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小浜に帰り着いて、女将の弥生に色々と心配りをして貰った礼を述べ、風呂敷を広げ、母が正月に着るのを楽しみにしていた着物を見せた。それを見た弥生は涙を流し、袖で拭いながら「お母さん、夏をなんとしてもいい芸子に育てますよ。夏、これからはわてが、母親がわりやで」と夏の肩を抱いた。
ふつう、本妻と妾というのは仲が悪いと相場が決まっているのであるが、料理茶屋『水月』を仕切る本妻の敏江は何かと置屋の方にも気配りをし、二人の中は良かった。そのことは、二つの間を使いで行き来した夏が一番分かっていることであった。
京都の花街では料理屋、茶屋、置屋と分かれていて、茶屋は席だけを貸すのである。料理は仕出しで取り、芸妓は置屋から呼ぶ。単に席貸し業と思うなかれ、茶屋の女将の権限は強いのである。茶屋の女将に睨まれたら置屋は成り立たず、俺は客やと無作法する客には「そんなテゴ言わはったら、お名前に関わりますよってぇー」とか、言葉は柔らいが、逆らうと無粋な客としてその花街では噂になり、どこに行っても冷たくあしらわれ、「女将悪かった!」になるのである。茶屋は板前や厨房を持たず、宴席だけに神経が使えるというわけで、考えられた方法であった。
花街には「ほうきのかみ」と呼ばれる言葉がある。浮気者という意味を持つ。「あの人は『ほうきのかみ』だから」と噂されれば、その人は花街では死んだことになる。何故なら、一つの花街で付き合いできるお茶屋は一軒だけ、というルールがあるからである。しかし考えてみれば良い。相手の芸妓を変えたいときは置屋を変えて茶屋へ呼べばいいのであって、花街ではお茶屋をハシゴする必要が無い訳である。やはり、なかなか考えられた制度であると言わねばならない。
小浜は京都の花街ほどには大きくなく、茶屋と料理屋が完全に分かれてはいず、両方を兼ねるものが多かったのである。上田源吾が弥生を小浜に引いたのは、単に色恋だけではなく、弥生に祇園の伝統、仕来りを伝えて貰い、根付かせ、三丁町を若狭では一番の花街と言われるようにしたかったのである。関取になっても不思議でない身体を三重に二重にたたんで懇願したとは、この町で知らない者はないと云う。
そいうこともあって、弥生の立場は結構強いのであった。たまに妾宅を訪ねる源吾を見るのであるが、旦那風を吹かしているとこを夏は見たことがない。旦那には気を使わない弥生ではあったが、水月の本宅には殊のほか気を使ったのである。
其の辺はどうやら、源吾の計算であったのかもしれない。小浜の実力者を背にした水月の女将の威光は絶大で、睨まれたらそれこそ花街では商売が出来なかったのである。しかし女将の敏江は偉そうぶるところが少しもなかったが、逆にそれが威光を増す方に向かい、逆らうものはなく、客は絶大な信頼を寄せた。
普通、祇園では、「おちょぼ」の期間を過ぎると、いよいよデビューの「見世出し(みせだし)」を待つだけになる。見習期間中は舞妓と同じ姿であるが、だらりの帯が半分の長さ、通称「半だら」と呼ばれる着付けになる。
晴れて見世出しの日を迎えると、男衆(おとこし)の酌でお姉さん芸妓と固めの盃を交わし、正式な舞妓となる。 暫くは、お姉さん芸妓に連れられてお座敷を回り、お茶屋の女将やお客に顔を覚えてもらうことになる。出たての頃の舞妓は、髪は「われしのぶ」という髪型で、襟(えり)の色は赤。紅を下唇だけにさす。それが1年ぐらい経つと、髪型が「おふく」に変わり、紅を上唇にもさす。そして、時間とともに少しづつ襟の色が白っぽくなるのである。
お姉さん芸妓と固めの盃と書いたが、「なになにさん姉さん」と呼び、その姉さんの名前の一字を貰い、その花街にいるうちは固い結びつきとなるのである。夏のお姉さん芸妓は千代菊であったので、夏は夏千代になった。千代菊は容姿より、座敷持ちに優れ人気があった。夏はこの千代菊に宴席での客あしらいを習った。
客には絶対「NO」と言わないことも習った。例えば食事に誘われることを、「ごはんたべ」と言うのであるが、まず、「おおきに」と答える。ここで言う「おおきに」は、誘ってくれた事に対しての感謝で、行く行かないの返事ではない。肝心の返事の部分は沈黙して、暗に「NO」と答えていることになる。 OKの場合なら、「おおきに、ありがとさんどす」の次に、「ほしたら何時がよろしおすか?」と具体的な内容が続く。
勿論、芸・舞妓を拘束している間の花代もかかり、夕方からその日一日の花代と、食事にかかる全ての料金がお客の負担となる。ごはんたべは、贔屓にしている芸・舞妓を、たまには気がねなしで、ゆっくりさせてやろうという、お客の優しさで、他意はないことになっている。芸・舞子は洋装で出かけてもいい。
十七ぐらいで舞妓になり、二十歳ぐらいになると舞妓を卒業して一人前の芸妓なる。
その儀式を「襟上げ」とも「襟替え」とも言う。赤かった襟が白襟に替わるのである。舞妓の髷は地毛であるが、芸妓になると鬘(かつら)になる。舞妓が芸妓になって、一番嬉しいのは、この鬘になることだという。髪結いの費用もバカにならず、地毛の長髪はそうそう洗う訳にもいかず、風呂も一週間に一度であり、窮屈な箱枕から開放されるのである。
この時に置屋の女将やお姉さん芸者に髪に鋏を入れてもらう。いわば力士でいう断髪式みたいなものである。この儀式を終えて、晴れて一人前の芸妓と認められる。置屋住まいを終えて自立するところから「1本になる」ともいう。以前はこの時に、旦那を持つのが習わしとされこれを「水揚げ」と称した。今は自由恋愛の時代でこのようなことはなくなったが、夏の頃はまだこれを習いとしていた。
この舞妓の時代が、一番お金がかかるのである。着物、帯、履物、串簪、小物、貧相な物をつけていれば、置屋が見られるのである。特に京都では上七軒、祇園、島原、先斗町、宮川町と花街があり、花街の沽券をかけて競い合ったから尋常ではなかった。食住、衣装、稽古の費用と全て置屋の掛かりである。おちょぼから、この期間には勿論お給金などはなく盆暮れに小遣いが手渡される程度である。そして1本になればこれらの費用は全て自前となる。芸妓は玉代を貰い、置屋は手配の手数料を取る。
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