第44話 遠慮



 「遠慮」という言葉が英語では、pass や no thank you になってしまい、なかなか機微が伝わらないというのは文化の違いであろうが、日本的な村社会においてはこの「遠慮」が結構幅を利かせている。態度を控えめにすると言う行動自体が、西洋的にはあまり受け入れられないのかもしれない。

 そういえば、少し昔だがアメリカでは「漁夫の利」という意味が理解されにくいと聞いたこともある。利は争って得るものというのが当然だから、第三者がかっさらうことは想定されていないし、アンフェアだということになるのであろう。


 そもそも「遠慮」の語源は、遠い将来のことまでよく考えることである。短絡的な判断をするのではなく長期的な視点に立ち、争いを選択するかあるいは一時的に態度を控えるかを決めるという分岐点での行動の一つを意味する。将来を見通した判断において態度を控えるケースが多いことから、結果的には態度を控えることと同義になったようだ。

 「遠慮」という行動は、どちらかと言えば我欲に拘泥しないことをイメージさせるが、本来的には損得勘定を考えた上での計画的な行動であることも、考えてみれば確かに多いであろう。


 要するに、遠慮のメリットというか狙いは無用なトラブルを避けるという部分に最も存在する。それは、自己の主張を抑える方が全体としてのメリットがあると考える場合もあれば、主張による対立が自己の立場を危ぶませると考える場合もあるだろう。さらに言えば、相手をたてることで相手に快く思ってもらうという計算づくの心理が働くことも多い。

 一方でそのデメリットも存在する。それは、遠慮の多用が結果的に遠慮すべきことのボーダーラインを曖昧なものにさせかねないことである。遠慮は譲歩と同じように、一度し始めればずるずると進行してしまう危険性を秘めている。遠慮は癖になるのだ。


 恋愛においても、遠慮は相手をたてることで自分の立場を安定させたり、あるいは相手に快く思ってもらおうというケースが多い。ただ、パートナーの性格にも依るであろうが、我を強く通すタイプの人間でなければこの遠慮がいつも有効に働くとは限らない。

 ところが、恋愛の初期には相手に嫌われるかもしれないという心理が、ついつい遠慮を表に出してしまう。ケースに依れば時間が経過し慣れが進めば、その遠慮が一気になくなって大きなギャップを生むことさえある。すなわち、遠慮は臆病によっても生み出されるのだ。その臆病は、計算とまでは行かないが不確実な情報の中での自己の安全確保(損失を最小限に抑える)という本能的な行動によるものではないかと思う。


 恋愛や夫婦関係では、この遠慮が慎みという言葉に代わって用いられることが多く、しかもそれが美徳として語られる。それは、相手をたてるということも一つにはあるだろうが、夫婦を一つの人格として扱うための擬制であるのではないかと思っている。

 家と家、あるいは家と社会などという小さな集団同士の接触において、一集団の意見が大きく分かれることは混乱につながりやすい。この混乱を潔しとしない文化では、混乱の元となりかねない意見の相違を生じさせないために、対外的な判断をトップ(代表)に委ねるという行為が行われる。

 それが、行為としては遠慮であり評価としては慎みになるのではないだろうか。集団の和を乱さないための知恵とも言えるが、これが成立するためにはそれだけの責任と覚悟が必要でもある。


 こう考えてみると、遠慮には「逃げの遠慮」と「覚悟の遠慮」が存在するようだ。

そして、今の日本では背景の覚悟のある遠慮が減ってきているのかもしれない。


「遠慮は相手に譲ることであるが、委ねる覚悟をも意味している。」

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