赤と黒のみ、赤い月明かりが建物の影を鮮明に映し出し、赤と黒の世界をより際立たせていた。
霧に浮かぶ引き伸ばされた人の顔、霧中に紛れて揺れる数々の赤い目。角や牙が生え、異形に変わってしまった街の住民たち。彼等は私が前を通っても何も反応を示さなかった。どこか遠くを眺めているような格好で固まり、虚ろで、思考は消えてしまっているようだ。けれども確かな息遣いだけは聞こえる。静かだった、音と言えば炎の息吹、それに時折両手をあの赤い月に掲げ、呻きを上げる者が居る、それくらいだ。
僕はこの変わってしまった世界に溶け込んでいた、僕の体も例外なく変化を始めていた。けれど、今はそれすらもどうでも良い、些細な事に思えた。手足が変わり、顔も下の面影も解らないほどに変容した、そうした人達にとらわれず、脇目も振らず、足早に中心地へと向かった。
市街地の壁、道に添うように霧の濁流は進む、流れは徐々に荒くなり、その速さを増していた。順路を知るのは簡単だった。この流れに添い従い、渦の中心に向かえばいいのだから。
教団跡地にはかつても向かったことがあったが、何も残されていなかった。立入禁止の看板を越え、ただの廃墟と成り果てた本部は荒らされ、落書きと瓦礫、それに中心の庭以外、見るべきものは何もなかった。
構造が特殊だった、それだけの印象しか残っていない。施設は広大な中庭を中心に廊下が円形に配置されその外側に講堂、居住区、会議室、聖堂といった印象の施設が並んでいた。僕がかつて夢で見た幹部達が会していたあの場所は恐らく会議室のひとつだったように思う。
中庭には石柱のサークルと簡単な祭壇が用意されていてそれを囲うように木々が茂っていた。奇妙な崩れかけの石像や意図のわからない無用な建造物が中庭に並び立てられ、それが造られたものが近年であるにも関わらず、長年放置され続けたどこかの遺跡のような、そんな雰囲気を醸し出していた。
何かあるとしたらそこしか考えられない。意味が込められていると思わしき場所はそこ以外なかったからだ。そして僕はそこに向かっている。
耳の奥で聞いたことのない言葉が繰り返し囁かれている、かすかな風音のようなささやき、それでも今の僕には恐ろしいとは思えない。異常が通常に変わろうとしていた。変わり果てた街並みに飲まれていても恐怖は感じなかった、寧ろ、あるべき世界に帰ってきた、そんな感覚が僕の中で生まれはじめている。
何故だろうか、その答えももしかしたらこの先で得られるかもしれない。こんな状況に陥りながらも焦り一つ感じず、冷静でいられる自分が信じられなかった。僕も結局、この状況に蝕まれているのだろうか。
遠くに特徴的な残骸の姿が見えた。胸丈まで増した霧を掻き、建物の位置を確認しながらどうにか廃墟に辿り着く。黒い綿のような大粒の霧が吹雪のように舞い、黒い粉を吹きあげている。
廃墟はまるで印象が異なってしまっていた。私は歪められた鉄柵を越えその中へと入り込んだ。施設の中には闇の内に身をかがませているのだろうか、幾つもの目が累々と輝き、黒の蟠りを彩っていた。
霧の中に数百の筋が立つ、いくつもの人型が影となって林立し、その上部に輝く夥しい数の目が存在していた。視線の先には赤い月、脈打ち、血管のような筋が顕になり始めた心臓のような月。霧は彼等の足元で渦を巻いて中庭へと流れ込んでゆく。
僕は彼等の脇を進み、廊下を抜けた。施設の天井を抜けると、ねじり上げられた棒状に上へ上へと伸びる霧、その全貌が見え始めた。先程はこんな風にはなっていなかったはずだ。空へと、月へと伸び上がる霧、呆然として立ち止まり、このまま見上げていたい欲求に取り付かれるが、すぐに自分を取り戻す。
不意に空気の流れが変わった気がして僕は振り向いた。全ての目が僕の姿を捉えていた。中庭と、廃墟を埋め尽くす影の中の人々、数が倍に増えている。どうやら霧の下に潜んでいた者もいたらしい。
