『鯖街道』
北風 嵐
p1
古来、若狭から京に通じる道は塩の道であり、海を持たない京に海産物を運んだ。
近世、江戸時代になると、京極氏が若狭を領することとなり、小浜藩となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀、小浜は海運の一大拠点として盛えた。
小浜に水揚げされた鯖を一塩にし、京まで運んだことから、これらの道を鯖街道と呼ぶようになった。「京は遠くても十八里(70キロ)」と云われ、行商人たちが鯖を背負い、夜明け前に小浜を出発し、夕方には京都に到着した。京都に着く頃に塩がほどよくなじむため、京の人々から若狭の一塩物として珍重されたのである。祭りや賑わいごとで欠かせない京の〈鯖すし〉はこれを抜きに語ることはできない。
最も盛んに利用された道は、小浜から熊川(宿)を経由して滋賀の朽木を通り、大原、八瀬を経て京都の出町柳に至る〈若狭街道〉である。熊川、朽木を通らずに、京都への最短距離をとる峠道として〈針畑越え〉があった。
途中険しい峠をいくつか越え、鞍馬を経て大原に入る道で、この針畑越えを使うものは、かなりの健脚と屈強さを要した。この道を使うのは、何より早く京に着き、鮮度が保たれるからであるが、冬に峠を越えて運ばれた鯖は、寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であると重宝され、高値がついたからである。
乾かぬように水で濡らせた笹を被せ、風通しをよくする竹籠を前、後に、行商人たちは50キロも60キロもの荷を天秤棒で担いだ。
若狭街道は鯖をはじめとする海産物が運ばれただけでなく、京からも雅やかな文化や工芸品などが運ばれた。小浜の町は京言葉が残り、俳句、お茶の作法、芋棒などの家庭料理と、色濃く今も京都の雰囲気を残している。
途中、里山を抜ける街道は人々の往来と共に、さまざまな文化や習わしを伝え、人と人、縁を結んだ道でもあった。
この街道の針畑越えをもっぱらに使う行商人に『吉右衛門』と呼ばれる男があった。
戦争も終わった昭和というのに、この名前はなかろうと云うのだが、手甲脚絆にすげ傘の出で立ちを見たら、人は別段不自然には思わないだろう。
吉右衛門の父は『七兵衛』と呼ばれ、行商だけでなく、何かと言付けものを頼まれたりして、途中の村人から愛された存在であった。七兵衛は大の子供好きで、京からの帰りには、飴玉や駄菓子を懐にし、これを楽しみに待つ子供たちに分け与えた。
針畑越えを使う者の人数は少なかったが、七兵衛一人ではない、他の行商人もいたのである。飴玉一つとはいえ、人は人情である。「買うなら、七兵衛」となる。
この父が亡くなって、吉右衛門が跡を継いだのが18の時、中国との戦争が抜き差しならないものとなった頃であった。鯖の捌きや扱いは見て知ってはいたが、父について来たこととてなく、最初は行商に戸惑ったが、行商仲間、京の店主や、途中村人たちの手ほどきを受け、ようようにして習い覚えたのである。
京の帰りの飴玉や駄菓子の土産も「ミヤゲ置いていかんと通さん」と、手を広げたやんちゃ坊主を通して教わった。
村々の子供たちは彼のことを「キッチェもん」と呼び、「キッチェもんはまだかいのう」と、帰りの頃を待ち受けては街道に出て遊んだ。また、子供たちは野良仕事や、山仕事に忙しい親に代わって、吉右衛門に言付けを頼まれた。
「キッチェもん、おらの姉さが大阪におなごしに行くけ、あす一匹頼む」と、祝い事や法事などがあるときの祝い魚を頼むのであった。
待ち受ける大原の子供たちの中に、夏はいた。やっと物心もつき、オカッパ頭に、クリッとした目をして、少女らしい顔立ちになった頃であった。やんちゃ坊主たちの後ろに金魚のフンのようにくっついては飴玉を楽しみにしていた。
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