綿貫さんの小さな嘘
杠葉結夜
一年前
地下を走っていた車両がぱっと明るさに包まれ、窓の外を眺めていた僕は思わず目を細めた。
地上に出て徐々に速度を落とした列車は、目と鼻の先にあるホームへと滑り込んでいく。
大学の最寄まであと二駅だ。
そのタイミングで手にしていた携帯が軽く震えたので、僕はディスプレイの表示を確認する。
そこに出た文字に、僕は一瞬だけ、心躍らせた。
『
簡潔に、行くよ、とだけ返して僕は携帯をしまった。
そういえば――と僕は少しだけ過去へと思いをはせる。
僕が綿貫さんと出逢ったのは、ちょうど一年前の今日のことだった。
*
倍率十倍という狭き門をくぐり抜けた僕は、去年の四月一日、晴れて第一志望の都内にある私大へと足を踏み入れた。
周りで談笑する同学年と思われる生徒たちの中で、自分のスーツ姿が浮いていないか不安になる。高校までは学ランだったからネクタイにも慣れていないし、何より知り合いもいない。僕の高校からこの大学に進学した人はもう一人いるけれど、北海道のキャンパスだと担任から聞いていた。
人の波に溺れそうになりながら、なんとか入学式の会場である体育館へと辿り着く。
学科ごとに座れ、との指示を受けて中に入る。高校とは比べものにならないレベルで広い体育館のステージ下には、ここと神奈川のキャンパスの合わせて十五を超える学科名の書かれたプラカードをそれぞれ持った体格のいい男性たちがずらっと並んでいた。プラカードの向く方には、五列ごとにまとまって体育館を埋め尽くす大量のパイプ椅子。
どうやら、自分の学科のプラカード前に並ぶ五列のパイプ椅子たちに詰めて座れ、ということらしい。
(ええと、食品栄養学科は……っと)
眼鏡越しに必死でプラカードの文字を読みながら歩を進める。
手前から七番目のプラカードに、その文字はあった。
そして僕は、その列に座る人たちをざっと眺めて、目を点にした。
(いや、噂を聞いてはいたけど……これ、女子しかいなくね?)
見渡す限りの女子、女子、女子。
オープンキャンパスの時に案内してくれた先輩は男子は一割程度と言っていたけれど、今目の前にある比率はそれよりも女子が多い気がする。いや、それどころかまだ男子が一人も座っていないような。
思わず棒立ちになった僕の肩に、とん、と斜め後ろを歩いていた人の肩がぶつかった。
「あ、すみません」
慌てて横を見る。
隣で立ち止まったのは、百七十もない僕と同じくらいの身長で、長い黒髪の清楚そうな女性だった。
真っ黒なスーツは僕が買った全国チェーンの店に並んでいたのと同じもののような気がする。
「いえ、こちらこそすみません。前ちゃんと見てなくて」
メゾソプラノ、というのだろうか。高すぎず、滑舌がよく聴きやすい声だ。
ぺこっと軽く頭を下げた彼女のおろした髪がさらさらと揺れる。
顔を上げた彼女は、僕の背後――おそらく肩越しに見えるであろうプラカード――を見て、あ、と声を上げた。
「ここだ。じゃあ、失礼します」
柔らかな笑みを浮かべて僕の横をすり抜けた彼女は、今さっき僕が見て固まった女子の園へと足を運んでいく。
(……って、いつまでここにいるんだ、僕は)
女子しかいないからっていつまでもここに立ち止っていてもどうしようもない。
男子を待つにしても、どの人が同じ学科で、そしていつ来るかなんてそう簡単には分からないのだ。
今の一瞬で顔見知り程度になった彼女が同じ学科なら、絶対に仲良くなっておいたほうがいい。
悩むことなく、僕は彼女の背中を追った。
*
「え、同じ学科なんですか?」
詰めて座れ、とのことだったので、一番右端に座った彼女の隣に座ると、驚きを隠せないといった表情で僕の顔を見た。
「はい。まさか僕もこんなに男子がいないとは思っていなくて戸惑ってます」
苦笑いをしながら返すと、くすっという笑い声が僕の耳をくすぐった。
「確かにそうですね。私は女子大の栄養科っていうのが嫌でこの大学にしたんですけど、まさか共学なのにこんな女子ばかりだなんて思いませんでした」
やはり素敵な声だ。そしてすごく話しやすい。
女子と話すことに決して慣れているわけではない僕だけど、彼女の持つ雰囲気は自然と初対面の人と話すという緊張をほぐしてくれていた。
「私、綿貫
先ほど別れた時のような柔らかな笑みを向けて口にされた名前は、彼女の清楚な、そして柔らかな雰囲気にとても合っているように感じた。
人の名前がここまで心の中にすとんと落ちてきたのは初めてだ。
「
こちらも名乗って軽く頭を下げると、渡瀬くんか、と彼女が
「じゃあ学籍番号も近いかな。渡瀬と綿貫の間に入れる名字ってそう多くないだろうし」
「ああ、確かに」
「いっつも私、出席番号最後だったんだよね。渡瀬くんはどうだった?」
「僕は――ずっとじゃなかったな。渡辺さんが同じクラスにいて免れたことが二、三回くらい」
なんだろう、驚くくらいに滑らかに口が動く。
「あ、そっか、渡辺さんか。私のクラスにもいたなー、それでも私のが後だったけど」
「そうか、綿貫だと」
「そうなの。綿貫より後ろってほんと見たことがなくて」
「僕もないな。でも大学内ならいろんなところから人集まってるし、ここは都内でもだいぶ学生多いらしいし、一人くらい会えるんじゃないかな?」
女子を相手に会話がここまで弾むのは、初めてかもしれない。
「え、学科内にはいない前提なの?」
「この学科は学内で一番人数少ないらしいし、いないんじゃないかな」
「何それ、でも一理あるなあ……」
ふと彼女が黙る。
心当たりはないが、何か変なことを言ってしまっただろうか。
僕が軽く首をかしげた途端、彼女が突然笑い始めた。
くすくす、ととても軽快に、楽しそうに。
「こんなに男子と会話が弾んだの、初めてかも。私、中高と女子校だったから、ここ数年同い年の男子とまともに会話してなかったんだけど、なんか全然緊張しないで話せてる。渡瀬くんの雰囲気がいいのかなあ」
その言葉に僕は思わず笑ってしまった。
突然笑い出した僕に、笑いを止めてきょとんとした目を向ける彼女。
そんな様子もどこかおかしくて、僕は必死で笑いを抑えて、なんだそれ、と口を開いた。
「僕も同じこと考えてたよ。僕は一応ずっと共学校だったけれど、ほとんど女子と話してなかった。それなのに初対面の綿貫さんとは緊張もしないしすごく会話が続いてさ、綿貫さんの雰囲気のおかげかな、とか思ってた」
再びこらえきれずに僕は笑い出す。
そんな僕を見て、彼女は面白いくらいに目を丸くして――
「何それ、偶然にしても出来すぎ……!」
再び軽快に笑い始めた。
*
大学の最寄駅名を告げる車内アナウンスに、僕は意識を現実へと戻した。
少し急ブレーキ気味にして止まり、数拍して僕の真横のドアが開く。
春の暖かな日差しが降り注ぐホームに降り、すぐ近くの階段へと足を向けた時、再び携帯が震える感覚があった。
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