足が痺れを訴えて、背中に電気が走った。動く、そう感じさせながら、けれども彼等はそれきり一歩も動かなかった。出口は塞がれてしまったが、元から赴く場所は一つしかない。僕は人々の壁をすり抜け、その両眼に追われながら再び渦の中心に向かって歩き始めた。
誰もの体に影が落ちていた。まるで墨に塗りつぶされたように体の凹凸が見えず、わかるのは身長差と曖昧なシルエットだけだ。
押しつぶされ平たくなった体に短い手足の影、手足が異常に長細り、関節がいくつも増えてしまっている影、頭だけが肥大化し、その下に糸のような体がついている影。その赤く光る両目以外、人であったということが確認できない人々。彼等の壁に挟まれながら私は歩く、やがて石柱があったであろう場所に霧の竜巻が立ち上がっていた。
「いよいよ、ここまで来ましたね」
不意に耳朶≪じだ≫を打つ声。即座に反応して横を見ると仮面を付けた後が脇に立っていた。
「さあ、それに入って」
今更拒めない事は承知していた。だから僕は竜巻の中へと体を入れる。巻き上がる霧の濁流、髪が押し上げられる。体が上へと引っ張られるような感覚を常に覚えながら慎重に中へと入ってゆくと中の様子が僅かに見えた。中心部の祭壇がある、そこに何かが寝ているようだ。近づくにつれそれが僕の本当の父親であろう人の遺体だと解った。
あのアパートで見た枯れ木のような遺体ではなくなっていた。かさついた肌につやが戻り始めていた。
「それに触れて、少し触れるだけで良いですから」
言われるまでもなく僕の体は僕の意思に逆らってその遺体に触れていた。途端、体の中が爆発するように熱を発する。何かの流れが僕から目の前の遺体に移るのが感じられた。細く萎れた木乃伊のような目の前の遺体はみるみるうちに生気を、肉を、瑞々しさを取り戻してゆく。
そうして僕の分身のような姿の父は甦った。反するように僕の体は枯れていた。まるで乾燥させた植物のような有様の手足、そげ落ちた肉から着ている服が自然と落下する。僕は筋肉と力を失い、立っていられず崩れ落ちる。
「さあ、涅槃業は成った。今こそ私の願いを完遂する時、世界の変成を果たすぞ」
声に反応してか、視界の黒に赤が混じり始めた。目をどうにか巡らすと周りには数々の目、影たちが竜巻の中に入ってきていた。高さの異なる赤く輝いた眼が並び、壁を作っていた。
見上げればあの赤い月から血の雫のような赤が垂れていた。こよりのように伸びる霧の竜巻の先端部がその赤を拾い、徐々に染まり始めている。そして脈打つ月の、真紅の輝きが増し、霧は回転を早めてゆく。祭壇の上に見える石柱が割れて穴があいた、いや、違う、空間自体が割れていた。縦に割れた眼、瞼が少しずつ開いてゆく、空間の割合が増えてゆく。その瞼の向うにはこの世界とは異なる未知の世界が覗いていた。
全ての尺度、感覚、思考を狂わせる、そこにあるもの全てが捻り合い、混ざり合い、絡み合う、拒絶と嫌悪を抱かせながら、同時に陰鬱で淫靡で醜悪でありながら、強烈な魅力を抱かせる世界。それは、僕がずっと夢の中で目にしていた世界だ。本当に、あの世界は存在していたのか。
僕の目は無意識に涙を溢れ落としていた、生身で見る世界は何か違っていた、圧倒的な存在感が、その質感が、僕の全てを貫き、そして何かを縫いつけた。何も考えられない、ただその世界をずっと見ていたかった。
「ああ、遂に、遂に私の宿願を果たした」
後と父の声が重なった。止まる時間、そして再び急流が動き出す。月光が明滅し、何かと思い見上げると、月から赤が抜けていた。砂時計の砂が落ちるように月から赤が徐々に減り、霧に吸い取られてゆく。巨大だった月の大きさも元に戻り始めていた。
呻きが耳に入り、視線を戻すと霧の渦は目の前の世界へと吸い込まれていっていた。それと同時に祭壇に張り付けられた父の体からも何かが流れ出していた。裂け目の穴が大きくなるにつれ、父の体が萎んでゆく。
