第45話 失恋



 失恋の痛みは一人一人、形も深さも様相も異なるものであって、それを総じて話せることなど決してありはしない。ただ、恋を失うと書いて失恋であるが、私達が失恋で失うものは本当な何だろうかということについては少々興味がある。ここでは、付き合いに至る前の失恋について考えてみたい。

 そもそも、恋とは形のあるものではない。個人が抱く移ろいゆく心情を曖昧な概念で表した言葉である。

 だから、恋は状況が変われば失望にも嫌悪にも容易に変わりうるが、どちらにしても相手に対する興味が無くなったわけではない。愛情の反対は無関心と言われるが、嫌悪は愛情の方向性が変わった一表現だからである。


 恋する気持ちは、容易に手に入らないものを手に入れたいという衝動を同時に含んでいる。恋愛は異性のパートナーを求める行動ではあるが、欲望を抱く気持ちが一方的な恋慕の感情になる。それは欲望でありながら、双方の合意がなければ成立しないという意味でハードルは高い。単に欲すれば得られるというわけではないのだから。

 「恋の炎は障害が大きければ大きいほど燃え上がる」などとやや時代がかった言葉があるが、容易に得られないものだからこそ得たときの達成感は大きい。高くを望むものにとってはそれは障害であると共に、より大きな期待感にも繋がる。それを手に入れることを夢見ながら過ごす日々は切なく苦しいものであり、それは期待感が大きければ大きいほど強く作用する。


 失恋とはこうした期待感の喪失である。手に入れるという情念であり、得たときの夢を失う。それは、実態の喪失ではなく可能性の喪失である。ただ、私達はそれが手に入ったときのことを常に想像している。それ故、自分の脳内で擬似的に朧気な実体験を経験する。思い続けた時間が長いほど、その仮想の実体験も大きく積み重なっている。

 この仮想の実体験に思い入れが強すぎれば妄想とも言える思いを抱いてしまい、それが原因でいらぬトラブルを招きかねないのはよく知られている。この思い入れが強いほど、失恋の痛手は大きくのしかかる。それは、実体験を超えるかもしれない。すなわち、そこで失うものは現実を超えた夢なのだろうと思う。

 失恋は人間関係そのものであるために、失恋イコール相手を失うと錯覚しがちではあるが、本当に失うのは自分が積み上げてきた思いである。思いと共に過ごした時間は、ある意味仮初めではあっても自分にとっては実体験と大きくは変わらない記憶となって残っている。すなわち、突き詰めて考えればその思いに費やした自分の時間でもある。

 素敵な思いを抱くことで十分だと思えば失恋も映画を見たような甘い夢となろうが、実際にはそこに費やす時間は映画とは比べものにならない。失恋がプライドの問題とオーバーラップするのは、まさに勝算を持って自分の時間や手間を投資したことが無駄になることに対する自己反省なのではないか。そして、その自己反省ができない故に八つ当たりも生じるのだ。


 もちろん、相手に弄ばれて捨てられるなどの悲しいケースもあろう。それを自己反省と切って捨てることはできはしないが、恋とは計算尽くではできなだけに難しい。

 失恋と同じような状況としては挫折というものがある。大学入試でも良いし、あるいは仕事での成功もあるかもしれない。状況としては夢を手に入れることなく終わるという面において似ている。ただ、少々違う点がある。それは、恋が大きく情動によっていることだ。大学や仕事に惚れることがないとは言わないし、惚れるほどのものであればこそ成功するとも言えるのかもしれないが、それでもやはりこの両者には感情面で大きな違いがあるように思う。


 では、失恋は損失なのか。

 おそらく多くの人はそれを否定するであろう。私もそれは経験であると思う。

 経験とは時間を使って取得するものであり、失恋とはまさにそれに該当する。さらに言えば、感情を最大限込めるからこそ、取り繕った計算尽くの経験ではない大いなる経験となる。


 失恋で失った夢は非常に大きなものかもしれない。しかし、その過程である経験はおそらくそれ以上である。そして人生には経験が必要なのだ。


「感情面での経験を知識で代用することは容易にできはしない。」

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