「何だこれは、私が変成の後の神に成るのではないのか、どうなっている、後、後よ」
父は吸い込まれゆく体をどうにか留まらせ、穴の脇にしがみついていた。そんな父の姿を後は何もなかったかのように見下ろし、冷静に佇んでいた。
「元より私の目的はこれにあった、変成などどうでもよかった。混沌に飲まれさえすれば」
「何故だ、初めからそんなつもりでこの私に、この、俺に近づいたのか」
「貴方はあちら側の者の血が僅かばかり残っていましたから、貴方でなければ繋げられなかった。ですから選ばれた者であることは確かだ」
「我々が虐げられない世界を造るのではなかったのか」
「混沌が流れ込めば貴方達だけが虐げられることは無くなるでしょう」
「俺はこんなことのためにここまでの労力を費やしたわけじゃない」
「今更なんです、かつて貴方がされた事は教団の中で他の人間にもしたはずだ、彼等はどうなりましたか、死んだのではないですか。自分だけが助かろうなんて虫のいい話でしょう」
「俺のこの力はどうなる、それにあの約束はどうなるのだ」
「貴方のその力はこの扉を開くために使われるのです。あと僅か、あと僅かで完全にこの扉がこの世界に定着する。それが叶えば世界は変わるでしょう、貴方は礎となれるのです。安心してください、貴方は新たな神になるはずだ、私にとって都合の良い、存在が死んでいる神にね」
「こんな、こんな馬鹿な。俺は復讐したかっただけなのか、俺はただ、そのために、違う。違うぞ、俺はあいつと、あいつともう一度生きて行きたかっただけだ」
「ああ、そうでした。約束、肉体を失ったあなたの妻を蘇らせるという約束でしたか。実に都合の良い条件でしたね。世界がつながれば貴方の妻は蘇らせることができる、そう言いましたが、あれは嘘です、そう答えれば満足ですか。いくら私でも紛い物を蘇らせることができても本物は無理だ。完全な遺体が無ければね。あなたの妻の遺体を欠片もなく燃やさせたのは私です。どうでしょう、驚きましたか?」
「貴様、俺をなぜ騙した、何故」
「騙してなどいませんよ、貴方は暗い欲望を果たしたはずだ。楽しかったでしょう? 教団で権威を振るうのは」
このやりとりが夢の中の出来事のように感じられる。僕の感情はどこにいってしまったんだろう。手足をばたつかせ、あがき続ける父の体はみるみるうちにあの遺体だった頃の、元の姿へと戻されていった。
僕の体も少しずつあの穴の世界へと吸い寄せられている。目を逸らしてももう、頭の中はあの世界の事で一杯だった。あと僅かで、あと僅かで僕はあの世界に入れる。そんな恍惚の表情が顔に張りついてしまう。穴に飲まれる霧、流されてゆく体、そんな状況が刻々と進んでゆくのに、僕はなされるがまま、身をゆだねていた。僕の体が浮く、あの世界まで後わずか、足の先が穴に触れた。
すると迫り来る穴が唐突に止まった。いや、そうではない、僕の手を何かが掴んでいる、離すまいと必死に何者かが掴んでいた。頬を張られたような痛みを顔に感じ、視線を腕の先へと巡らせる。その先には張り付けにされた父が居た。
「なぜだ、なぜこんなことに。俺は馬鹿だ、今更気がついた。お前さえ生きていれば良かったのに、呪うのは己だけで良かったのに、俺はお前を恨んでいた、生むことであいつを殺したお前が。だが、今更解った。目を向けるべきは復讐じゃあなかったんだ。生きている、お前に目を向けるべきだった、ああ、何故わからなかったのか、そんな姿にしてしまったのは俺か、何もしてやれなかったお前にせめてもの償いだ、父親らしい事をしてやれなかったこと、許してくれとは言わない、ただ、生きてくれ。あんな物に目を向けるな、惑わされるな、俺のようになるんじゃあない」
握られた手から力が伝う、私の体に生気が戻ってきていた。父の手だけではない、見覚えのある腕が中空から伸び、私のか細い腕を支えていた。
それを見て後が焦り、指示を出している。
「何をしている、もう少しだというのに、お前たち、あの男の手を振り解くんだ、核が向うに無ければ繋がりが途絶えてしまう、扉の鍵が失われてしまう」
いつになく後の声が慌てていた。声にしたがって周りの赤目がこちらに飛び込んでくる、けれどもその誰もが僕にあと一歩で届かず、穴の奥に吸い込まれていった。
やがて引っ張られていた足が地面に戻り始めると、僕は必死に祭壇にしがみついた。父から流れる力は既に止まっていた。空間に開いた瞼が閉じ始める。赤い光が薄くなり始め、見上げると月が元の平常な大きさに縮み、全体の暗さも薄れ始めていた。僕に飛びつこうとしていた人々も動きを止めている。
「こんな馬鹿な、ここまで来て、こんなことはあってはならない、あってはならない。これまで何年かけたと思っている、どれだけの犠牲を払ったと思っているのだ、貴様」
後の姿も同時に滲み始めていた。透けて向こう側の景色が見えている、どういうわけか後は実体が無いらしい。
糸ほどの細さの裂け目が今にも閉じようとしていた。
「終わった、終わってしまった。こんなことで、何故だ、何故です」
頭を振り払う仕草を繰り返し続けたまま、後は空気に薄れて消えた。
人々に落ちた影は払われ、顔や服装が見て取れる。誰もが傷だらけだが、生きてはいるようだ。あの歪さが消え、体が人間の姿に戻っていた。剥かれた瞼が閉じると同時にそれらの人達が一斉に倒れ付した。僕は握り締めた手の先に目を落とす。
父の体からは肉の色は失われ、灰色に変わり始めていた。
僕は始めて本当の父に向き合い、言葉を交わした。
「父さん」
「あいつを、あいつを探し出せ、お前なら解るはずだ、あいつの居場所が」
「俺は、お前が怖かったんだ。ずっとずっとお前に向かい、お前と言葉を交わすのを恐れていた。生まれる事で母を殺したお前が、手紙の中で何度も帰れと書いたのは恐れからだ。だが、どこかで、あいつの子のお前が帰ってくれたらいい、生き残ってくれたらいい、そう、思っていたのかもしれない。だが結局、優先したのは俺の欲だった。俺はこの外見と同じ化け物だ。俺は、死んだらどこへ行く、あいつの、あいつの元にはいけないだろうな。お前の前で、最後くらいは人間に戻れただろ……う……か」
父の手のひらはそこで力を失った。
僅かだけであれ、僕はこれまでに繋がりのない父だったが本心が聞けたことで少し熱を感じられた。
父の輪郭が掠れてゆく、腕の力はもう抜けていた。腕が崩れ落ち、砂に変わりゆく父、けれども形を失った手の平は僕の中で記憶されていて、握り締めた格好のまま僕は父の姿を心に焼き付けていた。
かすれた父の言葉、言いかけた母親の名前、その末尾は風に吹かれてかき消えた。頭が崩れ落ち、何も残さず塵となり。空間の閉じかけの瞼のような、薄い裂け目に飲まれていき、最期の一粒が裂け目に飲まれると完全に閉じて消えた。
気がつけばあれ程この街を占めていた霧があっという間に裂け目に飲み込まれ、消えてしまっていた。地面に月の光が落ちていた。空を見上げれば満天の星空が浮かんでいる。
やがて遠くでサイレンの音が聞こえ始めてきた。
僕は独りだ。繋がりを持つ人間はもう一人もいない、けれどももう寂しくなかった。この手の中に残る温もりが僕は独りじゃなかったと教えてくれた。もう影は追わない。けれども僕にはまだやり残した事が残っている。大きな傷を残しながらも、この街が再び同じ状況に陥ることはもうない。けれども安心はできなかった、今回は助かったものの、この先ずっとあの裂け目が再び開かないとは限らない。
まだ全ては終わりじゃない、こんな状況を生み出した、元凶である男、その男を探し出して対処しない限り。僕にはその男の居場所に心当たりがあった。
そして全てが終わったら書き残そろうと思う。同じことが起きないように、全てを引き起こした、ある男の記録を。
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